2014/12/19

百姓の復権

農業従事者のことを『百姓』と言うことがあります。この『百姓』とはいったいどういう意味なのでしょうか?

『百姓』とは、文字通り“百”の“姓”ということです。“百”は“たくさんの”という意味です。そして“姓”とは“苗字”のことです。日本ではその昔、“苗字”は職業を表すものでした。“苗字”でなくても、“屋号”などで職業を表していました。我が家は苗字は越智ですが、本家は“大工屋”と呼ばれていました。代々農家で、今では大工などやっていないのに“大工屋”というのも変ですが、おそらく先祖の中には器用な方がいて、農業の傍らその地域で大工をやっていたのかもしれません。それが屋号として今に伝えられているのかもしれません。

このように、昔は地域コミュニティの中に、大工がいたり、鍛冶屋がいたり、医者がいたり…と実に様々な職業の人達がいて、それぞれの人達が自分が持つ専門知識や技量を活かして、お互いに助け合いながら農業というその地域の基幹産業を営んでいたわけです。実際、現代の「兼業農家」よりも遥かに幅の広い職業をやりながら、皆で一緒に農業を営んでいたようです。。中には気象予報を専門にした人が地域コミュニティごとにいたのかもしれません。地域ごとにお天気に関わる諺が残っているのは、きっとそのような技量を持った人がノウハウを分かりやすく伝承した名残のように思えます。

なので、農業従事者のことを『百姓』と呼ぶのです。すなわち、“農業”とは実に幅の(裾野の)広い“総合産業”であるというわけです。

そもそも我々人類が長く続いた狩猟生活から脱却し、自らの手で食糧を生産すること(すなわち農業)を覚えたことで定住生活というものが始まり、人々が集団で生活する都市が生まれ、文明が興りました。すなわち、農業は人類の文明のそもそもの原点のようなもので、あらゆる産業も農業を源流として幾つもにも専門化し、分派・発達していったものです。

学問だって同じです。いかにすれば農業の生産性が上がり、当時耕作可能であった僅かな農地で多くの収量が得られるかの研究と工夫がおそらく原点にあって、いかにして効率的に農地を拡げていくかということで土木工学が生まれ、さらには機械工学が生まれ、どうも太陽と月が農業においては重要だぞということに気付いて天文学が生まれ、自然の脅威をできるだけ避け、恵みを最大にするにはどうすればいいかを研究しているうちに気象学が生まれ、外で作業をすることで怪我や病気もすることから医学や薬学が生まれ、収穫された作物を自分達が食べるだけでなく、他の人とも交換しようということに気付いて経済学や経営学が生まれ、そうして肥大化していった都市を(人々を)いかにして1つにまとめあげて争い事がないように治安を維持していけばいいのかを考えているうちに政治学や法学が生まれ…と、農業を原点として様々な学問が生まれていったということが言えるのではないかと思います。(大変に申し訳ない言い方になってしまいますが、今の農学は学問の原点、本家本流の老舗の学問ではありますが、このようにして様々な専門性を帯びた学問が分派独立していった後に残った古典的(根源的)で狭い部分だけの学問になってしまっているということなのかもしれません。)

何が言いたいかと言うと、農業は総合産業であるということです。そして、今、そのすべての産業や学問の原点、源流、本家本流とも言える日本の農業が存続の危機を迎えているわけです。ここは再び1つに結集して、農業の危機を救ってあげようぜ!…ということです。様々な産業や学問は農業から分派独立して、より専門性を高めてきたわけですから、より強力になっている筈です。その力や知恵を農業のために結集して活かすことをやれば、日本の農業は一気に近代的なものに生まれ変わることができ、活力を取り戻すことができるのではないか…。

愛媛県の「坂の上のクラウドコンソーシアム」の取り組みについて考えている時、私はこんな夢のようなことを考えていました(^^)d


【追記】
本文でも書きましたが、『百姓』とは、元々は百(たくさん)の姓を持つ者達、すなわち有姓階層全体を指す漢語でした。

中国では古代から『百姓』という言葉があり、周代から春秋時代にかけては、部族の集団名で“姓”を持つ族長層を指す用語でした。その後、部族集団が解体し、庶民でも持つ家族名である“氏”と本来の部族の集団名である“姓”の混同が進み、庶民でもほとんど“姓”を持つようになったことから、『百姓』という言葉の意味は「天下万民・民衆一般」を指すように転化していきました。その後、今日に到るまでその意味が大きく変化することはなく、現在でも中国では『百姓』といえば、一般庶民のことを指します。

日本においても『百姓』とは、当初は中国と同じ天下万民を指す言葉でした。しかしながら、中国とは異なり、その語義は時代により微妙に変化してきています。まずは古代末期以降、多様な生業に従事する特定の身分の人達の呼称となり、具体的には支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が『百姓』とされました。この階層は現実には農業経営に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などの経営者も包括していました。しかしながら、中世以降次第に『百姓』の本分を農とすべきとする、実態とは必ずしも符合しない「農本主義的理念」というものが浸透・普及していき、明治時代以降は、一般的に農民の事を指すと理解されるようになりました。

なおこれは余談ですが、『百姓』という漢字の読み方ですが、本来の意味で用いる漢文の読み下しでは「ひゃくせい」でしたが、中世以降は「ひゃくしょう」の読みを当てるのが慣例となっています。日本固有の大和言葉では、「天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民」を意味する「おおみたから」という大変にありがたい和訓がふられていたりもします。参考までに…。

近代になり西洋近代歴史学が導入されると、マルクス主義史観(唯物史観)に代表される発展段階史観の概念に基づいて過去の日本の歴史の分析が行われるようになり、歴史的百姓身分を封建制段階における農奴身分と規定することが通説となりました。こうした歴史学の影響で『百姓』はすなわち農民、いや農奴であり、封建的社会の中で収奪される被支配民という(必ずしも日本の正しい歴史的事実とは異なる)概念が生まれてしまったわけです。 (←ここがそもそもの間違いの発端だったと私は思っています。日本を西欧や中国と同じと考えて歴史を分析したところで、間違った解釈になるだけのことです。今、歴史に興味をもって調べてみると、日本は世界でも極めて稀な特殊な国であるということに気付きはじめています。)

また、百姓身分の活動の場であった地方の村社会から人材を引き抜く形で近代的な第二次産業、第三次産業が成立し、近代的生業との対比としての古来の生業の従事者が『百姓』であるとする観念もいつの間にやら生じてしまいました。都市を洗練、田舎を野卑とする古くからの一般大衆の観念とあいまって、戦後日本社会では『百姓』を農業に従事する者に対する一種の差別的な呼称であると捉えるミョウチクリンな傾向が生じ、「百姓」=「農民」=「田舎者」=「ダサい奴」という非常に困った図式が生まれてしまいました。このため農業従事者が『百姓』と自称する場合を除き、マスコミなどでは『百姓』という表現を極力控える事が多いと聞きます。

しかしながら、現実の農業従事者は必ずしも『百姓』という呼称を差別的だと捉えているとは限らず、むしろ一部の篤農家の人達の中には、自らの職業のことを誇りに思い、敢えて『百姓』と自称していらっしゃる方々も数多くいらっしゃいます。こうした篤農家の人達から話をお聞きすると、百姓層が自ら様々な生業を兼ねていたという正しい歴史認識をお持ちの方がほとんどで、またかつては現代のようなあまりに全国的に均一化された農業ではなく各地方ごとにその地方その地方の特性に合った多様な農作物を栽培していたことへの復権にアイデンティティーを置かれている方がほとんどです。そうした方々は生業や農作物の多様性に『百姓』の“百”の字義を投影し、こうした多様性を持った農業を行う者こそが『百姓』であると定義されているようです。

この『百姓』の復権、すなわち「多様性の復活」に、日本の農業を再生する鍵が隠されているのではないか…と私は思っています。