2017/06/05

中山道六十九次・街道歩き【第12回: 安中→松井田(五料)】(その6)

下町という宿場町らしい名称の交差点に差し掛かりました。この先あたりから松井田宿のようです。

20170605001 20170605002

この下町郵便局(跡地)あたりに江戸方の木戸(下木戸)があって、下町交差点あたりから徐々に宿場町らしい雰囲気の街並みになってきて、松井田宿に入ります。

松井田は江戸時代に宿場が成立する以前から松井田の庄として開けていたところで、戦国時代は関東地方の守りの最前線という役割を担っていました。また天文20年(1551年)に安中越前守忠政が松井田城を築城して以降は城下町でもありました。

松井田宿は江戸・日本橋から数えて16番目の宿場で、天保14年(1843年)の記録によると、松井田宿の人口は1,009人、家数は252軒、本陣2、脇本陣2、旅籠14軒…。本陣と脇本陣を2軒ずつ構えるわりには旅籠が14軒と少ないのが特徴で、規模としては比較的小さな宿場だったようです。次の坂本宿との間には碓氷関所が控えていて、面倒な関所は陽があるうちに早いところ越えてしまおうという心理が働くのか、松井田宿を足早に通過した旅人も多かったようです。「雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らじゃ越しましょ坂本へ」と上州馬子唄にも歌われ、碓氷関所を目の前にした旅人の心境が感じ取れます。

その一方で、松井田宿は中山道と妙義神社参道、榛名神社参道とが交わり、信州各藩から集まる年貢米の中継地、集積地となっていました。年貢米の半分が松井田の米商人によって換金され、残り半分は【第10回】で通った倉賀野宿まで中山道を使って陸路で運ばれ、倉賀野宿から江戸に船便で運ばれていました。そのため、「米宿」と呼ばれ、商業が大いに栄えた宿場でした。

20170605003 20170605004

下木戸跡を通り過ぎてすぐの下町交差点付近に建つ建物が脇本陣の跡らしいのですが、何の痕跡も表示も残されていません。

20170605005

ここを左に折れると妙義山への道となります。

20170605006

松井田宿も白い漆喰の蔵造りの家をはじめ、歴史を感じさせる古い建物が今も幾つも残っています。

20170605007

下木戸跡近くにある脇本陣の跡です。前述のように松井田宿には2軒の脇本陣が置かれていたのですが、そのうちの1軒です。

20170605008 20170605009

前述のように松井田宿の本陣は2軒置かれ、そのうちの一つ金井本陣はこの群馬県信用組合の敷地にありました。残念ながらその痕跡をとどめるものは何も残っていません。本陣の旧中山道を挟んで向かいにある山城屋酒店が、小田原外郎(ういろう)の分家・陳道斎の店の跡で、かつては旅人を相手に外郎を売る店が出されていました。そのすぐ先の仲町交差点を右折する道が、榛名山へ向かうかつての榛名道です。その追分(分岐点)に道路元標が設置されています。

20170605010 20170605011

すぐ先の仲町交差点を右折する道が、かつての榛名道です。交差点角に「畑中医院」という古い看板が掲げられた立派な旧家が建っています。向かい側には伊勢屋辻中薬局や柏屋呉服店などがあり、松井田には古くからの屋号が、そのまま商店名になっている店が多いことに気付きます。

20170605012

このミツヤ洋装店のあるあたりが松井田宿のもう一つの本陣・松本本陣の跡であるらしいのですが、こちらもその痕跡は全くとどめていません。

20170605013

「上州櫓造り」の大きな家が街道沿いに建っています。

20170605014

後ろを振り返ると、緩やかな微妙なカーブが旧街道らしさを漂わせています。ここまで歩いてきて、このような緩やかなカーブを見ると、往時の様子がイメージできるようになってきました。かなり街道歩きのマニア度が高まってきた…ってことでしょうか。

20170605015

「松井田」と書かれた横断歩道橋の直前に高札場の跡があります。

20170605016 20170605017

この横断歩道橋のあたりに松井田宿の上木戸、すなわち、京方の木戸(入口)がありました。すなわち、ここまでが松井田宿でした。

20170605018 20170605019

20170605020

ここから右に入った奥に、松井田八幡宮があります。この松井田八幡宮、創建年代などは明らかではないのですが、寛永年間(1624年~1644年)に再建されたとされる本殿が群馬県の文化財に指定されています。本殿は桃山様式の残る三間社流造で、幣殿を挟んで拝殿につながる一種の権現造風になっているのだそうです。ただ拝殿は後補の様で、拝殿の直前に県内では珍しい割拝殿が建ち、鎌倉時代の様式を留めているのだそうです。また、建久8年(1197年)に源頼朝が立ち寄ったという記録が残っているのだそうです。ただ、今回は時間の関係で遠くから眺めるだけで、立ち寄るのはパスしちゃいました。

20170605021 20170605022

松井田歩道橋の先からは新堀(にいぼり)という集落に入ります。

突然、重厚な雰囲気の建物が目に入ってきました。この建物は、松井田商工会館です。昭和13年(1938年)に松井田警察署として建設されたものですが、その後松井田商工会が買い受け、現在に至っています。木造2階建てですが、外壁はスクラッチタイルを貼り付けた和洋折衷のモダンな建物です。戦前の建築だけあって、周囲を圧倒するほど重厚な雰囲気があります。

建物の横の石碑は、松井田商工会の設立にあたって尽力し、初代会長に就いた吉田喜代司氏を顕彰した石碑です。石碑には吉田喜代司氏は成績優秀であるがゆえに資産家の女婿になり、まずは印刷会社の社長となり、次に地元に金融機関を設立。その後、行政に転じて、町助役から町長を務め、高校設立のために私財を寄付したほか、前述のように松井田商工会の設立にあたって尽力し、初代会長に就いた…というようなことが書かれています。この碑文は地元選出の衆議院議員で内閣総理大臣にもなられた福田赳夫氏が書かれたようです。

20170605023 20170605024

松井田商工会館のモダンな建物から新堀交差点を経て、先に進みます。

20170605025

「電話90番」ですか…、電話がダイヤル即時化される前の番号ですね。元電電公社マンなので、こういう表示を見ると、嬉しくなってしまいます。

20170605026

上州櫓造りの立派な家の前にやって来ました。松井田宿の金井本陣に繋がる新堀金井家の建物です。

20170605027 20170605028

20170605029

松井田宿の金井本陣は取り壊されて、今は空き地になっているのですが、この新堀金井家には往時を偲ばせるお宝の品が残されているということなので、ご主人(19代目当主)のご厚意で、そのお宝を見せていただくことにしました。そのお宝というのがこれ! 江戸時代に作られた中山道の道路地図です。江戸日本橋から京都三条大橋までの道中の様子が詳しく描かれています。凄いのは街道筋の建物の1軒1軒がもれなくすべて描かれていること。「これが我が家(新堀金井家)です」とご主人が指をさして示してくれました。凄いです。右の写真は浦和宿から大宮宿に至る周辺を撮影したもので、さいたま市中央区の我が家は“落合新田”と書かれたあたりの下に位置しています。

20170605030 20170605031

さらに凄いお宝がこれ! 道中持ち運びができるハンディタイプの中山道の道路地図(道中案内図)です。旅人は道中、このハンディタイプの道中案内図を懐に入れて、中山道を歩いていたのでしょう。相当に使いこまれている様子で、まさにお宝と呼ぶに相応しい一品でした。「開運!なんでも鑑定団(テレビ東京)」に出展したら、いったい幾らくらいの値がつくのでしょうね。ホント、素晴らしいものを見させていただきました。私の好奇心にジャストミート!…って感じです。本当はもっとゆっくりとお宝を見させていただきたかったのですが、時間の関係でそれは諦めざるを得ませんでした。

20170605032

新堀金井家の玄関を入ったところには、昔使っていたであろう生糸を紡ぐ道具や、機織り機、背負子、籠等が置かれていました。展示しているというより、無造作に置かれている感じです。そこが生活感があって、かえっていい感じが出ています。ちなみに、新堀金井家は今も金井家の住居として使われています。

20170605033 20170605034

新堀金井家を後にして、中山道を先に進みます。すぐ先にある西松井田駅前交差点の右側に松井田城址の案内表示があります。

20170605035 20170605036

この松井田城は諏訪城・小屋城・霞ヶ城・堅田城ともいわれ、松井田宿の北方の山の尾根にある山城で、正しくは、この場所には城主・大道寺政繁の居館があったと伝わっています。松井田城の北側には碓氷道と東山道が通り、南側には中山道が通る交通の要衝に位置していた城でした。また、碓氷峠に備える重要な軍事拠点の役割も担っていました。そのためこの城は戦国時代、関東平野の覇権を窺う武将達の間で凄まじい争奪戦が繰り広げられた城でした。歴代の城主を列挙すると、まず安中忠政(上野・越後・伊豆国の守護であった山内上杉氏の家臣)、小山田虎満・昌成(甲斐国武田氏の家臣)、後閑氏(後北条氏に従属)、津田秀政(尾張織田氏の家臣)、大道寺政繁(後北条氏の家臣)と目まぐるしく変わりました。この顔ぶれを見るだけでも、戦国時代末期の様相を窺い知ることができるかと思います。

ちなみに、松井田城最後の城主である大道寺氏は後北条氏の祖である北条早雲の頃から仕えた由緒正しい家柄の一族で、代々宿老的役割を担った一族です。その末裔である大道寺政繁は北条家三家老の一人として、北条氏康・氏政・氏直の三代にわたって仕え、三増峠の戦いや神流川の戦いなど、後北条氏の主要な合戦のほとんどに参戦しました。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、前田利家、上杉景勝、真田昌幸等の北国勢約35,000を相手に、松井田城に立て籠もり、徹底抗戦。しかしながら、なにせ多勢に無勢。1ヶ月以上の籠城戦の末、落城間際についに城を開城し降伏しました。その後、豊臣方に与し、案内役として豊臣軍の先陣を務めさせられ、忍城攻めをはじめとして、武蔵松山城、鉢形城、八王子城と北条氏の支城攻略に加わったのですが、小田原城が陥落すると、北条氏政、氏照親子とともにその開戦責任を秀吉に咎められ、切腹を命じられます。北条氏から豊臣方に寝返った大道寺政繁だったのですが、結局は主君であった後北条氏と命運を共にすることになりました。

城主・大道寺政繁の居館があったと伝わっているこの一角に、小田原の後北条氏の家臣で松井田城主だった大道寺政繁の菩提寺・補陀寺(ふだじ)があります。この補陀寺、かなり立派な曹洞宗の寺院で、旧中山道に面して立派な山門が建っています。山門に書かれている文字は「関左法窟」。これは“関東一の道場” という意味で、その名に恥じないくらいにこの寺院からは何人もの名僧を輩出しているのだそうです。ちなみに、加賀藩前田家の大名行列がこの補陀寺の門前の中山道を通る時、大道寺政繁の墓は“悔し汗”をかくと伝わっています。そりゃあそうだ、いくらなんでも切腹はおかしいですよね。降伏後は豊臣軍の先陣として命がけで戦ってきたわけですから、理不尽というものです。

20170605037

“関東一の道場”と言われる補陀寺の中に入って見てみたかったのですが、時間の関係でパスです。



……(その7)に続きます。