2017/07/21

中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その8)

登山口からこの「覗き」までは一気に登るジグザグの急坂が続いてきましたが、ここから先は緩やかな勾配に変わり、木漏れ日の中の快適な道が続きます。まもなく馬頭観音があります。

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馬頭観音は仏教における信仰対象である菩薩の一尊(ハヤグリーヴァ)のことですが、日本の民間信仰では“馬頭”という名称から、馬の守護仏として祀られることがほとんどです。この「馬頭観音」と書かれた石碑は、亡くなった馬の供養塔(墓)のようなものです。ここに馬頭観音の石碑が建っているということは、この山の中で亡くなった馬がいたということ、すなわち、この狭くて急勾配が続く碓氷峠越えの道を荷を背負った馬も越えていたということですね。もっとも当時の馬は今、競馬場で見られるような脚の長い西洋原産の大型のサラブレッドなどではなくて、「木曽馬」に代表される日本在来種の馬で、短足胴長の中型馬でしたが…。

その先左手に「風穴」という変わった穴があります。この風穴は溶岩の裂け目から水蒸気が噴出しているところで、手をかざすとほんのり暖かい水蒸気で湿った風が微かに感じられます。風が吹くということは空気の取り入れ口もどこかにあるってことなので、どこがその空気の取り入れ口なのだろう…と、あたりをキョロキョロしちゃいました。理系の悲しい性(さが)です。

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日頃の運動不足が祟って、さすがに脚がキツくなってきました。旧中山道は風穴の横を進み、さらに山を登っていきます。

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まもなく右側に「弘法の井戸」が見えてきました。その昔、刎石山の山頂付近の茶屋が水不足で困っていた時、通りがかった弘法大師空海が「ここに井戸を掘ればよい」と教えたのだそうです。今でも水が出ているのだそうです。

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さらに登ります。

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ここで道は2つに分かれます。旧中山道は右側の道を進みます。左側の道のほうが道幅が若干広いのですが、このすぐ先のところで行き止まりになっているのだそうです。

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井戸からすぐ上のところで道が平らになっています。ここが弘法の井戸の水を重宝した「刎石茶屋」があった跡で、その昔、ここには小池小左衛門の茶屋本陣をはじめ4軒の茶屋があり、力餅やわらび餅等を売っていました。旅人が一休みした場所であったようですが、現在は僅かに石垣と墓が残されているのみです。

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この先は杉並木になっていて、平坦で大変に歩きやすく、気持ちがよい道が続きます。刎石茶屋跡の100メートルほど先に「碓氷坂関所跡」の説明板が建てられています。説明板によると、「(平安時代の)昌泰2年(西暦899年)に碓氷坂の関所を設けた場所」と記されており、1200年以上も昔からこの坂が大和朝廷が置かれた近畿地方と関東地方を結ぶ交通の要衝であったことが分かります。弘法大師がここを通ったのもその頃のことでしょう。

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木々に遮られて景色のまったく感じられない杉林の尾根道を進んで行きます。尾根道に出たようで、これまでの登り坂とは一変。アップダウンの少ないなだらかな道を進みます。

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このあたりから急に植生が変わり、ブナと思われる落葉広葉樹の林の中をただ黙々と進んでいきます。周囲は蝉(セミ)の鳴き声でやかましいくらいです。5月下旬のこの時期に鳴く蝉なので、きっとハルゼミ。その中でも、このあたりは標高が1,000メートル近い高地で、ブナやコナラのような落葉広葉樹林なので、エゾハルゼミと思われます。非常に多数の個体が一斉に大合唱で鳴いているので、ほとんど「ジャーーーーァ」としか聞こえません。そのエゾハルゼミの声に混じって時折いろいろな種類の野鳥の鳴き声も聞こえてくるのですが、その野鳥の鳴き声などほとんど掻き消してしまうほど大音量のエゾハルゼミの大合唱です(そのうち慣れてきますが…)。このエゾハルゼミの鳴き声は碓氷峠を越えて軽井沢宿に着くあたりまで、落葉広葉樹林帯ではずっと聞こえていました。

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この比較的歩きやすい尾根道は約1kmほど続きます。木漏れ日が漏れる中の山歩きは本当に気持ちがいいものです。先ほどまで細く険しい急勾配の道をグングン登ってきたので、さすがに疲れていたのですが、ここで癒されます。水分を補給し、持ってきた飴を口に含んで、歩きます。

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道は急に狭く両側が深い谷になっています。ここは「堀り切り跡」と呼ばれていますが、ここは天正18年(1590年)、小田原攻めで進軍してきた豊臣軍を、後北条氏方の松井田城主・大道寺政繁が待ち受けて防戦した場所なのだそうです。大道寺政繁は元々狭かったこの尾根道をさらに削って狭くして北陸・信州軍の進軍をここで食い止めようと必死で防戦したものの、耐えきれずに突破され松井田城に退却。そこでも耐えきれずに開城し、とうとう豊臣方に寝返った場所なんだそうです。元々狭かった尾根道をさらに削って狭くしているので、ちょっと危険な区間です。ちなみに道の両側の斜面は深い谷になっています。落ちたら、どこまでも転がっていきそうです。

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堀り切り跡を過ぎたところにある切り通しをさらに数分歩いて南に出た途端に、道の南側が絶壁となります。ここもちょっと危険な場所です。昔、この付近は山賊が頻繁に出たところだったと言われ、この険しい場所を抜けると絶壁の途中の岩の上に「南向馬頭観音」が、その先を山を巻くように右に曲がると、同じく岩の上に「北向馬頭観音」が鎮座しています。険しい山道を歩いてきた旅人は観音様の優しいお顔にさぞや癒されたことでしょう。この「南向馬頭観音」は寛政3年(1791年)に建立されたものだそうです。

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こちらは「北向馬頭観音」です。この「北向馬頭観音」は文化15年(1818年)に建立されたものだそうです。「南向馬頭観音」のほうは進行方向左側が、「北向馬頭観音」のほうは進行方向右側が険しい斜面になっています。山の稜線(尾根線)を通っているのが、ここからもお分かりいただけるかと思います。この2つの馬頭観音像が建っているところは危険な場所であり、おそらく旅人の安全を見守るために祀られたものであろうと考えられます。

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そこから10分ほど歩くと「一里塚跡」の説明板があります。江戸・日本橋から数えて36里目の一里塚なのですが、どれが一里塚なのかはよく分かりません。進入禁止のトラロープの先に足跡があるので、その先にあるのでしょう。慶長以前の旧道(東山道)時代はここから登っていたようで、ここから左に少し登ったところに小山を切り開き一里塚が築かれていた…と案内板には書かれていました。この付近から東山道と中山道は少し違うルートを辿っていたようです。

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さらに先に進みます。

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一里塚跡から数分歩くと「座頭ころがし(またの名を“釜場”)」の急な坂に差し掛かります。急傾斜の坂道となり、路面には岩や小石がゴロゴロしています。加えて、赤土となり、おまけに常に湿っているので滑りやすい難所で、「座頭ころがし」と呼ばれているのだそうです。“座頭”というと、勝新太郎さん主演の映画『座頭市(ざとういち)』を連想される方が多いのではないでしょうか。この『座頭市』は、兇状持ちで盲目の侠客である“座頭の市”が、諸国を旅しながら仕込み杖を用いた驚異的な抜刀術で悪人と対峙するアクション時代劇で、昭和37年(1962年)に最初の作品が公開されて以来、26作品が制作されるというロングランの大ヒットシリーズとなりました。“座頭”とは、頭髪をそった盲人のことで、琵琶や三味線を弾いて語り物を語ったり、按摩(あんま)・鍼(はり)等を業としたりした者のことを言います。今日のような社会保障制度が整備されていなかった江戸時代、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対し排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとしました。それが“座頭”です。ここから、「座頭ころがし」とは、目が不自由な方はとても危険で、通れない道という意味で付けられた名称ではないか…と類推します。確かに一昨日までの雨に加えて、昨夜も少し雨が降ったようなので、湿って滑りやすく、危険な箇所です。ホント、街道歩きというより登山です。

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「座頭ころがし給水所」の標識が立っています。『安政遠足マラソン』のための給水所の位置を示す標識のようです。

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軽井沢方向から、マウンテンバイクに乗った若者が下ってきました。軽井沢宿からは標高にして200メートルも上がれば峠なので、軽井沢からの下りの峠越しは坂本宿からの登りの峠越しに比べて楽なのかもしれません。聞くと、埼玉県の川越市からやって来たのだとか。

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この先はしばらく平坦な道が続きます。

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10分ちょっと歩いて「座頭ころがし」を登りきると、「明治天皇御巡幸道」が左から上がってきて、ここで合流します。この明治天皇御巡幸道は明治8年(1875年)の明治天皇北陸巡幸の際に設けられた迂回路で、天皇陛下をお通しするということで、かなり遠回りにはなるものの、比較的平坦な道になっていました。明治天皇が徒歩でこの急勾配の隘路を通られたとは思いませんが、馬に乗って通るにしても、輿や籠に乗って通るにしても、この急勾配の旧中山道ではとてもとても無理ですからね。加賀100万石の大大名・前田家の殿様は参勤交代の時にどうされていたのでしょうね。現在、明治天皇御巡幸道は途中の崖崩れ等によって通行不能になっています。

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この明治天皇御巡幸道はここで分かれ、国道18号線の碓氷橋へ出るルートになっています。なので、この場所は中山道と追分の形になっていて、そのすぐ先のちょっと広くなった「栗が原」と呼ばれる場所には、明治8年(1875年)に群馬県で最初の「見回り方屯所」が設置されました。ちなみに、この「見回り方屯所」が交番の始まりであるといわれています。

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軽井沢方面からランニングで下ってくる3人組とすれ違いました。下りなので、脚は軽やかです。最近はマラソンブームや登山ブームの波にのって、両者の要素を併せ持ち、舗装路以外の山野を走る「トレイルランニング」が秘かなブームになっているという話を聞いたことがありますが、まさにそれですね。こんな山の中の道、さぞや走りにくいだろうに…と思って彼等の足元を見ると、登山靴でもランニングシューズでもない感じの靴を履いています。軽くて走りやすくグリップの良いトレイルランニング専用のシューズのようです。最近は皆さんの趣味の範囲も広がり、それに伴って新たなビジネスチャンスが生まれているのですね。まぁ~、私が最近ハマっているこの街道歩きもその1つのようなものですが…。

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ここでしばし休憩です。ここが登り始めてから碓氷峠の頂上までのちょうど中間地点といったところでしょうか。リュックを降ろし、糖分補給のため大好きなピーナッツチョコレートを食べました。水分も補給し、再びリュックを背負い、頂上目指して先に進みます。



……(その9)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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