2017/07/03

全国の越智さん大集合!(追記編)



【追記1】
JR今治駅では、「ゆるきゃらグランプリ2012」でブッチギリの優勝を果たして、愛媛県今治市を一躍全国区の都市にまで押し上げた“ゆるきゃら”の『バリィさん』が見送ってくれました。『バリィさん』はニワトリ。来島海峡大橋を模したトサカとタオルでできた腹巻、腹巻に挿した船の形をした財布は今治の象徴ってのは分かるけど、そもそもなんで市のキャラクターがニワトリなの?…と不思議に思われる方も多いかと思いますが、実は今治は「今治流」とでも呼ぶべき特徴的な焼き鳥で、知る人の間ではメチャメチャ有名な街なんです。人口約16万人という都市の規模を考えると、市内には異常なくらいに焼き鳥屋さんがいっぱいあります。

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今治の焼き鳥の特徴は、鶏肉を竹串に刺して備長炭などの炭でじっくりと時間をかけて“炙る”一般的な焼き鳥とは根本的に異なり、鉄板の上で焼くことにあります。まさに“焼き鳥”。これぞ、文字通りの“焼き鳥”。しかも、“プレス”と呼ばれる取っ手付きの特殊な鉄板で、上から押し潰すように押さえ込みながらギューギューっと焼くので肉からは余分な脂が出ていき、中はジューシーで外はカリッと焼きあがるのが特徴です。使う鶏肉にも特徴があって、ブロイラー育ちの若鶏ではなくて、基本、使うのは“親鶏”。なので、「バリィちゃん」や「バリィくん」ではなくて、敬意を払って「バリィさん」なんです! 最初に「バリィさん」を見た時、「いやはや、そう来ますかっ!」…って私はすぐに思いました。

それにしても、いつも思うのですが、『バリィさん』ってやたらと余白の部分が多い“ゆるきゃら”ですよね。このように無駄とも思える余白の部分が可愛さを醸し出す“ゆるきゃら”って、他に例を見ませんよね。

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JR四国が平成26年(2014年)6月に営業運転を開始した8600系直流特急形電車です。予讃線(高松駅~宇和島駅間)で使用されている2000系ディーゼル特急列車の老朽化に伴い、その置換え用として登場した特急形電車で、JR四国における特急形電車の新製は8000系電車以来21年ぶりのことです。キャッチコピーは「SETOUCHI STREAM EXPRESS」、すなわち「瀬戸の疾風」です。海岸線を走る区間が長いためステンレス車体を用い、また予讃線は曲線区間が多いので、速度向上のため、台車枠と車体の間にある左右の空気ばねの内圧を制御して車体を傾斜させる「空気ばね式車体傾斜方式」を採用しています。外観のデザインは「レトロフューチャー」をコンセプトに、ノスタルジックな未来特急を意識したものになっており、黒い円形の先頭形状は蒸気機関車をモチーフにしたもので、列車の力強さ・ダイナミズムを表現しています。

私は今回の今治駅から松山駅の移動で初めて乗りましたが、なかなか快適でいい車両です。JR四国さんは高速バス網の充実や少子高齢化の影響で旅客の減少傾向が続いていて、経営的にも大変厳しい状況に置かれているようですが、是非頑張っていただきたいものです。



【追記2】
さっそく、『古代越智氏の研究』(白石成二著:ソーシァル・リサーチ叢書・創風社出版 2010年11月発売)という本を入手して、“大人の自由研究”を少しずつ始めています。著者の白石成二さんは1952年愛媛県今治市伯方町のお生まれ。1974年立命館大学をご卒業後、愛媛県の県立高校に勤務。この本を出版された時には今治工業高校の地歴・公民科の教諭をなさっておられました。ソーシァル・リサーチ研究会代表、永納山城跡調査指導委員会委員という肩書きもお持ちのようで、地元今治市在住の郷土史研究家の方のようです。

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今回の『全国の越智さん大集合!ツアー』を企画していただいたtsunaguプロジェクトの大橋理事長もそのお一人ですが、地元で郷土史を研究なさっている方々の間でも、越智氏族はその名称の謎に始まって、約2000年という長い歴史がありながら、日本の歴史の表舞台にほとんど登場することがなかった謎の一族として、大いに探究心をくすぐる存在のようです。その氏族の一員とすると、ちょっと嬉しいですね。

それにしても『古代越智氏の研究』ですか…。まさにど真ん中の直球って感じの題名です。説明文には、語り継がれた栄誉ある「越智」の名に込められた意味を、多様な「海の道」の視点や地域史の立場から解明し、古代伊予国の最大豪族である越智氏の実像に迫る労作……と書かれています。 ページ数も多く、やたらと人名ばかりが並んでいるので、現在、読むのに苦戦中です(´・_・`)



【追記3】
最後に、私なりの理系のアプローチで大山祇神社の謎に迫ってみたいと思います。

前述のように、大山祇神社は大三島南部の旧上浦町瀬戸にあった横殿宮から現在地の宮浦に遷宮されたのですが、その時期は大山祇神社に伝わる『三島宮御鎮座本縁』によると、養老3年(西暦719年)のことであるとされています。大宝元年(701年)に遷宮に向けての造営が始まり、霊亀2年(716年)に16年をかけて造営が終了。養老3年(西暦719年)に遷宮の儀が執り行われました。この瀬戸から宮浦への遷宮の意味を類推するためには、まず当時の時代背景を知る必要があります。

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飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営等により律令国家の礎を築いた持統天皇(女帝)が、孫にあたる第42代の文武天皇に譲位したのが西暦697年のこと。その後、持統天皇は幼い孫の文武天皇を補佐するため初の太上天皇(上皇)になるのですが、大宝2年(702年)、病により崩御なさいます。その後は持統天皇(女帝)の後を継いだ文武天皇(在位697年~707年)、第43代の元明天皇(女帝:持統天皇の異母妹で、文武天皇の母:在位707年~715年)、第44代の元正天皇(女帝:元明天皇の娘:在位715年~724年)…と女帝が続いた時代で、この間、元明天皇在位中の和銅3年(西暦710年)には藤原京から奈良の平城京への遷都が行われました。このように白鳳大地震(西暦684年)からの復興が進み、律令国家としての基礎が固まりつつある時代でした。

その一方で、白村江の戦い(西暦663年)前後の国際的緊張の高まりの中で、朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威に備えるため、西日本各地の要衝に古代山城と呼ばれる防御陣地が次々と築城されていったのもこの時期でした。愛媛県今治市の近郊でも西条市との境に永納山城という古代山城の跡があり、現在発掘調査が実施されています。

国史跡 永納山城跡(西条市HP)

そういう中で、この“しまなみ海道”沿いの芸予諸島の島々の国防上の価値というものが大きくクローズアップされたとしても、なんらおかしいことではありません。朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威は間違いなく海路、それもこの瀬戸内海を大船団を組んで西から東の方向にやって来ます。日本地図を今一度ご覧になればどなたでもすぐに気がつくことではありますが、そうした朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威に対する大和朝廷の“最終防衛ライン”をこの“しまなみ海道”沿いの芸予諸島の島々に設定するということは極々当然のことのように思えます。で、その芸予諸島のちょうど真ん中に位置する島が大三島。“しまなみ海道”の島々では一番西側に位置し、地図をご覧になるとお分かりいただけるように、ここは四国側は高縄半島の先っぽの大角鼻が突き出し、広島県と愛媛県の間の芸予海峡ではもっとも幅が狭くなっているところに位置します。西からやって来る朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威を待ち受けるには、ここしかない!…と思えるほどの絶好の場所にあります。

実際、明治時代の日清戦争当時、日露戦争を予感した大日本帝国陸軍がロシア海軍の侵攻を防ぐため、明治32年(1899年)から2年間の突貫工事で、大三島を含む忠海海峡と来島海峡を結ぶこの線上に築いた「芸予要塞」と呼ばれる海岸要塞があり、今も今治市沖の来島海峡に浮かぶ小島(おしま)という小さな島には砲台や赤煉瓦の兵舎、火薬庫等の施設が当時のままの姿で残っています。

公益社団法人 今治地方観光協会HP

まぁ~、芸予諸島を海軍の艦隊に喩えれば、司令塔とも言える“旗艦”に相当する位置にある島が大三島ということです。なので、大和朝廷としてはこの大三島を国防上の一大軍事拠点としては整備しようとしたのではないか…ということは十分に推察されます。

その時に、大三島の中で大和朝廷の最終防衛の拠点を置くのに相応しいところとして目を付けた場所が島の西側にある宮浦だったのではないでしょうか。朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威は間違いなく西からやって来ることから、西側が海で、しかも大船団を停泊させることができる大きな湾(入り江)になっているところに軍事拠点を置く必要があったので、宮浦は最適な場所でした。横殿宮がある瀬戸は大三島の南東部にあり、東側が海で、目の前は伯方島との間の潮の流れが速く狭い鼻栗瀬戸。ここではじっと閉じ籠って身を潜めて守るには適していても、朝鮮半島や中国大陸からやって来るであろう大船団を真正面から待ち受けて、立ち塞がるには不適なところです。ですから、大三島の中心地を瀬戸から宮浦に移す必要があったのではないかと思われます。これにより宮浦への遷宮が行われ、そこを中心として最終防衛ラインとしての整備が行われたのではないかと私は推察しています。同じく7世紀の後半に、九州の筑前国に設置された外交と防衛を主任務とする地方行政機関「太宰府」と同じような位置づけのところだったのではないでしょうか。九州の太宰府が大和朝廷の最前線基地とするならば、“しまなみ海道”の大三島は最終防衛ラインの中心として整備されたところ…という感じだったと私は思っています。

このように、大山祇神社って今でこそ神社という名称が付けられて宗教的色彩が濃い施設になっていますが、建設された当初はただの宗教施設として建てられたものではなく、朝鮮半島や中国大陸からの脅威の来襲に備えるための極めて重要な軍事施設として建てられたものだったのではないでしょうか。そうでないと、周囲を海で囲まれた瀬戸内海の島にこれだけ大きな施設を建設する意味・目的というものをなかなか見いだすことができません。これだけの施設を建設するためには、当時としては国家的とも言える相当な量の労働力の投入を必要とした筈ですからね。

本文でも書きましたように、大山祇神社の造営が終了したのが霊亀2年(西暦716年)。16年をかけての造営が終了したという記録が残っています。そして遷宮の儀が執り行われたのが養老3年(西暦719年)。これは藤原京から奈良の平城京への遷都が行われた和銅3年(西暦710年)の後ってことになります。それも6年~9年という実に微妙な時間的なズレがあるように思えます。私の推測では、平城京の建築に携わった大量の人々が、次にここ大三島の大山祇神社の建設のほうに駆り出されたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

日本の人口って、現代の歴史人口学の研究者の推定によると、縄文時代後期では約30万人、弥生時代後期で約60万人。8世紀に入って稲作が全国各地に普及した奈良時代においてもせいぜい450~650万人。日本の人口が1,000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられているのだそうです。人々が暮らしていく上で必要となる食料の確保の仕事(農業、漁業)もありますから、この奈良時代の450~650万人のうち建設業に携わっていたのはせいぜい1万人ってところではないでしょうか。しかも、今のように大型重機をはじめとした建設機材が整っていない時代においては、建設工事は主として人海戦術により行われたものでした。なので、高度な大型の神社建築が行えるような中核技術者はごく僅かなもので、当時の日本社会においては“なけなしの貴重な存在”だったように思います。

その貴重な高度建築技術者を瀬戸内海の島の宗教施設の建設に振り向けたとはとても思えません。繰り返しになりますが、朝鮮半島や中国大陸からの脅威の来襲という国家の存亡に関わるような社会的不安がある中で、優先順位が上にあるのは少なくとも宗教施設の建設ではなかった筈ですから。大和朝廷の新しい首都を建設した後は、その首都を守るための防衛ラインの整備を早急に行うというのが通常の考え方で、それは今も昔も変わらないように思います。大山祇神社って建設された当時はそういう軍事的な性格を色濃く持った施設だったのではないか…と私は推察しています。だとすると、大山祇神社が日本国の“総鎮守府”と呼ばれるのも、そういう背景があるからではないか…と思われます。

そうなると、大三島の大山祇神社が西側を向いて建っているのも説明がつきますし、諸山積神社に十六社が接続する形をとる「十七神社」のことも説明がつきます。16の神社とは、司令部たる大山祇神社を中心にして、その大山祇神社を守るように芸予諸島の越智七島の浦処々に設けられた出先の16の防御陣地のことだったのではないでしょうか (大三島の大山祇神社にある「十七神社」は、各陣地の連絡員の司令部での居室のようなところ?)。また、大三島が“神の島”と呼ばれて人々が容易に接近することを妨げたのも、機密にすべき軍事上の施設が幾つもそこにあったからではないか…とも思えてきます。

また、大山祇神社の注連縄(しめなわ)が通常の神社とは反対向きの“右綯え(みぎなえ)”なのは、おそらくこのあたりの海峡で発生する渦潮を表しているのではないでしょうか。北半球における渦潮の向きは台風(低気圧)の気流の渦と同じく右回り(右旋)ですからね。その渦潮は、昔の人にとっては“龍”がいるように思えたから、大山祇神社には龍に関する伝承が残されているのではないか…と私は思っています。渦潮という自然の現象までをも大きな武器にして大和朝廷を守る最終防衛ライン。そこの守備を任されたのが物部の姓(かばね)を天皇からいただいた越智氏族……、こういう風に捉えることもできるのではないかと、私は理系のアプローチにより推察しています。

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朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威は、必ず瀬戸内海を通って来襲してくるってわけではなく、日本海を通ってやって来ることだって十分考えられます。大山祇神社が瀬戸内海ルートでの最終防衛ラインだとするならば、日本海ルートの防御陣地として建設されたのが出雲大社(いずもおおやしろ)と考えることもできるのではないでしょうか。

現在、出雲大社の名称で知られる島根県の杵築大社(きずきのおおやしろ:出雲大社と改称したのは明治4年(1871年)のことです)は日本最古の歴史書といわれる『古事記』にその創建が記されているほどの古い神社ですが、『日本書紀』には、あの斉明天皇が斉明5年(659年)に出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた…という記述があります。斉明天皇は百済からの救援要請を受けて朝鮮半島に出兵を決めるのですが、その第1陣の派遣が斉明7年(661年)。有名な白村江の戦いは天智2年(663年)のことです。この時代背景から考えると、百済への第1陣派遣の2年前の西暦659年に命じられた出雲の杵築大社の修造は、間違いなく軍事拠点としての整備だったように私は推察しています。

地図をご覧いただくとお分かりのように、出雲大社は島根県の北東部に突き出た島根半島の西側の付け根付近にあります。島根半島の西端は日御碕(ひのみさき)。出雲大社はその日御碕から海岸線が湾形を描く内側に位置しています。ここも朝鮮半島や中国大陸からやって来るであろう大船団を待ち受けるには絶好の位置です。その先は日本海沿岸では若狭湾まで適当な場所はなく、その若狭湾だと藤原京や平城京に近すぎますので、どうしてもその手前で防御陣地を構えて待ち受ける必要があります。そうなると、島根半島の西側の付け根にある出雲大社の位置が絶好の位置となるわけです。

また、出雲大社の本殿は、今でも神社建築の中では日本一の規模を誇りますが、平安時代より前の時代には現在の本殿の約2倍の高さ、48メートルもの高さがあったといわれています。日本海に面した出雲の地になぜこれほどまでに大きな社殿を必要としたのかの謎も、そこが日本海を航行する船舶に対する見張りのための櫓の役目を果たすところだったのだとしたら、理系の私としては納得するところです。

出雲大社(杵築大社)と大山祇神社を結ぶ線を大和朝廷の最終防衛ラインだったのだとすると、そのラインの延長線は高知県高知市あたりで太平洋に出ます。ここにある地名が高知市朝倉。私の本籍地である今治市の朝倉(旧越智郡朝倉村)、九州福岡県の大宰府のすぐ近くにある福岡県朝倉市。朝倉という地名は斉明天皇に所縁(ゆかり)の地名であるということは前述のとおりですが、この高知市にも朝倉という地名が残っていて、斉明天皇にまつわる様々な伝承が残されています。高知市も土佐湾の一番奥に位置しています。この高知市朝倉には斉明天皇を主祭神とした朝倉神社という立派な神社があります。おそらくこの高知市の朝倉は瀬戸内海や日本海を通らずに太平洋・紀伊水道を迂回してやって来るかもしれない異国の大艦隊を迎え撃つための重要な防衛拠点であったのではないでしょうか。図をご覧になるとお分かりいただけると思いますが、奇しくも出雲大社(杵築大社)と大山祇神社、高知県の朝倉がほぼ一直線上に並んでいるのです。まさに、朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威に対する大和朝廷の最終防衛ラインがこの線だった…という証しのようなものですね。

また、日本にはもう1つ有名な古い歴史を持つ大きな神社があって、それが伊勢神宮。伊勢神宮において有名な式年遷宮は、天武天皇が定め、持統4年(690年)に第1回が行われたことは本文で述べたとおりです。持統天皇が日本史上最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城である藤原京を造営し、そこに首都を遷都したのは持統8年(694年)のことですから、持統4年(690年)ということはそれに先立つ4年前のことです。おそらく首都・藤原京の建設と並行して伊勢神宮の第1回の式年遷宮も行われたと考えられます。首都建設という国を挙げての一大事業と並行して伊勢神宮の遷宮というこれまた大事業をやらねばならなかった必要性も、伊勢神宮が首都(大和朝廷)を守る上で重要な軍事拠点であったと考えるならば納得がいきます。

この当時、大和朝廷の勢力圏は日本列島の西半分に限られ、東北地方から北の東国と言われるところは蝦夷の勢力圏で、大和朝廷は朝鮮半島や中国大陸の脅威と並んで、常に東からの蝦夷の脅威にも晒されていました。古くは日本古代史上の伝説的英雄である日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征伝説というものがありますし、斉明天皇も斉明4年(658年)に阿倍比羅夫(あべのひらふ)を蝦夷遠征に派遣したという記録が日本書紀に残っています。坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために桓武天皇から征夷大将軍に任じられて陸奥国の平定に向かったのは延暦16年(797年)のことで、これは伊勢神宮で式年遷宮が行われるようになる約100年後のことです。このように、この当時は国内においてもまだまだ東国の陸奥国において蝦夷との戦争が続いていたというわけですから、首都整備と並行して東国に対する防衛の拠点を整備する必要に迫られていたことは間違いのないことです。

伊勢神宮のある志摩半島は、奈良県の東に位置する三重県の中東部に位置する半島で、北側を伊勢湾、東側を遠州灘、南側を熊野灘に面しています。沖合には紀伊半島最南端の潮岬を巻くような形で黒潮(海流)が蛇行して流れており、そのまま船を出せば、黒潮に乗って東国にいち早く辿り着くことができる場所にあります。こういうことから、おそらく伊勢神宮は大和朝廷にとって東からの脅威に備える極めて重要な軍事拠点、特に海軍基地として整備されたところだったのではないか…という推論も成り立とうかと思います。大三島を拠点に瀬戸内海の制海権を握った伊予水軍(越智氏族)と同じく、ここ志摩半島や熊野灘に面した地点を拠点として、紀伊水道を含む紀伊半島を取り囲む海域の制海権を握った「熊野水軍」という超強力な水軍もいたことですし。

当時の大和朝廷が置かれていた状況を考えると、宗教的目的だけによる大規模な施設を建設するような余裕が国としてあったとは思えず、まずは国としての社会基盤を整備すること、中でも国防上の軍事拠点の整備をなによりも急ぐ必要があったのではないか…と私は思っています。その施設に、後年、宗教的な色彩がついて神社として今の時代に残っていると考えればよろしいかと思います。ちなみに、いろいろ調べてみましたが、神社の起源や、多くの神社に社殿が造営された背景については今も諸説あって、本当のところは判っていないようです。

世の中の最底辺のインフラは『地形』と『気象』。そして、ビジネスは常に『ニーズ(マーケットの必要・要求・需要)』と『シーズ(資源・技術・ノウハウ・アイデア・人材・設備等の“ビジネスの種”)』の組み合わせで構成されています。『地形』と『気象』は自然が恵んでくれた貴重な資源、すなわち『シーズ』です。この『シーズ』を活かして『ニーズ』に対応するというのは極々自然なことで、歴史を解明するにあたっても、この2つの視点を忘れてはいけない、いや、まずはこの2つの視点から考えるべきである…と私は思っています。まぁ~、今も昔も人の考えることに大きな違いはありませんから。

繰り返しになりますが、これはあくまでも理系のアプローチから立てた私の仮説です。



――――――――〔完結〕――――――――