2018/04/17

大人の修学旅行2018 in鹿児島(その5)

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13時30分前、用事があって関西在住組とは少し遅れて鹿児島にやって来て、先に単独で宿泊先の「国民宿舎レインボー桜島」に行っておくというオネエを除く11名全員が揃いました。地元香川県在住組のウスキ、キョウコさん、ノリコさん、関西在住組のヨシキ、バンタロー、そして初参加のモトム君、首都圏在住組のユウテン君、イッカク、マサヤ、ショウちゃん、そして私(エッちゃん)。ほとんどの皆さんとは昨年の『大人の修学旅行2017in湘南鎌倉』以来の約1年ぶり、モトム君とは44年ぶりの再会です。話題の中心はもちろん卒業以来44年ぶりに参加したモトム君。それぞれと声を交わしています。初参加の人がいると、こういうところが楽しいです。こういうものは毎年の恒例行事として継続して長く続けることが大事だな…ってつくづく思います。

13時40分、鹿児島市交通局の定期観光バスが2台、鹿児島中央駅前のバスターミナルの東8番乗り場に入線してきました。最初の1台が『桜島自然遊覧コース(桜島定期観光コース)』で、後ろの1台が『かごしま歴史探訪コース(市内定期観光コース)』。私達は後ろの『かごしま歴史探訪コース(市内定期観光コース)』に乗り込みました。

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定刻13時45分に発車。乗客は私達11名を含めて15名ほど。あいにくの雨ということで、観光客も少ないようです。

鹿児島中央駅を出て、バスガイドさんが最初の挨拶をする間もなく、最初の下車地、維新ふるさと館に到着しました。ここは加治屋町、先ほどイッカクと訪ねた「大久保利通生い立ちの地」と「西郷隆盛誕生地」のちょうど間にある施設です。維新ふるさと館を建設する時に架けられた南洲橋で甲突川を渡ります。この南洲橋は歩行者専用の橋で、実際に西郷隆盛や大久保利通が渡ってであろう江戸時代後期に架けられた木橋をイメージして作られています。

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鹿児島市立の「維新ふるさと館」です。維新ふるさと館は主に明治維新を中心に薩摩藩や日本の歴史についての展示を行っている観光施設で、平成6年(1994年)4月に開館しました。鹿児島市に関しては現在放映中の『西郷どん』の前にも平成20年(2008年)にも薩摩藩出身で徳川家に嫁ぎ江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院を主人公とした宮﨑あおいさん主演のNHK大河ドラマ『篤姫』の舞台になったこともあり、こうした観光施設が充実しています。

鹿児島市維新ふるさと館HP

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「維新ふるさと館」では、近代日本の原動力となった鹿児島(薩摩)の歴史や先人達の偉業などを、映像・ジオラマ(模型)・ロボットなどハイテク技術を使った多彩な展示・演出によって、楽しく分かりやすく紹介しています。目玉は地下1階の維新体感ホールで上映される2つのドラマです。「維新への道」では、西郷隆盛や大久保利通などにそっくりな等身大ロボットやマルチスクリーンにより臨場感あふれるダイナミックなドラマが展開されます。また、「薩摩スチューデント、西へ」では、薩英戦争後に西洋の技術を学ばせるため、薩摩藩が国禁を破り英国へと派遣した留学生がテーマです。私達が訪れた際にもこの中の1つ、「維新の道」がちょうど上映が開始されるところだったのですが、私は時間の都合で展示物の見学のほうを優先しました。

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明治維新の立役者達の肖像画が出迎えてくれます。薩摩藩といえば藩主の島津家についても少し触れておかないといけません。島津家は鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家です。初代島津忠久が鎌倉幕府の源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の3国(初期には越前国守護にも任じられた)の守護職に任じられて着任して以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するまでに至りました。関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るのですが、武備恭順の態度を取り所領安堵を認めさせることに成功し、以降、外様の薩摩藩として幕藩体制に組み込まれることとなりました。

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江戸時代初期に琉球に侵攻して奄美群島を領有し、琉球王国を支配下に置きました。幕藩体制下にあっては、宝暦治水に代表される幕府による弱体化政策など圧迫を受ける一方で、徳川綱吉養女・竹姫が島津継豊の後妻として嫁いで以降は、寔子(第11代将軍家斉正室)、敬子(篤姫:第13代将軍家定正室)と将軍家との婚姻を通じて縁戚関係をも深め、外様大名でありながら将軍家と深い閨閥も築きました。武家でありながら、将軍家の御台所を2人も輩出したというのはまったくの異例のことです。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため、継嗣問題などへ介入されることがなく、幕府との関係は友好的かつ安定的に推移したと言われています。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられています。これにより鎌倉時代以来、明治の時代に至るまで700年近くも同一の国・地域を治め続けた世界でも稀有な領主となりました。

鹿児島県、薩摩国、島津家を読み解くためにはここのところを理解する必要がある…と私は思っています。おそらく彼等は意識の中では1個の独立した国家なのでしょう。支配下に置いた琉球王朝を通じて中国や西欧諸国といった諸外国とも密かに交流を持ち、当時から目線を世界に向けていたわけですから。たぶん、日本国を一種の連邦国家として捉え、薩摩藩はあくまでもその連邦国家の一員という意識でいたのかもしれません。でないと、日本国が初めて参加した1867年のパリ万国博覧会に江戸幕府と並んで薩摩藩が「日本薩摩琉球国太守政府」の名で展示なんかしませんし、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)までも作成したりしません。だって、文久3年(1863年)、薩英戦争で西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は、パリ万国博覧会の2年前の慶応元年(1865年)に幕府の鎖国令を破って15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣したわけですから。さらに幕末に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、第28代島津斉彬の時に、洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業(集成館事業)を興したり、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出したり、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら、外様で反徳川の毛利氏と薩長同盟を結び、倒幕の中心となったりしたのも、自分達が1つの独立した国家で、あくまでも日本国という連邦国家の一員という意識がないと、あの当時にできることではありません。

これは薩摩の誇る日本最初の洋式軍艦「昇平丸(しょうへいまる)」の模型です。

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寛永12年(1635年)、江戸幕府は諸大名の水軍力を抑止するために、武家諸法度の一つとして大船建造禁止令を制定し、500石以上の船の建造が禁止しました(後に商船のみ緩和)。19世紀に入り日本沿岸にロシアを始めとする西欧諸国の艦船が現れるようになっても、幕府は大名に対して軍用の大船及び洋式船の建造を許可しませんでした。藩主に就任以降、富国強兵政策を採っていた薩摩藩主島津斉彬は、嘉永5年(1852年)12月に幕府に対して当時薩摩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に、洋式軍艦の建造願いを提出し、翌嘉永6年(1853年)4月に建造の許可が降りると、同5月に桜島瀬戸村造船所で起工しました。薩摩藩が洋式軍艦の建造に着手した直後の嘉永6年(1853年)6月、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航(黒船来航)すると、幕府は老中阿部正弘の主導で水戸藩に「旭日丸」の建造を、浦賀奉行に「鳳凰丸」の建造を命じ、9月には大船建造禁止令を解除しました。ということで、この昇平丸は薩摩の誇る日本最初の洋式軍艦であると言えます。ただ、竣工したのは浦賀奉行が建造した鳳凰丸のほうが7ヶ月ほど早く、その鳳凰丸に続いて日本で2番目でした。ちなみに、昇平丸は、後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称されました。

おやおや、マサヤが西郷隆盛の軍服の外套(もちろんレプリカ)を着ています。西郷隆盛もマサヤも坊主頭だからということで着せられているようです。マサヤもまんざらではなさそうな笑顔です。

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西郷隆盛と言えば、東京上野公園の西郷さんの銅像が有名ですが、西郷隆盛の奥様のお糸さんがこの上野公園の銅像を最初に見た時に、「うちの人はこげんなお人じゃなか……」と泣きながら取り乱したという話が伝わっています。これは、西郷隆盛が大の写真嫌いで、写真が1枚も残っていないからだという都市伝説もあるようですが、しかし、どうもこの時に西郷隆盛の奥様が言いたかったのは、「主人は人前に出る時はきちんと正装をしていて、こんな浴衣姿で人前に出るような人ではなかった」という意味のようです。

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おおっ! 小松帯刀(たてわき)です。幕末期の薩摩藩を語る上において、この人物の存在を忘れてはいけません。

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小松帯刀は天保6年(1835年)、薩摩藩喜入領主であった肝付兼善(5,500石)の3男として生まれました。西郷隆盛より8歳、大久保利通より5歳年下になります。幼名は尚五郎。安政3年(1856年)、21歳の時に吉利領主であった小松清猷(2,600石)の跡目養子となって家督を継承。小松帯刀清廉(きよかど)を名乗ります。文久元年(1861年)、島津久光の人材登用により側役に抜擢され、翌文久2年(1862年)、島津久光の率兵上洛に随従し、帰藩後、一気に家老職に就任しました。島津久光の大抜擢によるもので、若干28歳の時でした。元治元年(1864年)7月、京にあって禁門の変に参加し、以来、西郷隆盛、大久保利通らと共に実質的に藩政を指導することになります (小松帯刀は家老でしたので、年上ではありますが西郷隆盛や大久保利通はあくまでも小松帯刀の部下に過ぎませんでした。ここが重要なポイントです) 。

毎年のように京と鹿児島を往復し、在京中に土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇の間柄となります。その関係から亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬の妻・お龍の世話もしています。長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸に匿ってトーマス・グラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上馨を伴って戻り薩長同盟の交渉を行いました。慶応2年(1866年)1月、西郷隆盛と木戸孝允(当時は桂小五郎)の間で薩長同盟の密約を締結したのも、その時に桂小五郎が滞在したのも、京都における小松帯刀の屋敷であったと伝えられています。慶応3年(1867年)5月、京都の屋敷に土佐藩の中岡慎太郎、乾(板垣)退助の訪問を受け、西郷隆盛とともに武力討幕論を聞き、同年6月、西郷隆盛、大久保利通の同席のもとに土佐藩家老の後藤象二郎との間に薩土盟約を交わしました。同年10月の討幕の密勅では西郷隆盛、大久保利通とともに請書に署名しています。大政奉還の実現を朝廷と幕府に進言して鹿児島へ戻る途中で山口に立ち寄り、長州藩と討幕戦略を協議し帰藩しています。王政復古の政変や戊辰戦争の時は鹿児島にいて後方支援に当たりました。

また、イギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させたのも小松帯刀です。さらに、英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせたりもしました。兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めました。

明治元年(1868年)1月、上洛し、新政府の参与、総裁局顧問、外国官副知事に就任したのですが、翌明治2年(1869年)、左下腹部に腫瘍が見つかり、翌明治3年(1870年)、大阪にて病死しました。享年36歳の若さでした。

小松帯刀は平成20年(2008年)に放映されたNHK大河ドラマ『篤姫』に瑛太さんが演じる準主役で登場したので、私も注目して調べたことがあります。鹿児島大学名誉教授で志學館大学教授、鹿児島県立図書館館長の原口泉さんが著した『龍馬を超えた男 小松帯刀』(グラフ社)によると、 『龍馬は天保6年(1835年)、帯刀と同年の生まれです。……(中略)……その出会いとは、神戸にあった勝海舟の海軍塾、神戸海軍操練所が閉鎖され、その塾頭だった龍馬を大坂の薩摩藩邸に引き取った時でした。実は、それ以来、後に海援隊となる亀山社中を作ったのも、薩長同盟のための遊説に路銀を与えて龍馬を送り出したのも、度重なる談合場所に京都の小松邸を提供して「薩長同盟」を実現させたのも、「大政奉還」実現のために、第15代将軍徳川慶喜にその受け入れを説得したのも帯刀でした。しかし、それを知る人はあまりにも少ないのです』 ……のだそうです。実際、私もNHK大河ドラマ『篤姫』を観て、この原口泉さんの著書を読むまで小松帯刀の名さえ知りませんでした。それは、原口泉さんの説によると、 『帯刀は何度となく叙位を辞退しています。それは「無私」の発露でした。この小松帯刀の類稀な「無私」の精神は、やがて後世における帯刀の名自体をも葬り去ったのではないかと私には思えるのです』 ……のだそうです。なるほどぉ〜です。

小松帯刀は薩摩藩家老として有能な下級藩士達を積極的に登用したほか、様々な歴史的局面で、偉業を成し遂げています。
・ 島津斉彬の遺志を継ぎ、薩摩藩の近代工業導入に努力
・ 薩英戦争における善戦と見事な戦後処理
・ 禁門の変の先頭に立ち、勝利を導く
・ 勝海舟の軍艦奉行罷免に際し、龍馬ら神戸繰練所塾生30名を保護
・ 開成所(洋学校)の設置
・ 英国留学生の派遣
・ 薩長同盟を主導
・ 英国公使パークスの招聘
・ 大和交易コンパニーの設立
・ 薩土盟約を主導
・ パリ万博への薩摩藩独自参加を推進
・ 二条城大会議で徳川慶喜に迫り、大政奉還を決意させる
・ 明治新政府の外国官副知事(外務副大臣)として堺事件、兵庫事件を解決
などなど

また、当時のイギリスの外交官アーネスト・サトウもその著書『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)の中で次のように述べています。 『小松は、私が知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、その点で人々に傑出していた』 36歳の若さでこの世を去ったのが、ホント惜しまれる人物でした。

西郷隆盛や大久保利通はどんなに有能であっても、申し訳ありませんが所詮は下級藩士。藩上層部の強烈なバックアップがないと日本はおろか薩摩藩内でもあれだけの活躍はできなかったことくらい、ちょっと考えれば容易に分かります。その彼等下級藩士を強くバックアップした藩上層部というのが若き家老であった小松帯刀だったってことです。坂本龍馬の亀山社中(のちの海援隊)設立だってそうです。亀山社中の設立費用や運用費用、船舶や大量の武器弾薬の調達(仕入れ)のための膨大な資金はいったいどこが出したのか…の謎だって、家老だった小松帯刀が動いて薩摩藩が用立てた…と考えれば謎でもなんでもなくなります。名君だった島津斉彬の遺志を本当の意味で受け継いで、明治維新を陰のフィクサーとして操ったのは小松帯刀だったのではないか…と私は見ています。おそらく、偉大すぎる兄・斉彬の後を追いたい島津久光は、小松帯刀の類い稀な能力を見抜いて家老に大抜擢して、藩政のほぼすべてを若き家老の小松帯刀に託したのでしょう。事実、そのあたりから島津久光は歴史の表舞台から一歩下がったように思えます。

このように小松帯刀は時代のフィクサーというかシナリオライターや総合プロデューサーのようなものだったのでしょう。もしかしたら、西郷隆盛も大久保利通もただの役者に過ぎず、すべては小松帯刀が描いたシナリオの上で演じていたに過ぎない…とも考えられます。歴史を語るうえで「もし」や「たら」は禁句なのかもしれませんが、小松帯刀がせめてあと10年長く生きていてくれたら、西南戦争はおそらく起こらなかったでしょうし、日本の近代化の姿もかなり変わっていたかもしれません。あの坂本龍馬が暗殺される直前に書いた新政府の人事案の中で一番最初に名前を挙げたほどの人物でしたからね。若干36歳で病により亡くなった小松帯刀が描いていたシナリオの全体像が果たしてどういうものだったのか…、知りたくなります。まぁ〜、それ以前に、今回のNHK大河ドラマ『西郷どん』の中で小松帯刀がどのように扱われるかに、私としては、今は大いに関心がありますね。史実を忠実になぞって描いちゃうと、下手したら主役(西郷隆盛)を完全に食っちゃうかもしれませんし(笑)

実は、私が幕末の偉人達の中で、今、最も好きと言うか、興味を惹かれている人物がこの小松帯刀なんです。

西南戦争の戦跡図です。熊本城の争奪戦に始まり、熊本、大分、宮崎、そして鹿児島という南九州4県の各地で約7ヶ月間にわたって激烈な戦いが繰り広げられたのですね。この戦闘で西郷軍は約30,000人の兵力のうち約6,800人が戦死。勝った政府軍も投入した約70,000人の兵力のうち約6,400人が戦死ですか…。私達現代に住む日本人達はこの日本国内における最後の内戦のことをあまりにも知らなさすぎるように私には思えます。わずか140年前の出来事なのに。

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薩英戦争の時に使用された80ポンド カノン砲の実物の2分の1の模型です。80ポンドは約36.2kgで、80ポンド カノン砲とは80ポンドの重量の砲弾を発射可能な大砲ということです。当時薩摩藩では、この80ポンド カノン砲など多くの大砲が後で定期観光バスで訪問する集成館で製造されていました。薩英戦争の時は、野戦砲など色々な大砲が使われたそうです。また大きい砲では、150ポンド(69kg)の砲弾を発射する150ポンド カノン砲 というのも製造されていたのだそうです。

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他にもいっぱい展示があります。定期観光バスの維新ふるさと館の滞在時間は45分間。まだまだ観ていたかったのですが、時間が来たので観光バスに戻りました。

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定期観光バスは維新ふるさとのを出発すると天文館通りを通り、ザビエル公園、照国神社、西郷隆盛銅像、鶴丸城跡、薩摩義士碑をバスの車内から眺めながら西郷隆盛終焉の地、城山に向かいます。定期観光バスを利用すると初めての地でも迷わず名所に連れていってくれますし、雨の日でも濡れずに移動できます。くわえて、バスガイドさんが説明をしてくれるので楽チンです。この日はあいにくの雨で、バスの窓ガラスも水滴がビッシリついて写真撮影に不向きだったので、写真撮影は諦め、風景は記憶に刻むことにしました。写真は以下の鹿児島市観光サイトの『よかとこ かごんまナビ』でご覧ください。

鹿児島市観光サイト『よかとこ かごんまナビ』

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主な観光名所に関してバスガイドさんに説明してもらったことを中心に以下に簡単に記述します。

■天文館
今や郷土料理店やみやげもの店をはじめ、カフェやレストラン、ブティックなどが立ち並ぶ鹿児島県下最大、いや南九州随一の繁華街であり歓楽街となっている「天文館通り」の名称は、ヨーロッパ文明を進んで取り入れた第25代当主の島津重豪が、江戸時代中期の1779年にこの地に天文観測や暦の作成などを行う研究施設「明時館(別名:天文館)」を建設したことにちなんでいます。この暦は“薩摩暦”と呼ばれ、薩摩の気候風土にあった適地適作により農産物の増産を図ろうとしたものでした。

■ザビエル公園
1549年、イスパニア(スペイン)の宣教師フランシスコ・ザビエルは鹿児島の祇園之洲に上陸しました。約1年を鹿児島の地で過ごしたザビエルは、日本にキリスト教をはじめ、様々な異文化を伝えました。明治時代に日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父がこのフランシスコ・ザビエルの功績を讃えて建てたザビエル教会は第二次世界大戦の戦火により焼失しましたが、その石造りの旧聖堂の一部とザビエルの胸像がザビエル公園内に残されています。 現在の教会堂は昭和24年(1949年)にザビエル渡来400年を記念してローマ法皇の寄付をもとに建てられたもので、近代ゴシック建築の荘厳な教会堂になっています。平成11年(1999年)、溝口守一氏によりザビエルと薩摩人ヤジロウ、ベルナルドの3人の等身大の像が制作されました。

そうそう、昭和25年(1950年)に開校した鹿児島市にある“超”の字が付くほど有名な進学校ラ・サール中学高校はその前年の昭和24年(1949年)に「聖ザビエル来朝400年祭」が全国規模で行われた際に、その記念事業の一環としてカトリック教の教育修道会ラ・サール会によって開校された学校なのだそうです。校名のラ・サールという名称は、1651年、フランスに生まれ、学校教育による社会の改革を志し、家財や栄職を捨てて、その生涯を青少年の教育に捧げた聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール師に由来するのだそうです。

■照国神社
城山の麓にある照国神社です。この神社に祀られている祭神は島津家第28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝した島津斉彬公です。斉彬の遺志を継いだ弟の島津久光と甥で次の藩主となった忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神を祀る社地を選定し、孝明天皇の勅命による「照国大明神」の神号授与を受けて祠を造営したのが創祀で、元治元年(1864年)に改めてもともと東照宮が建っていたこの地に社殿を造営し、照国神社と称するようになりました。このこと1つとっても、明治維新における島津斉彬の功績と薩摩藩の役割が如何に大きかったかが窺い知れます。写真は鹿児島に延泊したショーちゃんが翌日に撮影して送ってくれたものです。

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■西郷隆盛銅像
西郷隆盛の銅像というと東京の上野公園の銅像があまりにも有名ですが、西郷隆盛の生誕地であり終焉の地でもあるここ鹿児島市内にも建っています。この鹿児島の西郷隆盛の銅像は西郷隆盛没後50年の記念として、鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者でもある安藤照が8年をかけ製作し、昭和12年(1937年)5月23日に完成したものです。奥様のお糸さんが絶句したと伝わっている上野公園の浴衣姿の西郷隆盛の銅像とは異なり、こちらは我が国初の陸軍大将としての制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8メートルの堂々たるモニュメントです。写真は鹿児島に延泊したモトム君が翌日に撮影して送ってくれたものです。

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■鶴丸城
鶴丸城(鹿児島城)は、慶長6年(1601年)頃に、島津家第18代当主で、後に薩摩藩の初代藩主となる島津家久が建設に着手した島津氏の居城です。日本の城の特徴である天守閣が最初から作られなかった珍しい構造の城で、背後に聳える山城(城山)と麓の居館からなる構造を持った城です。正面中央には、鶴丸城の御楼門がありましたが、明治6年(1873年)の火災で焼失してしまいました。現在でも濠や石垣などに往時の面影が残っています。

■薩摩義士碑
鶴丸城の横に薩摩義士碑が建っています。宝暦3年(1753年)、徳川幕府は薩摩藩に木曽川・揖斐川・長良川(岐阜県)という3つの河川の改修工事を命じました。この「宝暦治水」は非常な難工事であり、約1,000人の藩士を動員し、工費40万両を費やした末、1年3ヶ月の時間をかけてやっと完成しました。 その間、幕吏や地域住民との対立や悪疫の流行などで88名の犠牲者を出し、その供養墓塔として薩摩義士碑が大正9年(1920年)に建立されました。藩の出費の責任をとって自刀した治水総奉行で家老だった平田靱負の碑を頂上に、将棋の駒を並べたような形で犠牲になった藩士の碑が祀られています。

鹿児島市交通局ではカゴシマシティビューという鹿児島市内の主な観光スポットを周回しているバスを運行していて、どの停留所からも乗車でき、好きな停留所で下車できるので、自分のペースで観光ができるということで、便利です。私達が利用した定期観光バスの乗車券にもカゴシマシティビューの1回乗車券が特典で付いていました。定期観光バスの車内から見て気になる観光スポットがあれば、このカゴシマシティビューで改めて行ってみてね…ってことなんでしょう。

鹿児島市交通局HP



……(その6)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
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越智正昭

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