2017/11/17

中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その4)

この国道142号線に合流するあたりは「焙烙(ほうろく)平」と呼ばれています。焙烙とは素焼(すやき)の平たく浅い土鍋のことですが、この場所が焙烙と呼ばれる意味はその地形が焙烙に似ているからだそうです。

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この先、昔の中山道は現在の国道142号線の左手を流れる川沿いの道を歩いていたのだそうですが、川に削られてほとんど残っていないのだそうです。

国道142号線との角に立つ案内板に「これより先、下諏訪方面。中山道は国道の拡幅などにより、道筋が確定しておりません。これより先は国道を約1.7km下り浪人塚に向かいます。車にご注意下さい」と記されています。ここからは大形トラックが行き交う歩道のない国道142号線を歩くのですが、先ほどまでの険路と比べればマシに感じられます。

足元には山の木々から落下してきたヤマグリやドングリの実が文字通り散乱しています。孫達が見たら喜びそうだな…。

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道路脇の木々も紅葉が進んでいて、綺麗に色づいています。

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国道と言っても、このあたりの区間は登板車線が設けられているくらいで、かなりの急勾配です。途中に廃業になったラブホテルがあったのですが、この道路がどのくらいの急勾配かはこの写真をご覧になるとお分かりいただけると思います。この急勾配がずっと続いています。とにかく和田峠は今の時代もかなりの難所です。

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しばらく歩道のない国道142号線を横を通り過ぎる大型トラックに注意を払いながら歩くこと20分余り、「水戸浪士の墓」の案内標識のところで、左側に分岐する側道に入ります。これが旧中山道の原道です。

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側道に入った中山道は芙蓉パーライト株式会社の工場の裏手を通って、国道142号線の下を潜り、国道142号線の反対側(右側)に出ます。ちなみに、このパーライト工場では和田峠周辺で産出される黒曜石を原料として、断熱材を作っています。パーライトとは黒曜石や真珠岩などのガラス質の火山岩を1,000℃ぐらいに焼いて膨張させた球形の小さな砂利のことで、重量が普通の砂の10~20%ほどで、セメントと混合してパーライトモルタルを作ります。このパーライトモルタルは軽量であるうえに断熱性、吸音性にすぐれ、断熱材、軽量骨材、軽量プラスターなど建築用材として用いられます。また保水性があり、養分を含まないので、園芸用の育苗用にも使用されるのだそうです。

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パーライト工場の裏手から国道142号線の道路の下を潜って国道の右手に出ると、正面に、「浪人塚」と書かれた石碑が建っています。浪人とは「天狗党」と呼ばれた水戸藩士を中心とした千余人の浪士達のことです。ここ和田峠で幕末の元治元年(1864年)11月に「天狗党の乱」と呼ばれる一連の戦いの1つが繰り広げられました。ここはその天狗党が高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵との間で激戦が繰り広げられた跡です。

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「天狗党の乱」とは、元治元年(1864年)の3月から12月にかけて、水戸藩士の尊王攘夷派のうちの急進派の一隊が、常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)、下総国(千葉県)の各地の農民を率いて常陸国筑波山で挙兵し、関東各地また中山道を転戦した事件のことです。

ここで地元の観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。ちなみに、この観光ボランティアガイドさん、「下諏訪中山道を守る会」の所属で、中山道最大の難所と言われ、道幅も狭く急坂が続いて危険な個所がたくさんある和田峠から下諏訪宿まで11.5kmの区間において、春から秋の期間、落石の除去や枯れ枝の片付け、国道から投げ捨てられるゴミの始末などの活動を行っておられる方です。この和田峠からの道には、峠の頂上からと下諏訪宿からの距離を表示した小さな案内看板が約200メートルごとに立てられていて、現在位置が確認でき、途中で迷うことなくここまで歩いて来れたのですが、これも「下諏訪中山道を守る会」の皆さんの活動だそうです。さらに、西餅屋一里塚のすぐ先からしばらく続いた危険な“ガレ場”に危険地帯であることを知らせる黄色と黒の通称“虎ロープ”が張られていたのですが、これも「下諏訪中山道を守る会」の皆さんの活動なのだそうです。実際、この日、説明をしていただいた観光ボランティアガイドさんは西餅屋一里塚のすぐ先からの“ガレ場”に“虎ロープ”を実際に張られた方だそうで、今年の夏のシーズンもあの区間の点検も含め、和田峠までの道を10数回登られたのだそうです。こういう地元のボランティアの方々の地道な努力のおかげで、私達は気持ちよく安全に中山道を歩いて旅することができるのですね。ありがたいことです。

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観光ボランティアガイドさんから、そもそも天狗党とは…といった当時の時代背景を含め、ここ中山道の和田峠で天狗党と高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵との間で繰り広げられた激戦の様子、さらには、この場所に「浪人塚」が建てられた経緯等について説明を受けました。

水戸藩は徳川御三家の1つであるにもかかわらず、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を通して、儒学思想に国学・史学・神道を結合させた「水戸学」と呼ばれる独自の政治思想の学問が生まれるほどのところでした。特に、その水戸学の大家として知られる藤田東湖が唱えた尊皇攘夷思想は、単に水戸藩のみならず吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした日本全国の多くの幕末の志士達にも多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となったと言われています。天保年間(1830年~1844年)頃から水戸藩内にはその藤田東湖の教えを受けて尊王攘夷を唱える「天狗党」と呼ばれる急進(改革)派の武士達の集団がありました。文久3年(1863年)8月18日に会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したいわゆる「文久の政変」を機に、水戸藩では保守派の諸生党が実権を握り、これと対立する天狗党は武田耕雲斎(こううんさい)、藤田小四郎(藤田東湖の子)、田丸稲之衛門らを首領として脱藩。ついには朝廷の攘夷延期の姿勢に対して不満を掲げて筑波山で挙兵しました。この挙兵に、水戸藩改革派が領内各地に建設した10余の郷校に学んだ郷士、神官、農民達が加わり、またたく間に約1,000人という大軍団が形成されました。

天狗党は下野国太平山(おおひらさん)、日光と移動したのですが、江戸幕府はこれに追討軍を送り、また水戸藩をはじめ関東諸藩に出兵を命じ、下野国(栃木県)、下総国(千葉県)、常陸国(茨城県)の各地で戦闘が続きました。天狗党は水戸、那珂湊の両戦いで敗れ、その一部は北上して磐城塙(いわきはなわ)で全滅したのですが、主力の800余名は武田耕雲斎を長として主として中山道筋を西上。当時京都にあった一橋慶喜を頼って幕府追討軍、諸藩の兵と闘いながら下野国(栃木県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)、飛騨国(岐阜県)、美濃国(岐阜県)を通り、最後は越前国(福井県)にある北国街道の新保宿(しんぼじゅく:現在の敦賀市)まで到達したところで力尽きて加賀藩に降伏。翌年、約350人が斬罪となりました。これがいわゆる「天狗党の乱」です。

その途中の元治元年(1864年)11月16日、幕府方の警備が堅固な碓氷の関所を避けて上野国下仁田を迂回して通るルートを進んだ天狗党軍は、その下仁田において追撃して来た高崎藩兵200人と交戦。激戦の末、天狗党は死者4人、いっぽうの高崎藩兵は死者36人を出して敗走しました(下仁田戦争)。下仁田戦争に勝利した天狗党軍はその後中山道を進み、下仁田戦争の4日後の11月20日、この和田峠を越えた樋橋において、今度は幕命により迎え撃つ高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵と交戦になりました。

高島(諏訪)藩は千野孫九郎以下約400名、松本藩は家老・稲村元良以下約350名が動員され、ここでの戦いは午後2時頃から始まり、日暮れ頃まで続きました。天狗党軍の中には山の斜面を駆け下ってきたり、中には馬に乗ったままで山の斜面を駆け下ってくる猛者もいたそうです。上と下からの挟み撃ちに遭い、高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵は完全に虚を突かれる形となり混乱します。さらに天狗党軍の一隊は沢を登って集落の東側の陰に迂回して撃ち下ろし、さらに別の一隊は少し下流にある深沢集落を襲撃して確保。高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵の退路を断ったことで高島(諏訪)藩・松本藩両藩軍は簡単に総崩れ。砥川に追い落とされ、川岸に逃げる者、川を渡って松本を目指して這う這うの体で逃げる者が続出。天狗党の勝利、高島(諏訪)藩・松本藩両藩の敗戦となりました。この激戦で、命を落とした者は天狗党軍14~15名。松本藩軍4名。高島(諏訪)藩軍6名。この戦いは地元では「和田嶺合戦」、「砥沢口合戦」、「樋橋合戦」などと呼ばれています。

激戦の後、戦いに勝利して高島(諏訪)藩・松本藩の藩兵を蹴散らした天狗党軍は、ここで討ち死にした10数名の同志(浪士)をこの地に埋めて中山道を進軍。街に下ってきて下諏訪宿に宿泊します。宿場の人々の混乱は一様ではなく、家財道具を穴に埋めて隠す者もいれば、諏訪大社に逃げ込んで、寒さに震えて一晩を過ごした者もいたと言われています。天狗党軍は、翌日、伊那路を天竜川に沿って下っていきました(やはり警護の強固な中山道の福島関所を避けたと思われます)。

天狗党軍は、その後、伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み、中津川で一戦を交え、美濃国の中山道・鵜沼宿(岐阜県各務原市)付近まで到達したのですが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、中山道を外れて北方に迂回。北国街道経由で京都へ向って進軍を続けることになります。そして、前述のように、最後は越前国にある北国街道の敦賀新保宿まで到達したところで力尽きて加賀藩に降伏しました。その背景には、天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜(水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男で、後の第15代将軍徳川慶喜)が自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩・桑名藩の4,000人の兵を従えて天狗党の討伐に向ったことが挙げられます。自分達の声を聞き届けてくれるものと期待していた一橋慶喜が、京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下ではこれ以上の進軍は無理と判断し、加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧されました。

翌年取り調べが行われ、処刑が4日間に353名、遠島が137名、追放が187名、水戸藩渡しが130名、寺預かり11名(子供)の合計約800名を超える処分が下されました。

ここの「浪人塚」ですが、実はこの「浪人塚」を立てたのは和田峠の戦い(和田嶺合戦)で負けた高島(諏訪)藩なのだそうです。高島(諏訪)藩は、明治2年(1869年)、この場所に埋められた10数名の天狗党の浪士達を供養するために塚を造り、翌年、水戸に照会して氏名の分かった6名(横田巳之助、岡本久治朗、不動院全海、鈴木當之助、鈴木金蔵、大久保茂兵衛)の名を刻んだ石碑を建てて祀り、これを「浪人塚」と称して供養しました。その後、地元の人々を中心に年々の祭りを絶やさず、25年祭、50年祭、70年祭、90年祭、100年祭などが催され、下諏訪町では現在も毎年水戸市より関係者を迎えて慰霊祭を行っているのだそうです。傍らには下諏訪町に対する水戸市長名の御礼の木碑とともに、水戸の名木梅が植樹されています。木碑の側面には 「水戸尊攘志士の鎮魂と、当地の皆様の厚意を謝し、謹んで水戸の梅樹を献ず」 と書かれています。

さらに、「浪人塚」の傍らには「南無阿弥陀仏碑」や「観世音碑」などが建っています。

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ちなみに、この立派な観世音碑はもともと街道の路面にあった平石で、市五郎道作という人物が掘り出し、あまりに立派な石だったことから、ほとんどそのままの形で石碑としたのだそうです。



……(その5)に続きます。