2015/06/17

友への追悼

先週の金曜日、6月12日、千葉県船橋市で、昔仕事をご一緒した仲間の葬儀があり、私も参列してきました。

実はその方、Sさんの訃報が私のところにもたらされたのは前日11日の早朝のことでした。その日は弊社の定時株主総会があり、いつもより幾分気合いを入れて出勤していた途中でした。同じく昔仕事をご一緒した仲間からのメールでこの突然の訃報を知ったのですが、まったく思いもかけない連絡でしたので、一瞬なんのこと、誰のことを言っているのか解らなかったくらいで、状況を理解した後はメチャメチャ動揺してしまいました。なので、正直言うと、11日の定時株主総会に臨む直前は、動揺を抑えるために、気持ちの大きな切り替えが必要になったくらいでした。

Sさんは私より4歳年下ですので、現在55歳。まだまだ現役バリバリでシステム開発の最前線で活躍なさっていたシステムエンジニア(SE)さんでした。以前、血圧が高いというようなことはお聞していたことがありましたが、入院をなさっていたとか、なにか重い病気を患って病院に通院していたというような話はいっさい伺っていなかったので、まさか…って感じでした。前日の10日に風呂場で倒れているところを帰宅されたご長男が発見し、すぐに救急車を呼んだそうなのですが、もうその時には既にお亡くなりになっていて、その後の警察の鑑識によって、死因は入浴中の急性脳内出血で、ほぼ即死のような状態でお亡くなりになったと推察されるのだそうです。おそらく高血圧が原因で脳内の血管にできた動脈瘤が破裂したのではないか…ということでした。

私とSさんとの最初の出会いは、今から約30年ほど前、私が日本電信電話公社(現在のNTT)本社技術局という部署で、ディジタル伝送路網切替システム(DSW)の開発に従事していた時でした。当時は光ファイバーケーブルの敷設が全国で急ピッチで進み、都市間の中継伝送路がアナログからディジタルに転換されている真っ最中でした。そういう中、ディジタル伝送路で障害が発生した時に、その障害を自動的に検出し、予め用意されている予備伝送路に自動的に切り替えるという、通信網の信頼性確保のためには極めて重要なシステムでした。

私はまだ27歳とか28歳といった年齢ではありましたが、その重要なシステムの開発のプロジェクトリーダーを任され、身に余るほどの大きなプレッシャーと日々戦っていました。そういう時に、大手IT企業のF社のSEとしてそのプロジェクトに参加していた1人がSさんでした。当時、私も若かったのですが、その私よりももっと若い入社まもないSさんが、あの大手企業F社の代表の1人として、設計会議の場に出席していたことは、それだけF社の中でSさんの実力が認められていたことの証しのように思えます。

その後、私が人事異動でその担当をはずれたために、Sさんとはしばらく疎遠になったのですが、そのSさんと再び仕事をご一緒することになったのは、それから8年後のことでした。当時、私は独自開発した大型ディスプレイ装置の制御装置を開発して貰うために、ベンチャー企業のM社と契約していたのですが、そのM社のチーフエンジニアとして私の前に現れたのが実はSさんでした。その時はメチャメチャ驚きましたし、大変に心強く思いました。Sさんはお仲間と一緒にF社を辞め、ご自身の可能性を広げるためにベンチャー企業に転職されたのでした。

その画像制御装置のソフトウェア開発が終了した後も、私はSさんの能力を高く買っていたので、M社との契約を継続して貰って、Sさんにずっと傍で頑張っていただくことにしました。

私は前の会社では「ダメブロジェクト(問題プロジェクト)の立て直し屋」とか、「誰も手掛けないような先進的なプロジェクトの推進役」といった評価をいただいていたようなところがあるのですが、今だから話せることですが、その裏にはほとんど常にSさんの存在がありました。

Sさんの問題の本質を見抜いた指摘は素晴らしく、実際、Sさんのおかげで救済できたプロジェクトは数知れません。特にUNIX(サーバー系のオペレーティングシステム)関連においては、Sさんを超える知識と技能を持った人を私は他に知りません。Sさんは私と一緒に仕事をさせていただいたSEさんの中では、間違いなくナンバーワンの方だったと思っていますし、周囲にもそのように公言していました。さらに、人間的にも素晴らしく、どんな嫌な仕事や役回りをお願いしても、嫌な顔一つ見せず、常に笑顔を絶やさず、難問に向き合ってくれました。

私のところには「Sさんを譲って欲しい」という他の部署からの依頼が多数寄せられたくらいでした。たいていはお断りしましたが、時には、先輩からの強引な依頼に負けて、期限付きのレンタルでの移籍?も何度かしていただきました。その時も嫌な顔一つ見せられず、笑顔で「わかりました」と言っていただけました。

弊社ハレックスにとりましても、Sさんの遺していただいた功績は大きく、電話で「177」をダイヤルすると天気予報を音声の自動音声合成で提供する「177システム」、あのシステムは私がまだ前の会社にいた時に私の部署が開発したものですが、その時もSさんには中心的役割を果たすSEとして、頑張っていただきました。開発した当時、規模と処理の複雑さから言って、あのレベルの自動音声システムは日本には他に存在せず、そのような難易度の高い開発を成功に導いたのも、実はSさんの能力と頑張りのおかげだったと私は今も思い、大いに感謝しています。

Sさんとは、その後も10年ちょっとの期間、今から9年前に、前の会社で私が本社の営業企画部長になり、システム開発の現場を離れることになるまで、お仕事をご一緒させていただきました。なので、まさに私の“戦友”と呼ぶに相応しい方でした。

そんなSさんが突然お亡くなりになったわけで、私は極めて大きなショックを受けましたし、大袈裟な表現ではなく、日本のIT業界にとっても一大損失だ…くらいに思い、大いに落胆してしまいました。

お通夜のあった日は弊社ハレックスの定時株主総会と重なったので、私はお通夜には参列できず、その翌日に行われた葬儀に参列させていただきました。棺の中のSさんのお顔を見て、最期のお別れをさせていただいたのですが、脳内出血でのほとんど即死だったそうなので、お顔は私が知っているSさんのまんま。寝ている感じのやすらかなお顔でした。遺影の写真も見慣れたとてもにこやかないい笑顔のお写真でした。

3人のお子さんがいらっしゃるのですが、結婚が遅かったのか、一番上の男のお子さんが今年20歳になったところだそうで、その下には高校生と中学生の2人の娘さんがいらっしゃいます。突然、お父様がお亡くなりになったわけで、呆然としている表情が涙を誘いました。Sさんも、さぞや無念だったろうと思います。仕事のこともそうですが、それ以上に家庭人としてやり残したことがいっぱいあったろうと思いますし…。私も子を持つ父親として、そう思います。お子さん達の顔にSさんの面影を見つけて、私は涙が出てきてたまりませんでした。3人のお子さんには、この不幸を乗り越えて、立派になっていただきたいと願ってやみません。

Sさんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌…………………………………。


【追記】
先週土曜日(13日)には、首都圏に住む高校の同級生達との同級会があり、私は幹事を務めさせていただいたのですが、そこでも、少しショックなことがありました。首都圏には現在64名の同級生がお住まいなのですが、この1年のうちに2人の同級生がお亡くなりになったことが判明しました。どちらも長らくご病気だった末にお亡くなりになられたようです。Sさんの葬儀に参列した翌日のことだっただけに、余計に、私にとってはショックで、重い気持ちにさせられました(と言うか、今もそれを引きずっているようなところがあります)。

私達の代は今年度に還暦を迎える代なのですが、還暦を迎えるとはこういうことなんだ…と思うと同時に、反対に、元気で還暦を迎えられることの喜びのようなものも、心の底から実感させていただきました。人間、健康であることがいかに大切なことか…と思っています。同級会は、また来年元気で再会できることを祈念して、御開きして帰路につきました。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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