2016/06/17

中山道六十九次・街道歩き【第1回:日本橋→板橋】(その3)

昼食を摂り、再び中山道の街道歩きに戻りました。本郷通りを北西方向に進みます。

文京区の本郷3丁目の交差点の角に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名な雑貨店「かねやす」があります。「かねやす」を興した初代・兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)は、京都で口中医をしていました。口中医というのは現代でいう歯医者のことで、徳川家康が江戸入府した際、家康に従って江戸に移住し、幕府お抱えの口中医となりました。元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」をこの地に開業しました。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店しました。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり裁判沙汰となります。これを裁いたのが有名な南町奉行・大岡越前、大岡忠相でした。この時、大岡忠相は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ…という見事な「大岡裁き(処分)」を下します。本郷の店の店名がひらがなで書かれているのはそのためです。その後、漢字で屋号を書いた芝の店は廃業し、この本郷にあるひらがな屋号の「かねやす」だけが残りました。

1730年(享保15年)、江戸の町に大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許しました。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれたというわけです。なお、1818年(文政元年)に江戸の範囲を示す朱引が定められたのですが、これは「かねやす」よりはるか北側に引かれました。東京(江戸)という都市部において度重なる大火や地震、戦災を経ても同一店舗が400年にわたって存在するのは珍しい事例です。なお、現在は7階建てのビルディングとなっており、2階以上にはテナントが入居しています。そのビルの入り口付近に前述の「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が書かれた碑が掲げられています。

本郷三丁目交差点をさらに真っ直ぐに進むと右手に東京大学の本郷キャンパスが見えてきます。ここは江戸時代、北陸の雄藩・加賀藩前田家の江戸屋敷があったところです。中山道は、約30の大名が参勤交代に利用したと言われています(一方、東海道を利用して参勤交代を行った大名は約150と言われています)。その中で最大の石高の領地を持つ加賀藩は、江戸藩邸の上屋敷を中山道沿いの本郷に、下屋敷を板橋宿に置きました。なるほど、加賀藩前田家は外様大名随一の規模を誇る北陸の雄藩ですので、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と言われた現在の本郷三丁目交差点より少し外側で、しかも中山道沿いに江戸藩邸を置いていたのには、そういう理由があったのですね。明治維新後、江戸幕府所有である拝領屋敷は江戸城などとともに明治政府に接収され、跡地は主要官庁や大学や後に企業の土地などに利用されたのですが、このうち加賀藩の江戸上屋敷の敷地は東京帝国大学となりました。現在の東京大学本郷キャンパスの前の通りは国道17号線(中山道)なのですが、通称で「本郷通り」と呼ばれています。また、かつての中山道に面して建つ加賀藩上屋敷の御守殿門(赤門)は、今では東京大学の象徴のようになっていて、国の重要文化財に指定されています。

20160617-1

(余談: 市ヶ谷にあった尾張藩徳川家の上屋敷跡が現在の防衛省の庁舎で、赤坂にあった紀州藩徳川家の上屋敷跡が迎賓館(旧赤坂離宮)、水戸藩徳川家の上屋敷跡が小石川後楽園、東京ドーム、後楽園遊園地になっています。永田町にある国会議事堂は広島藩浅野家の中屋敷の跡地に建てられたもので、霞ヶ関にあった同じく広島藩浅野家の上屋敷の跡地は国土交通省の庁舎が建てられています。現代の地図を眺めながらこうしたことを調べてみると楽しいです。)

国道17号線(中山道)は東大農学部前の本郷追分で本郷通りから分かれて左に曲がります。この本郷追分で曲がらずに本郷通りを真っ直ぐ進む道路が、前述の日光御成道(岩槻街道)です。ここからの中山道(国道17号線)は旧白山通りと呼ばれています。中山道(旧白山通り)は本郷追分で左折したのですが、すぐに北西方向に進路を変え、中山道(旧白山通り)と日光御成道(本郷通り)は並行して進みます。この本郷追分に「追分一里塚」があります。日本橋を出てからちょうど一里(約4km)です。いろいろ見学しながら時間をかけてここまでたどり着いたので、エッ!まだたったの4kmしか歩いてないの!?‥‥とも思いましたが、とにもかくにも4km歩いてきました。この追分一里塚の目の前に高崎屋さんという酒屋さんがあります。この高崎屋さん、宝暦年間(1751年〜1763年)の創業ということですから、250年以上の歴史を誇る古い酒屋さんなのです。江戸時代には酒屋と両替商を営み、「現金安売り」という当時としては画期的なビジネスモデルを打ち出し、大いに繁盛したのだそうです。現在の建物も明治時代に建てられたものだそうで、なかなか味わいがあります。

20160617-2

文京区白山にある大円寺です。近くにある天台宗円乗寺には井原西鶴の名作『好色五人女』などで有名な『八百屋お七』のものとされる墓があり、その円乗寺からさほど離れていない距離にあるこの大円寺にも、お七ゆかりの地蔵尊が祀られています。この『八百屋お七』の物語ですが……、お七の生家は駒込片町(一説によると本郷追分とも)の有数な八百屋でした。天和2年(1682年)12月の天和の大火で家が焼け、菩提寺であるこの円乗寺に避難したのですが、避難中に円乗寺の小姓山田佐兵衛と恋仲になります。やがて家は再建され、お七も家に戻ったのですが、佐兵衛会いたさに付け火をしてしまいます。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年(1683年)3月に火あぶりの刑にされてしまいました。数えで16歳だったそうです。これにはいろいろと異説があるようですが、だいたいこういうお話です。この大円寺には焙烙(ほうろく)地蔵という地蔵尊がお七の供養のために祀られています。寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きの縁の浅い土鍋)を頭に被り、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされています。この地蔵尊は享保4年(1719年)にお七供養のために渡辺九兵衛という人が寄進したとされています。

20160617-3

ここからは旧白山通り(国道17号線)を約2kmほど、ただ黙々と巣鴨の方向に歩きます。千石駅前で左手から現在の白山通りが合流してきて、一気に交通量が増えます。JR巣鴨駅の手前に徳川慶喜の巣鴨屋敷跡の碑が建っています。徳川幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜は、慶応3年(1867年)の大政奉還後、鳥羽伏見の戦いで敗れて新政府から慶喜追討令が出されたのを受けて、上野の寛永寺、水戸講道館で謹慎した後、静岡で謹慎し、謹慎が解除された後もしばらく静岡で暮らしました。東京に戻ったのは明治30年(1897年)のことでした。その明治30年から4年間、徳川慶喜はこの巣鴨の屋敷に住んでいました。徳川慶喜の巣鴨の屋敷は、中山道(現在の白山通り)に面して門があり、奥行きは約200mもある立派な屋敷でした。庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたと言われています。しかし、明治34年(1901年)に、小日向第六天町(現文京区小日向1、2丁目)に転居しました。徳川慶喜の小日向の屋敷跡は、現在国際仏教学大学院大学となっています。転居した理由は、巣鴨の屋敷のすぐ脇を鉄道(現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのことだそうで、まぁ〜、少なくとも“鉄チャン”じゃあなかったようです。ちなみに、徳川慶喜は、第六天町に転居した後、大正2年(1913年)に享年77歳でなくなっています。

20160617-4

徳川慶喜の巣鴨屋敷跡の碑を過ぎてJR山手線の線路を高架橋で渡ったところに染井吉野(ソメイヨシノ)発祥の地の碑が建っています。サクラの開花予報や開花宣言で有名なサクラの品種“ソメイヨシノ”は、江戸時代末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の豊島区駒込、JR巣鴨駅付近のこの地)に集落を構えていた造園師や植木職人達によって生み出され育成されたサクラの園芸品種で、エドヒガン系の桜と日本固有種であるオオシマザクラの交配で生まれたとされています。明治の中頃より、サクラの中で圧倒的に多く植えられた品種であり、今日では、前述のように、テレビをはじめとしたメディアなどで「桜が開花した」というときの「桜」はソメイヨシノのことを意味するなど、現代の観賞用のサクラの代表種となっています。

20160617-5

「巣鴨地蔵通り商店街」の入り口の看板が見えてきたら、すぐ左手に真性寺があります。真性寺が真言宗豊山派の寺院で、山号は医王山。御本尊は薬師如来です。正徳4年(1714年)に造られた江戸六地蔵の4番目の大きな銅製の地蔵菩薩の座像が鎮座しています。その地蔵菩薩に旅の無事をお参りして、巣鴨地蔵通り商店街に入っていきます。

20160617-6

“お婆ちゃんの原宿”として有名な巣鴨のとげぬき地蔵尊(高岩寺)の前の参道は巣鴨地蔵通りと呼ばれていて、商店街になっていて人通りも多く、クルマも通れないような道なのですが、実はここが旧中山道なのです。“お婆ちゃんの原宿”として有名なところなので、この日も商店街には多くの年配者がやって来ていました。店先にはいかにも年配者向けだと思われる様々な商品が並べられています。妻が「そろそろこういう場所にも慣れておかないとね」って私に向かって言うので、「アホか。まだまだ俺は来ないぞ!」と抵抗を示しておきました。「あっ、赤い色の下着がいっぱい売ってる。パパは還暦なんだから、あの店で真っ赤なパンツでも買ってあげようか?」、「いらん! そんな派手な色のパンツ、誰が穿くか!」(♯`∧´)

とげぬき地蔵として知られる高岩寺は延命地蔵尊が御本尊。平成4年に新しくなった「聖観世音菩薩」も洗い観音として有名です。この「聖観世音菩薩」、自分の悪いところをタワシでこすって洗うと治る‥‥という迷信が生まれたのですが、長年にわたってタワシで洗っていた以前の「聖観世音菩薩」は顔などが擦り減ってしまったため、新しい「聖観世音菩薩」ではタワシの使用は禁じられ、布で洗うことにしたのだそうです。この日も「聖観世音菩薩」の前には具合の悪いところを洗うための長〜〜〜い行列ができていたので、洗うのは断念。今のところ具合が悪いと自覚しているところも特にないので、まっ、いいっか。それよりも、とげぬき地蔵名物の塩大福を購入して食べることにしました。このとげぬき地蔵名物の塩大福、そんなに甘くなくて美味しくいただけました。うん、これは爺さん婆さん達にウケる味です。

20160617-7

20160617-8


……(その4)に続きます。