2016/06/13

中山道六十九次・街道歩き【第1回:日本橋→板橋】(その1)

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 以前は健康のため週末ごとに自宅近くを流れる荒川の土手を約10kmほどのウォーキングをしていたのですが、昨年、同じさいたま市内でも別のところに引っ越したことで、そのお馴染みのウォーキングコースにまで行くことが億劫になり、やらねばやらねば‥‥と思いながらも1年が過ぎてしまいました。そんなグータラパパ(ジイジ?)を見かねたのか、妻が勝手に予約したのが某旅行会社が企画した街道歩きのパッケージツアー。題して「中山道六十九次・街道歩き(全29回)」。東京の日本橋を起点に京都の三条大橋までを結ぶ『中山道』約534kmを29回に分け、丸3年をかけて当時の人のように歩いて制覇しようというものです。その第1回(日本橋→板橋)に妻と一緒に(妻に連れられて)参加してきました。

 最近は旅行会社が様々な趣向を凝らした企画型商品を販売しているのですが、そういう中でも豪華客船に乗るクルージングツアーとあわせて、今人気を集めているのが体験型のパッケージツアー。その中でも昔の人のように飛行機や鉄道といった交通機関を用いずに自分なり脚で目的地を目指す「街道歩き」が静かなブームを呼んでいるのだそうです。今回参加した某旅行会社の添乗員さんの話によると、先行して実施中の「東海道五十三次・街道歩き」には約3,000人が参加して、皆さん、現在、京都三条大橋を目指して歩いているのだとか。そのあまりの人気ぶりを受けて第2弾として企画したのが今回の「中山道六十九次・街道歩き」で、これにも既に約1,000人の方が参加しているのだそうです。これには驚きました。

 実際、この日も起点となる日本橋を30分おきの時間差で約50人ほどの集団が次々と出発していくのですが、私達が午前9時30分出発の第4班で、その後にもこの日は第6班まであるようなので、この日だけで約300名の参加者ということになります。このところ人気の企画だというのがわかる気がします。参加者は私達夫婦か、それより若干上の世代の方々がほとんどで、たいていは御夫婦連れか御友人数名での参加といった感じです。「東海道五十三次・街道歩き」にも並行して参加しているという方が何人もいらっしゃって、そういう方々は足元の靴から服装まで決まっていて、街道歩きに対する意気込みのようなものまで伝わってきます。

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 重厚な煉瓦造りの日本銀行本店前の小さな公園が「中山道六十九次・街道歩き」第1回の集合場所。受付を済ませ、ウォーキングリーダーと添乗員の挨拶、コース説明等があった後、ウォーキングリーダーの指導のもとに入念なストレッチ。このところ運動不足が著しく、途中で脚が攣る恐れもあったので、特にアキレス腱付近は念入りにストレッチを行いました。ストレッチ終了後、ウォーキングリーダーを先頭に基本2列の長い行列になって日本橋を出発しました。今回参加した「中山道六十九次・街道歩き」では、各班をAグループとBグループの2つに分け、それぞれのグループを案内役も兼ねたウォーキングリーダーが先導し、最後尾に添乗員が付いて途中で脱落者が出ないようにしています。

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 日本橋は東京都中央区の日本橋川に架かる橋で、日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっているところです。初代の橋は1603年(慶長8年)、徳川家康の全国道路網整備計画に際し架けられた木造の橋で、現在の橋は1911年(明治44年)に架けられた19代目の橋です。石造の非常に美しい二連アーチ橋で、橋の長さは49m、幅は27m、たもとの親柱には獅子の像と東京市の市章が、また、橋の中間にある中央柱には伝説の生物である背中に翼のある麒麟の像が飾られています。この翼を持つ麒麟の像は飛躍する首都東京を象徴しているのだそうです。

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 橋の中央には道路の始点を示す道路元標の文字が埋め込まれています。日本橋の中央に埋め込まれている道路元標には、特別に「日本国道路元標」の文字が刻まれていて、橋のたもとにそのレプリカが展示されています。まさに日本の道路網の起点とも言える場所です。現在、日本橋を始点としている国道は、以下の7本です。

・国道1号線(終点:大阪市・梅田新道)
・国道4号線(終点:青森市・青い森公園前)
・国道6号線(終点:仙台市・苦竹IC)
・国道14号線(終点:千葉市・広小路交差点)
・国道15号線(終点:横浜市・青木通交差点)
・国道17号線(終点:新潟市・本町交差点)
・国道20号線(終点:長野県塩尻市・高出交差点)

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 橋の中央部にある「日本国道路元標」の文字が刻まれているところが上記7本の国道の起点であり、国道1・15・20号線が橋の南方向へ、国道4・6・14・17号線が北方向へ伸びています。日本橋近辺ではそれぞれの国道が重複しているので、地図や道路標識によっては上位道路である国道1号線と4号線としか表示されないことがありますが、正しくは上記7本の国道の始点となっています。

 先ほど徳川家康の全国道路網整備計画ということを書きましたが、江戸時代にその全国道路網整備計画で整備された主要幹線道路のことを「五街道」(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)と呼び、その五街道の起点もすべてこの日本橋でした。

 日本橋での出発前に「中山道六十九次」の特別説明(講演)を受けたのですが、この説明が非常に分かりやすく、かつメチャメチャ面白くてよかったです。私は最近歴史や地形に興味を持っていることもあり、一気に講師の先生の話に引き込まれてしまいました。この説明をしていただいた講師の梶本晃司先生は、“ひげの梶さん”と呼ばれている方で、探訪ウォーキング(旧街道探訪、寺社巡り、遺跡巡り、街歩き等)の分野では“超”が付くほど有名な方のようです。

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 その梶本晃司先生の説明によると‥‥、『中山道』は慶長6年(1601年)からの7年間で他の4つの街道(東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道)とともに整備された江戸時代の主要街道「五街道」の1つで、古くは都(京都)と東国を結ぶ「東山道」と称されていました(海の近くを通るので東海道、山の中を通るので東山道です)。当初は「中仙道」と称されていたのですが、享保元年(1716年)、「中山道」と書くように改められました。江戸の日本橋から、武蔵(現在の東京都と埼玉県)、上野(群馬県)、信濃、木曽(ともに長野県)、美濃(岐阜県)、近江(滋賀県)を経て京都の三条大橋まで135里35町(約534km)を結ぶ当時の幹線道路でした。途中に69箇所の宿場があります。同じく江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ幹線道路としては海岸線を進む東海道があります。こちらは123里8町(約488km)。そこに歌川広重が描いた有名な浮世絵『東海道五十三次』の名のとおり、53箇所の宿場があります。中山道はその東海道とは京都の手前の草津宿で合流します。

 西の京都を目指すのに、わざわざ北の群馬県の方に向かう‥‥随分と遠回りするものだと頭の中ではイメージしがちですが、実は中山道と東海道の距離の差は僅かに約46km。意外なことに、中山道のほうが東海道より約46km長いだけです。500kmを超す総延長の中での約46kmの差です。僅かな差と言ってもいいくらいの距離の差です(これは東海道が南に大きく湾曲したコースになっているからです)。その約46kmちょっとの距離の差にもかかわらず、東海道が53の宿場の数なのに対して、中山道のほうは69。16もの差があるのは、それだけ中山道のほうが起伏が激しいということ、すなわち、1日に進むことができる距離が短いということを意味しています。

 日本列島の背骨とも言える中央山岳地帯を進む中山道には木曽路をはじめ峠道が多く、碓氷峠、笠取峠、和田峠、塩尻峠、鳥居峠、馬籠峠、十曲峠、十三峠、琵琶峠、物見峠、今須峠、摺針峠‥‥等々、幾つもの高い峠を越える必要があります。そんな人馬の往来も難しくて距離も若干長い中山道が整備されたのにはわけがあります。しかも、古くは京都と東国を結ぶ「東山道」と称されて、むしろこちらのほうが東海道よりも幹線と言える道路でした。それは大河の氾濫による長期間の通行止めの危険性が少なかったからです。東海道は西から揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、橋梁技術が発達していなかった昔はそれらの大河に橋を架けることができず、むしろ急峻な山道ではあったものの、東山道経由の山道の方が安全な道だと考えられていました。東海道 の利用が活発になるのは、橋梁建設をはじめとした渡河の仕組みが整備されはじめた10世紀以降のことです。なるほどぉ~、ここでも“地形”と“気象”が大きく影響をしているのですね。

 1600年(慶長5年)、会津の上杉景勝征伐に向かっていた徳川家康率いる徳川の大軍は下野(栃木県)の小山で、石田三成率いる西軍が挙兵したという報を聞き、急遽軍を西に返します。このとき、徳川家康率いる本隊や先発隊は東海道を西に進んだのですが、徳川秀忠率いる徳川軍の主力部隊である約3万8,000名の大軍は、おそらくリスク分散のため、この中山道(当時はまだ東山道と呼ばれていました)を通って西に向かいました。この時、徳川軍の大軍勢の前に立ちはだかったのが、NHKの大河ドラマ『真田丸』で有名な真田昌幸・信繁親子です。徳川軍は数の上では圧倒的に劣勢な真田軍(約2,500〜3,000名)が立て籠もる信州上田城をなかなか攻略することができずに上田近辺で長く足止めを食い、天下分け目と言われた関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を起こしてしまいます(第二次上田合戦)。この関ヶ原の戦いになんとか勝利した徳川家康が勝利後すぐに着手したのが本拠地江戸と地方とを結ぶ幹線道路の整備で、前述の「五街道」と呼ばれるものです。その一環で、中山道も整備されました。

 江戸時代に入ってからも、夏の出水期には上記の大河の幾つかが毎年のようにどこかで氾濫を繰り返したことから東海道が各所で通行止めになることが多く、夏季には中山道を利用することが一般的で、反対に冬季には雪で中山道が使えないので東海道を利用することが一般的だったようです。江戸幕府の二条城番や大阪城番、朝廷の日光例幣使などは、片道を必ず中山道を利用したようです。又、将軍へ献上する宇治茶の茶壷道中や、 幕末期、将軍に輿入れした皇女和宮や、清河八郎を総大将にして京都に向かった浪士隊(のちの新撰組)の面々も中山道を利用したのだそうです。

 東京から京都を目指すというとどうしても東海道のほうが有名で一般的ですが、この中山道もなかなか趣があっていいですねぇ~。東海道の沿線は都市化が進み往時の面影が失われたところが多いので、街道歩きとしてはむしろ中山道のほうが面白いかもしれません。加えて、山の中を行くコースなので、景色が綺麗なところが多いようにも思えますし。ただ、アップダウンが激しくて、歩くのにはちとキツいという弱点はありますが…。


……(その2)に続きます。