2017/03/24

中山道六十九次・街道歩き【第9回: 本庄→新町】(その8)

神流川(かんながわ)の手前の信号のところに大光寺という寺院の標識があります。大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山といいます。建保3年(1215年)に武蔵七党の一党である丹党の権三郎有直が創建したもので、勧進開山は禅宗を伝えた栄西禅師だと伝えられています。

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大光寺には、文化12年(1815年)に本庄宿の豪商・戸谷半兵衛が街道を往来する人々の寄付を募って、神流川を越す旅人のために建立した常夜灯が移築されています。神流川は洪水のたびに、流路が変わり、橋の位置や川の瀬の位置が変わるので、薄暗くなると常夜灯が必要だったのだそうです。神流川は今でこそ神流川橋で渡ることができますが、その橋ができる以前は中洲までの半分に丸太を隙間なく並べて橋面を作り、そこに土をかけて踏み固めただけの仮土橋が架けられ、残りの半分は渡し船により対岸へ渡っていたのだそうです。渡し場の両岸には目印として「見透かし灯籠」と呼ばれる常夜燈が置かれていたのですが、前述のように本庄側にあった灯籠は近くの大光寺に移されています。現在、神流川橋の両端にはこの灯篭を模した常夜燈が設置されています。橋を渡り終えたところにある新町宿側の常夜灯は今も当時のものが残っています。

時間の都合で本物の常夜灯が移築されている大光寺には立ち寄らずに、現在の神流川橋のたもとに建つ復元された常夜灯で往時を偲ぶこととしました。

大光寺の標識のすぐ先を流れている川が神流川、利根川の支流で武蔵国・上野国界(埼玉・群馬県境)を流れる川です。右前方に赤城連山、その赤城連山から東南方向に連なる日光男体山等の日光連山、前方には上毛三山の1つ榛名山が見えます。よく晴れていればこの神流川橋から妙義山や浅間山の山容も見えるそうなのですが、あいにくこの日は曇っていて、妙義山や浅間山の山容は見えませんでした。

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神流川橋で神流川を渡ります。神流川は利根川の支流の烏川のそのまた支流の川なのですが、川幅が意外に広く、渡り切るにはかなりの長さがあります。季節が冬ということもあり、強い北西からの向かい風、いわゆる“からっ風”に遭うことを心配していたのですが、幸いなことにこの時間はほぼ無風です。この長い橋を渡っている最中に冷たく強い向かい風に晒されたのでは、すっかり気持ちが萎えてしまいますからね。ラッキーでした。

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ちなみに埼玉県の昔の国名は「武蔵国(むさしのくに)」といいます。群馬県の昔の国名は「上野国(こうずけのくに)」ですが、通常は「上州(じょうしゅう)」と呼ばれます。それで言うと、埼玉県は「武州(ぶしゅう)」なのですが、通常、「武州」とは言わずに「武蔵国」です。ですが、群馬県は上野国ではなく、あくまでも「上州」ですよね。

神流川は大きな出水のたびに川筋が変わってしまうため旅人泣かせの川であったようです。神流川は広い川幅であるにもかかわらず、この日も実際に水が流れているのは中央部分の極々僅かな部分だけというおとなしいもので、この風景を観る限り、この川がたびたび氾濫を繰り返して、そのたびに川筋を大きく変えてしまってきたとはとても思えません。しかし、神流川はこの神流川橋の約1kmほど下流で烏川と合流し、さらにその合流地点から約1kmほど下流で関東随一の大河・利根川の本流と合流します。こういう地形だと豪雨により利根川を流れる水量が増加し水位が高くなると、神流川を流れてくる水が利根川や烏川に流れ込めなくなり、ずっと滞留してしまいます。場合によっては水位が高くなった利根川や烏川から神流川への逆流が起きることもあります。それでこの広い川幅いっぱいに水が溜まり、たびたび氾濫を繰り返してきたのでしょうね。

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江戸時代に中山道が整備される前までの東山道は、前述のように手前の金久保八幡神社のあたりで右折し、神流川ではなく烏川を渡って玉村に入り、大きく迂回して倉賀野に至るルートを取っていたのですが、この地理・地形のことを頭に入れてこのあたりの風景を眺めてみると、その理由がよく分かります。

現在の神流川橋は昭和9年(1934年)に架けられた橋で、架橋から80年以上が経過し、老朽化が進んでいるため、交通渋滞の緩和と防災を主な目的として、すぐ下流側に新しい橋を架橋する工事が進んでいて、新しい橋脚が立ち並んでいます。反対のすぐ上流側にはJR高崎線の神流川鉄橋が並行して架けられています。

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埼玉県と群馬県の県境を流れる神流川を渡りきりました。新町宿側の「見透かし灯籠」(常夜灯)です。これは江戸時代からのものです。

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ここで彩の国埼玉県は終わり、いよいよ群馬県に入ります。気分が変わって、なにかシャキッとする感じがします。それにしても、埼玉県、長かったぁ~~~。

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橋を渡り終えた神流川の河畔に「神流川古戦場」の石碑が建っています。

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この神流川古戦場のことが、昨年放映されたNHKの大河ドラマ『真田丸』に少しだけ登場しました。武田氏が滅んだ後、織田信長は武田氏討伐の功績により滝川一益を上野の厩橋城に置き、関東管領として佐久・小県2郡と上野の国が与えられました。一方、小田原を中心に勢力を張った後北条氏は、北の要所として鉢形城に北条氏邦を置き、勢力を維持したままだったので、上野・武蔵国境に位置する前述の「金窪城」一帯は両勢力がしのぎを削る最前線となっていました。

そうこうするうち、天正10年(1582年)6月、本能寺で信長が光秀に討たれた旨の報を聞いた滝川一益は、上野国の諸将を中心とする1万6千余の兵力を伴って上方に上ろうと、上野・武蔵国境の神流川を越えようとしました。それまで後北条氏と織田氏が同盟関係にあったからです。ところが、北条氏政・氏直父子はその同盟関係を破って、ここぞとばかりに上野国に侵攻し戦闘になりました。滝川一益としては、逆賊明智光秀を討つためいち早く本国である伊勢の国に帰ろうとしただけのことであり、同盟国であった筈の後北條氏とは戦うつもりはいっさいなかったと思われます。すなわち、この戦いの主導権は最初から後北條氏側にあり、関東覇権の野心をひた隠し、表面上は信長側と同盟しただけの後北條氏側にとって、信長の死はまさに「時は今」の状況下であったのではないか…と思われます。

6月16日、後北条軍は神流川を渡って倉賀野付近にまで出陣し、そこで6月18日未明、戦いの火ぶたは切られました。時は真夏、河川以外の障害物がない平原での大激闘であったといわれています。激しい戦いとなり滝川一益軍が神流川を越えて前述の金窪城を一気に落とし北条氏邦勢は敗走。しかし、翌日には北条氏直率いる後北条氏の援軍が勇躍小田原から到着し、滝川一益軍を迎え撃ったことで形勢は一気に逆転。今度は滝川一益軍が敗走することになりました。結局は後北条氏軍の勝利に終わり、滝川軍の戦死者の数は約3,760余名といわれ、この戦いは関東地方で行われた最も大きな野戦であったとも言われています。

この戦いで滝川一益軍はほぼ壊滅に近い完敗を喫し、進軍ルートを変え、碓井峠を越えて中山道を辿ってほうほうの体で本国である伊勢国長島に退却したのでした。その際、信州上田城にいた真田信繁(真田幸村)、真田信之の父、真田昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届け、今度は滝川一益がいなくなり無主となった上野国に侵攻。沼田城の奪還を果たします。このことが、その後の真田家と徳川家康との対立の引き金となります。いわゆる「天正壬午の乱」です。そういう意味で、ここは歴史の重要な舞台だってところですね。面白い!

ちなみに、近年になってこのあたりの川べりを農地にするために開墾した際、いたるところで、おびただしい数の白骨が発見されたということです。きっと、その神流川の戦いでの戦死者の遺骨なのでしょうね。

「神流川古戦場」の碑を通り過ぎると、土手から道は長い下り坂になります。その坂を下ったところに陸上自衛隊の新町駐屯地があります。オリーブドラブ(OD)色と呼ばれる茶色がかった緑色をした陸上自衛隊の特殊車両が並んでいる向こう側には東日本大震災においても大活躍した2色迷彩塗装を施されたタンデムローター式(2枚の巨大なプロペラを持った)の大型輸送用ヘリコプターCH-47Jチヌークの姿も見えます。

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その陸上自衛隊新町駐屯地の中山道を挟んで向かい側(進行方向左側)にはビスケットの一種で、パンを二度焼きした焼き菓子ラスクの製造で有名(私でも知っている)なガトーフェスタ ハラダ(GATEAU FESTA HARADA)の本社工場「シャトー・ドゥ・エスポワール(希望の館)」と本店「シャトー・デュ・ボヌール」があります。建物の外観はギリシャ建築風に列柱が立ち並んでいて、圧倒されます。とても洋菓子の工場とは思えません。街道歩きに参加している女性陣の皆さんの間からは「なぜここに立ち寄らないの?」という声も聞こえて来ましたが、団体行動だからダメです!(笑)

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自衛隊新町駐屯地の前を過ぎたあたりで国道17号は二又のYの字に分かれます。旧中山道はそのうちの右側の道路、埼玉・群馬県道131号児玉新町線(埼玉県児玉郡上里町の勅使河原交差点~群馬県高崎市新町の間の県境付近で国道17号と重複)で、そちらのほうを進みます。新道と旧道との分岐点には常夜灯が置かれ旧道に入ると、そこからが新町宿となります。

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……(その9)に続きます。