2016/04/25

嗚呼、熊本城

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今回の『平成28年熊本地震』では、熊本市の象徴とも言える熊本城が大きな損害を受け、無残な姿に変わってしまいました。国の重要文化財に指定されている現存する熊本城の13の建築物の全てで深刻な被害が出ています。報道によりますと、全長242メートルの長塀(ながべい)は、100メートル以上にわたって倒壊。東十八間櫓(ひがしじゅうはちけんやぐら)と北十八間櫓は土台の石垣ごと崩落するなど、5つの建造物が倒壊しました。一部は隣接する熊本大神宮内の建物上に落下して屋根を突き破ったようです。往事の姿を残す城内最古の5階建ての建造物・宇土櫓(うとやぐら) を含む他の8つの建造物も、ヒビ割れ、漆喰(しっくい)の剥げ落ちが確認されるなど、一部が損壊しました。

(ちなみに、4月21日、気象庁は「4月14日21時26分以降に発生した熊本県を中心とする一連の地震活動」のことを『平成28年(2016年)熊本地震』と正式に命名しました。)

もともとの天守閣(大天守)は明治時代初期の西南戦争の折に焼失され、1960年に復元されたものですが、その大天守もほとんどの屋根瓦が剥がれ、屋根にあった一対の「鯱鉾(しゃちほこ)」も落下して失われたほか、高くなるにつれ勾配がきつくなる「武者返し」で知られる石垣も一部で大きく崩壊。大天守自体が落下しそうな危険性も出てきています。2005年に再建された飯田丸五階櫓も石垣の崩壊が続き、大天守同様、櫓がいつ落下してもおかしくない状態となっています。熊本城総合事務所は、「修復に10年以上を要する可能性がある」との見通しを明らかにしたという報道も出ていました。

熊本城は17世紀初めの安土桃山時代の末期から江戸時代の初期にかけて、豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賎ヶ岳の七本槍の1人である加藤清正が築き、「日本三大名城」の一つとして知られる大変に立派で美しい城です。別名を「銀杏城(ぎんなんじょう)」といいます。この地には中世から千葉城、隈本城と呼ばれる城が築かれていたのですが、加藤清正がこれらを取り込み、今のような形に改築したものです。「築城の名手」、特に「石垣普請の名手」と言われた加藤清正が築城した城らしく、熊本城は「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価があります。(ちなみに、加藤清正は1606年に城の完成を祝い、翌1607年に城の名称を「隈本城」から現在の「熊本城」に改めました。)

築城後、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となって熊本城に入り、江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城となりました。加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならないような状況だったようで、細川忠利が熊本城に入った時には、熊本城は現在の本丸周辺のみが整備されていただけで、二の丸の一部と三の丸の大半は未開発の状態でした。 このため細川忠利は入城後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ました。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築や二の丸の整備にも及び、さらには上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として三の丸の開発が進められました。この整備の最後は城の西端にある段山の郭の整備で、その完成は細川忠利が幕府に修繕を申し出た200年以上後の天保年間のことです。この時点で城内の櫓は途中焼失した森本櫓を除き62棟 を数えていました。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けたわけです。その意味では、熊本城は加藤清正が設計図面を描き、基礎工事をした上で、細川家が200年以上に渡って作り続けてきた壮大な城と言えます。

ちなみに、「日本三大名城」とは熊本城、名古屋城、姫路城という説と、熊本城、名古屋城、大坂城(大阪城)という説がありますが、そのどちらの説にも熊本城は含まれています。そのくらいの国の財産とも言える名城だということです。

明治維新後、熊本城に鎮西鎮台が置かれ、大東亜戦争の終戦前まで大日本帝国陸軍(第六師団)が使用しました。西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となりました。西郷軍の総攻撃2日前に原因不明の出火で大小天守などの多くの建物を焼失したのですが、この出火は西郷軍に奪われた後の脅威を恐れて、司令長官の谷干城が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けたのではないか…という説が現在では有力だということのようです。西南戦争では政府軍と西郷軍の間で有名な「田原坂の戦い」を含む激しい攻防が熊本県下で行われたのですが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、僅か4,000人あまりの籠城で、西郷軍約14,000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功しました。この戦いでは石垣の“武者返し”が大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったといわれています。この時、西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったといわれています。

私も大好きなNHK総合テレビの人気番組『ブラタモリ』の先日3月19日(土)に放映された第34回と4月2日(土)に放映された第35回の舞台は熊本市でした。特に3月19日(土)に放映された第34回では、「熊本城は“やりすぎ城”?」と題して、加藤清正が築き、“難攻不落”といわれた名城の秘密を紹介しました。私もこの両回を観たのですが、奇しくもこの『ブラタモリ』が被災前の貴重な熊本城の姿を残す最後の映像となってしまいました。“難攻不落”といわれたさしもの熊本城も、圧倒的な破壊力を持つ自然の脅威の来襲には守りきれませんでした。

その「日本三大名城」の一つと数えられている熊本城が今回の震災で極めて深刻な損害を受けています。熊本の象徴ともいえる熊本城の惨状を見て、熊本市民、そして熊本にゆかりの方々の受けたショックの大きさはいかほどのものか‥‥と思っています。少なくとも、私にとって郷里の松山城があのような姿になることは、とても堪えられるものではありません。

冒頭の写真はその名城・熊本城の天守閣の模型です。私の郷里、四国の香川県東かがわ市にあるhacomo株式会社さんが販売している段ボールを用いた企画商品です。通常のペーパークラフトと異なり段ボール製なのでハサミも接着剤も不要で、プスプスと嵌め込むだけで簡単に組み立てられます。過日、東京の某所であった香川県のイベントで目にし、いつか購入して作りたいな…と思っていたのですが、熊本城がその最初の作品になってしまいました。被災地熊本に「頑張れ!」という思いを込めて、作らせていただきました。社長室に飾って、常に熊本に思いを馳せていきたいと思っています。写真では九州産交の高速バスと熊本電鉄の路線バスという地元熊本でお馴染みのバスのミニチュアを並べて撮影しています。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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