2015/01/13

“命”を“運ぶ”と書いて“運命”

ビジネスマンが皆クールで、現実的なモノの考え方をしていると思っていただいたら大きな間違いです。私もゲンを担ぐほうですし、運命、使命というものを信じるほうです。

ここで勘違いしていただきたくないのは、それは結果としてそう思うものであって、最初からそれに頼っているわけでは決してないと言うことです。

ビジネスのシーンは戦いです。毎日が真剣勝負の戦いの連続。誰も負けてもいいやなんていい加減な気持ちでその戦いの場に臨んではいません。

そして勝者があれば敗者も必ずあります。一生懸命取り組んでみても負けてしまうことがあります。一生懸命取り組んだからと言っても負けは負け。誰もそれを評価はしてくれません。

反対に劣勢かと思っていても思わぬ幸運から勝手に競合相手が転んでくれて、勝ちが転がり込んでくることもあります。

勝因を後から考えてみても、“ついていた”としか思えないことだって何度もあります。物事は複雑に絡み合っているので、なにが勝因や成功要因だったなんて、明確に言い切ることなど出来ないものです。逆に敗因や失敗要因は必ず自分の中にあるものです。

こうすれば必ず成功するなんて究極のノウハウ本があれば、楽なことです。でも、勝者は一人しかなく、多くは敗者です。そんなノウハウ本は残念ながらどこを探しても存在しません。

そういう意味もあって、先日、「自責と他責」なんて一文を書きました。失敗要因を他人や他の要因のせいにしている(いわゆる“他責”のことです)限りは成長はありませんし、勝利はなかなか得られるものではありません。

これってスポーツの世界に通じるものがありますよね。インタビューで勝因を尋ねられたトップアスリートが答えを詰まることがあるのはそのためです。欧米の選手などは「神の御加護」という言葉をよく使います。逆に、敗因を尋ねられた時は、ハッキリ「敗因は自分の中にある」というようなことを口にします(欧米のトップアスリートが「神に見放されたからだ」と言っているのはあまり聞いたことがありません)。

また、トップアスリートは概してゲンを担ぐものです。それと同じことではないかと思います。

神仏にすがるなんて気持ちはいささかもありませんが、なにか自分では上手く説明できない力が作用して、成功に繋がるという経験はよくあることです。

成功時は謙虚に、そして失敗時は自分に厳しくという意味があるのかもしれません。

それと、一生懸命、後に悔いの残らないように取り組むこと、これが大事だという意味もあると思います。相手も周囲を取り囲む環境もあることですので、結果は最後は自分の力の及ばない部分で決するということを知っていますのでね。一生懸命取り組むかどうかが重要なんです。

松下政経塾を開いた時、塾長のあの松下幸之助翁は、塾生選抜の最終面接の最後でこう質問したのだそうです。

「自分はついていると思うてはりますか?」

あるいは

「自分は強い運の下に生まれてきたと思うてはりますか?」

あの松下幸之助翁であっても、私と同じように感じていたのかもしれません(松下幸之助翁を私と同じと呼ぶのは、こりゃまた随分と思い上がったことですが…)。松下幸之助翁は「自分はついているんだ」と常に前向きに考えているような人材を松下政経塾に欲したのかもしれません。なんでも前向きに考えないと、進歩はありませんからね。

「“命”を“運ぶ”と書いて“運命”。その運転手はあなた」……これは薬師寺執事の大谷徹奘師の日捲りカレンダーにも書かれている言葉で、私も大好きな言葉の1つです。今も社員に対して、よく使います。

その意味は、「運命とは、定められて仕方なく辿るものではない。自らの命を自分の力で運んでこそ、運命といえるのではないか」…ということです。