2014/11/04

天皇の仏教信仰(その3)

天武天皇とともに壬申の乱を戦い、国号『日本』と王号『天皇』を定め、日本最古の歴史書『日本書紀』の編纂を命じ(完成は720年)、さらに皇祖神天照大神を祭る伊勢神宮を尊崇した女帝が(天智天皇の娘で天武天皇の妃であった)第41代の持統天皇(645年~703年)で、この天武天皇と持統天皇の時代に日本の統治機構や宗教、歴史、文化の原型が作られたとされています(『愛媛県朝倉の謎』で話題に挙げた斉明天皇の孫)。

日本に仏教が伝来し、聖徳太子が治世を行った時代からは1世紀近く経っていて、その頃には仏教による国の統治の姿がある程度確立していたと思われます。

そして、仏教が日本の「国教」として確立されるのは平安時代です。奈良時代を経て平安時代となり、空海(774年~835年)と最澄(766年~822年)が遣唐使として唐に渡り、805年、806年に相次いで“密教”という一種の霊的呪術を日本に持って帰ってきたことで、一気に完成度が上がったと言えます。

天皇以下の貴族達はたちまちこれに入れ込み、“加持祈祷”が天皇と日本という国を防衛する最強の手段とされるようになります。国を防衛と書きましたが、何から国を守るかというと、もちろん圧倒的破壊力を持つ“自然の脅威”の来襲です。それだけ日本列島は台風や大雨、地震、干魃…等々の自然災害を受けやすいところに位置しているということです。その圧倒的破壊力を持つ“自然の脅威”の来襲に対してそれまでなすすべのなかった人達にとって、“加持祈祷”は唯一の救いの手段と考えられたのだと思います。

天皇に寵愛された最澄は伝教大師、空海は弘法大師と尊号を賜り、ますます密教は日本国内で浸透していくことになります。

皇統の仏教(密教)への傾倒はさらに続き、出家した上皇のことを「法皇」と呼ぶように、僧職は皇族や貴族たちの隠居後の仕事ともなりました。門跡寺院が次々に誕生し、そこはいつしか皇族たちの菩提寺となっていきました。

その後、ヨーロッパの中世に相当する西暦700年~1250年は「中世温暖期」と呼ばれ、世界中が温暖で安定した時代に入ります。ヨーロッパではこの時期、ヴァイキングが凍結していない海を渡ってグリーンランドに入植するなど、より北方へ領土を広げたことが知られています。また農業生産力が拡大し、人口の増加や経済の隆盛などが見られ、その有り余るエネルギーはロマネスク建築やゴシック建築などの壮大な建造物の建設や十字軍の派遣などへと向かいました。

その後、 西暦1250年を境に世界中が突然「小氷期」と呼ばれる寒冷期に入ります。大規模な火山の噴火が多発し、火山から噴出されたマグマや石、岩、灰、ガス等は風に乗って地球の空全体を覆い、日射量の減少を招き、平均気温を急激に押し下げたと見られ、世界中で寒冷化や異常気象が相次ぎます。(その寒冷期は1850年頃まで続き、その後、現在まで地球全体が温暖期化期に入っています。)

その西暦1250年を境にその後100年間は世界規模で劇的とも言える様々な動きが起きてきます。

先日、田家康さんの著書『気候で読み解く日本の歴史』を読んで、「1300年イベント」というものの存在を初めて知ったということを書きました。

13世紀後半からの100年間、地球は著しい気温低下に見舞われ、ヨーロッパ北部では大規模な飢饉や黒死病(ペスト)の大流行が起き、それまでの数百年間に渡るヨーロッパの繁栄と成長に急激に歯止めがかかり、それがヨーロッパから全世界にかけて様々な激動に繋がりました。

この世界規模の気候変動に起因する激動の歴史はヨーロッパだけにとどまらず、1200年代後半、第5代皇帝クビライに率いられてユーラシア大陸全土を征服し一大帝国を築き上げたモンゴル帝国も、著しい気温低下という異常気象による大飢饉とペストの大流行をはじめとする疫病、さらには自然災害の続発により一気に崩壊してしまいました。

その天変地異は世界的な規模で起こったものですから、もちろんヨーロッパなどから遠く離れた日本も例外ではありませんでした。日蓮上人(1222年~1282年)が書き残した『立正安国論』の中にも頻発する暴風雨や洪水、大地震、飢餓、疫病のことが幾つも書き残されています。さらには大彗星が現れて、凶事の前兆と社会全体が不安におののいていた様子も書かれていて、祈祷のためか年号も立て続けに変更されています。一方で念仏など仏教界は異常な繁栄を遂げたのですが、日蓮はそのことに社会との乖離を感じ、世の中に正しい政治、仏教が行なわれない限り、平和な社会・国家はないとの思いから、『立正安国論』を時の執権・北条時頼へ上奏したとされています。

そこで、またまた脚光を浴びるのが仏教(密教)、特に空海が開いた真言宗でした。

中世における天皇と仏教(密教)との関わりの象徴として後醍醐天皇(1288年~1339年)の存在が挙げられます。『天皇の仏教信仰』の本の表紙等に描かれている後醍醐天皇の肖像とされる絵をご覧になると、まさに神仏に守られた天皇として描き出されていることが分かります。

後醍醐天皇

まず、中国の皇帝風の衣の上に僧が着る袈裟をかけ、両手には密教呪具を持っています。さらに、仏菩薩が乗る壇上に坐しています。背後には「天照皇大神」などの神名が掲げられていますが、それも『大日如来』の威光の表現なのかも知れません。

大日如来(だいにちにょらい)は虚空にあまねく存在するという真言密教の教主のことで、「万物の慈母(聖母マリア?)」「万物を総該した無限宇宙の全一(ゼウス?)」とされる汎神論的な仏(神)のことです。突き詰めると、全ての宇宙は大日如来のもとに集約されているとされています。

空海が天才とされるところは、この大日如来を天照大神と同一視したところにあり、これにより『神仏習合』という概念がうまれ、広く人々を納得させてしまったわけです。

後醍醐天皇に話を戻すと、後醍醐天皇が在位した時って、1300年代初頭。まさに13世紀後半から100年間の地球全体が著しい気温低下に見舞われ、飢饉や疫病が世界各地で頻発した激動の時代と重なります。後醍醐天皇が“密教”という一種の霊的呪術(加持祈祷)に救いを求めたのも十分に理解ができます。

ちなみに、後醍醐天皇は、当時院政を引いていた父の後宇多法皇(1267年~1324年)の遺言状に基づき、はじめから兄である後二条天皇の遺児である皇太子が成人して皇位につくまでの間の中継ぎとして位置づけられていました。このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることが否定されていました。このことに後醍醐天皇は不満を募らせ、それが後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感に繋がっていきます。

後醍醐天皇は楠木正成や足利尊氏、新田義貞らと呼応して1333年に鎌倉幕府を倒し、建武新政を実施したものの、間もなく(1336年)足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ下り、そこに南朝政権(吉野朝廷)を樹立することになります。そこから1392年までの半世紀は、日本の歴史上唯一皇室が2つに割れて存在した南北朝時代を迎えることになります。

おそらく後醍醐天皇は密教の呪術で北朝を倒せると勘違いしていたのかもしれません。真言宗の聖地・高野山に近い吉野の寺の伽藍で燃え盛るように護摩を炊き上げて、五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)に対して一心不乱に打倒北朝の加持祈祷に励む後醍醐天皇の姿が容易に想像できます。これも“1300年イベント”と呼ばれる地球規模の大気候変動の100年の間の出来事です。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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越智正昭

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