2015/12/02

ユルバン・ルヴェリエ

11月13日、フランスのパリで130名を超える犠牲者を出す同時多発テロ事件が発生しました。その報復として、現在フランス空軍は過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」が首都と称しているシリア北部の都市ラッカに対して空爆を繰り返し行っています。また、同じくシリアに空爆に向かっていたロシア空軍の爆撃機がトルコ空軍の戦闘機に撃墜されたことを受けて、ロシアがトルコに対する経済制裁を決めるなど、現在、両国間の関係が極めて緊張した状況に陥っています。私もこの緊迫した国際情勢に関する連日の報道を注意深く眺めていますが、もうまったく出口の見えないグッチャグチャの状態になっているような感じがしています。

フランス、ロシア、トルコ…、そして、出口の見えないグッチャグチャの状態…ということになると、どうしても19世紀の1853年~1856年に、黒海沿岸の覇権を賭けて帝政ロシアとオスマン・トルコ、さらにはトルコを支援するフランスやイギリスを中心としたヨーロッパ諸国の同盟国軍との間で起こったクリミア戦争のことを思い出します。クリミア戦争は、1853年7月に帝政ロシアが当時オスマン・トルコの配下にあった黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したことで始まり、黒海北部にあるクリミア半島を中心に争われました。その後、戦闘地域は単にクリミア半島をはじめとした黒海沿岸のみならず、ドナウ川周辺や遠くカムチャッカ半島にまで拡大し、近代史上稀にみる大規模な戦争となりました。

その最中の1854年11月14日、クリミア半島のバラクラバ港沖の黒海で、イギリス海軍とフランス海軍の連合艦隊が猛烈な暴風雨の来襲により壊滅的な被害を受けるという事故がありました。特にフランス海軍は、その暴風雨で最新鋭の軍艦「アンリ4世」をあえなく沈没させてしまうという悲劇に見舞われました(ほかに商船38隻が沈没)。この最新鋭の軍艦の沈没はフランス政府に大きな衝撃を与え、フランス政府は当時のパリ天文台のユルバン・ルヴェリエ台長に命じて、この暴風雨を事前に予測することができなかったのか…という調査を開始しました。

ユルバン・ルヴェリエ台長はフランスの天文台を中心にヨーロッパ各地の観測所から気象観測データを取り寄せて綿密な解析を行いました。その結果、11月10日にスペインのイベリア半島で発生した低気圧が11月12日から13日にかけてヨーロッパを北西から南東に通過。オーストリア付近で急速に発達し、14日に黒海を襲って、最新鋭の軍艦「アンリ4世」ほかの艦船を沈没に至らしめたということが分かりました。

このことから、各地で観測された気象データをもとに定期的に天気図を作成し、その変化を追跡することによって暴風や雨の進路の予測が可能で、それにより被害を防ぐことができるということを証明し、天気予報の必要性を時のフランス皇帝、ナポレオン3世に進言しました。これが天気図を用いた近代的な気象学の始まりであると言われています。このように、天気予報の始まりは、実は戦争と深く関係があるのです。

フランスで天気図が毎日作成され、天気予報が始まったのはクリミア戦争終結後の1858年のことです。天気図を作成するためには、各地の気象観測データを迅速に伝達して収集する手段の確立が不可欠になるのですが、ちょうどその頃にはアメリカの発明家サミュエル・モールスが1832年に発明した電信が広く世の中に普及し、電信網(ネットワーク)が瞬く間に広がっていました。この電信網の発達が近代的な天気予報の発展に大きく寄与したのは間違いのないことだと思います。そういう意味で、気象と情報通信技術(ICT)って、昔から密接に関係しているのです。この電信網の発達にも、間違いなく戦争が大きく影響していました。

それから25年後の1883年(明治16年)3月1日、日本でも最初の天気図が発行され、暴風警報の発表が始まり、翌年の1884年(明治17年)6月1日からは、毎日3回、全国の天気予報が発表されるようになります。

クリミア戦争と言えば、看護師として従軍し「クリミアの天使」と呼ばれたフローレンス・ナイチンゲールや、ダイナマイトを発明しロシア軍の機雷設置請負業で財をなしたアルフレッド・ノーベル、戦争のための補給物資の販売により蓄えた膨大な資金をもとにトロイの発掘を行ったハインリッヒ・シュリーマン、将校として従軍した時の体験をもとに書いた小説「セヴァストポリ物語」や「戦争と平和」で有名なロシア文学を代表する文豪レフ・トルストイ等が有名ですが、なんと言っても気象の分野ではユルバン・ルヴェリエですね。ちなみに、ユルバン・ルヴェリエはもともとは数学者であり天文学者でもあって、最も有名な彼の業績は海王星発見への貢献です。


【追記1】
日本で一番最初に作られた天気図は、明治16年(1883年)2月16日、ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピングの指導により作成された天気図で、前述のように同年3月1日からは、毎日、天気図が発行されるようになり、それらはすべて現代に残されています。明治16年(1883年)と言えば今から約130年も前のことです。明治維新から16年後、フランスで天気図が毎日作成され、天気予報が行われるようになってから25年後のことです。こんなに早く、天気予報の近代化が行われたということは、それだけ海洋国家として世の中のニーズが高かったということでしょう。

その過去約130年分の天気図や気象データも“宝の山”とも言うべき貴重な戦略的情報です。こんなに古くから毎日の気象情報を記録として残している国は、世界中探してもあまりありません。実は弊社もこの130年分の天気図と気象情報の写しを保有しており、気象予報の現場等で活用されています。気象現象は繰り返されますから(^-^)v


【追記2】
クリミア半島ではロシアによる実効支配が国際的な問題になっていて、加えて今回のロシアとトルコ両国間での関係悪化、過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」の問題等々、中東のこのあたりの地域は地勢学上の問題やこのところ高まりを見せている民族主義の問題等で、グッチャグチャの状態になっています。これらは周囲を海に囲まれた(隣国と陸地で接していない)国に生まれ住む我々日本人にはとても理解できないことで、私もこれ以上のコメントは避けますが、その問題の根っこは今から150年以上も前のクリミア戦争の時代から変わらずに残っているように思います。その意味で、近代史を学ぶことの意義って極めて大きいと思っています。

ちなみに、日本の浦賀沖に米国のペリー提督が乗艦する黒船がやってきて、開国を迫ったのはクリミア戦争が勃発した1853年のことで、翌1854年には日本と米国の間で日米和親条約が締結されます。日本にやって来て開国を迫ったのが何故米国なのかということですが、おそらくロシアやヨーロッパ諸国がクリミア戦争に忙殺されて、極東の島国にまで関心を向ける余裕がなかったことが原因なのではないか…と思われます。

このように、歴史は点ではなく、面、それも“流れ”というものの中で捉える必要がありますね。これは気象にも当てはまることです。