2017/06/28

全国の越智さん大集合!(その9)

【大山祇神社・境内】
大山祇神社は、大三島の西岸の宮窪地区にあり、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)の西麓に鎮座しています。延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)による式内社の社格で言うと、特に霊験あらたかな名神を祀る臨時祭が行われる“名神大社”。伊予国の一宮で、旧社格は国幣大社(四国で唯一の大社です)。現在は神社本庁の別表神社です。全国にある山祇神社(大山祇神社)や三島神社の総本社で、祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、この大三島の大山祇神社から勧請したとされる三島神社は、大山祇神社が1973年1月に発行した『大三島宮』によると、全国に402社。大山祇(積/津見)神社は全国に897社あるとされています。地域的には関東、四国・九州に多く、特に愛媛県には402社の3割近い111社が集中しているそうです。次いで静岡県の36社、福島県の35社、福岡県の24社、高知県の19社、神奈川県の19社、大分県の16社と続き、遠くは新潟県や北海道にまで広く分布しているのだそうです。

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大山祇神社の創建については、神武天皇の東征に先立って伊予二名島(いよのふたなじま:四国のこと)に渡った乎致命(おちのみこと)が瀬戸内海の治安を司っていた時、芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め、先祖である大山祇神を鎮祭したことに始まる(社伝)とも、仁徳天皇(第16代天皇)の御代に百済国から渡来して摂津の御嶋(みしま:現在の高槻市の三島鴨神社)に鎮斎されていたものを、その後大三島に勧請された(伊予国風土記)とも伝えられています。

大山祇神は山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めました。特に古代豪族であった越智氏やその分流である河野氏は氏神として深く尊崇しました。また、村上氏をはじめとする瀬戸内海の水軍の信仰も集めました。加えて、源氏や平氏をはじめ多くの武将が大山祇神社に武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっています。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件を所有し、これらは紫陽殿と国宝館に収納され一般公開されています。

近代においても、日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文公や、旧大日本帝国海軍の山本五十六連合艦隊司令長官をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があったほか、現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝が行われています。さらに、昭和天皇の「御採集船」として活躍した「葉山丸」と、昭和天皇が御生前に研究なさっていた四国の海に生息する魚介類や全国の鉱石・鉱物等を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)が併設されています。

大山祇神社の御祭神は大山祇大神一座のみ。この大山祇神社の祭神である“大山祇神”とは、日本神話に登場する神で、別名は和多志大神。日本書紀では『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記されています。天照大神(あまてらすおおみかみ)の兄にあたる神で、古事記によると、国産みの次に行われた神産みにおいて伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉冉尊(いざなみ)との間に生まれた神のお1人で、“山の神”とされ、その後、“草と野の神”である鹿屋野比売神(かやのひめ)との間に〔天之狭土神・国之狭土神〕〔天之狭霧神・国之狭霧神〕〔天之闇戸神・国之闇戸神〕〔大戸惑子神・大戸惑女神〕という四対八柱の神をもうけたとされています。神名の「ツ」は接続助詞の「の」、「ミ」は神霊という意味なので、「オオヤマツミ」とは「大いなる山の神」という意味となります。また、別名の和多志大神の「わた」は海の古語で、海の神を表します。すなわち、大山祇神は山と海の両方を司る神ということになります。ただ、大山祇神社が大三島という島に存在することもあり、三島信仰ではどちらかと言うと海神としての性格のほうが強くなっています。

また、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子供で、天照大神の命により葦原中国を統治するため高天原から地上(高千穂峰)に天降ったという天孫降臨で知られる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻になるのが大山祇神の娘である木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)。さらに、八岐大蛇(やまたのおろち)退治で有名な素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、大山祇神の子供である足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)の子供、すなわち大山祇神の孫にあたる奇稲田姫(くしなだひめ)を妻に迎えています。

このように大山祇神はとんでもなく尊い神様のようで、その大山祇神を祀った大山祇神社は日本民族の総氏神として、古来日本総鎮守と称されています。

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石造りの大きな「二の鳥居」の先に「総門」が見えます。二の鳥居を潜ります。

総門の前に『延喜式内社 伊豫國一宮 大山祗神社』と刻まれた石柱が建っています。その文字の上に刻まれた大山祗神社の神紋は「折敷に揺れ三文字」。我が家を含め、多くの越智氏族の方々の家紋と同じです。さすがに越智氏族の氏神です。越智氏族の一員であることが誇らしくなってきます。

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ここで1つの疑問。二の鳥居に掲げられている額に刻まれている神社の社名は『大山積神社』。いっぽう、総門前の石碑に刻まれている神社の社名は『大山祇神社』。私はこのコラムの中では混乱を避けるため敢えて「大山祇神」という表記を使ってきましたが(余計なことだったかな)、実は大山祇神社の正しい祭神名の表記は「大山積神」です。どちらも読みは「おおやまつみのかみ」です。大山祇神社では社名の「大山祇」と祭神名「大山積」とは現在は異なる表記が用いられていますが、かつては社名も「大山積神社」と表記されていました。明治時代に入り社名を「大山祇神社」と正式に定めたのだそうです。何故そういう風に表記を改めたのかについては、いつか大山祇神社にお訊きしたいと思っています。なので、作られた時期によって『大山積神社』と『大山祇神社』、2つの表記が混在するようです。

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最初に潜る門は「総門」です。この総檜(ひのき)造りで高さが約12メートルもある総門は、古図をもとに平成22年(2010年)に再建されたばかりのまだ新しいものです。元亨2年(1322年)の兵火で焼失してから実に688年ぶりに復元されました。再建されてから7年が経過したとはいえ、今はまだまだ真新しくて、歴史的な古い建物が多い大山祇神社の中では少し浮いた存在にも見えてしまいますが、これから幾百年と歴史を刻んでいくにつれ、大山祇神社の荘厳な風景の中に溶け込んでいくことでしょうね。

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総門を潜って境内に入ります。すぐ右に、御棧敷殿(おさじきでん)があります。今年ももうすぐ「お田植祭り」が行われ、日本でこの大山祇神社だけの神事、稲の精霊と相撲をとる『一人角力』が行われます。この一人相撲、五穀豊穣を願って姿の見えない稲の精と一力山(力士)が戦うのですが、必ず2勝1敗で稲の精霊が勝つことになっています。勝負の判定に“物言い”はつかないのでしょうか?(笑)

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左手に、大きな楠(くすのき)の老木があります。ここは、大山祇神社の中でもとても重要な場所の1つで、その昔、雨乞いが行われていた場所です。この楠は、樹齢3000年とも言われ、幹周17メートル(現在は10メートル以下)、かつて日本最古の楠とも言われました。18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているのですが、それでも、まるで生きているかのように、今も朽ち果てることなくここにあります。さすがは楠です。

治暦2年(1066年)は大干ばつが起こった年で、伊予の国で何日も雨が降らない日が続いたそうなのですが、その際、伊予国の国司・藤原範国の使者として能因法師が大山祇神社で雨乞いの儀式を執り行いました。能因法師はこの楠の木に幣帛を掛け、雨乞いを行ったこと言われ、その時に読まれた歌が

「天の川 苗代水にせきくだせ 天降ります 神ならば神」


大山祇神社の神様は、雨を降らせたり、大雨が続いた時に雨を止めることもできる神様だとされていました。最後の「神ならば神」は、「神様だったらちゃんと雨を降らせてくれ!」って意味にも受け取れます。これはもう雨乞いの祈願というよりも、神様に対する恫喝ですね(笑) この恫喝が効いたのか、その後、伊予国中に三日三晩雨が降り続いたそうです。気象予報なんて必要ないですね。

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その雨乞いの楠の裏に、ひっそりと鎮座するのが『宇迦(うが)神社』です。宇迦神は龍神で、ここに三嶋龍神の祭祀があるようです。宇迦神社は神池の島に鎮座している小さな社ですが、ここには大蛇(龍)が3つに切られた場所だという伝説が残っています。さらに、3つに切られた大蛇の“尾”が、海を渡った対岸へと飛んでいき、その地が「尾道(広島県尾道市)」という名称の土地になったという伝説までも残っています。

境内中央には大山祇神社の御神木である樹齢約2600年と言われる大楠(くすのき)が鎮座していて、境内に入るとすぐにこの御神木が目に入ってきます。この大楠は越智氏族の祖とされる乎知命(乎致命:おちのみこと)のお手植えとも伝わっていて、私達越智氏族にとって非常に深い関係がある木です。この大楠は息を止めて3周すると願い事が叶う、大楠と一緒に写真を撮ると長生きできるなどの信仰があるようで、私達も越智氏族の末長い繁栄を願って、この大楠の前で記念撮影をしました。

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大山祇神社の境内にある鎮守の森はそれほど広くありませんが、この御神木の「乎知命御手植の楠」をはじめ、境内や近隣にはクスノキ(楠)の巨木が幾つも存在します。大山祇神社の社領に生い茂るクスノキの群生は日本最古の原始林とされ、「大山祇神社のクスノキ群」の名称で国の天然記念物に指定されています。元亨2年(1322年)の兵火や、享保7年(1722年)に起きた洪水(大きな河川はないので、大雨による斜面崩壊か?)で大きな被害を受けており、鬱蒼としたクスノキの森であったと伝えられるかつての姿は失われ、今は辛うじて38本が残るだけですが、天然記念物に指定されたことで大事に保護されているようです。

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「乎知命御手植の楠」の左手にあるのが「十七神社」です。十七神社は御神像17体(国の重要文化財に指定)を安置する建物で、諸山積神社に十六神社(諸山積、大気、千鳥、倉柱、轟、阿奈波、比目木邑、宇津、御前、小山、早瀬、速津佐、日知、御子宮、火維、若稚、宮市の各神社) を合わせたもので、宝亀10年(779年)、芸予諸島の越智七島の浦処々に鎮祭していた、大山積神を守護する16柱の神々と、諸山積神社を合祀させて建立された神社とされます。

建物の構造は諸山積神社に残りの十六社が接続する形をとっています。そのため一方の屋根は入母屋造りで、他方は切妻造りとなって段違いの取り合わせとなっています。桁行約30メートル、梁間約4.5メートル、棟高約5.4メートル、平面積148.8平方メートルの檜皮葺。愛媛県の有形文化財に指定されています。由緒書によれば、この十七神社自体は室町時代の正安年間(1299年~1302年)に創建された建物で、元亨2年(1322年)の兵火で一度焼失し、その後、永和4年(1378年)に再建されたと伝えられています。たびたび改修されたため、諸山積社の組物、蟇股等には桃山期の手法が、また角柱、舟肘木の細部には江戸時代初期の特徴が見られるのだそうです。

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境内の左手の十七神社の先には『伊藤博文公記念楠樹』という1本の楠も植わっています。初代内閣総理大臣で越智氏族の一員だった伊藤博文公は、明治42年(1909年)3月22日にこの大三島の大山祇神社を参拝され、社号標の揮毫と楠樹の記念植樹をされています。越智氏族としては、当然といえば当然のことです。この明治42年3月22日という日にち、伊藤博文公がハルビン駅(現中華人民共和国黒竜江省哈爾濱)で暗殺されたのが同じ明治42年10月26日のことですから、暗殺される約7ヶ月前のことです。享年69歳でした。

108年前に植えた楠なので、さすがに幹も太くなって、立派な木に成長しています。ですが、されど108年です。『生樹の御門』の楠の推定樹齢3000年、『乎知命御手植の楠』の推定樹齢2600年に比べればまだまだ若いって感じです。楠の成長速度って108年でもこの程度のものってことです。それから考えると、『生樹の御門』の楠の推定樹齢3000年、『乎知命御手植の楠』の推定樹齢2600年は決して誇張されたものではなく、さもありなん…って思えてきます。あの幹の太さは半端じゃあありません。

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大山祇神社の境内にある楠としては、これらの他に『河野通有兜掛の楠』という木があります。幹周14メートル(現在は3メートル以下)。これも樹齢2000年弱と推定される老楠です。この楠には弘安4年(1281年)、元寇(弘安の役)への出兵時、河野水軍の総大将として出陣した河野通有が大山祗神社に参籠祈願した際に兜を掛けたとされています。

この弘安の役では、河野通有率いる伊予の水軍衆は、博多の石築地(元寇防塁)のさらに海側にある砂浜に戦船を置いて、海上で元軍を迎え撃つべく陣を張り、石塁は陣の背後としました。この不退転の意気込みは「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、味方からも一目置かれました。河野通有は志賀島の戦いにおいて石弓により負傷するも、元船に乗り込み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕る華々しい武勲を挙げました。この恩賞としてその直前まで失われていた河野氏の旧領を回復し、河野通有は「河野氏中興の祖」とも呼ばれています。

この『河野通有兜掛の楠』ですが、元亨2年(1322年)の兵火で大被害を受け、既に枯れていますが、現在も幹の一部が社殿の脇に横たわっています。さすがに虫害や腐敗に強い楠です。

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次に潜る門は「神門」。この門は江戸時代の寛文元年(1661年)、松山藩主であった松平定長公から寄進されたものです。素木造で屋根は切妻造檜皮葺。

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神門をくぐるとそこからは神の領域で、目の前に荘厳な拝殿、その後ろに本殿があります。大山祇神が祀られている本殿は元亨2年(1322年)の兵火での焼失を受け、室町時代の応永34年(1427年)に再建されたものです。三間社流造、檜皮葺。国の重要文化財に指定されています。また、拝殿も本殿同様に元亨2年(1322年)の兵火での焼失を受け、応永34年(1427年)に再建されたものです。慶長7年(1602年)に大修理が実施されています。素木造で屋根は切妻造檜皮葺。正面中央に一間の向拝が設けられています。本殿と合わせて国の重要文化財に指定されています。また、拝殿から延びる回廊には、この神社に参拝に来られた著名人の写真が飾られています。前述の初代総理大臣の伊藤博文公、山本五十六連合艦隊司令長官のなど、歴代の総理大臣や著名な軍人、政財界の重鎮、皇室の方々などの名前を見つけることができます。

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大山祇神社の拝殿とその奥にある本殿は、さすがに歴史の重みを感じさせる壮麗な造りになっています。屋根は檜皮葺き、建物の外側が丹塗りの本殿は三間社流造りと呼ばれる構造になっていて、この種の造りをもつ神社の代表格といってよいのだそうです。もともとの社殿は元享2年(1322年)に兵火にかかって焼失し、天授4年(1378年)から100年ほどかけて徐々に再建されたのが現在の社殿なのだそうです。

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今回の『全国の越智さん大集合!』ツアーの参加者全員で正式参拝を行いました。「大山祇の神様、いつもいつもこの国を護っていただき、本当にありがとうございます。これからも越智氏族のますますの繁栄を御見守りくださいませ」……二礼二拍手一礼 m(_ _)m m(_ _)m(^人^)(^人^)m(_ _)m



……(その10)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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