2017/08/07
中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その2)
長倉神社は天長年間(824年~834年)に創建されたといわれる古い神社で、平安時代の文献である「延喜式」にもその名が残るほどの由緒ある神社です。神社の西一帯は「長倉の牧」のあったところで古くから開けたところでした。結構広い境内を持ち、入口周辺には「石碑」や「庚申塔」なども集められていて、奥に本殿があります。
ここで地元の観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。
本殿は大変に古い建物なのですが、社殿の中に収められているため、残念ながらその姿を見ることはできません。
沓掛の地名を一躍全国的に有名にしたのが「沓掛時次郎(くつかけの ときじろう)」です。沓掛時次郎は劇作家・長谷川伸さんが書き上げた戯曲『沓掛時次郎』の主人公で、あくまでも架空の人物なのですが、後年、大河内伝次郎さんや長谷川一夫さん、島田正吾さん、市川雷蔵さん、中村(萬屋)錦之助さんといった時代劇のトップスターの主演で計8度にわたり映画化されたことで全国的に有名になりました。また、鶴田浩二さん、仲代達也さん、大川橋蔵さんら名スターの主演で何度もテレビドラマ化もされました。また、映画やテレビドラマだけでなく、三波春夫さんの名調子で浪曲や歌謡曲にも取り上げられました。歌謡曲では橋幸夫さん、島津亜矢さんも沓掛時次郎を題材にした楽曲を出しています。
観光ボランティアガイドさんによると、時々「沓掛時次郎はどのあたりで生まれたのですか?」と訊かれることがあり、その際は「沓掛時次郎は“鉛筆の中”から産まれました」と答えるようにしているのだそうです(笑)。
ちなみに、『沓掛時次郎』を生んだ劇作家・長谷川伸さんは、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など戦国・江戸時代を舞台にした時代小説で知られる戦後を代表する時代小説作家・池波正太郎さんの師匠でもあります。
変化球でいうと、時代劇ドラマシリーズ『必殺仕事人』の主人公・中村主水がハマリ役だった藤田まことさんの出世作が『てなもんや三度笠』。藤田まことさん演じる主人公の名前が「あんかけの時次郎」。もちろんこれは沓掛時次郎のパロディーでした。「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」…てね。さらに脇道にそれますが、この『てなもんや三度笠』の中で準レギュラーの浪人役で出演していた財津一郎さんの発する「非ッ常にキビシ~イッ!!」や、「許してぇ~チョーダイ!!」は今でも十分に笑えるギャグの傑作でした。私は『てなもんや三度笠』が大好きでした。このネタが分かる人は私の世代以前の方でしょうね。
沓掛時次郎に関しては名前は知っていても一度も映画を観たことがなかったので、街道歩きから戻ってからレンタルビデオ店でDVDを借りてきて観てみました。観たのは中村錦之助さん主演で昭和41年(1966年)に公開された『沓掛時次郎 遊侠一匹』。映画化された最後の沓掛時次郎作品で、熱烈なファンがいることでも知られ、「映画史に残る」とも絶賛されるほどの名作です。
そのあらすじは…というと、信州沓掛生まれの博徒・沓掛時次郎が、とある男の殺害に巻き込まれ、一宿一飯の恩義もあってその男の妻・おきぬと、その幼い息子・太郎吉を守って旅するストーリーです。まさに義理と人情の任侠話。日本人の琴線に触れるとでも言いますか、任侠映画としての“様式美”のようなものさえ感じられる素晴らしい作品でした。こりゃあ、8度も映画化されるわけです。日本映画の傑作の一つだと私は思います。
長倉神社の境内の裏手に「沓掛時次郎の碑」があります。碑には
「千両万両枉(ま)げない意地も 人情絡めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」
という名セリフが刻まれています。前述のように往時の街並みは昭和26年(1951年)の大火でほとんど焼失してしまっており、地名も中軽井沢と日本有数の避暑地で観光地である軽井沢に組み込まれてしまって、唯一、沓掛として残っているものはこの「沓掛時次郎の碑」くらいなものなのだそうです。
長倉神社を出ると坂道で築堤の上にあがり、国道18号線に出ます。国道18号線に出たところに「中山道沓掛宿」と刻まれた石標が立っています。ここが沓掛宿の江戸方の入り口です。
沓掛宿(くつかけしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて19番目の宿場です。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたります。沓掛宿は両隣の軽井沢宿および追分宿と共に“浅間三宿”と呼ばれて大いに栄えました。また、草津温泉に向かう街道との追分(分岐地点)でもありました。甲府藩や小諸藩の領有を経て徳川吉宗が8代将軍となった享保元年(1716年)以後は、天領として徳川幕府の直轄地となりました。「沓掛」の名称は、難所であり荒天時は人も荷も足止めにされた碓氷峠の入口であることに由来し、旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を捧げて、旅の平穏を祈ったことに由来するとも、草鞋(わらじ)を履き替える場所であったからであるとも言われています。
天保14年(1843年)の記録によると、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で、宿内人口は502人であったそうです。宿内の規模は五町六十八間(約668メートル)。しかし昭和26年(1951年)の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていません。その後は昭和31年(1956年)に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展しています。
この沓掛宿のあったあたりには、その昔、東山道の「長倉駅」があったといわれています。中山道が整備された当初、中山道は現在の“しなの鉄道線”の線路の南側に沿うように通り、沓掛宿自体も最初は前述のように現在の中軽井沢駅の南側に作られていたのですが、安永2年(1773年)の大火により中山道の道筋自体が変更となり、宿全体が現在の場所に移っています。
かつては長倉神社を出たあたりから「沓掛宿」が始まっていたのですが、現在はさっと通過してしまうような、普通の田舎町の街並みになっています。
宿場に入ると左手に「旅館岳南荘 升屋本店」と書かれた大きな旅館の跡があります。ここが沓掛宿の脇本陣の1つ増寿屋(升屋)でした。建物は当時のものからは建て替えられているのですが、既に廃業してしまっているようです。草がぼうぼうで、ちょっと荒れているのが残念です。
中軽井沢の信号を左折すると“しなの鉄道”の中軽井沢駅があります。日陰もあり、ここでしばらく水分補給とトイレ休憩を取りました。
この中軽井沢駅は明治43年(1910年)、国鉄信越本線の「沓掛駅」として開業しました。昭和31年(1956年)、中軽井沢駅に駅名を改称。昭和62年(1987年)、国鉄の民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)に移管され、平成9年(1997年)、 北陸新幹線(当時は長野新幹線)の開業に伴い、JR東日本から第三セクターの“しなの鉄道”に移管されました。現在の橋上式の駅舎は平成24年(2012年)に完成したもので、第三セクターが運営するローカル駅とは思えない立派な駅舎になっています。さすがは日本有数の別荘地・軽井沢にある駅です。駅は軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」、さらには軽井沢町立の中軽井沢図書館と接続されています。
水分補給も終え、中軽井沢交差点に戻り、街道歩きの再開です。
中軽井沢交差点のすぐ先にある八十二銀行の支店の駐車場の奥に「脇本陣蔦屋跡碑」が建てられています。沓掛宿には脇本陣が3軒あったということですが、もう1軒は探すことができませんでした。
中軽井沢駅前の交差点を過ぎると、右手に立派な家が見えてくるのですが、ここが当時「本陣」を勤めていた土屋家で、今も表札に「本陣」という文字が書かれた表札が掲げられています。建物は現代のものに建て替えられていますが、元の本陣らしく、かなり立派な建物です。
本陣跡を過ぎると上田信用金庫の向かいに小さな「草津道道標」が残っています。これは草津温泉道を示していたもので、当時この沓掛宿から草津までは約10里の距離だったといわれています。
国道18号線は真っ直ぐに坂を上って行くのですが、旧中山道は左の細い道に入って行きます。この先は、ちょっときつい坂道を登り、坂を登りきったところで車道を横断し、今度は下っていきます。
沓掛宿を出て次の追分宿までの道は、国道18号線と並行すると言っても車の騒音もなく、別荘地らしい静かな樹間の道になっています。しかし、道脇には馬頭観音や地蔵菩薩、庚申塔、廿三夜供養塔等があちこちに残されていて、この道が旧中山道であったことを主張してくれています。
しばらく歩くと、寂れた町「古宿」集落に入っていきます。右手に古宿公民館があり、その先に石の鳥居が見えてきます。秋葉神社です。秋葉神社は日本全国に点在する神社で、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん)です。おそらく、村人が火事を恐れて祀ったものでしょう。
街道には宿場の荷駄に使った馬に感謝の意を込めたものでしょう、馬頭観音の石碑がところどころに見受けられます。当時は陸運にずいぶんと馬のお世話になったことが窺えます。
旧中山道は再び国道18号線と合流するのですが、合流地点のすぐ先で3本の道に分かれます。3本の道路のうち両サイドの道は上り坂になります。右側の道路は国道18号線のバイパスで、左側の道路は上州(群馬県)へ抜ける国道に繋がる道です。真ん中の道だけが下り坂で、これが旧中山道です。この先で国道18号線バイパスのガードの下を潜り、緩やかに右にカーブします。
国道18号線に沿って緩やかな坂を登っていくと、国道18号線と合流する手前のカーブを曲がり終えたところに左へ入る道があるので、そこを左折。すぐ次に右折します。おそらく旧中山道は国道18号線のバイパスを潜ったあたりから斜めに短絡してこの道路と繋がっていたのでしょう。再びのどかな旧中山道が続きます。
……(その3)に続きます。
ここで地元の観光ボランティアガイドさんの説明を受けました。
本殿は大変に古い建物なのですが、社殿の中に収められているため、残念ながらその姿を見ることはできません。
沓掛の地名を一躍全国的に有名にしたのが「沓掛時次郎(くつかけの ときじろう)」です。沓掛時次郎は劇作家・長谷川伸さんが書き上げた戯曲『沓掛時次郎』の主人公で、あくまでも架空の人物なのですが、後年、大河内伝次郎さんや長谷川一夫さん、島田正吾さん、市川雷蔵さん、中村(萬屋)錦之助さんといった時代劇のトップスターの主演で計8度にわたり映画化されたことで全国的に有名になりました。また、鶴田浩二さん、仲代達也さん、大川橋蔵さんら名スターの主演で何度もテレビドラマ化もされました。また、映画やテレビドラマだけでなく、三波春夫さんの名調子で浪曲や歌謡曲にも取り上げられました。歌謡曲では橋幸夫さん、島津亜矢さんも沓掛時次郎を題材にした楽曲を出しています。
観光ボランティアガイドさんによると、時々「沓掛時次郎はどのあたりで生まれたのですか?」と訊かれることがあり、その際は「沓掛時次郎は“鉛筆の中”から産まれました」と答えるようにしているのだそうです(笑)。
ちなみに、『沓掛時次郎』を生んだ劇作家・長谷川伸さんは、『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など戦国・江戸時代を舞台にした時代小説で知られる戦後を代表する時代小説作家・池波正太郎さんの師匠でもあります。
変化球でいうと、時代劇ドラマシリーズ『必殺仕事人』の主人公・中村主水がハマリ役だった藤田まことさんの出世作が『てなもんや三度笠』。藤田まことさん演じる主人公の名前が「あんかけの時次郎」。もちろんこれは沓掛時次郎のパロディーでした。「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」…てね。さらに脇道にそれますが、この『てなもんや三度笠』の中で準レギュラーの浪人役で出演していた財津一郎さんの発する「非ッ常にキビシ~イッ!!」や、「許してぇ~チョーダイ!!」は今でも十分に笑えるギャグの傑作でした。私は『てなもんや三度笠』が大好きでした。このネタが分かる人は私の世代以前の方でしょうね。
沓掛時次郎に関しては名前は知っていても一度も映画を観たことがなかったので、街道歩きから戻ってからレンタルビデオ店でDVDを借りてきて観てみました。観たのは中村錦之助さん主演で昭和41年(1966年)に公開された『沓掛時次郎 遊侠一匹』。映画化された最後の沓掛時次郎作品で、熱烈なファンがいることでも知られ、「映画史に残る」とも絶賛されるほどの名作です。
そのあらすじは…というと、信州沓掛生まれの博徒・沓掛時次郎が、とある男の殺害に巻き込まれ、一宿一飯の恩義もあってその男の妻・おきぬと、その幼い息子・太郎吉を守って旅するストーリーです。まさに義理と人情の任侠話。日本人の琴線に触れるとでも言いますか、任侠映画としての“様式美”のようなものさえ感じられる素晴らしい作品でした。こりゃあ、8度も映画化されるわけです。日本映画の傑作の一つだと私は思います。
長倉神社の境内の裏手に「沓掛時次郎の碑」があります。碑には
という名セリフが刻まれています。前述のように往時の街並みは昭和26年(1951年)の大火でほとんど焼失してしまっており、地名も中軽井沢と日本有数の避暑地で観光地である軽井沢に組み込まれてしまって、唯一、沓掛として残っているものはこの「沓掛時次郎の碑」くらいなものなのだそうです。
長倉神社を出ると坂道で築堤の上にあがり、国道18号線に出ます。国道18号線に出たところに「中山道沓掛宿」と刻まれた石標が立っています。ここが沓掛宿の江戸方の入り口です。
沓掛宿(くつかけしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて19番目の宿場です。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたります。沓掛宿は両隣の軽井沢宿および追分宿と共に“浅間三宿”と呼ばれて大いに栄えました。また、草津温泉に向かう街道との追分(分岐地点)でもありました。甲府藩や小諸藩の領有を経て徳川吉宗が8代将軍となった享保元年(1716年)以後は、天領として徳川幕府の直轄地となりました。「沓掛」の名称は、難所であり荒天時は人も荷も足止めにされた碓氷峠の入口であることに由来し、旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を捧げて、旅の平穏を祈ったことに由来するとも、草鞋(わらじ)を履き替える場所であったからであるとも言われています。
天保14年(1843年)の記録によると、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で、宿内人口は502人であったそうです。宿内の規模は五町六十八間(約668メートル)。しかし昭和26年(1951年)の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていません。その後は昭和31年(1956年)に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展しています。
この沓掛宿のあったあたりには、その昔、東山道の「長倉駅」があったといわれています。中山道が整備された当初、中山道は現在の“しなの鉄道線”の線路の南側に沿うように通り、沓掛宿自体も最初は前述のように現在の中軽井沢駅の南側に作られていたのですが、安永2年(1773年)の大火により中山道の道筋自体が変更となり、宿全体が現在の場所に移っています。
かつては長倉神社を出たあたりから「沓掛宿」が始まっていたのですが、現在はさっと通過してしまうような、普通の田舎町の街並みになっています。
宿場に入ると左手に「旅館岳南荘 升屋本店」と書かれた大きな旅館の跡があります。ここが沓掛宿の脇本陣の1つ増寿屋(升屋)でした。建物は当時のものからは建て替えられているのですが、既に廃業してしまっているようです。草がぼうぼうで、ちょっと荒れているのが残念です。
中軽井沢の信号を左折すると“しなの鉄道”の中軽井沢駅があります。日陰もあり、ここでしばらく水分補給とトイレ休憩を取りました。
この中軽井沢駅は明治43年(1910年)、国鉄信越本線の「沓掛駅」として開業しました。昭和31年(1956年)、中軽井沢駅に駅名を改称。昭和62年(1987年)、国鉄の民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)に移管され、平成9年(1997年)、 北陸新幹線(当時は長野新幹線)の開業に伴い、JR東日本から第三セクターの“しなの鉄道”に移管されました。現在の橋上式の駅舎は平成24年(2012年)に完成したもので、第三セクターが運営するローカル駅とは思えない立派な駅舎になっています。さすがは日本有数の別荘地・軽井沢にある駅です。駅は軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」、さらには軽井沢町立の中軽井沢図書館と接続されています。
水分補給も終え、中軽井沢交差点に戻り、街道歩きの再開です。
中軽井沢交差点のすぐ先にある八十二銀行の支店の駐車場の奥に「脇本陣蔦屋跡碑」が建てられています。沓掛宿には脇本陣が3軒あったということですが、もう1軒は探すことができませんでした。
中軽井沢駅前の交差点を過ぎると、右手に立派な家が見えてくるのですが、ここが当時「本陣」を勤めていた土屋家で、今も表札に「本陣」という文字が書かれた表札が掲げられています。建物は現代のものに建て替えられていますが、元の本陣らしく、かなり立派な建物です。
本陣跡を過ぎると上田信用金庫の向かいに小さな「草津道道標」が残っています。これは草津温泉道を示していたもので、当時この沓掛宿から草津までは約10里の距離だったといわれています。
国道18号線は真っ直ぐに坂を上って行くのですが、旧中山道は左の細い道に入って行きます。この先は、ちょっときつい坂道を登り、坂を登りきったところで車道を横断し、今度は下っていきます。
沓掛宿を出て次の追分宿までの道は、国道18号線と並行すると言っても車の騒音もなく、別荘地らしい静かな樹間の道になっています。しかし、道脇には馬頭観音や地蔵菩薩、庚申塔、廿三夜供養塔等があちこちに残されていて、この道が旧中山道であったことを主張してくれています。
しばらく歩くと、寂れた町「古宿」集落に入っていきます。右手に古宿公民館があり、その先に石の鳥居が見えてきます。秋葉神社です。秋葉神社は日本全国に点在する神社で、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん)です。おそらく、村人が火事を恐れて祀ったものでしょう。
街道には宿場の荷駄に使った馬に感謝の意を込めたものでしょう、馬頭観音の石碑がところどころに見受けられます。当時は陸運にずいぶんと馬のお世話になったことが窺えます。
旧中山道は再び国道18号線と合流するのですが、合流地点のすぐ先で3本の道に分かれます。3本の道路のうち両サイドの道は上り坂になります。右側の道路は国道18号線のバイパスで、左側の道路は上州(群馬県)へ抜ける国道に繋がる道です。真ん中の道だけが下り坂で、これが旧中山道です。この先で国道18号線バイパスのガードの下を潜り、緩やかに右にカーブします。
国道18号線に沿って緩やかな坂を登っていくと、国道18号線と合流する手前のカーブを曲がり終えたところに左へ入る道があるので、そこを左折。すぐ次に右折します。おそらく旧中山道は国道18号線のバイパスを潜ったあたりから斜めに短絡してこの道路と繋がっていたのでしょう。再びのどかな旧中山道が続きます。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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