2017/03/29

中山道六十九次・街道歩き【第9回: 本庄→新町】(その10)

さらに進むと道路右側の橋の袂に、「3DAYマーチ発祥の地」の記念碑があります。「3DAYマーチ」とは3日連続で行われる大規模な歩け歩け大会のことで、現在では全国各地で行われるようになったウォーキング大会の走りとなったイベントのことです。現在は埼玉県東松山市の比企丘陵で日本最大の3DAYマーチが毎年開催されていて、例年3日間で延べ約10万人が参加します。私も毎年のように参加しよう参加しようと思いながら申し込みを忘れてしまい、これまで参加したことはありませんが、中山道六十九次街道歩きでウォーキングの楽しさを知ったので、いつかは絶対に参加しようと思っています。せっかく埼玉県で開催されるのですから。で、この「3DAYマーチ」ですが、日本で最初に開催されたのが私が社会人になった昭和53年(1978年)のことで、場所はここ群馬県高崎市の新町周辺でした。ですから「3DAYマーチ発祥の地」なんですね。その2年後の昭和55年(1980年)、宿泊施設や交通の便の関係から埼玉県東松山市に開催地を変更して現在に至っています。

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温井川に架かる弁天橋の右手前に、ここから見える上毛の山々の案内図がありました。ここからは正面少し左手に浅間山、その左には妙義山、正面から右へ榛名山、赤城山、男体山などの山々が見えるようですが、この日は急速に発達しながら本州の南の海上を西から接近してくる低気圧の影響で、あいにくの曇り空。特に西の空は厚い雲がかかってきて、残念ながら浅間山も妙義山もその山容を見ることができませんでしたが、東側はまだ雲も薄く、榛名山、赤城山、男体山といった山々は薄い雲で霞んだ先ではありますが、その山容を確認することができました。晴れていたら、さぞや雄大で美しい光景が楽しめるのでしょうね。今回は案内図に描かれた絵で推察するだけにして、実際の風景は次回の中山道六十九次街道歩きで楽しませていただくことにします。上州路は入ったばっかりですから。

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新町宿は中山道では珍しく自然災害を受けた宿場でした。利根川や荒川といった氾濫を繰り返す大河の近くを通っていくため、中山道(元は東山道)は基本的に周囲より幾分標高の高いところを通っていましたし、特に宿場は中山道を旅する旅人にとっての避難所のような性格も併せ持っていたため、近くの河川が氾濫しても、そこだけは絶対に大丈夫と思えるようなところに整備されていました。

寛保2年(1742年)に、「寛保二年江戸洪水」と呼ばれる大規模な河川氾濫が江戸の町を襲いました。7月28日(新暦8月28日)頃より、暴風雨が畿内地方を襲い、関東地方でもこの日以後雨が降り始めました。8月1日の夜に入ると江戸では未明から激しい暴風雨に見舞われ、江戸を中心に広範囲にわたる被害が発生したと記録されています。利根川の上流域に位置する新町宿でも、先ほど渡った利根川水系の烏川の支流の神流川が氾濫し、97軒もの家屋を押し流し、54人に及ぶ死者を出したという被害状況の記録が残っています。さらに、この時、中山道もしばらく通行止めになりました。

金久保八幡神社のあたりから烏川を渡り北岸の玉村を通るという大回りで倉賀野宿に至る元の東山道のルートは、距離は長いものの、縄文時代からこのあたりに住む人達の経験則から導かれたルートで、地形的には比較的安全なルートと言えました。いっぽう、新町宿を通るルートは江戸時代になってこの本庄宿から倉賀野宿の区間を無理に短絡するように結んだルートで、距離はかなり短くなったものの、安全性にいささか問題を抱えたルートでした。もちろん街道として(宿場として)整備する以上はそれなりに対策は打っていたと思うのですが、それでも宿場や街道としての脆弱性を抱えていたので、こうした自然災害を受けたと思われます。

温井川の手前左手、「3DAYマーチ発祥の地」の記念碑と向かい合うようにして弁天様があり、『むすぶより はや歯にひびく しみずかな』という松尾芭蕉の句碑があります。おそらくここに清水が湧いていたのではないでしょうか。この赤い鳥居は天明3年(1783年)に建立されたものだそうです。芭蕉の句碑のほか道祖神や庚申塔が立ち並んでいます。また、弁天橋のたもとには丸太の標柱が建っていて、ここが新町宿の京方の入り口でした。

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浮世絵「木曽街道(中山道)六十九次」で描かれている新町宿の絵は、このあたりから見た東側方向の風景を描いたものだとされています(下の写真は行在所公園に掲げられていた石版です)。流れている川は温井川。左側の遠くに見える山は富士山のような形をしていますが、赤城山なのだそうです。ちなみに、浮世絵「木曽街道六十九次」の作者としては渓斎英泉が有名ですが、この新町宿の絵は歌川広重(安藤広重)が描いたものです。浮世絵「木曽街道六十九次」は渓斎英泉が24点、歌川広重が47点を描いた計71点の傑作揃いのシリーズになっています。

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利根川の支流の烏川のそのまた支流の温井川を弁天橋という橋で渡ります。弁天橋を渡り終えたところで、中山道は高崎市から藤岡市に入りました。群馬県の地理を頭に描いた時、あれっ?順序的には藤岡市の次が高崎市になるのではないのか…と違和感を覚えてしまうのですが、実はこの順番が正解なのです。新町は平成18年(2006年)までは多野郡新町だったのですが、平成の大合併において、なぜか藤岡市を飛び越えて、高崎市と合併して高崎市の飛び地になったのです。きっとなんらかの“大人の事情”ってものがあったのでしょうね。ですから中山道は、現在の行政区では高崎市からいったん藤岡市に入って、この先で再び高崎市に入るというルートとなります。平成の大合併においてはこのような飛び地が全国的に結構できてしまっているのではないか…と思われます。

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群馬県藤岡市に入ると、旧中山道はすぐに群馬県道178号中島新町線から右の細い脇道のほうへ分かれます。その分岐点には旧中山道の道路標識があります。

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ほどなく右手に伊勢島神社があります。鳥居付近に天保5年(1834年)建立の常夜燈、境内には万延元年(1860年)に建立された庚申塔や慶応2年(1866年)に建立された二十二夜搭などがまとめて祀られています。伊勢島神社の前を過ぎると、白壁の土蔵と重厚な塀に囲われた旧家が目立つようになります。このあたりは立石新田と呼ばれ、かつては一面の桑畑が広がる養蚕が盛んな地域でした。現在は住宅等が立て込んでいて、往時の面影はあまり感じられません。

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白壁や土蔵を備えた豪壮なお屋敷があります。「川端家住宅」です。川端家は江戸時代の豪農で、明治になると生糸の商いでたいそうな財を成したそうです。敷地内には、木造2階建ての住宅主屋・同じく木造2階建ての別荘・奥蔵・質蔵・大門・薬医門・味噌蔵・穀蔵等々19棟が建てられ、その全てが国の登録有形文化財に指定されているのだそうです。凄い!!

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烏川の右岸堤防に隣接する信迎庵(しんげいあん)です。信迎庵には明治43年(1910年)に起きた洪水で犠牲になった死者の霊を弔うために、地元の人々が大正15年(1926年)に建立した供養塔が立っています。

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信迎庵の入り口に昭和20年(1945年)に建てられた火の見櫓(やぐら)が立っています。シンプルながらなかなか魅力的な形状の火の見櫓です。

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静かに時間が流れているような立石新田の住宅街を抜けると関越自動車道が見えてきます。その関越自動車道のガードの手前に旧中山道の道標があります。「左 倉賀野宿 4.4km 右 新町宿 0.8km」ですか。

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……(その11)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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