2017/08/30

エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その2)

さて、いよいよ問題の邪馬台国はどこにあったのか…に話題を移します。江戸時代中期の元禄年間、この日本の古代史最大の謎といえる邪馬台国の位置の解明に最初に取り組んだのが、江戸幕府を代表する学者の1人、新井白石でした。新井白石は魏志倭人伝を読み解き、方位や距離を敢えて無視して、書かれた地名の読み方だけを頼りに場所を特定するといういささか乱暴な手法で邪馬台国の場所の特定を行いました。新井白石の著書『古史通或問』は日本で初めて本格的に邪馬台国の場所を論じたものとして有名ですが、それによると、邪馬台国の場所は大和国(現在の奈良県)であると主張しています。これが今の畿内説(近畿地方説)に繋がります。しかし、後年、新井白石は筑後国(現在の福岡県)に山門(やまと:現みやま市)という地名を見つけてしまい、今度は北部九州説を立ち上げます。以後300年、新井白石の立てた地名の読み方だけを頼りとしたこの2つの説をベースに、様々な人が様々な推理を繰り広げ、一大論争の輪を広げていきました。

邪馬台国の大まかな位置とそこまでの行程に関しては、魏志倭人伝の第1章にあたる部分に書かれています。

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【現代語訳4】……原文は【原文4】参照
倭人は、帯方の東南の大海のなかにある。山の多い島で、国や村をなしている。もとは100余国であった。漢のとき中国に朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通交する(魏と国交がある)のは、30か国である。
帯方郡から倭に行くには海岸に沿って船で進み、韓国を通過して南に向かったり、東に向かったりしながら倭の北岸の狗邪韓國に到着する。そこまでが7千余里である。
初めに海を渡り、距離1,000里あまりで対海國(対馬)に着く。その大官は卑狗(ヒク)といい、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。絶海の孤島であり、広さは4百里四方あまりである。土地は険しく、森林が多く、道路は鳥や獣の道のようである、1,000戸程度の家がある。良田は無く、海産物を食べて自活しており、船に乗って南や北に行き交易をしている。
また南に1,000里あまり行くと、瀚海(かんかい)という海があり、一大國(壱岐)に着く。またその大官を卑狗(ヒク)といい、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。3百里四方の広さがあり、竹や林が多く、3,000戸くらいの家がある。(対馬と比べて)やや田んぼがあるが、自国ですべてを賄うことはできない。この国もまた船に乗って南や北に行き交易をしている。
また南に千里あまり行くと、末盧(マツロ)國に着く。4,000戸あまりの家がある。山と海にはさまれて生活している。草木が繁茂しており、歩いている前の人が見えない。魚や鰒(あわび)好んで獲っている。水が深くても浅くても関係なく、みんな潜って獲っている。
東南に向かって陸上で500里行くと伊都(イト)國に着く。大官を爾支(ニキ)、副官を泄謨觚(セツボコ)、柄渠觚(ヘイキヨコ)。1,000戸あまりの家がある。代々王がいるが、皆女王の国の属国である。(帯方)郡からの使者が往来する時には常にとどまるところである。
東南に向かって100里行くと奴(ヌ)國に着く。大官をジバコ、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。2万戸あまりの家がある。
東に行くと不弥(フヤ)國に100里で着く。大官を多模(タモ)、副官を卑奴母離(ヒナモリ)という。1,000戸あまりの家がある。
南に向かって水上をいけば20日で投馬(トウマ)國に着く。大官を彌彌(ミミ)、副官を泄謨觚彌彌那利(ミミナリ)、5万戸あまりの家がある。
南に向かうと邪馬壹國に到着する。女王の都である。水上ならば10日、陸路ならば1ヶ月(もしくは、水上を10日、さらに陸路を1ヶ月)かかる。官を伊支馬(イキマ)、次を彌馬升(ミマショウ)、次を彌馬獲支(ミマワキ)、次をナカテイという。およそ7万戸あまりの家がある。
女王国より北は、おおよその戸数や距離を記すことができるが、その他の国ははるか遠く、詳細はわからない。
次に斯馬國有り、さらに百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國があり、これは女王の国の境界が尽きるところである。
その南に狗奴(クナ)國があり、男子を王としている。その官を狗古智卑狗(クコチヒク)といい、女王には属していない。
(帯方)郡を出て女王国まで1万2,000里である。
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文中で、距離の単位として“里”が出てきます。日本で1里をメートル法に換算すれば約4kmですが、中国の1里はそうではありません。現在の中国の1里は約500mです。しかし、古代中国の1里はもっと短く、後漢の時代の1里(長里)は約415m、秦の時代の1里(長里)は約400mだったと言われています。曹魏の時代には1里=75mもしくは95mという“短里”という単位も使われていたようで、時代時代によって異なっています。私が大好きな高倉健さんが主演して中国雲南省を舞台に父と子のつながりを描いた中国・日本合作映画に『単騎、千里を走る。』という映画がありましたが、そこの千里は約400kmのこと。まぁ、単騎で走れないことはない距離です。「万里の長城」の万里も約4,000kmのことで、実際、それくらいの長さがあるので、万里と言うのもまんざら間違いではないという事になります(実際は、“長大で限りない”という意味で“万”という字が使われたと思われます)。

日本の九州と朝鮮半島との間の海峡の幅は約200km。海峡上には比較的大きな島として対馬と壱岐の2島があり、日本では対馬を境界にして「朝鮮海峡」(対馬と朝鮮半島の間)と「対馬海峡」(対馬と壱岐の間)の大きく二つの水道に分けて呼ぶことが一般的です。魏志倭人伝では、朝鮮半島南岸の狗邪韓国と対海国(対馬)の間の距離を千里あまり、対海国(対馬)と一大国(壱岐)の間の距離を千里あまりと書いてあるので、これは短里での距離ということのようです。すなわち、100里で約7.5~9.5km、1,000里で約75~95kmということになります。正確に測量したわけではないので、距離に関してはこれを目安にアバウトに読み解けばいいわけです。

ここで初めて「邪馬壹國」という国名が出てきます。この「邪馬壹國」も「卑弥呼」同様、陳寿による漢字の当て字で、もともとは「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」。当時は「ヤマトィ」に近い発音で呼ばれていたので、この漢字を当てはめたのではないか…と推察します。もしそうなら、「邪馬壹國」は今の日本国家に繋がる「ヤマト国」、すなわち大和朝廷の源流と言えるのではないでしょうか。それにしても、国名の一番最初の文字が“邪”はないですよね。卑弥呼の“卑”と同様、酷い当て字だと思います。ここも、ふざけるな!…と私は言いたい。「邪馬壹國」に関しては、“ヤマタイ国”ではなくて“ヤマイチ国”と読むのではないか…という議論もあるようですが、今回のコラムでは混乱を避けるため、「邪馬台国」という漢字表記を使わせていただきます。

ここには倭國という大きなくくりの中に30ぐらいの国があると書かれています。都市国家のようにかなり小さな単位で独立した国がいっぱいあったようです。そして、その中の1つに卑弥呼を女王とする邪馬台国があったようです。魏志倭人伝には「昔は争いが起きていた」という微妙な書き方しかなされていませんが、ここからは、卑弥呼が女王になる前まではこの30ほどの都市国家間で覇権争いの戦いが続いていたのですが、各国が卑弥呼こそが倭國の女王だと認めてからは争いがなくなり、倭國は都市国家の連合体として1つにまとまった…という風に読み取れます。しかしながら、魏志倭人伝にはその邪馬台国が、遥か遠くの魏の国に貢物を送り、これを喜んだ魏の皇帝(もしかして、あの曹操か?)は卑弥呼こそが倭國の王だと認定する「親魏倭王」の称号を送ったとも書かれています。わざわざ魏から称号を貰わなければいけない状況だったということは、まだまだ倭國内の情勢は安定したものではなかった‥‥という風にも読み取れます。

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倭國は東南の大海の中にあり、山の多い島であると書かれています。これはまさに日本列島の特徴ですね。そして、倭國に行くには朝鮮半島の南岸にあった「狗邪韓国」から海を渡ると書かれています。そこから南東に進むと1,000里あまりで「対海国」に着くと書かれています。この対海国はもちろん現在の対馬のことで、疑いようがありません。そして海を南にさらに1,000里あまり進むと「一大国」です。この一大国も壱岐島のことで間違いないでしょう。ここも疑いようがありません。ですが、ここからが徐々に謎に包まれていきます。

さらに海を1,000里あまり渡ると「末盧(まつら)国」に至ると書かれています。一般的には、この末盧国は佐賀県北部の松浦半島の周辺だと考えられています。これは「まつら」と「まつうら」という地名の読み方が似ていることが最大の根拠になっているようです。松浦半島の東側の付け根にあたる部分には佐賀県唐津市があります。この唐津市には日本最古の水稲耕作遺跡である菜畑(なばたけ)遺跡があったり、久里双水古墳をはじめ合計10基の前方後円墳があったりと、古代の重要な文化財が多数発掘されています。ですが、言ってみれば倭国(日本国)の玄関港で、4,000戸あまりの戸数の当時としては大規模な町だったと魏志倭人伝に記されているわりには、幾分地味な感じが私はしています。

佐賀県唐津市公式HP

加えて、それ以外にこれという明確な論理的根拠に乏しく、末盧国を松浦半島だとすることにはちょっと無理な感じが私はしています。どこに無理な感じがしているのかというと、距離の表現。朝鮮半島南岸から対馬までの朝鮮海峡の幅は約80km、対馬から壱岐までの対馬海峡の幅も約80kmですので、短里で考えると「1,000里あまり」という表現も間違っていないように思えるのですが、壱岐から松浦半島まではほんの20kmほどしか離れてなく、短里での表現をするならば「200里あまり」ということになります。魏志倭人伝を原文で読み返してみた時に、ここがこの一般的な行程説に対して最初に感じる大きな違和感です。

次に、この末盧国から陸路を東南に500里(約40km)進むと「伊都国」に着くと書かれています。これは現在の福岡県糸島市周辺だと考えられています。“伊都”と“糸”、読み方が似ていることに加えて、糸島市では“ドルメン”と呼ばれる朝鮮半島に多く見られる形式の墓の遺跡や遺構をはじめ、たくさんの古代の遺跡が見つかっていることから、それも大きな根拠の1つになっているようです。

福岡県糸島市公式HP

その「伊都国」からさらに東南に100里(約8km)進むと「奴国」です。これは現在の福岡県北部地方だと考えられています。春日市などでは3世紀頃の遺跡がたくさん見つかっていて、その周辺には「那の津」や「那珂川」など“な”が付く地名の場所があることがその根拠とされています。

福岡県春日市公式HP

その奴国から東に100里(約8km)進むと「不弥国」です。これは現在の福岡県糟屋郡宇美(うみ)町ではないかと考えられていますが、名前がちょっと似ていること以外の明確な根拠は何もないようなのです。いちおう、不彌国の王墓ではないかともいわれる前方後円墳が発見されています。

福岡県宇美町公式HP

このあたりから徐々に怪しくなっていき、次の「投馬国」で完全にわからなくなってしまいます。というのも、不弥国から投馬国に行くには、南に水路を20日進むと書かれていますが、もし不弥国が一般的に考えられているように現在の福岡県宇美町だとすると、論理破綻を起こしてしまうのです。宇美町は内陸部にあり海に面してはおりませんし、宇美町を流れている大きな川もありません。なので、水路とはどうしても結びつかなくなるのです。もし宇美町あたりから強引に水路を20日南に進むとしたら、投馬国は鹿児島よりはるか南の海の上ということになります。

そして投馬国の次がいよいよ「邪馬台国」になるのですが、さらに謎が深まる展開になるのです。なんと、投馬国からはさらに南に水路を10日、陸路を1ヶ月行くと書かれているのです。鹿児島よりはるか南の海の上に陸路を1ヶ月行くような大きな島(陸地)はありません。

前述のように、邪馬台国の場所について一般的に知られている学説としては、北部九州説と畿内説(近畿地方説)の2つがあります。どちらの学説も不弥国までのコースはほぼ同じで、そこから先の解釈が違っているわけです。それぞれの説の主張はこんな感じです。

【北部九州説】
①魏志倭人伝に書かれているものに似た特徴の棺がたくさん出土している。
②不弥国から投馬国までの「水路を二十日」、投馬国から邪馬台国までの「水路を十日、陸路を一月」という表現はスタートした韓国南部の狗邪韓國から邪馬台国までの合計距離であると考えると矛盾しない。
③末盧国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などはほぼ間違いなく九州北部にあったと思われる国なので、邪馬台国もこの付近にあった筈である。

【畿内説(近畿地方説)】
①魏志倭人伝には倭の女王に100枚の銅鏡を贈ったと書かれていて、近畿地方では九州よりも多い数の大量の銅鏡が見つかっている。
②魏志倭人伝に書かれている不弥国から投馬国までの方角に誤りがあり、「水路を南に20日」を「東に20日」に訂正すると、ちょうど瀬戸内海を通るようなルートになり、場所的に合致する。
③邪馬台国が、近畿地方に4世紀頃に登場する大和朝廷と繋がっていると考えると自然である。「ヤマタイ」と「ヤマト」も似ている。

この北部九州説と畿内説(近畿地方説)、どちらの説ももっともらしい学説ではあるのですが、なんとも言えない微妙な感じがしてしまうのも正直なところです。理系の人間から見ると、どちらの説も人々を納得させることができるほどの論理性はほとんど感じられず、どう考えてみても強引なこじつけを行っているとしか思えないのです。北部九州説は、前述のように「不弥国から投馬国に行くには、南に水路を20日進む」というところで決定的な論理破綻を起こしています。北部九州説の根拠の②の「水路を十日、陸路を一月」という表現がスタートした韓国南部の狗邪韓國から邪馬台国までの合計距離だとするならば、途中の不弥国から投馬国までの「水路を二十日」はどこへすっ飛んで行ったの? 矛盾しない?…って単純な疑問が湧きます。なので、大変に申し訳ありませんが、この時点で論外です。

次に、畿内説(近畿地方説)のほうも微妙です。特に畿内説の根拠の②、これはかなり怪しいです。もしその通りだとすると、せっかく末盧国(松浦半島?)に船で着いて、九州に上陸し、陸路を700里(約60km)も東に進んできたのに、そこで再び船に乗り換えて東に20日進む…ということになり、その意味がまったく説明つかないのです。それなら一大國(壱岐)から船でそのまま東に進んだほうがよっぽど合理的です。いったん積荷を下ろして、荷車等に積み替えて、エッチラオッチラ、しんどい思いをして陸路運び、また再び不弥国で船に積み込むって面倒なことをするためにはそれなりの明確な理由がなくてはならないのに、その納得できる説明がまったくなされておりません。この時点で畿内説(近畿地方説)も論理破綻を起こしていると私は思います。すべてのことには明確な訳がある…、これが理系のアプローチ、理系の考え方というものです。実は、この途中一度陸路を700里(約60km)通るということに疑問を持ったことが、このあと(その3)で述べさせていただく私の仮説に繋がります。



……(その3)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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