2017/11/08

中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その1)

10月14日(土)、15日(日)の1泊2日で、久し振りに『中山道六十九次・街道歩き』を歩いてきました。【第15回】で長久保宿まで歩いたのが7月のことで、今回が10月なので実に3ヶ月ぶりの中山道街道歩きの再開ということになります。ただ、今回は【第17回】。

実は【第16回】長久保宿→和田宿→和田峠(東餅屋)の新宿池袋発のコースが9月17日(日)、18日(祝)で予定されていて、私はそれを申し込んでいたのですが、運悪く台風18号が発生して、ちょうどこの9月17日(日)から18日(祝)にかけて日本列島を縦断するように上陸していくと予想されたため、前日までに旅行会社のほうから中止の連絡が入ったのでした。その2週間後に代替えで催行されたものの、私は事情があって参加できず、これまで15回続いていた連続参加がついに途切れたのでした。

なので、10月14日(土)、15日(日)で参加した中山道街道歩きは1つ飛ばした【第17回】となります。【第16回】の長久保宿→和田峠(東餅屋)は必ず行って、いつかは途切れた線と線を繋ぐつもりでおりますので、それまで“欠番”としておきたいと思っています。16番が欠番なんて、読売ジャイアンツみたいですね(ちなみに、読売ジャイアンツの背番号16は漫画「巨人の星」で主人公の星飛雄馬が付けましたが…)。

で、今回の【第17回】は【第16回】のゴールであった(筈の)和田峠の頂上を目前とした東餅屋茶屋跡から和田峠の頂上を目指し、次に峠の麓にある下諏訪宿へと下り、さらに塩尻峠の東の入り口である岡谷を目指します。

集合時刻の午前8時に池袋駅の西口に行くと、すっかり顔馴染みになった皆さんが出迎えてくれました。【第17回】ともなると、コアな常連の方ばかりが残っていて、もうすっかり気心の知れた“お仲間”です。「久しぶりぃ~!」…前回【第16回】が不参加だったので、約3ヶ月ぶりの再会です。「前回、来なかったよねぇ?。どうしたの?」、「ちょっと事情がありまして…」……他の皆さんの大部分は代替えの回で【第16回】の和田峠までの道を歩かれたみたいです。皆さん、ほとんどが私より歳上で、年配の方ばかりなのですが、お元気そのものです。

午前8時に池袋駅の西口を出発しました。この日の日本列島は南岸に秋雨前線が停滞している影響で、北海道や東北地方の北部を除き全国的に雨模様。さいたま市の自宅を出た時も池袋駅西口でバスの到着を待っている間もずっと小雨が降っていて、傘をさしていました。前回【第16回】が台風で中止になったことに加え、今回はしょぼ降る雨。“レジェンド”と呼ばれるほどの晴れ男も、ついにその運が尽きてしまった感じです。

池袋駅西口を出発したバスは、いつものように練馬インターチェンジから関越自動車道に乗り、群馬県藤岡市の藤岡ジャンクションから上信越自動車道に分岐、さらに長野県小諸市の佐久小諸ジャンクションから中部横断自動車道に入り佐久南インターチェンジで降り、あとは国道142号線を走る…というコースで、この日の出発点である和田峠頂上付近の東餅屋ドライブイン跡を目指します。このコースはこれまで歩いてきた中山道のコースとほぼ並行して走るので、周囲の景色を眺めていると、これまで歩いてきた時のことが走馬灯のようにいろいろと思い出されます。バスの車内でも隣の席になった方々の間でそういう会話が弾んでいるようです。

【第15回】のゴール地点だった長久保の横を通り過ぎました。ここからは私にとって“未知の道”となります。隣の席のHさんが「ほら、あそこを通っていくんだよ」とか「ここは国道の脇を歩き、このあたりから側道に入っていくんだよ」などと指を指しながら教えてくれます。中山道はおろか江戸五街道最高地点である難所の和田峠(標高1,600メートル)の麓にある和田宿はまさに生活圏(佐久地方)の外れの外れ…といった感じのところで、昔の面影、雰囲気が色濃く残っている大変に魅力的なところだということがバスの車窓から見える景色だけで十分に伝わってきます。

ちなみに、和田宿は江戸の日本橋から数えて28番目の宿場です。前述のように五街道最高地点である難所の和田峠を控えた和田宿は、隣の下諏訪宿まで5里18町(約22km)と中山道最大の長丁場で、しかも峠との標高差は約800メートルもあったため、逗留する諸大名らの行列や旅人も多く、長久保宿と同様に中山道の信濃二十六宿の中では規模の大きな宿場町でした。天保14年(1843年)の記録(中山道宿村大概帳)によると、和田宿の宿場の長さは7町5間(約870メートル)、宿内家数は126軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で宿内人口は522人でした。本陣や旅籠に加えて、和田峠越えのために、荷駄を運ぶための伝馬役が最盛期には70軒ほどあったのが特徴です。天保3年(1832年)の記録によると、その1年間で和田宿で動員した人足の数は延べ17.759人、7,744匹にのぼったそうです。宿常備の伝馬で賄いきれない分は、元禄7年(1694年)に定められた助郷制により、近隣の村々から動員されたのだそうです。

幕末の文久元年(1861年)3月、本陣を含め109戸が全焼…と、宿場の大半が火災で焼失してしまいますが、この年の11月には皇女和宮の御降嫁が控えていたことから、幕府より2,000両ほどを拝借し、全国から大工などを集めて、僅か4ヶ月で町並みを復興させ、この大行列を無事に迎えました。

標高820メートル余りの高地の静かな山里にあるこの和田の街道と宿場は国の史跡「歴史の道」として整備されていて、本陣や出梁造りの問屋、旅籠屋など、往時の面影を色濃く留めています。これまで訪れてきた28の宿場のなかでは、間違いなく雰囲気が一番の宿場だった…とは隣の席のHさんのおっしゃられた感想です。参加できずに中山道街道歩きが途切れてしまったことが、かえすがえすも悔やまれます。

【第15回】で長久保宿まで歩いたのが7月のこと。あの時は青々と茂った田圃のイネが美しくて印象的でしたが、あれから約3ヶ月が過ぎ、佐久平のイネはすっかり刈取りが終わり、車窓の風景も一変しています。小雨が降っていることもありますが、ちょっと暗い感じの風景です。標高が1,000メートルに近い佐久平はまもなく晩秋。そして来月末になれば、雪も舞うようになるのかもしれません。

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和田宿を車窓遠くに眺めながら、観光バスは国道142号線を和田峠に向けて徐々に高度を上げつつ進んでいきます。和田宿から和田峠に向かう中山道も大部分この国道142号線を通りながら、また、ところどころで側道に入りながら…といった感じで、国道142号線に沿って延びているようです。和田鍛治足交差点のところでは、「ほら、ここの先に江戸の日本橋から数えてちょうど50番目の一里塚、“鍛治足(かじあし)一里塚”の跡があるんだよ」とHさんから教えていただきました。50番目の一里塚と言うことは、江戸の日本橋を出てからここまで約200km歩いてきたことになります。ちょっと感慨深いものがあります。ですが、まだ200kmです。中山道は江戸の日本橋から、武蔵国(現在の東京都と埼玉県)、上野国(群馬県)、信濃国、木曽国(ともに長野県)、美濃国(岐阜県)、近江国(滋賀県)を経て京都の三条大橋まで135里35町(約534km)もあります。まだ半分も歩いてきていません。先は長いです。

「男女倉(おめぐら)口」という珍しい名称の地名標識を見つけ、Hさんが声をあげます。この男女倉口で新和田トンネルへ向かう国道142号線の新道と和田峠トンネルに向かう旧道が左右に分岐し、私達を乗せたバスは右に曲がって和田峠トンネルに向かう旧道のほうに入っていくのですが、旧道方向に曲がってすぐの左手に「中山道碑」が立っているのが見えます。そこが「和田峠登山口」のようで、Hさんから「ほら、ここからあの細い道に入ってドンドン坂道を登っていくんだよ。あの細い道が中山道の原道だ」とHさんが教えてくれました。指差す方向を見ると、木々の葉っぱに覆われた薄暗い道が森の奥へと続いています。あの細い道が中山道の原道で、昔、江戸と京都を行き来する旅人達が歩いた道なのですね。なるほどぉ~。

Hさんが言うには、ここから和田峠まで道は遊歩道として整備されていて、予想していたよりもとても歩きやすい山道だったそうです。かつては碓氷峠と一二を争う中山道最大の難所だったそうなのですが、今は距離こそ長いものの危険な急勾配のところはなく、歩きやすさという点では碓氷峠ほどの難所ではないそうです。小さな沢を何度も横切り、緩やかに登っていくのだそうです。「喩えて言うならば、笠取峠のような感じかな」。笠取峠といえば、【第15回】で登った長久保宿の手前にあったダラダラ坂です。さほどキツイ勾配の坂ではないものの、ダラダラと長く長く続く坂で、ちょうど7月と言うことで直射日光に照らされて暑かったこともあり、私にとっては碓氷峠の登りよりもキツく感じた坂でした。和田峠への登りは草道やところどころ石畳の道になっていて、アスファルト舗装の国道142号線脇の歩道を歩く笠取峠よりは歩きやすいということでしたが、距離はその倍以上と言うことなのでキツそうです。

和田峠は碓氷峠と並んで『中山道最大の難所』と言われていて、和田峠と碓氷峠、どっちが本当の『中山道最大の難所』なんだよ!?…と激しいツッコミが入りそうなのですが、それは進む方向によるもののようです。碓氷峠は江戸側からだと激しい急勾配の長い登り坂が続くのですが、京都側からが登りの区間が短くて全然楽だってことは【第13回】で書かせていただきました。反対に、この和田峠は江戸側からだと距離こそ長いものの厳しい登り坂が少ないので全然楽なのですが、京都側からだと激しい急勾配の登り坂が続くのだそうです。なるほど、京都側からだと和田峠が『中山道最大の難所』で、江戸側からだと碓氷峠が『中山道最大の難所』ってことのようです。

観光バスは国道142号線の旧道の九十九(つづら)折を何度も曲がりながら徐々に高度を上げながら進んでいきます。ところどころで細い1車線の道路になる区間もあり、対向車がやってきたらどうするんだろうと心配になってきます。実際、この国道142号線の旧道、意外と交通量が多く、特に大型のトラックが多いのが特徴です。中山道(原道)はこの国道142号線の旧道の左側の森の中を進んでいるのだそうです。

男女倉口から15分ほど走って、バスは廃墟となった東餅屋ドライブインの前を通過しました。この東餅屋の手前で国道142号線の旧道は中山道の原道と合流するのだそうです。観光バスは東餅屋ドライブインの前を通過してしばらく行ったところで脇道に入り「和田峠農の駅」というレストランというかドライブインに停車しました。ここでお弁当の昼食です。時刻はちょうど12時を少し回ったところ。池袋駅西口を出発したのが午前8時だったので、ここまでバスで4時間走ってきたことになります。随分と遠くまでやってきた感じです。

雨はあがっていたものの、外は一面の霧。それも濃霧と言っていいくらいの濃い霧です。そう言えば、このあたりは霧ヶ峰が近いですものね。本当は美しい山の景色を見ながら外でお弁当をいただきたかったのですが、この濃霧じゃあダメで、バスの車内でお弁当をいただきました。

また、お弁当とは別に「和田峠農の駅」名物で絶品と言われる地元で採れた熱々の“きのこ汁”をいただきました。絶品と言われるとおりにメチャメチャ美味しかったです。

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昼食後はまたバスに乗ってこの日のスタートポイントである東餅屋(ひがしもちや)に向かいました。この東餅屋は、悔しいことに私は参加しておりませんが、前回【第16回】のゴールポイントです。【第16回】では、【第15回】のゴールであった長久保宿を出発して、和田宿を経由し、標高1,600メートルの和田峠を目指して、ダラダラと続く長い登り坂をここまで登ってきました。この東餅屋は和田峠の頂上というわけではなく、言ってみれば九合目。標高は約1,470メートルで、標高1,600メートルの和田峠までは、ここからさらに標高差130メートルの登りとなります。

東餅屋には廃墟となったドライブインの跡があります。中山道の往来が繁栄を極めた江戸時代、ここには5軒の茶屋があり、江戸幕府は1軒につき一人扶持(いちにんぶち)を給付し、保護しました。“一人扶持”とは武士1人1日の標準生計費用を米5合と算定して、1ヶ月に1斗5升、1年間に1石8斗、俵に直して米5俵を支給することで、茶屋としての収入以外にそれが給付されていたということは、それなりに保護されていたということです。そういうことからも江戸幕府における中山道和田峠の重要性が窺えます。明治維新後は交通機関が発達して中山道を歩いて旅する人が減り、5軒の茶屋はすべて廃業してしまったそうです。その後、それらの茶屋跡にはドライブインが復活して、名物だった力餅も売られていたそうなのですが、今はそのドライブインも廃業し、廃墟となって残っているだけです。ただ、石垣は昔と変らず、その面影を今も残しているのだそうです。

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廃墟となったドライブイン跡に「黒曜石」と書かれた看板が立っています。旧石器時代から縄文時代にかけて、和田峠周辺は黒曜石を原材料とした石器の日本最大の産地だったと言われています。和田峠にある男女蔵(おめぐら)遺跡からは黒曜石を原材料とした石器が多く出土することから、旧石器時代の重要な遺跡として古くから注目されてきました。手前の和田宿にある「黒曜石石器資料館」には、この男女蔵遺跡から出土した石器が展示されていて、旧石器時代の人々が使用した石器から、当時の人々の技術力や生活の様を窺い知ることができるのだそうです。特に「男女倉型尖頭器」と呼ばれている石槍は、旧石器時代の流通を解明する貴重な資料として注目されています。

ちなみに、黒曜石は火山岩の一種で、化学組成上は流紋岩に分類されます。石基はほぼガラス質で少量の斑晶を含むことがあります。流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出することで生じると考えられていて、同じくガラス質で丸い割れ目の多数あるものはパーライト(真珠岩)と呼ばれています。外見は黒くガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから、旧石器時代から世界各地でナイフや鏃(矢じり)、槍の穂先などの石器として長く使用されました。黒曜石は特殊な条件下でしか生成されないことから特定の場所でしか採れず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られていますが、良質な産地はさらに限られています。旧石器時代や縄文時代における黒曜石の代表的産地としては、北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)、東京都伊豆諸島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県の姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼部が知られています。黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果で判明していて、例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代(紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡を隔てた朝鮮半島南部の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石は遠くロシア東部のウラジオストクまで運ばれているのが確認されています。

黒曜石は、先ほど昼食を摂った「和田峠 農の駅」でも販売していたので、350円で売っていた小さな欠片を2つ購入しました。確かにガラスの欠片のようで、黒光りしています。奥の欠片などエッジがナイフの刃のように鋭利で、帰宅して確認すると、入れてもらった紙袋を突き破る、と言うか切り裂いていました。

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……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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