2017/08/09

中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その3)

数分歩くと「女街道入り口」という興味深い説明板が立っています。説明板には

「関所さけて 女人が多く往来せし女街道と いふは寂し」


と記されています。

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女街道(女人街道・姫街道とも)は江戸時代に「入り鉄砲に出女」といって当時恐れられていた鉄砲等の武器の江戸への持ち込みと併せて、人質的な意義を持っていた江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方等女人の出入りは厳重に取り締まられていました。従って、女人は横川にある取り締まりの厳しい碓氷関所を通るのを避けて、ここで中山道から分岐して、上信国境(上州と信州の国境)の入山峠を越える裏街道を往来するようになり、この街道が女街道と呼ばれました。また、ここで中山道と別れて広漠たる地蔵ケ原を横切り、和美峠(わみとうげ)を越えて上州の下仁田に向かう女街道もありました。この下仁田に繋がる女街道も中山道の裏道と言うべき街道で、取り締まりの厳しい碓氷関所を通らずに行くことができたのだそうです。距離的には随分と遠回りにはなりますが、信州(長野県)の側からはほとんど平坦で、上州(群馬県)側も付近の入山峠や碓氷峠に比べると傾斜が緩やかであることから、江戸時代には主として物流に利用されたのだそうです。こういう抜け道があったのですね。もっとも、調べてみると、この女街道にも下仁田の手前に西牧関所(別名:藤井関所)という関所が、ちゃ~んと設けられていました。

ピンク色をしたマツバギクが街道沿いの民家の庭先に群生しています。

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その先に「遠近宮(おちこちみや)」というこれまた奇妙な名前の神社があります。祀られている祭神は大山祇(おおやまつみ)神の娘である磐長姫命(いわながひめのみこと)。創立年代は不詳とのことですが、古くから当地の鎮守産土の神として崇敬されているとのことです。現在の棟札によると、社殿や鳥居等は享保年間(1716年~1736年)に整備させられたとのことのようですが、それより遥かに古く、当地が開発された当初より守護神として奉祀されたもののようです。いつの頃よりの伝説なのかは分かりませんが、安産の神としての信仰が厚く、この付近の遠近(おちこち)の集落の人々が参拝するようになりました。境内の社叢(しゃそう)はシナの木の巨木等で、鬱蒼としていて、軽井沢町の文化財に指定されています。

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その昔、浅間山麓一帯は幾つかの谷のような地形になっていて、その谷々にポツポツと僅かに人家があって、それが広い範囲に散在していたので「遠近の里」と呼ばれていました。有名な歌人・在原業平がこの里を通られた時に

「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」(伊勢物語)


という歌を詠んで残されたといわれています。この歌を詠んだ地は、浅間山の景観が最も優れたこの「借宿(かりやど)」集落一帯に違いないとして、借宿集落の人々はこの界隈のことを遠近(おちこち)郷と自称し、明和8年(1771年)にはそれまで浅間神社と称していたこの神社を「遠近宮」と改称したということのようです。

浅間山の景観が最も優れた地ということのようですが、この日はあいにく雲がかかって、浅間山は3合目付近より下の裾野の部分しか見えません。裾野がこんなに広く見えるわけですから、全貌が見えたら、さぞや雄大で素晴らしい景色なのでしょうね、きっと。

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“おちこち”という名称に妙に親近感を覚えてしまいます(笑)

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遠近宮を過ぎたあたりは、江戸時代には “間(あい)の宿”として大変賑わっていた「借宿(かりやど)」と呼ばれる集落です。遠近宮のところで、地元の「軽井沢町借宿昔語りの会」の会員の方から、「遠近の里 借宿ミニガイド」という手作りのガイドブック(リーフレット)を配っていただきました。この「軽井沢町借宿昔語りの会」は、郷土の歴史を知りたい、語りたいという仲間が自主的に集まって活動なさっているグループのようで、このガイドブックにも郷土愛、郷土に対する誇りのようなものが滲んでいます。手作りらしい温かさが溢れる素晴らしいガイドブックです。私もその「軽井沢町借宿昔語りの会」の皆様に敬意を表して、そのガイドブックを参考に書かせていただきます。

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前述のように、「借宿」は、江戸時代、中山道浅間根腰の三宿(軽井沢宿、沓掛宿と追分宿)の“間(あい)の宿”として繁栄したところです。中山道と脇街道である女街道との分岐点であったことにより人馬の往来も盛んで、当時の一般的な農村には見られないような異彩を放っていて、立場茶屋、穀屋、質屋、造り酒屋、小商屋、職人、中馬稼ぎ屋などが出現し、特に、穀取引と中馬継荷の活動は、上記浅間三宿をはじめ、佐久地方と上州(群馬県)との間の中継地として大いに賑わいました。「借宿」という地名に由来は、①中山道の追分宿・沓掛宿が満員の時、当地で宿を借りた、②源頼朝が浅間狩りに出掛けた時に泊まったところが“狩宿”と呼ばれ、それが“借宿”に転じた…という説があるようです。

“間(あい)の宿”には立場茶屋をはじめ、名主の家と思われる立派な家が多いのがこれまでの経験から分かっているのですが、この借宿集落にも立派な家が幾つか建っています。

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これは軽井沢町西長倉村の道路元標です。

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借宿の名主を務めていた土屋作右衛門家です。案内看板によると、寛文10年(1670年)に土屋家第11代当主の作右衛門が土屋氏本館からこの地に新築して移り住みました。土屋作右衛門家は地元の人々からは「総領、大庄屋、名主、こくや」などと呼ばれていましたが、本当の屋号は「ぬのや」だったのだそうです。中山道筋の代表的な米穀問屋(穀屋)であり、水車を持ち、造り酒屋、質屋、ちゅうき場(中馬業)、立て場茶屋などを営んでおり、江戸時代末期には寺子屋も開いていました。寛文10年に新築されたこの家は、その後火事により焼失してしまいましたが、すぐに再建され、幾度の改修を経て現在に至っているのだそうです。黄壁の立派な屋敷です。

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その借宿集落には軒先に杉玉がぶら下がった民家があります。かつては造り酒屋だった家なのでしょうか。徳利(とっくり)が並んで、造り酒屋らしい雰囲気を今も漂わせていますが、掲げられている案内板に描かれている文字は『遠山印刷』……???

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ここにも立派な建物が建っています。借宿地区の公民館です。傍に立つ「由来碑」によると、この土地は土屋晃・信子ご夫妻から寄贈されたものだということが書かれています。“土屋”姓ということで、前述の借宿の名主を務めていた土屋作右衛門家に所縁のある方なのかもしれません。

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交差点の真ん中に上から信号機がぶら下がっています。支柱が1本でいいので、簡便に設置できる信号機なのでしょうが、初めてこのタイプの信号機に遭遇すると、見逃してしまいそうです。車道をクルマで走行する場合には、進行方向の目の前に見えるので、見落とす危険性はまずないと思いますが、問題は歩行者。見上げないとその存在が分かりません。私達も信号が赤になっているのを見落とし、間違って道路を渡るところでした。一工夫が必要かと思われます。

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沓掛宿からの中山道沿いでは道路脇のあちこちに石塔・石仏をよく見かけます。旅の安全祈願や道標、様々な供養塔等がありますが、中でもこのあたりで特に多いのが馬頭観音像です。遠近宮から10分ほどのところには高さが5メートル近くもあるという圧倒される大きさの馬頭観音があります。借宿には江戸時代に中馬稼ぎが多かったことから、馬の墓塔である馬頭観音像が圧倒的に多いのだそうです。

ちなみに、“中馬(ちゅうま)稼ぎ”とは、江戸時代、信州の農民が農閑期の余業として2~3頭の馬で物資を目的地まで運送した輸送業のことで、農民の駄賃(だちん)稼ぎということから“中馬稼ぎ”と呼ばれていました。中馬は物資を目的地まで直送する「付通し」、すなわち今で言うところの長距離トラックのようなものだったので、その隆盛につれ、宿継ぎ送りが基本の宿場問屋側(既得権益側)とは利害が対立し、しばしば紛糾が起こっていたようです。中馬稼ぎの活動範囲は信州全域に及び、さらに尾張、三河、駿河、相模、江戸にまで活動範囲は広がり、東海地方と中部地方、関東地方を結ぶ重要な運送手段となっていました。輸送物資は米、大豆、煙草、塩、味噌、蚕繭、麻などで、庶民の物資を運ぶ上での重要な輸送機関でした。

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ほどなく国道18号線と合流します。

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国道18号線との合流点の右側に立つ「従是左上州くさ津道」と刻まれた道標は「上州道道標」と呼ばれ、ここが草津方面への道との追分(分岐点)であることを示しています。「草津道分去れ(わかされ)道標」と呼ばれています。上州の草津方面へは沓掛宿で中山道から分岐して向かう道があり、今も小さな道標が残っていますが、この先の追分宿方面からやって来る人達にとっては、そこまで行かずともここから北進したほうが短距離になるので、ここから分かれて草津方面へ向かう往来は多かったようです。

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“しなの鉄道”の「←信濃追分駅」という道路標識や、横断歩道に書かれた「軽井沢追分」という表示が、次の宿場「追分宿」に徐々に近づいてきていることを示します。

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「標高1003m」という表示が立っています。群馬県高崎市から新潟県上越市に至る国道18号線の最高地点を示す標識のようです。国道18号線では碓氷峠のほうが標高が高い印象がありますが、旧国道18号線の碓氷峠は標高が960mなので、実はこの地点のほうが標高が高く、国道18号線の最高地点のようです。ただ、現在は国道18号線碓氷バイパスを通るルートが一般的で、そこの最高地点である入山峠の標高は1,030mなので、この場所は碓氷バイパス開通以前の国道18号線の最高地点というのが正しいようです。ちなみに、私達が【第13回】で越えた旧中山道の碓氷峠の最高地点(熊野神社あたり)の標高は1,190m。幾つかある碓氷峠の中で、一番標高の高いところを通るのが本家本元の旧中山道の碓氷峠ってことになります。

ここが国道18号線の最高地点ということは、軽井沢宿からここまではほぼ平坦な道(実際は微妙にダラダラと登っていたようです)を歩いてきたわけですが、ここからは下りに転じるということを意味します。

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その「標高1003m」の表示の先にある駐在所です。避暑地にある駐在所らしく、ログハウスを模した建物になっています。なかなかお洒落です。その駐在所の横にこのあたりの案内図が立てられています。それによると、旧中山道はこの先で国道18号線から右に分かれ、追分宿に入っていくようです。なるほどぉ~。

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「追分宿→」という道路標識が出ています。この先で国道18号線から右に分岐する道路に入っていきます。

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10分ほど国道18号線を歩くと江戸・日本橋から数えて39番目の一里塚、「追分一里塚」があります。この追分一里塚は国道18号線の両側に左右両塚とも現存しています。 国道の設計者がうまい具合に一里塚の間に道路を通してくれたようです(南側の塚は復元されたものだそうです)。説明板には「江戸へ39里 京都へ91里14町」と書かれています。京都まではあと91里14町、359kmほどの距離です。江戸・日本橋からここまで随分と歩いてきた感じになっていますが、数字だけ見ると、まだ3分の1も歩いていません。京都はまだまだ遠い………。

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この追分一里塚の先で今度は右に入ると、次の宿場の追分宿です。

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……(その4)に続きます。