2017/06/26

全国の越智さん大集合!(その8)

【大山祇神社・鶴姫】
宮浦港近くの食堂で昼食を摂り、いよいよ今回の『全国の越智さん大集合! 越智氏ゆかりの地を巡るツアー』の最後に訪れたところは、日本国の総鎮守である大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)です。ここは越智氏族の氏神でもあり、越智氏族にとって神聖かつ極めて重要なところなのです。

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大山祇神社では、まず鶴姫(つるひめ)の銅像が出迎えてくれます。鶴姫は、戦国時代の伊予の国にいたとされる伝承上の女性で、正式な氏名は大祝 鶴(おおほうり つる)。大山祇神社の大祝職(大宮司:だいぐうじ)・大祝安用(おおほおり やすもち)の娘で、兄に大祝安舎(やすおく)と安房(やすふさ)の2人がいたとされています。時は戦国時代。周防の大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大し、瀬戸内海の勢力を拡大しようとして侵攻して来ました。大祝安房を総大将とする河野水軍は、天文10年(1541年)、大内氏の侵攻に対しこれを迎撃しますが、その戦いで兄・安房は討ち死にしてしまいます。同年10月、再び大内氏が侵攻してくると、今度は兄・安房に代わって若干16歳の鶴姫が“陣代”として出陣し、これを迎撃しました。しかし、この戦いで鶴姫の恋人とされる越智安成は討ち死にしました。鶴姫はこの戦いの後に、戦死した兄や恋人を想い、18歳で自殺したと伝えられています。ちなみに、鶴姫の辞世の句は 

「わが恋は 三島の浦のうつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらう」


これが大三島に古くから伝わる『鶴姫伝説』で、この伝説から、鶴姫は『瀬戸内のジャンヌ・ダルク』とも呼ばれています。実際、大山祇神社に所蔵されている甲冑類の中には、国の重要文化財に指定されている紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)という女性用の鎧があり、実際に鶴姫が用いた鎧ではないかとされています。ちなみに、昔、神社の神主さんのことは越智氏族の間では“お祝(ほうり)さん”と呼ばれていました。この大山祇神社の神主さんは神主の中の神主さんなので、さらに頭に“大”の字を付けて“大祝(おおほうり)さん”と呼ばれていました。やがて、大山祇神社の神主さんの家系はその“大祝”を家名として名乗るようになって、大祝氏となりました。大祝氏は河野氏の祖とされる越智玉澄の子、安久を祖としていますので、もちろん越智氏族です。



【大山祇神社・一遍宝篋印塔】
この大山祇神社にある宝篋印塔(ほうきょういんとう:国の重要文化財)は、鎌倉時代に作られたもので中央の印塔は浄土宗系の時宗を開いた一遍上人が文保2年(1318年)に建てた…と通説では伝わっています。しかしながら、一遍上人が大山祇神社を参詣したのは、正応元年(1288年)12月16日、その翌年の正応2年(1289年)8月23日に兵庫で没しています。この宝篋印塔が作られたのは、東塔の刻銘から文保2年(1318年)12月9日であることから一遍上人がお亡くなりになってから約30年の開きがあり、「一遍宝篋印塔」と名前が付いてはいますが、残念ながら一遍上人が大山祇神社を参拝した時に奉納したものであるとは考えられません。一遍上人の没後10年の命日である正安元年(1299年)8月23日に完成した一遍上人絵伝に、一遍上人が大山祇神社を参詣の様子が記載されているため、後世の人がありがたく引用したのではないかと思われます。とは言え、国の重要文化財に指定されている印塔ですので、なかなか立派な大きさの印塔です。

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この中央の印塔ですが、世の中にある他の印塔とはほんの少し尖塔部分の形状が異なっています。写真では分かりにくいと思いますが、何故か相輪の頂部にある宝珠の下の請花の部分の上下が“逆”になっているのです。そのわけは、この印塔を作った人にお聞きしてみないといけません。

ちなみに、一遍上人は、暦仁2年(1239年)に越智氏族から分流した河野氏一門の河野通広の二男として、道後温泉本館から徒歩で約10分のところにあった道後湯月館(現在の宝厳寺)で生まれ、松寿丸と名付けられました。10歳の時に母親が亡くなり、父の勧めで天台宗継教寺で出家。その後、36歳で悟りを開いて前述のとおり浄土宗系の時宗を開き、“踊り念仏”と“念仏札くばり”により、当時の民衆を救おうとしました。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより、極楽浄土に行くことが出来ると教え、全国を行脚され、飢餓や疫病、殺戮が蔓延する時代にあって、当時の民衆から大変慕われたと伝わっています。



【大山祇神社・東円坊】
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四国遍路で有名な四国霊場八十八箇所、現在は四国にある弘法大師(空海)ゆかりの88か所の“寺院”の総称として捉えられていますが、それは明治元年に明治新政府から出された神仏判然令(神仏分離令)により神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させたことによるもので、江戸時代までの「神仏習合」の文化では、四国霊場八十八箇所の中に神社も含まれていました。この大山祇神社もその1つで、元々はこの大三島にある大山祇神社が四国の他の国の一宮(いちのみや)と同じく、四国霊場の札所となっていました。

〔参考〕
大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ:阿波国一宮)…第1番札所の霊山寺が同社の神宮寺
土佐神社(土佐国一宮)…第30番札所の善楽寺が同社の別当寺
田村神社(讃岐国一宮)…第83番札所の一宮寺が同社の別当寺

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しかしながら、四国霊場八十八箇所の中で唯一大山祇神社大だけが大三島という島の中にあり(第55番札所)、参拝するにはわざわざ海を渡らないといけないため、その困難を取り除くため、四国本島側の今治にある別宮大山祇神社(べっくおおやまづみじんじゃ)に札所が移されました。その別宮大山祇神社の別当寺が南光坊で、明治元年に出された神仏判然令以降はその南光坊が第55番札所となっています。

かつての大山祇神社は神仏習合色が強く、これまで何度か紹介してきたように、大山祇神の本地仏は大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)。塔頭(たっちゅう)は24坊を数え、そのうち8坊は別宮とともに四国本島側に移されました。現在は22坊が戦火で焼失したり荒れ果てたりして、別宮の南光坊とこの大三島にある東円坊のみが残るだけです。ちなみに、塔頭とは別当寺や神宮寺と共に作られた小規模な施設(庵)のことです。ちなみに、明治元年に明治新政府から出された神仏判然令により、旧の神宮寺は廃寺となりましたが、本堂はそのまま大山祇神社の祖霊殿となり、地元の人達からは引き続き「神宮寺」と呼ばれていました。しかし平成4年(1992年)、左翼過激派による放火のため焼失。その後、現在の祖霊殿が再建されています。

〔参考〕
大山祇神社の塔頭は泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊・瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊の24坊

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東円坊は大山祇神社の南200メートルほどのところにあります。前述のように、東円坊は大三島にただ1つ残った旧神宮寺の塔頭です。保延元年(1135年)、大山祇神社の宮司の家系に繋がる越智(河野)為澄の次男・妙尊が役行者(えんのぎょうじゃ)から法を学び、河野一族の婦人達の支持を得て、神社の近くのこの地に一宇を建立し、その妙尊の子が東円坊を称したことに始まると案内板には書かれています。大山祇神社では神社に所属して仏事を行う僧のことを供僧と呼んでいましたが、東円坊は代々、大山祇神社の供僧を統括する検校職を任ぜられていた…とも書かれています。元々本尊は阿弥陀如来でしたが、神仏判然令(神仏分離令)が出されて神仏分離がなされた以降は、それまで大山祇神社に納められていた大山祇神の本地仏であった大通智勝仏がここに移されています。

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東円坊には2つのお堂があり、右の本堂には本尊である薬師如来が、左手奥の小さなお堂に大山祇神の本地仏とされる大通智勝仏が祀られています。ご厚意で特別にお堂の扉を開けていただき、東円坊の大通智勝仏を拝ませていただきました。写真の左側の仏像が大通智勝仏、すなわち、大山祇神がお亡くなりになった後のお姿(本地仏)を表した仏像です。前日に南光坊を訪れた際、住職さんから大通智勝仏は印の結び方が大日如来のものとは逆で、右手を下にして拳を握り、右手の第二指(人差し指)を立て、左手の拳でこれを握る埋拳印に特徴があるとお聞きしていましたが、まさにその通りです。大通庵の大通智勝仏は衣の下に手を隠したお姿でしたが、東円坊の大通智勝仏は印を結んでいるところが分かるお姿です。また、南光坊の住職さんからはこのような如来像は今は南光坊と東円坊にだけ残る極めて珍しい如来像で、古仏としては唯一現存している大通智勝如来像と言われているというお話もお聞きしました。南光坊の大通智勝仏は秘仏ということで直接見ることはできませんでしたので、実際にそのお姿を見たのは、この東円坊の大通智勝仏像が初めてです。

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この東円坊の大通智勝仏も大通庵の大通智勝仏と同様、極めて柔和なお顔をなさっていて、頭髪が縮れて右巻きの螺旋状をしている螺髪(らほつ)であることとも相まって、どことなく女性のような印象を受けます。ということは、大通庵のところでも書きましたが、男神だと伝わっている大山祇神って、本当は女神だったってことなのでしょうか?

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東円坊の南側には大山祇神社の神体山の1つである安神山(あんじんさん)をすぐ傍に望むことができます。安神山の頂上には大山祇神社の御神体でもある龍神(龍王)が祀られている…という説明をtsunaguプロジェクトの大橋理事長からお聞きしたちょうどその直後、「あっ! あそこに龍がいる!」という大橋理事長の驚いた声があたりに響き渡りました。彼女が指差す先を見ると、東円坊の真上、大山祇神社の方角の晴れ渡った青空の中に、長く細い白い雲がたなびいているのが見えました。写真はその先頭部分ですが、確かに嘴が突き出し、尖った耳のようなものもあり、龍の頭の部分のように見えます。この雲、かなり細長い雲で、終端部には尻尾や脚のように見えるものまであります。たまたまの偶然とは思いますが、あまりにもタイミングが良すぎて、出来すぎ…って感じもします。前日の今治市朝倉の斉明天皇陵と思われる塚のところで襲われた竜巻のような突風といい、龍のように見える雲といい、人知を超えたなんらかの不思議な力が働いた…と考えてもおかしくないですわね(こんなことを気象情報会社の社長がクチにしてはいけませんが…)。

そうそう、河野氏の嫡子が代々名前に“通”の字を使うのは、大山祇神の本地仏「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」の中から“通”の字をいただいて、まず河野親経の子を通清と名づけ、通清以後、通信・通久・通継・通有…と河野家の嫡子は必ず“通”の字を名乗ったとされています。

また、この比較的珍しい仏(『法華経』の『化城喩品』に登場する大通智勝仏)を大山祇神の本地仏としたのは、“越智”の字と共通点を感じたことから選ばれたのかもしれないと、私は想像しています。おそらく“おち”に“越智”の字を充てたのは、神仏習合より微妙に先の時代のことと思われますから。



【大山祇神社・生樹の御門】

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ちょっと足を延ばして大山祇神社の奥の院(元神宮寺)方面を散策してみました。神社の西250メートルほどのところに大山祇神社の神宮寺の奥の院があります。奥の院自体は小さな阿弥陀堂なのですが、その奥の院の入り口には愛媛県指定の天然記念物である「生樹の御門(いききのごもん)」があります。この「生樹の御門」は推定樹齢3000年、根周り約32メートル、幹周15.5メートル、高さ10メートルにも及ぶ老楠(クスノキ)の巨木で、主幹は勢いがなく副幹に近接する1枝を除いて既に枯れていますが、副幹は樹勢があり大きく密な樹冠を広げています。根本の部分が分かれて自然の洞門(トンネル)となり、そこが奥の院への参道となっていて、くぐると長寿のご利益があるなどと言われています(中を石段が通っています)。まさに生きている木が「門」なので、「生樹の御門」と呼ばれているわけです。私も実際にここを訪れてみるまでは、「生樹の御門」の意味はわかりませんでした。なるほどぉ~。大山祇神社の境内からやや離れているため、国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」には含まれず、この木単独で愛媛県の天然記念物に指定されています。

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それにしても、樹齢3000年と言われる老楠の幹の中を通る時、ふだんあまり霊感が強いとは思っていない私でも、楠の生命力というか、不思議なオーラ、神々しさのようなものを感じました。生命体としての動植物の中で、「樹木が最も長生きする」と言うことに異論を挟む人はいらっしゃらないでしょう。人間は病気もせず天寿を全うしたとしても、たかが百数十年、他の長寿の動物たちもあまりそれと変わらないようです。それに比べて、樹木はその種類や個体にもよりますが、数千年生き続けているものがあります。その代表格が屋久島の縄文杉で、一説では樹齢3000~4000年とされています。この「生樹の御門」の老楠も推定樹齢は3000年。今年西暦2017年は皇紀2677年。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇が即位なさって日本国が成立した時よりも遥かに前からこの世に生きているわけです。その生命力には驚嘆せざるをえません。そりゃあ鈍感な私でも老楠の生命力も感じますわ。

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それにしても、まるでスタジオジブリが制作した宮崎駿監督の長編アニメーション作品『天空の城ラピュタ』や『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』などで描かれたような世界ですね。なんだか木の向こう側から巨神兵が出てきそうです。

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この奥の院への門となっている「生樹の御門」(樹齢3000年)や御神木とされている樹齢2600年の「乎千命(おちのみこと)御手植の楠」など、大山祇神社の境内や近隣にはクスノキ(楠)の巨木が群生しており、「大山祇神社のクスノキ群」の名称で国の天然記念物に指定されているところです。元亨2年(1322年)の兵火や、享保7年(1722年)に起きた洪水で大きな被害を受けており、かつては島全体が今よりも鬱蒼と茂ったクスノキの森であったと伝えられています。そういうところから、「生樹の御門」を眺めながら、ある壮大な仮説(妄想)が頭に浮かんできました。

大東亜戦争以前、大日本海軍の戦艦の名称は大和(現在の奈良県)や武蔵(現在の埼玉県)のように旧来の国の名前から付けられたそうなんですが、唯一どこの国のことか分からないのが戦艦扶桑(ふそう)に付けられた「扶桑国」です。

戦艦扶桑は日本初の純国産の超弩級戦艦で、1番艦の名称が扶桑だったことから扶桑型戦艦と呼ばれ、2隻建造され、2番艦の名称は山科です。全長205.1メートル、全幅28.68メートル。排水量は基準30,600トンという大型戦艦で、35.6cm連装砲6基12門と15cm単装砲16門、53cm水中魚雷発射管6門等を備えていました。広島県の呉海軍工廠で建造され、進水は大正3年(1914年)、就役は翌大正4年(1915年)。超弩級と呼ばれる戦艦としては扶桑型と並行して建造された金剛型巡洋戦艦(金剛、比叡、榛名、霧島)、その後建造された伊勢型(伊勢、日向)、長門型(長門、陸奥)、そして大和型(大和、武蔵)があり(加賀と信濃は航空母艦に改装)、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃時には既に建造から27年という老朽艦になって当時の日本の戦艦の中では最も鈍足(最大速力22.5ノット)の戦艦になってしまっていたため、華々しい出撃機会にはあまり恵まれることはありませんでした。最後は昭和19年(1944年)10月に行われたフィリピンのレイテ沖海戦において、アメリカ海軍の駆逐艦隊が放った魚雷の一斉攻撃により撃沈してしまいました。

ウィキペディアによると、扶桑とは、中国の伝説で東方の果てにある巨木(扶木、扶桑木、扶桑樹とも)のことであると書かれています。またその巨木の生えている土地を扶桑国というとも。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本国のことを指す異称となり、それを受けて日本でも自国のことを扶桑国と呼ぶことがあった…と書かれています。また、古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬莱山・崑崙山」に憧れ、それと同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとしたとも書かれています。この扶桑樹とはクスノキ(楠)のことではないか…と私は考えます。クスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことを“樟脳”と言い、今でも防虫剤や医薬品等に広く使用されます。また、カンフル注射のカンフルはこの樟脳のことを指しており、そこからクスノキのことは英語でcamphor teeやcamphorwoodと呼ばれ、“camphora”という種名にもなっています。こういうあたり、クスノキ(楠)は不老不死とも密接に繋がります。

前述のように、大三島の大山祇神社は御神木である樹齢2600年の「乎千命(おちのみこと)御手植の楠」や、この奥の院の門となっている「生樹の御門」(樹齢3000年)など境内や近隣にクスノキ(楠)の巨木が群生し、「大山祇神社のクスノキ群」の名称で国の天然記念物に指定されているところです。これは古代も同じだったろうと思います。いや、今よりももっともっと群生していたのではないかと思われます。さらに、クスノキは虫害や腐敗に強いため、古来から船を建造するための材料として重宝されてきた樹木です。

こういうことから、戦艦扶桑に付けられた「扶桑国」とはこの大三島を中心にした今治周辺の越智郡一帯の芸予諸島を指す国、すなわち、古代越智氏族が作り上げて繁栄を誇っていた国のことではないか…と、私はこのクスノキ(楠)の巨木を眺めながら勝手に想像していました。これは今回の『全国の越智さん大集合!』の企画を立てていただいたtsunaguプロジェクトの大橋理事長との会話の中で気づき、私の中ではほぼ確信に近づいていることです。

瀬戸内海と言えば村上水軍があまりにも有名ですが、このあたりはその村上水軍が現れる遥か以前の古代から、海人達(漁業や貿易など海上での生業で生活の基盤をたてていた人々)が中国や朝鮮半島、果てはフィリピン、インドネシアあたりまで交易をしていたところでした。今も大三島の海人の遺跡からは銅鏡や銅鐸が出土したりしていて、古代から海外との交易で生活をしていた人達がいた形跡が幾つも残っています。また、横殿宮のところでも書かせていただきましたが、越智氏族の祖とされる乎致命から数えて15代目の小千益躬(おちのますみ)は、推古天皇の御代に、靺鞨(まつかつ:現在のロシア連邦沿海地方?)国より“鉄人”が約8千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨国蟹坂で討ちとったとされています。このように、古代から日本、なかでもこの芸予諸島一帯、もっと言うと越智氏族と中国をはじめとした大陸との間には活発な交流があったと考えられます。

また、奈良時代の頃、瀬戸内海の制海権を支配していたのは大三島を中心とした越智氏族でした。越智氏族が瀬戸内海の制海権を支配していった背景には、越智氏は元々、天皇家の家臣で物部の姓(かばね)を与えられて瀬戸内海での天皇家の海軍の指揮権を担当していたと思われることが挙げられます。実際、西暦663年に行われた日本の古代史史上最大の対外戦争である白村江の戦いでは、百済からの援軍要請を受けた斉明天皇(とその後を継いだ天智天皇)はこれを承諾して、小千守興(おちのもりおき:英雄・小千益躬の5代後で、初めて“越智”を名乗ることになる越智玉興の父)を水軍大将にして、朝鮮半島に出兵しました。日本から朝鮮に出兵した小千守興に率いられた日本軍は朝鮮半島南西部にあった白村江付近で新羅、唐(中国)の連合軍と交戦し、残念ながら手痛い完敗を喫してしまいます。その戦いで水軍大将の小千守興は新羅の捕虜になり、しばらく新羅に抑留されてしまいますが、その後脱走して船を乗っ取り、何とか伊予国に逃げ帰ってきたと伝えられています。

この白村江の戦いにおける完敗に大いに懲りた大和朝廷は、今までの海洋国家的な性格から一転して陸に上がり、瀬戸内海に外国の船が入るのを禁止して、その見張り役に越智氏族を指名し、越智氏、河野氏といった越智氏族は三島水軍を組織し、大三島を中心とした芸予諸島一帯を大和朝廷の最終防衛ラインとして強固に整備しました。これにより越智氏族が徐々に瀬戸内海の海域の制海権を支配していくようになったと考えられています。この三島水軍は平安時代中期の天慶2年(939年)に起きた「藤原純友の乱」の平定のために出陣し、また平安時代末期の元暦2年(1185年)に起きた源平合戦(壇ノ浦の戦い)では源義経に味方し、さらには弘安4年(1281年)に起きた元寇(弘安の役)の際にも軍を派遣するなど、瀬戸内海を縦横に行き来して、歴史の表舞台にもたびたび登場しました。

このようにこのあたりの人々は遥か以前に古代中国と交流があり、強大な軍事力(海軍力)を持った地方国家だったことから、古代中国からここにやって来た人はこの大三島に生い茂るクスノキ(楠)、すなわち扶桑の巨木群を見て、ここを「扶桑国」と呼んだ…という推測も十分になりたとうかと思います。もし、そうだとすると、こんなに誇らしいことはありません。でも、もし仮に私の仮説が当たっているのだとすると、何故それが歴史の表舞台からいっさい消し去られてしまっているのでしょうね。次にそのあたりが歴史の大きな謎として残ります。



……(その9)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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