2017/06/21

全国の越智さん大集合!(その6)

【しまなみ海道:来島海峡大橋】
『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』の2日目は、いよいよ越智氏族にとって聖地とも言える神の島・大三島に渡り、越智氏族の氏神である大山祇(おおやまづみ)神社に参拝します。午前8時半、1日目と同じ観光バスに乗って『休暇村 瀬戸内東予』を出発。今治北IC(インターチェンジ)から“しまなみ海道(西瀬戸自動車道)”に入り、大三島に向かいます。さっそく来島海峡SA(サービスエリア)で休憩。出発して間もないので休憩というわけではなく、もちろんここからの素晴らしい風景を堪能するため。ここから大三島まで途中にSAはありませんからね。この来島海峡SAから見える来島海峡とそこに架かる来島海峡大橋の風景は素晴らしすぎて、見ていて飽きることがありません。これぞ瀬戸内海!…って感じがします。

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瀬戸内海中部、愛媛県今治市の四国本島側とその沖にある大島との間を隔てる海峡が「来島海峡」。この来島海峡を挟んで東側に広がる穏やかな海が燧灘(ひうちなだ)、そして西側に広がる穏やかな海が斎灘(いつきなだ)。来島海峡はその東西に広がる穏やかな海と比べて狭く、しかも海峡の間には小島(馬島、武志島等)が点在し、狭い海峡がさらに来島ノ瀬戸、西水道、中水道、東水道の4つの狭水道に分けられています。この4つの狭水道はいずれも狭く、また大きく湾曲しています。そのため潮流は速く、加えて小島の影響によりところにより複雑な流向、流速で、流速は時には10ノット(時速約19km)という急流にも達することがあり、鳴門海峡・関門海峡と並び「日本三大急潮」に数えられ、瀬戸内海のみならず全国的にも有数の海の難所とされています。瀬戸内海を航行する総トン数700トンクラスの一般的なフェリーの最大速力が13~15ノットほどなのを考えると、この10ノットという来島海峡の潮の流れがいかに速いかがお分かりいただけるかと思います。

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この来島海峡の速い潮流は、海峡両端の水位(水面の高さ)の差により起こります。海峡東口の海の干満は、太平洋を西進してきた潮浪(潮汐波)が紀伊水道を通過して鳴門海峡を抜け瀬戸内海へ入り、燧灘を通り海峡の東口に達して起こります。いっぽう、海峡西口の海の干満は、同じく太平洋を西進してきた潮浪が豊後水道を通過して瀬戸内海へ入り、その一部が斎灘を通り海峡の西口に達して起こります。この東西からの潮浪が海峡両端へ到達する時間には約1時間程度の時間差があり、このため海峡両端では大きな水位の差が生じ、海峡内でこのような強い潮流が発生します。

穏やかに開けた灘と、海の難所とも言える速い潮流の狭い海峡。加えて、折り重なるように連なる芸予諸島の島々。そして、そこに架かる近代的な来島海峡大橋。来島海峡大橋は本州側から第一、第二、第三という3つの長大橋梁により構成された世界初の3連吊り橋であり、その橋梁の美しい姿は人工物と言っても決して周囲の風景美を損なわせるのではなく、反対に1つのアクセントとして風景美を際立たせる方向に働いているようにも思えます。そして、その来島海峡大橋の下を行き交う幾つもの船舶と、その船舶が残す白い航跡。これらが何重にもミックスされて、このあたり一帯は世界に誇れる素晴らしい景観美を生み出しています。私はこれまで国内・海外いろいろなところに行っていますが、この芸予諸島(しまなみ海道)の風景美は世界トップクラスの美しさだと思っています。この来島海峡の付近一帯は日本初の国立公園として認定された「瀬戸内海国立公園」に属し、糸山公園を初めとする景勝地が点在しています。

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おやおやぁ~、参加者最高齢90歳と、参加者最年少が2ショットの記念撮影をしています。すっかり仲のいいお祖父ちゃんとお孫さんのような雰囲気です。この来島海峡SAの展望台から来島海峡の素晴らしい風景を眺めていると、最近の私のカラオケの持ち歌であるレーモンド松屋さんの『来島海峡』♪が頭の中で繰り返し流れてきます。特にイントロの部分がいいんですよね。そうそう、前日訪れた越智氏族発祥之地の石碑が立つ大濱八幡大神社は、この来島海峡SAのすぐ下あたりにあります。(写真は愛媛新聞社の提供です)

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来島海峡SAでしばし美しい来島海峡の景観を楽しみ、再び観光バスに乗って大三島を目指します。しまなみ海道(西瀬戸自動車道)は、本州四国連絡道路の3本のルートのうち、最も西に位置する尾道~今治ルートを形成する道路です。広島県尾道市の尾道福山自動車道の西瀬戸尾道ICを起点とし、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市の今治ICに至る、延長59.4 kmの自動車専用道路です。途中の島のうち、向島・因島・生口島が広島県、大三島・伯方島・大島が愛媛県に属します。海峡部には、新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めると11本)の橋梁があります。その中の1本(実際は3本)、3連吊り橋の来島海峡大橋を渡ります。

来島海峡大橋の全長は4,105メートル。来島海峡大橋をはじめとする“しまなみ海道”の橋にはどれも自転車・歩行者道が併設されていて、自転車や徒歩で海峡を渡ることができるという特徴があり、橋上から雄大な来島海峡や巨大船舶が橋の下を通過するのを眺めることができるほか、サイクリングイベントやウォークイベントも時折開催されています。風光明媚な海の上を通るサイクリングロードということで、国際的な注目も集まってきているようです。この日もよく晴れて、サイクルジャージとレーサーパンツに身を包んだロードバイク(高速走行を目的に設計された自転車)の一団が並走する自転車道を幾つも列を成して走っているのを見かけました。気持ちよさそうです。



【しまなみ海道:大島】
来島海峡大橋を渡り大島に入りました。大島は、芸予諸島にある面積41.89平方kmの比較的大きな島です。平成の大合併により今は今治市の一部となっていますが、かつては越智郡吉海町と宮窪町の2町に分かれていました。このうち島の北東部にあり墓石用として有名な“大島石”の産地として知られる宮窪地域は、中世には瀬戸内海を舞台として縦横に活躍した村上水軍(能島村上水軍)が本拠をおいていたところで、水軍遺跡や水軍に関する数々の伝承が残されているところです。この村上水軍の村上氏も越智氏族からの分流だとされる説もあります。

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“しまなみ海道(西瀬戸自動車道)”はミカン畑が連なる大島の島内を走る全長約6 kmの自動車専用道路(大島道路)を経て、伯方・大島大橋で次の伯方島に渡ります。この伯方・大島大橋は一体構造になっている伯方橋(伯方島~見近島間)と大島大橋(見近島~大島間)の総称で、全長は1,230メートル。伯方橋は単純な桁橋、大島大橋はスマートな吊橋なので、シンプルに感じられ、来島海峡大橋の陰に隠れてイマイチ目立ちませんが、なかなかに美しい橋です。特に、この橋の上から見える風景は特別だといっても過言ではありません。進行方向右手眼下に能島村上水軍の本拠地・能島(のしま)が見えます。(写真は愛媛新聞社提供)

能島は伯方島と大島との間の宮窪瀬戸に位置する周囲720メートル、面積約2.5平方kmの小島です。現在は無人島ですが、中世、ここに村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けていました。この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つで、しかも宮窪瀬戸の東側で能島とその隣にある鵜島が流れを遮るような位置関係にあることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなっていました。このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、帆別銭(一種の通行料)を徴収していました。村上水軍は室町期以降、この小さな島全体に能島城を築き、要塞化し、この海域の制海権を掌握していました。能島は島の頂部から三段に削平して郭とし、東側、南側にのる鼻の頂部にも出郭を形成していました。能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、中世の水軍城としては規模が最も大きいものであったのだそうです。周囲の岩礁地帯には、護岸や船を繋ぐための施設である無数の柱穴が残っています。まぁ~、海に浮かぶ航空母艦のような城だったとお考えいただければよろしいかと思います。

戦国時代末期、総大将・村上武吉に率いられて独立自存の勢力を誇っていた能島村上水軍は、この能島を根城に瀬戸内海の制海権をほぼ掌握していました。毛利一族などとの争いの末に獲得した徴税権と領土が、天下統一を狙う織田信長に奪われそうになったため、一転して毛利との関係改善を図り、毛利が織田信長と戦端を開くと、村上水軍は小早川・児島・乃美水軍などと共に毛利方水軍の主力として活躍しました。特に天正4年(1576年)7月13日の第一次木津川口の戦いでは、村上武吉自身は参加しなかったものの、嫡男の村上元吉が出陣して主力として戦い、大勝を収めています。しかし織田信長の鉄船6隻と戦った天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いでは惨敗を喫しました。

その後も村上武吉率いる村上水軍は毛利方につき、中国攻略にあたった織田信長の家臣・羽柴秀吉と対峙するのですが、天正10年(1582年)に起こった本能寺の変の後、秀吉と毛利が和睦。四国攻めに加わらなかったため、小早川隆景に攻められ本拠地・能島を明け渡し、小早川隆景の所領竹原(広島県竹原市)に移住させられました。さらに天正16年(1588年)、秀吉の出した海賊停止令により、水軍としての歴史は終わりを告げました。能島城は廃城となり、江戸時代以降は無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されているのだそうです。

豊臣秀吉は村上武吉と彼に率いられた能島村上水軍のことを相当恐れていたようで、慶長3年(1598年)、懐柔のため(秀頼を守るため)に村上武吉は死の直前の秀吉から、豊臣姓を与えられています。

このあたり城山三郎さんの著した歴史小説『秀吉と武吉 目を上げれば海』に詳しく書かれています。是非お読みください。時代の波に翻弄された集団の姿を、企業小説で培った城山三郎さんの筆力と分析力で描いた作品ですが、これは大資本にモノをいわせて無理を迫る「大企業」と、生き残りを賭けた「零細企業」との戦いとも読むこともでき、中小企業の経営者としては大いに参考になったところがあります。

ちなみに、村上武吉が著わしたとされる水軍の兵法書『村上舟戦要法』は、日露戦争時、大日本帝国海軍中佐・秋山真之によって日本海海戦の際に艦隊行動の参考にされたと言われています。また、司馬遼太郎先生が書かれた長編歴史小説『坂の上の雲』の3人の主人公、秋山好古・真之の兄弟の秋山氏、正岡子規の正岡氏ともに河野氏から分かれた伊予水軍の末裔。河野氏は越智氏族の分流ですから、乎致命(おちのみこと)を祖とする越智氏族の一員ということになります。これまで以上に親近感が湧いてきました。

また、和田竜さんが著して2014年の第11回本屋大賞を受賞した歴史小説『村上海賊の娘』は、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いの際、村上武吉の娘・景(きょう)が、織田信長に追い詰められ窮地に陥った本願寺を救うため、戦いに身を投じていく様を描いた作品です。このあたり、地元の歴史を知るには是非読んでおきたい1冊です。

文化庁では平成27年度より地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として認定を行なっており、現在までに全国で37件のストーリーが認定されています。四国では『“四国遍路”~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~』に次いで、この辺りの芸予諸島一帯が、昨年度(平成28年度)、『“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 -よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-』として「日本遺産(Japan Heritage)」として認定されました。もちろん、この能島城跡も国の史跡としてその日本遺産の重要な構成要素になっています。

大島の宮窪には今治市村上水軍博物館があり、能島村上氏に伝わる貴重な資料をはじめ、全盛期の当主・村上武吉が着用したと伝わる猩々陣羽織や、中世の黒韋胴丸、色々威腹巻などが保管・展示されています。

村上水軍博物館公式HP

ちょうど島は桜が真っ盛りで綺麗でした。この能島の桜は昭和6年(1931年)に当時の宮窪村の有志により、植えられたものです。桜満開の時期の週末には季節船が運航されており、花見客で賑わうのだそうです。また、村上水軍博物館の前から宮窪町漁業協同組合が主催する観光船が出され、能島付近の潮流体験が出来るそうです。なお、残念ながら、現在、その桜の木はかなり削り取られていて、村上水軍の能島城(本丸、二之丸、三の丸、東南出丸、吊り橋、鯛崎出丸など)の再現が進行中です。

【しまなみ海道:伯方島】
伯方島(はかたじま)の面積は20.86 平方km。平成の大合併により今は今治市の一部になっていますが、かつては越智郡伯方町でした。瀬戸内海の島の中では極々平均的な広さの島ですが、越智郡島嶼部の中心に位置していることから、かつてはこの島に警察署や消防署、法務局の出張所、電話会社や電力会社の営業所が置かれていました。ただ、“しまなみ海道”など交通の便の向上と過疎化にともなう利用件数の減少に伴い、現在、法務局の出張所は廃止されているようです。島内に4つの造船所があるほか、内航船主体ながら船主が多数島内に存在していて、海運と造船の島として知られています(現在は船舶貸渡業が主体)。また今や全国区のブランドとなった「伯方の塩」の発祥の地でもあり、島内に2社の製塩業者があります。かつては塩田を用いた製塩業が栄えていたのですが、塩田は廃止され、その跡地は大規模なクルマエビの養殖場などになっているようです。

能島のあった伯方島と大島との間の宮窪瀬戸もそうですが、伯方島と近くの島々との間の海峡は潮流も急で、特に大島との間の船折瀬戸、大三島との間の鼻栗瀬戸(はなぐりせと)はひときわ急潮であることで知られています。

実は、私は、若い頃の3年間、この伯方島が東京からの帰省先でした。転勤族だった父が伯方島勤務になったからです。

東京から伯方島まで帰省するには、まず東京駅から東海道・山陽新幹線(当時はダンゴ鼻の初代の0系新幹線車両でした)で福山駅へ。福山駅で在来線の山陽本線普通列車に乗り換えて尾道駅へ。次に尾道駅から歩いてすぐのところにある尾道港に行き、尾道港から高速艇かフェリーに乗って伯方島(木浦港)へ…というルートでした。

しまなみ海道(西瀬戸自動車道)が開通するまで、今治と広島県の尾道の間は愛媛汽船と因島汽船(現在は両社が合併して芸予汽船)が高速艇とフェリーを運航していました。この今治尾道航路の高速艇やフェリーは今治港を出航すると、大島(友浦港)、伯方島(木浦港)、大三島(井ノ口港)、生口島(瀬戸田港)、因島(土生港)と芸予諸島の島々を順に巡って尾道港に至っていました。中には大三島と生口島に立ち寄らずに、途中で岩城島、佐島、弓削島、生名島を経由する便があったり、大島でも友浦港だけでなく島の北岸にある宮窪港に立ち寄る便もあったり、因島でも土生港だけでなく田熊港や重井港に立ち寄る便もあったように記憶しています。全国でも珍しく途中多くの港(島)を経由する航路で、公共交通機関マニアの私としては乗っているだけで十分に旅の気分を味わえ、大いに満足できました。まさに小柳ルミ子さんが歌って大ヒットしたかつての名曲『瀬戸の花嫁』♪がピッタリとフィットする航路でした。

私は途中の伯方島(木浦港)までしか利用したことがないので、今治から尾道まで通しで乗るとどのくらいの時間がかかったのかは定かではありませんが、確か尾道から伯方島(木浦港)までが高速艇で1時間ちょっと、フェリーだと3時間弱だったように記憶していますので、今治~尾道だと高速艇で約2時間、フェリーだと約4時間の所要時間だったのではないでしょうか。結構な時間がかかる船旅でした。

島の生活は住んでおられる人達にとっては特になにもなくて、なかなか不自由なものがあるのでしょうが、両親以外知り合いもいなくて、たまに帰省するだけだったのですが、それはそれで楽しかったですね。毎年、夏休みと正月休みに伯方島に帰省するのを楽しみにしていました。当時はまだ独身で東京都世田谷区に住んでいましたから、大都会とのギャップを含め瀬戸内海の自然を大いに堪能させていただきました。帰省中は毎日のように釣り竿を持って伯方島内の様々な海岸に行き、鯛やメバルやアイナメ、アジやイワシを釣っていました。

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大三島橋で伯方島から大三島に渡ります。大三島橋は瀬戸内海の鼻栗瀬戸に架かるアーチ橋で、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の一部を構成します。全長は328メートル。構造的には単径間ソリッドリブ2ヒンジアーチ橋と呼ばれ、昭和54年(1979年)、本州と四国を結ぶ目的で建設された本州四国連絡橋(児島~坂出ルート、明石~鳴門ルートを含む)の橋の中で最初に開通した橋梁です。昭和54年の開通ということで、私が伯方島を帰省先にしていた頃はちょうど伯方島と大三島の間が橋で繋がったばかりの頃で、当時は瀬戸内海交通の路線バスが伯方島の木浦(きのうら)港と大三島の宮浦(みやうら)港を結んでいました。私もそのバスに乗って、大三島の大山祇神社を訪れた記憶があります。

眼下を貨物船が通り過ぎていきます。この芸予諸島一帯の海域は瀬戸内海を東西に横断する船舶の重要な航路となっていて、かなり大きな船も島々の間を縫うようにして通り過ぎていきます。このため、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の全ての橋はそういう大型船が下を通過できるように、かなり高いところを通るように架けられています。



……(その7)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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