2016/10/31

中山道六十九次・街道歩き【第6回: 鴻巣→熊谷】(その3)

陸橋を渡って再び中山道に入り、住宅街の中をしばらく通ると、「中山道 榎戸村」の石碑があります。この榎戸村は江戸時代以降、吹上、大芦から糠田に至る八ヶ村への水田用水を供給するための元荒川の「榎戸堰」があったところで、かつては風光明媚なところとして知られていたそうです。

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私が参加している某旅行会社の「中山道六十九次街道歩き」ツアーでは、毎回2、3箇所でその土地その土地の観光ボランティアガイドさんによる案内があります。第6回である今回はこの榎戸堰のところにある榎戸堰公園で地元鴻巣市吹上地区の観光ボランティアガイドさんによる案内がありました。その要約を以下に記します。

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この榎戸堰を流れる河川が元荒川。古荒川とも呼ばれ、その名のとおり、荒川と利根川が合流していた時代にはこの元荒川が荒川の本流でした。何度も書いてきましたが、荒川は徳川家康の命を受けた関東郡令・伊奈忠治により寛永6年(1629年)にこの近くの熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川、市野川を経由して入間川に合流するように付けかえられました(荒川の西遷)。そのために、荒川の本流からは切り離された河川が元荒川となり、また、同時にかつてはかなり蛇行した流路であったのですが、かなり流路の整備が行われています。現在、元荒川は熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発し、おおむね南南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流します。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差を行います。

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この元荒川、荒川の本流とは切り離されたので、このあたりから湧き出る湧水を水源としています。実はこのあたりは大宮台地の西北のはずれにある荒川扇状地に位置していて、南にある鴻巣よりも標高がかなり低いのです(鴻巣市中心部の標高が25メートル前後なのに対して、このあたりは17メートル前後)。そのため自噴の湧水(清水)が幾つもあり、その自然の湧水を水源としています。自然の湧水を水源としているので、流れている水がメチャメチャ綺麗なのが大きな特徴です。(ちなみに、かつての元荒川はこのあたりで自然に湧き出る湧水を水源としていたのですが、水源が枯渇したため、現在の源流はポンプで汲み上げた地下水を水源(人工水源)としているのだそうです。)

この元荒川はこのあたり一帯の用排水兼用の極めて重要な農業用水路でもあり、肥沃な関東平野の水田を支えた河川です。上流から順に榎戸堰、三ツ木堰、宮地堰(以上鴻巣市)、末田須賀堰(さいたま市岩槻区)と4基の取水堰(農業用水取入れ口)が設けられています。 昭和初期までは、これら4基の他にも笠原堰(鴻巣市)と栢間堰(久喜市菖蒲町)があり、合計6基の取水堰が存在したのですが、笠原堰と栢間堰は宮地堰へ統合される形で廃止され、現在は前述の4基の取水堰が残されています。

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榎戸堰は元荒川に建設された、最上流かつ最初の堰で、別名「元荒川一番堰」とも呼ばれています。堰の歴史は古く、元荒川が荒川だった頃(1629年の荒川の西遷以前)に設けられたようです。当時の堰は木造だったため、大雨で元荒川が増水すると破壊されやすく、しかも10年位使用すると腐朽してしまうので、建設後、その都度、修復や改築が繰り返し行なわれていたようです。跡が微かに現存する煉瓦堰は明治36年(1903年)に木造から煉瓦造りの堰へと改築されたものです。見掛けは小さいのですが、約32,000個の煉瓦が積まれた明治時代の貴重な水門です。その煉瓦造りの堰は約60年間使用され、1966年に煉瓦造りからコンクリート製へと全面改修されて、現在の榎戸堰に生まれ変わりました。

明治36年(1903年)の煉瓦造りの堰へと生まれ変わらせる大工事は大量の湧水による思わぬ難工事になったのですが、当時の村長・代田仙三郎が多額の私費を投じて完成させました。現在、榎戸堰の脇には榎戸堰公園という公園が整備され、ちょっとした滝やあずまやがあるのですが、そこにこの煉瓦堰の建設に尽力した代田仙三郎翁の記念碑があります。ちなみに、この榎戸堰公園は元荒川筋の最初の本格的な堰場として、既に江戸時代の初期には整備されたところだったようです。トイレも整備されていて、街道歩きの途中の休憩地としては最適なところです。

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また、江戸時代を代表する俳諧師の1人、小林一茶はこの吹上に長逗留したようで、吹上町の荒川の土手には小林一茶の句碑3基が立っているのだそうです。

① 菜の花の とっぱずれなり 富士の山
② 筏士(いかだし)の 箸にからまる 蛍かな
③ 芥子菜(からしな)も 淋しき花の 咲きにけり

①の菜の花、③の辛子菜、我が家のあるさいたま市界隈もそうですが、春になると荒川の土手は黄色い菜の花や辛子菜の花で彩られます。この吹上周辺の荒川の土手もそうなのでしょう。(余談ですが、初春に荒川の土手をウォーキングする際には必ず辛子菜を摘んできて、おひたしにして夕飯でいただくのを楽しみにしています。)

②の句に登場する筏。かつてこの吹上の榎戸周辺は秩父連山から斬り出されて荒川を下ってきた材木(筏)の一大集積地になっていて、かなりの賑わいを見せたのだそうです。また、次のような句もあります。

④ 夜に入れば せい出して湧く 清水かな

夜になればあたりが静かになって、きっと自噴で湧き出す清水の音さえもが聞こえてきたのでしょう。

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榎戸堰公園を後にして、中山道を先に進みます。「中山道 榎戸村」の石碑の前に煉瓦の橋柱が残る小さな橋があり、ウォーキングリーダーさんから「ここが元荒川の起点だ」という説明を受けたのですが、先ほど地元の観光ボランティアガイドさんからは「現在、元荒川は熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発している」という説明を受けたばっかりなので、「???…」です、はい。まぁ〜かつてはここが元荒川の起点だったってことなのでしょう。

ほどなく目の前に荒川の土手が見えてきます。

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荒川の土手下の荊原(ばらはら)にある権八地蔵堂です。歌舞伎の鈴ヶ森にも登場する“やくざ”の白井権八が旅人を斬って金を奪ったのですが、その時、その現場をお地蔵さんが見ていました。白井権八が「このことを誰にも言うなよ」とお地蔵さんに言ったところ、「わしは言わぬがおまえも言うな」と答えたのだそうです。なので、この権八地蔵、別名「物言い地蔵」といいます。権八地蔵堂は3つあるそうで、旧中山道沿いでは、鴻巣宿の勝願寺の境内と、この先、熊谷市の久下にもあります。白井は歌舞伎の役としての苗字で、本名は平井権八。平井権八は実在の人物で元鳥取藩士。同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れたのですが、その途中で金に困り、この久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪いました。平井権八はその後捕らえられ、延宝8年(1680年)に鈴ヶ森の刑場(現在の東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられました。

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その権八地蔵堂の横から荒川の土手に上ると、荒川の土手の堤の上の道に出ます。ここから熊谷市久下に至る約2.7kmが「久下の長土手」、あるいは「熊谷堤」、「八丁土手」とも呼ばれる区間で、土手の堤の散策路のようですが、実はこの道が旧中山道です。広大な緑の世界が一気に広がります。川面がまったく見えない広大な河川敷が秩父の山々をめがけて広がっています。

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この「久下の長土手」は天正2年(1574年)、鉢形城主だった北条氏那が作ったといわれています。その後、忍藩が行った築堤工事においてさらに嵩上げがなされたのですが、当時の堤防はこの高さよりかなり低かったようです。荒川の堤防には、人と自転車のみが通行できる土手上のサイクリングロード・遊歩道と、土手の中腹を進む自動車も通れる道路とがあります。旧中山道はそちらの車道のほうです。

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土手の進行方向右下には用水路のように元荒川が流れています。この「久下の長土手」からは快晴だと左前方に富士山の姿がうっすらと見えるのだそうです。右手にJR高崎線の行田駅が見えます。大きな空の下で、この上なく清々しさが感じられる光景です。草の上に寝転がって、ボォ~~~っと過ごしてみたくなります。

そうそう、この「久下の長土手」、とっても景色の良いところなのですが、“追い剥ぎ”の名所だったとも伝えられています。前述の平井権八の強盗殺人事件もこの土手で起きたわけです。現在でも街灯もなく、夜は物騒なところのようで、とても歩こうとは思いませんねぇ~。

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途中に「荒川決壊の跡碑」があります。昭和22年(1947年)9月のカスリーン台風襲来時にこの地点で荒川が決壊し、併せて利根川も決壊したことで埼玉県から東京都までの広い範囲に甚大な損害を与えました。「荒川決壊の跡碑」の碑文には、荒川はこのあたりの2箇所で決壊し、決壊箇所の延長は約100メートルに及んだとあります。決壊による濁流はすぐ東側を流れる元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れ、その川筋に大きな被害を出しました。この時の洪水では下流の田間宮村(現在の鴻巣市大間)でも、大間堤(荒川の左岸堤防)が決壊。また、利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で大きく決壊しました(現在、跡地はカスリーン公園という公園になっているのだそうです)。さらにもっと下流地域の中川(古利根川)などでも決壊し、荒川以東の金町、柴又、小岩といった下町地域が軒並み床上浸水を起こすなどの甚大な被害が出ました。埼玉県内でも荒川よりも東の地域は、大宮台地を除き、ほぼ全域が冠水しました。中山道においては、上尾から熊谷に至るまでの区間がほぼ冠水しました。

現在は堤の下にマンションが幾つか建っています。再び荒川が決壊するようなことがあると、大変でしょうね。まぁ~、当時よりは堤防の高さがさらに高くなっているようなので、大丈夫だとは思いますが…。

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「荒川決壊の跡碑」から歩いて数分先の土手下のマンションの前に小さな稲荷神社があります。ここは「久下新田の一里塚」があった場所です。その手前の草むらには、ぽつんと馬頭観音が建っていて、祠の横には松の木が植えられています。この久下新田の一里塚、江戸の日本橋から数えて15里目の一里塚です。かつて土手の中腹を中山道が通っていたそうなのですが、久下の一里塚も確かに土手の中腹にあります。この一里塚を見ると、確かにここが旧中山道だったのだ…という実感が湧いてきます。

それにしても、雨があがってよかったです。風もほとんどなかったですし。この長い吹きっさらしの「久下の長土手」の区間を雨や風の中で歩くのは相当にキツかったと思いますから。

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「久下堤の碑」です。この「久下堤の碑」は明治45年(1912年)に建立されたものです。その碑文によると、この付近の堤防は、元々は旧の荒川(元荒川)を締め切るための堤防として築かれたもので、江戸時代初頭から存在する堤防なのだそうです。碑文には、その後、約4kmにわたり、久下堤を修復したと記されています。


……(その4)に続きます。