2017/09/01

エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その3)

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これに対して、私が立てた仮説を上図に示します。この仮説は、邪馬台国は四国、それも徳島県の北東部、剣山の麓にあり、吉野川の南側に並行して流れる鮎喰川上流域に位置する名西郡神山町にあったとする『邪馬台国四国(徳島)説』という説の存在を知ったことに端を発しています。

邪馬台国に関しては北部九州説と畿内説(近畿地方説)の主要2説に加え、なんと四国にあったとする『邪馬台国四国(徳島)説』があるってことをご存知でしょうか? この『邪馬台国四国(徳島)説』は徳島県の郷土史家らが作る古代阿波研究会なる団体が1976年に出版した『邪馬台国は阿波だった 魏志倭人伝と古事記との一致』(既に絶版)や、同じく徳島在住の郷土史家・大杉博氏著の『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』(1992年)にはじまり、多くの書籍でも紹介されています。徳島市の阿波史跡公園内には卑弥呼の墓ではないかと推測される古墳もあるのだそうです。ネットでも「邪馬台国四国説」で検索するといっぱい引っ掛かってきますので、興味を持たれた方は、是非、そちらをご覧ください。

徳島県はこの邪馬台国の舞台は四国、それも徳島だった!?…とする『邪馬台国四国(徳島)説』だけでなく、日本の歴史の始まりは徳島からだった!?…とする『阿波古事記伝説』、あげくは古代イスラエル人が剣山のどこかに秘宝“アーク”を隠し、現在も眠っている!?…とする『ソロモン秘宝伝説』等々、好奇心を掻き立てる数多くの古代の伝説が残されている実に不思議なところなんです。

徳島県観光協会HP

前述の古代阿波研究会や大杉博氏だけでなく、今も、日本最古の歴史書である『古事記』の研究に取り組む「阿波古事記研究会」をはじめ幾つかの団体が地道ながらも熱心な活動を続けておられるようです。皆さん、徳島県がそういうところだったってご存知でしたか? 実は私もある方のご紹介により最近知ったことなのです。

で、私はこれらの中でも『邪馬台国四国(徳島)説』に興味を持ち、邪馬台国が郷里四国あったとしたらメチャメチャ夢があって楽しいだろうな…と思い、ならばいつもの理系のアプローチにより、この『邪馬台国四国(徳島)説』を証明してみようじゃあないかって思い立ってみたわけです。私の理系の論理的アプローチによりこの説に少しでも信憑性が出てくるならば、四国がますます元気になりそうな気がしましたからね。なので、以下に述べる私の説は、徳島在住の郷土史家の皆さん方が唱えておられる邪馬台国は四国、それも徳島県名西郡神山町周辺にあったのではないか…という仮説を最初において、それを証明していくというアプローチを取っています。

ちなみに、日本最古の歴史書である『古事記』の中には「国産み」と言って、イザナミとイザナギが日本の島を次々と産んでいく話があります。最初に産んだのが淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)といって淡路島、そして次に伊予之二名島(いよのふたなのしま)といって四国が誕生します。3番目が隠伎之三子島(おきのみつごのしま)といって隠岐島、4番目が筑紫島(つくしのしま)といって九州。やっと8番目に大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)といって本州を産みます。この国産みは大和朝廷の勢力圏の拡大の推移を示したものである…とも読み取ることができます。とすると、邪馬台国が四国、それも淡路島に近い現在の徳島県にあったとしても、なんらおかしいことではない…と私は思っています。

繰り返しになりますが、邪馬台国に関しては北部九州説と畿内説(近畿地方説)の2つの学説で長い間論争が繰り広げられているのですが、いまだにその結論は出ておりません。これだけ多くの人が発掘調査を行い、その調査結果に基づき長い時間をかけて喧々諤々議論しても結論が出ないということは、どちらの学説も根本的にどこかが間違っているのではないかというところから、私なりに理系的なアプローチで紐解いてみたいと思います。

まずこのような場合は、一番最初の原点に返ってみるというのが理系の人間が常套手段のように使うアプローチです。そういうことで、邪馬台国論争の原点である『魏志倭人伝』を、こうして原文から読み返し、その上で改めて素直に論理を組み立ててみようと思い立ったわけです。

私の立てた仮説では、末盧国は一般的に思われている松浦半島ではなく、現在の福岡県福岡市、博多湾に面したどこかだと推定しています。ここなら一大國(壱岐)から約100km、「海を南にさらに1,000里あまり」という記述に矛盾はしません。現在のように道路や鉄道といった陸上交通網が発達していなかった古代においては、大量輸送は水路に頼ることがほとんどでした。ならば、船を使って少しでも東に到達しておこうというのは極めて自然なことです。なので、末盧国が松浦半島であるわけがないのです。壱岐から見て福岡が南方向にあるかと言うと微妙なところではありますが、壱岐を出航するといったん南方向に進んでから途中で東方向に転針する航路をとることになりますから、「南に」というのもあながち間違いではないと思っています。

しかも、朝鮮半島の南部から対馬、壱岐を経て博多湾にやって来るというコースは、2度の元寇においてもほぼ同じコースだったので、どうも中国人や朝鮮人といった大陸系の方々にはお馴染みのコースのようなので、その点でもまったく違和感はありません。しかも、魏・蜀・呉が覇権を争った三国時代の一つ前の後漢の時代の建武中元2年(西暦57年)に、後漢の光武帝が倭の奴国からやって来た朝賀使に対して“宗主国”と“朝貢国”の関係を伴う外交関係を結んだことのしるしとして賜ったとされる『漢委奴国王印』と刻まれた金印(国宝に指定されています)も、福岡県福岡市の博多湾にある志賀島から出土しています。これは決定的なことですね。

福岡市博物館公式HP

また、末盧国を現在の福岡県福岡市、博多湾に面したどこかだとしたことで、なぜ福岡市(博多)が九州の中心地として発展していったのかが分かる気がします。すなわち、ここ博多の地が倭国(日本国)における朝鮮半島や大陸との対外的な窓口だったからです。ちなみに、日本の古代史上最大の対外戦争である「白村江の戦い」(西暦663年)のおり、倭国軍の大船団が朝鮮半島に向けて出港した港も、博多湾にあった那の津でした。朝鮮半島との交流は博多をおいて他には考えられませんから、その意味でも末盧国は博多湾に面したどこかにあったのだと私は推測しています。

このように、「末盧国」が現在の福岡県福岡市、博多湾に面したどこかだとすると、伊都国はそこから陸路を東南に500里(約40km)進んだところですから、現在の福岡県飯塚市あたりということになります。その伊都国からさらに東南に100里(約8km)進むと奴国です。と言うことは、奴国は同じく福岡県田川市あたりということになります。その奴国からさらに東に100里(約8km)進むと不弥国です。ここは福岡県行橋(ゆくはし)市あたりで、九州の東海岸、瀬戸内海に面した海沿いの都市です。すなわち、魏志倭人伝に書かれたとおりのコースを進むと、この700里(約60km)の陸路で東シナ海から一気に瀬戸内海に出てきたことになります。現在、この福岡市→飯塚市→田川市→行橋市のコースには国道201号線が通っていて、その総延長は86.9 km。700里(約60km)というのもまんざら間違いではなさそうです。この国道201号線はその多くが筑豊地方の内陸部を通るため八木山峠、烏尾峠、仲哀峠などのちょっとした峠を越える区間がありますが、さほど標高の高いところはありません。筑豊と他地域を結ぶ路線であるため、山間部の区間が多いにもかかわらず交通量が多い福岡県の幹線道路のようです。

このことに大きな意味が隠されているように思います。なぜこの区間だけが陸路なのか? それは関門海峡があるからです。

魏志倭人伝によると、当時の人々が朝鮮海峡や対馬海峡を渡ることができるほどの造船技術や航海術を持っていたにも関わらず、朝鮮半島から邪馬台国に行くには、九州で船をいったん降りて陸路を進むということになります。前述のように、朝鮮海峡と対馬海峡というそれなりの海を船で渡ってきたのに、船を降りてしばらく陸路を進む。それも末盧国から不弥国までは合わせて約700里(50~60km)。長旅ですから相当の荷物の量だったと思われます。しかも、女王・卑弥呼への大事な貢物も持参していたことでしょう。それらの大荷物を持って、この区間、エッチラオッチラ陸路を移動したわけです。そして、再び船に乗船して南に進むわけです。ここに大きな違和感を覚えてしまいました。それって、海路上にそれだけ大きな障壁が横たわっていたということでしょう。その大きな障壁というのが「関門海峡」。おそらく関門海峡の船での通行を避けるためだったのではないでしょうか。

本州の山口県下関市と九州の福岡県北九州市を隔てる関門海峡は、瀬戸内海と東シナ海を結ぶ重要な航路なのですが、海峡の狭さ(最小600m:早鞆の瀬戸)、潮流の速さ・向き(潮の干満により1日4回潮流の向きが変わる)、船舶通航量の多さ、航路の複雑さ等から、今でも海難事故が多発する危険な航路であり、日本国内に7箇所ある海上交通センターの1つ「関門MARTIS」が特別に設置されていて、潮流放送、潮流信号所により潮流による事故を防止するための情報提供が絶えずなされている水路です。海峡を通過する船舶は必ず水先案内人の同乗が義務づけられているほどです。

関門海峡海上交通センター公式HP

今でもこのような状況なのです。今から2000年前は船は随分と小さく、動力も付いていなかったので、今以上に危険な水路、関門海峡はまさに命懸けの水路であったと思われます。なので、この関門海峡の通行を避けるために、この区間を陸路で短絡するように移動するルートが、瀬戸内海と東シナ海を結ぶ交通路として整備されていたのではないでしょうか。そのルートが末盧国→伊都国→奴国→不弥国という陸路のコースだったいうわけです。

ちなみに、国道201号線の終点は行橋市の隣の福岡県京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町です。京都(みやこ)郡という郡の名称に驚きます。行橋市もかつては京都郡に含まれていました。なぜこのあたりが京都(みやこ)と呼ばれるようになったかというと、第12代・景行天皇の時代、熊襲(クマソ)が背いたため、それを征伐すべく景行天皇自らが西に下り、この豊前国の地に行宮(かりみや)を設けたことに由来します。そこから京都(みやこ)と呼ばれるようになったのだそうです。この地域はかつて豊前国(現在の福岡県東部&大分県北部に相当)の中心地で、豊前国の国府跡や国分寺跡が行橋市と苅田町に隣接する京都郡みやこ町(旧豊津町)で発見されています。第12代・景行天皇は日本武尊(ヤマトタケル)のお父上で、景行天皇の時代とは西暦に直すと西暦70年~130年に相当すると考えられています。魏志倭人伝に邪馬台国と卑弥呼のことが書かれた時代はそれから約100年ほど後の時代にあたり、その時代には、この行橋市周辺の福岡県京都郡一帯は、既にそれなりの規模の町として栄えていたと推定されます。その範囲は不弥国だけでなく、奴国や伊都国まで及んでいたかもしれません。また苅田町にある古墳時代前期の前方後円墳「石塚山古墳」からは邪馬台国伝説にまつわる三角縁神獣鏡が出土されていて、国の史跡に指定されているほか、周辺には貴重な古墳や遺跡が点在しているのだそうです。

福岡県みやこ町公式HP

福岡県苅田町公式HP

また、田川市の公式HPによると、田川地方は古代から豊前の国府と大宰府を結ぶ交通の要衝で、朝鮮半島にあった新羅の文化の強い影響が窺える遺跡が幾つも発見されているのだそうです。魏志倭人伝には、奴国は2万戸あまりの家を有するこのあたり随一の規模を持つ都市国家だったということが書かれています。くわえて、博多湾の志賀島から出土した金印には「漢委奴国王印」と奴国の文字が刻まれていたことから、奴国は卑弥呼が活躍した時代の少し前の後漢の時代には、北部九州地方を支配するほどの大きな勢力を持っていたのかもしれません。田川市は日本の近代化を支えた筑豊炭坑の中心地で、あまりに有名な“炭坑節”の発祥の地として知られていますが、調べてみると、弥生時代から古墳時代にかけての大規模な遺跡が幾つも点在しています。

福岡県田川市公式HP

また、田川市に隣接する田川郡香春町(かわらまち)も、町の公式HPによると、その町名の語源は古代朝鮮語にそのルーツを探ることが可能で、古くより朝鮮半島や中国と密接な繋がりがあった土地であることのようです。

福岡県香春町公式HP

その後、造船技術の進歩により大型の船舶が建造されるようになり、また、航海技術も向上したことにより、危険だった関門海峡もなんとか船で通れるようになったのですが、天然の良港である苅田港はその後も瀬戸内海の物流の拠点港として栄えました。近代に入ってからも筑豊地区で産出される石炭の積出港として栄え、また最近でも国の重要港湾の指定を受けた貿易港として多くの船舶が利用しています。かつては、大型旅客フェリー「さんふらわあ」などが発着する旅客港でもありました。その際、福岡市→飯塚市→田川市→行橋市→苅田港という陸路(現在の国道201号線)の存在が大きな意味を持っていることは言うまでもありません。

次に、この現在の福岡県行橋市あたりにあったであろうと推察される不弥国から出港して、南に向かって水行20日で着くと言われる投馬国がどこにあったかが、邪馬台国がどこにあったのかを読み解く最大の鍵です。〇〇里という距離ではなく、所要日数で書かれていることからどうにでも取れる部分ですから。邪馬台国九州説も畿内説もそこで無理矢理のこじつけが入ってきます(誤記である云々)。魏志倭人伝に書かれている他の部分の克明さを考えると、ここは無理にこじつけるのではなく、そのまま読んで解釈するべきかと考えます。魏志倭人伝はあくまでも魏から倭國へ渡った使者(役人:文系人間)の感覚で書かれているので、距離や方位は大きく違ってはいないものの、極めて大雑把でアバウトなものだと私は思っています。そのいっぽうで、「陸路を◯◯日」、「水路を◯◯日」というような書き方をしている所は、むしろある程度参考にできるのではないかと思われます。

また、「水路を二十日」という表現は「船で進むこと20日」という意味で、ずっと見渡す限りの大海原の中を無停泊で進んだわけではないと読み取れます。あまりにサラッと書きすぎですし、そもそも当時の船、それも瀬戸内海を航行するような内航船は規模も小さく、それほどの食糧を船倉に積み込むこともできなかったと思いますから、入り江に泊まっては食事を摂り、潮の流れを見て出航し、また次に進むという尺取り虫のような進み方をして投馬国を目指していたと思われます。途中に国と呼べるほどの大きな都市がなかったことから、まとめて「水路を二十日」という表現になったのだと推察します。

私の立てた仮説では、まずは九州の東岸を小さな入り江伝いに佐賀関半島の先端の関崎まで行き、潮の干満により1日4回潮流の向きが変わる瞬間の海が凪いだ時に四国の最西端・佐田岬半島の先端の佐田岬まで一気に渡り、そこから今度は四国西岸の宇和海沿岸のリアス式海岸の幾つもの入り江を順に辿りながら20日かけて真南に航海を続け、投馬国に着いたと思っています。このあたりの海は豊後水道で潮の流れが速いため、何度も潮待ちを繰り返しながらの航海であったと思われるため、20日かかるというのは解かるような気がします。当時の船は動力が付いていませんでしたから。ちなみに、九州東岸廻りで最後に一気に豊後水道を渡るというのはあまりに距離があり過ぎて、動力船のなかった当時は賢明な航路とは言えません。また愛媛県側は山が海にそのまま突っ込んだような地形のところですので、陸路で行くのはふつう考えられません。国鉄予讃本線が宇和島まで開通するまで、松山と宇和島の間の主要交通機関は船でしたから。

先日、仕事で九州の大分市に出張したついでに別府港からフェリーで愛媛県の八幡浜に渡り、八幡浜からはJR四国の特急宇和海で松山に移動して帰省しました。なかなかこういう移動は経験できないので、仕事の出張とは言え、楽しかったです。四国の最西端、日本最大の断層である中央構造線に沿って直線的に全長約40kmにわたって突き出る日本一細長い半島、佐田岬半島の先端にある佐田岬と九州大分の佐賀関半島の先端にある関崎の間の距離は僅かに約16km。近い距離なので、海峡を渡るフェリーからは進行方向の前後で双方の半島の景色がよく見えます。この海峡から北側の海域は伊予灘、南側は豊後水道となります。この日の船旅では波はさほどでもなかったのですが、瀬戸内海とはいえ狭い海峡なので、意外と風が強く、海面には白波が立っていました。下の写真は四国の最西端、佐田岬半島です。左端に写っているのが、先端の佐田岬です。振り返ると約16km先に九州・大分の佐賀関半島の関崎が見えます。

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この距離なら、1800年ほど昔の時代でも、人の往来は頻繁にあったのではないかと容易に想像できます。いや、むしろ現在の八幡浜市より南の南予地域に住んでいた人達にとっては、同じ愛媛県内の松山市のような中予地域に行くよりも、この狭い海峡を渡って九州の大分に行くほうが一般的だったのではないでしょうか。背後に急峻な山地が迫り平地のほとんどないリアス式の海岸線が続く南予地方では、今のように道路が整備されたのはトンネル掘削技術が発達した明治時代以降のことであって、昔はどこに行くにしても船を使っての海路での移動が一般的でした。全て船で移動するならば、わざわざ佐田岬を回って佐田岬半島の北側をこれまで南側でやって来た距離(約40km)と同じ距離を戻り、さらに海伝いに松山に行くよりも、佐田岬の先端からこの海峡を渡って大分に行くほうが遥かに近いですからね。下の航空写真は東西に細長く伸びる佐田岬半島を写したものです。この佐田岬半島を境に、北側(写真の左側)が伊予灘で、南側(写真の右側)が豊後水道です(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:2003年10月30日付「佐田三崎半島」 G20180501-04210)。

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実際訪れてみると、大分では話す言葉も含め、愛媛県、特に南予地域との文化的な結び付きが色濃く感じられます。同じ四国島内の香川県や徳島県よりもむしろ近しい感じがします。こういうところは、同じ九州でも福岡県や熊本県、鹿児島県といった他県では感じにくく、大分県ならではのことではないか…と思います。

なお、関係があるかどうかは不明ですが、佐田岬半島にある西宇和郡伊方町の三崎・赤坂キクダシ古墳(旧三崎町)からは、朝鮮半島から製法が伝わったとされる須恵器が出土しています。

伊方町公式HP

愛媛県南予地域は縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけての遺跡や中世の山城が数多く残っている地域です。愛媛県の歴史や民俗を紹介する施設である愛媛県歴史文化博物館もこの南予地域の西予市卯之町(旧東宇和郡宇和町)に置かれています。特に宇和盆地からは大陸から伝わったと推定される銅鏡や銅矛・平形銅剣などの青銅器が数多く出土していて、このあたりと九州、さらには朝鮮半島をはじめとした大陸との間の密接な関係が窺えます。もし、この私の仮説が当たっているとするならば、このあたりは邪馬台国へのルート上で、重要な役割を果たしていたところだということになります。まだまだ未発掘の部分が多いようですので、その気になって探せば、いろいろと証拠は見つかるはずだと思っています。ちなみに、現在、西予市の愛媛県歴史文化博物館では、『えひめいやしの南予博2016』に関連して、「発掘 南予の遺跡Part3 ―考古収蔵庫に眠る南予の宝―」と題したテーマ展を平成29年2月26日(日)まで開催中です。

西予市の原始古代の遺跡について(西予市公式HP)

愛媛県歴史文化博物館公式HP

で、辿り着いた投馬国というのは、ズバリ、現在の愛媛県愛南町から高知県宿毛市、四万十市にかけての一帯にかつて栄えたであろう“国”。5万戸ほどの住居があったというから、当時としては相当の規模の都市です。で、驚くべきことに、ここ愛南町から高知県宿毛市にかけての一帯は縄文時代後期から弥生時代にかけての遺跡が多数出土していて、その時代、かなりの人が暮らしていたのではないかと言われているところです。写真は愛南町の平城貝塚から出土し、「平城式」と名付けられた縄文土器などが並ぶ愛媛県歴史文化博物館の会場の様子です(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:2016年5月12日付「テーマ展平城式」 G20180501-04211) 。

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現代人の感覚で考えてはいけないってことです。

愛南町公式HP

宿毛市立宿毛歴史館公式HP

ちなみに、愛媛県愛南町の平成の大合併前の町名は城辺町と御荘町でした。この田舎で城辺と御荘、ふつう考えられない地名です。古代にそこになにかがあったとしか思えません。写真は美しい宇和海の風景です。この美しい風景の中に邪馬台国への道のヒントが隠されているとしたら素敵です(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:2010年5月26日付「宇和海」 G20180501-04212) 。

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……(その4)に続きます。