2017/10/02

中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その9)

遠くに芦田宿の町並みが見えてきました。こうして宿場の町並みを眺めながら、宿場を目指して徐々に坂を下っていくというのはいいものです。

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芦田宿(あしだしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて26番目の宿場です。現在の長野県北佐久郡立科町芦田にあたり、難所であった笠取峠の東の入口にあたります。また、生糸の産地でもありました。天保14年(1843年)の記録(中山道宿村大概帳)によれば、芦田宿の宿内家数は80軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒で宿内人口は326人だったそうです。

芦田宿は、芦田村の浪人・岩間忠助と茂田井村の土屋右京左衛門重郷が、神官の今井曽五郎とともに慶長2年(1597年)に蓼科神社に納めた文書(願文)により、新駅の設立を願い出たことが伺えます。中山道が本格的に整備されたのは江戸時代に入った慶長6年(1602年)からであることから、芦田宿は江戸幕府が中山道を含む五街道の整備に着手する以前にいち早く成立していたことが分かります。このことから芦田宿は北佐久地域では最古の宿場といわれています。

当初、芦田村の中心は中世に芦田城の城下町として発達した古町というところでしたが、慶長2年(1597年)に幕府による中山道整備のため、前述の岩間忠助と土屋右京左衛門重郷が中心となって、北原・北林の地を開発して古町から人家を移し、宿場町としての芦田宿が新たに造られました。同時に村の中心も芦田に移されました。芦田宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒とすぐ手前の望月宿よりもさらに規模の小さな宿場町でしたが、難所であった笠取峠の東の入り口にあることから、ここで休憩をとる旅人が多かったと言われています。皇女和宮も降嫁の際にこの芦田宿の本陣で休憩をとっています。

本陣を名主や問屋が兼任しており、本陣は土屋家、脇本陣を山浦家、問屋名主は本間家が担いました。

現在の芦田宿は長野県北佐久郡立科町の中心として栄え、旧中山道を芦田宿にはいっていく左手には立科町役場もあります。この長野県北佐久郡立科町(たてしなまち)は昭和30年(1955年)、近隣の芦田村、横鳥村、三都和村が合併して発足してできた自治体です。合併にあたっては、町名を茅野市との境に蓼科山が広がっていることから「蓼科町」と命名したかったのですが、“蓼”の字が当用漢字になかったこと、また、古くは「蓼科山」のことを「立科山」と表記されたこともあったことから、同じ音の「立科町」としたとのことです。

その「立科町役場入口」交差点のあたりが芦田宿の江戸方の枡形の跡です。枡形とは街道を“鍵の手”状に折り曲げ、外敵の侵入に備えたものです。

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「ふるさと交流館 芦田宿」です。この施設では中山道の歴史や町の偉人、近隣の豊かな自然など、芦田の町の文化・自然・歴史をパネルや映像、ジオラマ等を用いて様々な角度から紹介しています。

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江戸幕府お抱えの国学者・新井白石の解釈により“中山道”、“中仙道”、“仲山道”、“仲仙道”とそれまでバラバラの漢字表記だったこの街道の名称を“中山道”に統一したのは正徳6年(1716年)のことだということは前述のとおりです。今年は2017年。おそらくこの案内ポスターは昨年作られたもののようですが、確かに「名称統一300年」です。

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ここでこの「ふるさと交流館 芦田宿」の学芸員の方から説明を受けることになっていたのですが、“偶然の”出会いがあり、急遽予定を変更。芦田宿本陣土屋家の御当主のご厚意により、芦田宿本陣の内部の見学をさせていただくことになりました。芦田宿本陣土屋家はこの「ふるさと交流館 芦田宿」のすぐ隣にあります。

ここが芦田宿の「土屋家本陣跡」です。当時の本陣は問屋も兼ねていたそうです。本陣らしく立派な門構えのお屋敷です。前述のように、芦田宿の本陣は宿場開設に尽力を尽くした土屋右京左衛門家が代々勤め、往時は客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋など多くの格式ある建物があったそうで、幕末の文久元年(1861年)には降嫁の旅の途中の皇女和宮が昼食を摂るために立ち寄っています。

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現存して残っている客殿は桁行5間、梁間11間の切妻造り、桟瓦葺。切妻の屋根を鯱(しゃち)と懸魚(けぎょ)と呼ばれる飾り板で飾り、妻入り玄関に唐破風(からはふ)が加わる豪壮な建築です。凄い! この客殿は寛政12年(1800年)に建てられたものだそうで、長野県の“県宝”に指定されているのだそうです。

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まず最初に芦田宿本陣土屋家の15代目(確か)御当主から本陣の起こりと歴史などについて説明を受けました。

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芦田宿本陣の土屋家に伝わる武田二十四将軍議の図です。この絵は天正3年(1575年)の長篠の戦いに臨む軍議の様子を描いたもので、上部右手に法師武者姿の武田信玄が描かれ、周囲に武田家家臣団と呼ばれる武田信玄に仕えた親族衆・家臣団・国人衆の武将24人が配列されています。その中に芦田宿本陣・土屋家の祖となった人物が描かれています。それが上段中央に描かれた白い衣装を着た人物、土屋右衛門尉昌続(昌次)です。

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土屋昌続は金丸筑前守虎義の次男で、当初は金丸平八郎と名乗っていました。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、一時上杉勢の攻勢により武田信玄本陣まで危機に晒されたのですが、金丸平八郎は武田信玄の傍をひと時も離れずに上杉勢に応戦して武田信玄を守り、この戦功により若くして抜擢され、侍大将になったといわれています。以降は武田信玄の側近・奉行衆としての活動が見られ、永禄11年(1568年)初めには土屋姓への改姓が確認され土屋昌続を名乗るようになりました。しかし天正3年(1575年)の長篠の戦いで、敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け、無念の討ち死にを遂げました。

土屋家本陣のご当主によると、この「武田二十四将軍議の図」は江戸時代の弘化4年(1847年)に描かれたものだということのようです。この芦田宿本陣の初代当主となった土屋右京左衛門重郷は、長篠の合戦で討ち死にした武田二十四将の1人、土屋昌続の長男です。武田信玄の死後、信玄の跡を継いだ武田勝頼が天目山の戦いで自害し、甲斐武田氏が滅亡したため、芦田城主・依田信蕃を頼って落ちのび、前述のようにその後は芦田宿の開設に尽力し、芦田宿で本陣を勤める土屋家の初代当主となりました。この「武田二十四将軍議の図」は土屋家がそういう由緒正しい家系の家だということで描かれたもので、ほかで見られる武田二十四将を描いた絵と異なり、武田信玄が右上に描かれて、上部中央には目立つように白い衣装を着た土屋昌続が描かれています。なるほどぉ~。この絵を見せられたら、宿泊等で立ち寄った諸国の大名達は土屋家本陣に対して敬意を表するでしょうね。

ちなみに、下部(すなわち手前側)の右から2番目で背中を向けて座っているのが武藤喜兵衛、後の真田昌幸です。この真田昌幸は戦国時代きっての知将・謀将として知られて、子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)がいます。昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』では、この真田昌幸の役を草刈正雄さんが演じました。

余談ですが、武田信玄と言えば、戦国最強の「武田騎馬軍団」を有していたことで有名ですが、この背景には、甲斐国をはじめ武田信玄の領地は当時有数の名馬の産地であったことが挙げられます。おそらくこのあたりの御牧ヶ原台地・望月の牧で生産された馬も武田騎馬軍団で使われたのではないか…と思われます。と言うか、その御牧ヶ原台地・望月の牧の馬が欲しくて、武田信玄は信濃国のこの佐久平周辺を戦略的に領地にしたとも考えられます。山で鍛えられた足腰やスタミナの強い馬は軍用馬にうってつけで、信玄は騎馬を重用したと言われています。

当時、使われた品々が展示されています。
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これは皇女和宮が昼食を摂るために芦田宿に立ち寄った際の宿割りが書かれた高札です。大行列だったため、芦田宿のほぼ全ての家が休憩所に使われ、どなたがどの家に上がって昼食を摂るかが記されています。これを見るだけでも皇女和宮の降嫁の行列がいかに大掛かりなものであったのかが窺えます。この札は芦田宿の京方の入り口に立てられていました。皇女和宮の大行列を迎え入れるにあたって、この本陣土屋家をはじめとした芦田宿の皆さんが周到に受け入れ準備を進めていたことが分かります。歴史的に貴重な資料です。

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参勤交代の途中に芦田宿本陣に宿泊した大名達の関札(宿札)です。さすがに本陣です。たくさんの関札が所蔵されています。この関札は、大名が滞在中、本陣の門の前に掲げられていました。ちなみに関札は本陣の側が用意するものではなく、各大名があらかじめ国許で用意し持ち込んだのだそうで、参勤交代の行列の中には宿泊する宿場分の何枚もの関札を運ぶ役目の人もいたそうです。関札の大きさは各大名の石高によって微妙に異なります。基本、石高の大きな大名は関札も大きく、石高の小さな大名は関札も小さいのですが、中には石高が小さいにも関わらず、デッカイ関札を持ち込む見栄っ張りの大名もいたそうです。

関札に囲まれるように飾られている鎧兜は土屋家に代々伝わるものでしょうか。武田二十四将の1人、土屋昌続に繋がる家系の家ですので、代々伝わる鎧兜があってもなんらおかしなことではありません。これに関してはご当主に聞きそびれてしまいました。

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芦田宿本陣・土屋家の客殿には、イチイ(櫟)の木を使った京風上段の間のほか、広間、小姓部屋、湯殿、雪隠など客室部の原形がほぼ完全に残されています。

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下の写真の左側は雪隠、すなわちトイレです。ワンルームマンションなら1部屋はありそうなビックリするくらいの広さです。こんなところで用をたしたら、さぞや落ち着かないだろうな…と思ってしまいます。右側の写真は風呂場です。雪隠の半分ほどの広さしかありません。湯船がないのですが、それは参勤交代の際に各大名が自分自身のmy湯船を持ち込んできたからなのだそうです。参勤交代の行列の中には、なんと殿様のmy湯船をエッチラオッチラ国許から運ぶ役割の人も含まれていたのですね。ご苦労なことです。ちなみに、さすがにmy湯船を持ち込まない大名もいて、そういう時には本陣が持っている湯船を持ってきて、お使いいただいたのだそうです。当時の湯船は五右衛門風呂のような下から沸かすタイプのものではなく、ほかで沸かした湯を持ってきて入れる形式でした。

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江戸時代後期の兵学者で思想家だった佐久間象山の自筆の書です。佐久間象山は信濃松代藩の藩士。佐久間象山が仕えた時の主君である信濃松代藩の第8代藩主は、江戸幕府の老中として天保の改革の一翼を担い、江戸時代後期の名君の1人と評価される真田幸貫(さなだ ゆきつら)。同じ信濃国ということに加え、ともに武田信玄を傍で支えた武田二十四将の末裔ということで、芦田宿土屋家本陣と信濃松代藩はなんらかの交流を続けていたと考えられます。佐久間象山の直筆の書がここにあるのも、そうした背景もあってか…と思われます。

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芦田宿本陣土屋家には歴史的に貴重なもので溢れ、もっともっと時間をかけてゆっくりと見学がしたかったのですが、残念ながらタイムアップで、御当主に御礼を言って本陣土屋家を後にしました。思いがけず偶然から見学がかなったのですが、ホント素晴らしいところでした。

芦田宿本陣土屋家はかつては「ふるさと交流館 芦田宿」までをも含む広大な敷地がありました。このあたりは“町(まち)”と呼ばれる集落のようです。だとすると、現在の地名は「芦田町町」って“町”の字が2つ続くってことでしょうか。

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芦田宿には脇本陣が2軒あったのですが、そのうちの1軒がこの土屋家本陣の向かい側にあった山浦家脇本陣です。残念ながら昭和52年(1977年)に起きた火事で焼失してしまい、今は駐車場の奥に小さな「芦田宿脇本陣」と記された標柱が立っているだけです。

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そのすぐ先の交差点の向こう側にある藤屋商店というお蕎麦屋さんの前にも、「脇本陣跡」と刻まれた案内表示が立っています。ここがもう1軒の「脇本陣跡」で、ここも山浦家が務めていました。

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古くは芦田宿の中ほどのこのあたりから中山道の前身である東山道が分岐していて、ほぼ現在の長野県道40号諏訪白樺湖小諸線に沿って蓼科山の山麓にある蓼科高原、白樺湖、車山高原、霧ヶ峰を経て諏訪に至るコースで延びていました。一大観光ルートですね(このルートは日本の代表的な観光山岳道路であるビーナスラインを一部含みます)。 いっぽう、中山道は笠取峠、和田峠を越えて諏訪に行くルートで、これは現在の国道142号線とほぼ重なります。

酢屋茂(すやも)です。元々は酢屋だったのですが、現在は手作り味噌・醤油を醸造しているのだそうです。

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その酢屋茂も向かいに、もう1軒の脇本陣だった山浦家があります。この山浦家は芦田宿の問屋と庄屋も兼ねていたそうです。江戸初期の建築様式が残っていた建物は老朽化により取り壊され、跡地の奥に土蔵が残っているのみです。この山浦家には多くの古文書が所蔵されているのだそうです。

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この先にも卯建の残る古い家が数軒見られます。そのうちの1軒、「金丸土屋旅館」です。ここは旧旅籠の「津ちや」です。創業は文化元年(1804年)。建物は往時のもので、「津ちや」の庵看板、出梁(だしばり)造り、腕木(うでぎ)に施された雲形の彫刻、煙出しを持つ大屋根など、多くの特徴を持つ立派な建物です。奥行きが深い町屋家屋で、間口も広いので、有力な商家だったことが見て取れます。現在も「金丸土屋旅館」として営業を続けています。

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芦田宿は本陣や旅籠だった金丸土屋旅館、味噌・醤油の蔵元である酢屋茂などの古い建物が点在しますが、全体的には新しく建て替えたものが多く当時の町並みは徐々に失われつつあります。お住まいの方々には不便ではあるでしょうが、なんとかこの歴史的景観を後世に残していって貰いたいものだと思います。

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旧牛宿の中村屋です。【第14回】でも書きましたが、信濃国では中馬稼ぎ(中馬追い)が農民達の農閑期の副業として発展しました。

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正明寺(しょうみょうじ)です。境内には立派な紫雲の老松があり、南無阿弥陀仏の石碑や地蔵も建っているのだそうです。私の名前「まさあき」を仮名漢字変換すると、通常真っ先に出てくるのが「正明」。なので、この寺院の名称には妙に親近感が湧きます(私の名前の漢字表記は“正昭”です)。

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このあたりに芦田宿の京方の枡形がありました。枡形があるということはこのあたりまでが芦田宿でした。

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「芦田」の交差点に「芦田宿」の案内標識が立っています。

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……(その10)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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