2016/07/08

中山道六十九次・街道歩き【第2回: 板橋→蕨】(その3)

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 『中山道六十九次・街道歩き』を始めてから「庚申堂」や「庚申塚」というものを頻繁に目にするようになりました。【第1回】では巣鴨の巣鴨地蔵通り商店街の北側の入り口のところに「庚申堂」がありましたし、【第2回】では板橋宿の平尾宿と中宿との境目にある観明寺の入り口には「庚申塔」が、清水坂のところにも「庚申塔」がありました。さいたま市中央区の我が家の近所にも、JR与野本町駅の近くの圓乘院という寺院にある寛文5年(1665年)に建立された「庚申塔」をはじめ、幾つかの「庚申塔」があります。大宮区桜木には「庚申神社」があったり、ほかにも「庚申塚」なんてものもあり、街道歩きにおいてはこの“庚申”が重要なキーワードのような気がしてきました。興味を持ったので、この“庚申”、さらには“庚申信仰”について少し調べてみました。

 “庚申”と書いて“こうしん”あるいは“かのえさる”と読みます。昔のカレンダーにはたいてい記載されていたので、一度はご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。これは「干支」です。

 「干支」は“干”と“支”の組み合わせで表現されます。で、このうちの“干”は10進数で“十干”と呼ばれ、“支”は12進数で“十二支”と呼ばれていました。古代の中国では、この“十干”と“十二支”を組み合わせて時間や日、月、年、方角などを表していました。10と12の最小公倍数を求めると60になります。10進数の“十干”と12進数の“十二支”の組み合わせということは、60進数ということになります。円は360度ですから、くるくる回る事象を表現するのにこの60進数というのは極めて合理的だったわけです。

で、“十干”とは、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、葵のこと。
また、“十二支”とは、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥のことです。

 この2つを甲子(きのえね)、乙丑(きのとのうし)、丙寅(ひのえとら)という具合に組み合わせたものを「干支」、正確には「十干十二支」ということになります。単純に「干支」を「十二支」のほうだけで語るのは、本来は間違いなのです。

 古代中国では、“十干”と“十二支”で「日」も表現していました。「十干十二支」は60進数ですから、例えば「庚申」の日は60日周期でやってくることになります。「年」も「十干十二支」で表現します。数えで61歳になれば、暦が1周して元に戻ることになります。これが暦を還す、すなわち『還暦』ということになるわけです。

 この「十干十二支」に古代の中国の『三尸説(さんしせつ)』という伝承が加わります。この三尸というのは、人の身体に潜んでいると考えられていた、3匹の虫のことです。この3匹の虫達、自分が人の身体から出て自由になりたいがために人の死を望んでやまないという、なかなか困った連中なのです。隙あらば宿主の身体を抜け出して、天に昇り天帝(閻魔大王)の元へ行き、「お願いだから宿主の寿命を縮めてくれ」と宿主の悪行を報告したがるわけです。

 天帝(閻魔大王)は60日に1回やって来る“庚申”の日に人々の賞罰を考えるのだそうで、虫にとってはその日がチクリの大チャンスだったわけです。 人が寝静まったのを見計らって、さっさと抜け出して、天帝(閻魔大王)の元へチクリに行くと考えられていたのです。いっぽう、人はといえば、「自分の悪行を報告されて寿命が縮まってはかなわん!」というわけで、その日は一晩徹夜して虫の自由にさせないようにしたわけです。 特定の神仏にすがるわけでもなく、ただ単純に徹夜をすることで寿命縮小を阻まんとした、なんとも一風変わった習わしが古代の中国ではあったわけです。

 この三尸説が中国から日本へ伝わると、公卿などの間で「守庚申」と称して真似をする輩が続出しました。宮中では、夜通し和歌を詠みまくったり、楽器をかきならしたり‥‥といった遊びに耽るようになり、もともとの「三尸説」の本来の意味も忘れて、「庚申御遊」としての側面を強めていったようです。

 やがてこの庚申の日の徹夜でのお遊びは、公卿達から武士達へも広まっていきました。鎌倉時代には武士たちの間で「庚申待(こうしんまち)」と呼ばれる行事が、60日に一度催されるようになりました。これがさらに広く庶民にも受け入れられるようになることで、その徹夜のお遊びを正当化しようとしたのか、礼拝対象としての神仏が登場してきます。「庚申待」が庶民にも広まると、村単位などでその遊びの資金を集めるために寄合ができ、それを「庚申講」と呼びました。御利益にあずかるためには、とにかく一晩寝てはいけないということで、お茶をガブガブ飲んだり、太鼓を打ち鳴らしたり‥‥と頑張ったらしいです。

 江戸時代に入る頃になると、その徹夜のお遊びを正当化するため、仏教では帝釈天や青面金剛が盛んに祀られるようになります。現在でも、帝釈天や青面金剛が庚申様や庚申さんと言う呼び方で親しまれているところもあるようですが、これはその名残です。

 庚申の日は60日に1度、年に6回(多いときは7回)訪れます。「庚申待」を3年続ければ18回。これを記念して建てられたものが「庚申塔」です。ほかにも、供養塔として、さらには庚申年の記念として、7庚申年の記念として、庚申講の中でおめでたいことが起こったときの記念として建立されたものもあるようです。

 いっぽう、道教では「申=猿」というゴロ合わせから、猿田彦神が祀られるようになり、道祖神信仰とも深く結びついていくことになります。道の分岐するところは「分かれ去る」ところ。歴史ある街道の追分(分岐点)の随所に「庚申社」が建てられているのは、このような理由からであると考えられています。また、道教では塞神として祀られていて、通常の神社の簡易版のような位置付けで村境や街道沿いに庚申社が置かれたのではないか‥‥といわれています。

 「庚申信仰」というとなにやらオドロオドロしいものを想像してしまうのですが‥調べてみると、なんだか楽しいもののようです(笑)


……(その4)に続きます。