2017/08/23
中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その9)
昼食を終え、街道歩きの再開です。この日も若女将が「感謝」の文字が書かれた幟を持ってお見送りしてくれました。この明るく元気な若女将、年配者が揃った私達『中山道六十九次・街道歩き』ツアーの参加者の間ではちょっとしたアイドルのような存在になっています。もしかしたら、これも割本邸から続く佐久ホテルの伝統なのかもしれません。必ずまた訪れてみたいと思いますから。割本邸は本陣、脇本陣の代わりということはほぼ同格ってこと。ほとんどの本陣や脇本陣が“跡”になっている中、客商売に転じてこれほど長く営業を続けているのには絶対に理由がありますからね。中山道の伝統や面影って、なにも目に見える風景だけでなく、食べ物やこうしたソフト面にも残っています。これらは、当時と同様、実際に歩いてみないと味わうことができません。
岩村田における中山道のルートは江戸時代に一度、大火からの復興時に付け替えられているそうで、佐久ホテルのすぐ前を通っているこの道路が“旧の旧中山道”です。元々、佐久ホテルは中山道に面して建っていたのですが、その後、今はアーケード街となっている“現在の旧中山道”に中山道が付け替えられたので、街道から一筋奥に入ったところに変わってしまいました。今はアーケード街となっている“現在の旧中山道”より、こちらの“旧の旧中山道”のほうが旧街道としての趣きが色濃く残っているように思います。
中山道六十九次の各宿場の風景では渓斎英泉と安藤広重の描いた浮世絵があまりにも有名ですが、追分宿の分去れにある「中山道69次資料館」の岸本豊館長によると、渓斎英泉がこの岩村田宿を描いた浮世絵ほど変わった絵は、中山道だけでなく、東海道を含めても他にないのだそうです。盲人同士が喧嘩をし、座り込んで出番を窺っている者もいます。犬は吠え立てて、絵全体が殺気立っているようにも感じます。広々とした平野は確かに佐久平を描いたものですが、描かれている人物と岩村田宿との因果関係は特に考えられません。
この作品は渓斎英泉が描いた中山道24図のうちの一番最後の作品で、渓斎英泉はこの異色の作品を描いてすぐに安藤(歌川)広重にバトンタッチさせられ、安藤広重が残りの49図を描いて完成させました。こういうことを背景に、この岩村田宿の様子を描いた絵に秘められた謎を、岸本館長は次のように解き明かしてくれました。
東海道五十三次の各宿場を描いた絵を安藤広重に描かせて大成功した版元は、今度は中山道六十九次の宿場の絵を当時美人画で有名だった渓斎英泉に依頼しました。ところが渓斎英泉の描いた中山道六十九次の絵は安藤広重の東海道五十三次ほど売れなかったので、版元は渓斎英泉に注文を出しました。「安藤広重のような風景中心の絵を描いて欲しい」と。
これは美人画を描かせれば安藤広重なんぞ足元にも及ばないと自負する渓斎英泉のプライドに火をつけることになり、最後に極め付けの1枚の絵を描いて版元に送り付けました。それが岩村田宿の様子を描いたこの絵です。取っ組み合いの喧嘩をしているのは渓斎英泉と版元であり、目が見えない全員は渓斎英泉の絵の良さがまったく見えていない当時の人達を象徴して描いたとされています。もちろん、左端で高みの見物をしているのは、次の出番を窺う安藤広重のようです。
岩村田宿の絵に代表される渓斎英泉の描く動きのある人物像に比べ、安藤広重の描く人物像はどれも動きがほとんど感じられません。渓斎英泉の描いた絵は安藤広重より当時は売れませんでしたが、ディズニーやスタジオジブリ等のアニメーションを観て育った現代人の目から見ると、その評価は逆転するかもしれません。日本のアニメーションが世界的に注目されている今日、渓斎英泉は日本のアニメーションの先駆者であり、その代表作が中山道六十九次のうち岩村田宿を描いたこの1枚である…とも言えようかと思います。
なるほどぉ~。私もこれまで各宿場で渓斎英泉や安藤広重の描いた中山道六十九次の宿場の絵を目にしてきましたが、明らかに絵の構図や筆のタッチが異なります。加えて、私はどちらかと言うと、世界的に有名な安藤広重の描いた絵よりも、描かれた人物に動きや表情が感じられる渓斎英泉の描いた絵のほうが好きです。それは私がアニメーションを観て育ったほとんど最初の世代だからでしょうね。岸本館長の解説に大いに納得してしまいました。それにしても渓斎英泉の描いた岩村田宿の絵は面白いです。(ちなみに、この絵は佐久ホテルのフロントで10円で購入しました。佐久ホテルさんが所有している版画のカラーコピーのようです。)
岩村田交差点を左折し、旧中山道(長野県道9号佐久軽井沢線)を進みます。前述のようにこのあたりは歩道がアーケード街になっています。
歩道はアーケードになって近代的ではあるのですが、その向こうにはこうした古い建物が残っているのが旧街道の宿場です。
うっかり見逃してしまいましたが、商店街の中ほどに「日本一小さい酒蔵」と染め抜かれた暖簾の「造り酒屋の戸塚酒造店」があります。300年の歴史があり、今は15代目が暖簾を守っているのですが、少量でも品質の良い酒造りを目指した結果、日本一小さな酒蔵になってしまったのだそうです。
最盛期でも旅籠の数が8軒のみと小規模の宿場だったので、城下町といっても、今も町の中心街は小さいものになっています。
商店街中央付近を右手に入ると西念寺という寺があります。ここも武田信玄ゆかりの寺院で、昔は広大な敷地を持っていたといわれています。山門や鐘楼も堂々としており、楼門も12本の柱の上に立っていたりと、かなり立派なお寺です。この西念寺に戦国武将の仙石秀久の墓所があります。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、初代小諸藩主となった仙谷秀久は、鴻巣で死去し、この西念寺で火葬されたといわれています。とは言え、今回は街道歩きが主のため、訪れるのはパスです。
こちらは『いわんだ・ゴールデン街』の入り口です。入口の店の名前は「スナック・マリー」。まさに昭和レトロって感じのスナックが奥に向かってズラァ~っと並んでいます。「スナック・マリー」の旧中山道に面した側の壁面に貼られたポスターは何語で書かれているのでしょうか? そして何が書かれているのか、気になります。
おやおや、7月の 15日(土)、16日(日)は岩村田の祇園祭なのですね。第628回という文字に驚かされます。この岩村田の祇園祭は毎年7月中旬の週末に開催される岩村田地区にある「若宮神社」、「祇園天王社」の例祭で、室町時代の1398年、愛知県津島神社より当時蔓延した伝染病を鎮めるために勧進したと伝わっています。「田舎の祭りだと言って、ナメたらあかんぞ! こちとら東京の神田明神の祭や浅草の三社祭よりも古い歴史を持っとんじゃい!」(若干、四国弁が混じっていますが…)って地元の人達の心意気が伝わってくるポスターです。
いいですねぇ~o(^▽^)o
旧中山道は商店街を抜けてアーケード街が終わる岩村田本町の交差点で直角に右折します。このあたりに枡形があり、岩村田宿は大体このあたりまでだったそうです。岩村田本町交差点を直進する道は「佐久甲州街道」と言い、野辺山を経て甲州・甲斐国(山梨県)の韮崎で甲州街道に繋がる道で、ここが追分(分岐点)になっていました。
武田信玄はこの道を通って甲斐国の甲府から岩村田まで来ていたのですね。平野の少ない甲斐国を本拠にした武田家にとって、この広々とした平野が広がる佐久平を治めることは、戦略的に極めて重要なことだったということは、周囲の風景を眺めるとよく分かります。そう言えば、昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で描かれた真田家も、当初は信濃国(長野県)小県(ちいさがた)を本拠にする武田家中の国衆でした。小県とは、現在の上田市、小諸市から、この佐久市岩村田にかけての佐久平一帯のことです。なるほどなるほど。このあたり、実際に現地を訪れてみないと、実感として掴みにくいところがあります。
岩村田宿の枡形を出てすぐのところにある西宮神社です。この神社は岩村田宿の京方の入口に位置していることから、道祖神、双体道祖神を設置して旅の安全を祈念するとともに、疫病の侵入を防いでいたようです。また、双体道祖神を祀っているということは、併せて家族の繁栄を願ったのかもしれません。また、御嶽信者の木曽への道標べ(しるべ)となる石碑も立っています。
次の塩名田宿を目指して歩きます。
道端には道祖神や馬頭観音が幾つもあり、ここが旧中山道だったことを窺わせます。
JR小海線の踏切を渡ります。
小海線は小諸と中央本線の小渕沢を結ぶ路線で、八ヶ岳の麓を通っています。JRで日本最高地点にある鉄道駅・清里駅を通っている路線として知られています。
線路の先は枡型に曲がっていたらしく、左手に「御嶽神社」があって、石碑群が残っています。再び旧中山道らしい街並みとなります。
長野県立岩村田高校です。高校の校舎の壁面にはよく「祝・高校総体出場」や「祝・国体出場」って大きな垂れ幕がかかっているのを目にしますが、この岩村田高校の校舎の壁面には「祝・平昌五輪出場!! カーリング競技」の文字が書かれた垂れ幕が! 来年の平昌冬季オリンピックのカーリング競技男子に地元のSC軽井沢クラブが日本代表として出場が決まり、そのメンバーの中に岩村田高校の卒業生が2名含まれているので、その告知と応援のための垂れ幕のようです。カーリング競技っていうのがこのあたりっぽくて、いいですね。
このあたりは古代から水田地帯として開けたところで、古代から中世後期にかけて行われた土地区画制度である条理制の遺構も残されているそうで、11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立した荘園公領制においては八条院領大井庄の中心地だったところです。
広い敷地に立派な建物が幾つも立つ浅間総合病院の横を、病院の敷地に沿うようにして旧中山道は進みます。
突き当たりに「相生の松」があります。男女の松が絡み合っているように見えるめでたい松で、文久元年(1861年)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため旧中山道のこの場所を通った際には、和宮が縁起を担いでこの場所で野点をされたと言われています。「相生の松」は岩村田地域にとってシンボルのような存在で、このあたりの相生町という地名も松にちなんで名づけられたといわれています。現在の松は3代目ということのようです。
塩名田宿まで4.3kmという案内標識が立っています。今日もここまで10km以上も歩いてきたので4.3kmなんて苦もない距離です。まだまだ歩けます。振り返ると、旧街道らしい微妙に蛇行した道になっています。突き当りに見える立派な鉄筋の建物は浅間総合病院の建物です。
田園風景が広がるのどかな道を進みます。ところどころに、石仏や石塔が建ち、旧中山道の雰囲気が色濃く残っています。旧中山道らしい風景です。
広大な佐久平(佐久盆地)が目に飛び込んできました。佐久平は、北は浅間火山群、東は関東山地、西は蓼科山に囲まれた盆地です。佐久平の標高は650~800メートルと日本の盆地としては高く、北部は浅間山の火山噴出物が堆積した台地で、南側は千曲川の沖積地となっています。
これはアンズ(杏)の木です。ちょうど実がなっています。そろそろ食べ頃かな?
ここにもリンゴ畑があります。佐久平は高燥冷涼な気候で日照時間も長いため、色づきも良く、糖度が高いリンゴが収穫できるところとして有名です。
「→追分 11.7km」「←塩名田 3.6km」ですか。追分宿の分去れを出発してから10km以上歩いてきました。今日のゴールの塩名田宿まで残りあと3.6km。1時間ほどの行程です。
濁川にかかる砂田橋を渡ります。砂田橋の手前には江戸の日本橋を出て43里目の一里塚「平塚の一里塚」があったとされているのですが、現在は何も残っていません。今日だけで3つの一里塚を通りました。
砂田橋から15分ほど歩くと田んぼの先に荘山(かがりやま)稲荷神社があります。ここに「芭蕉句碑」があるのだそうです。
「野を横に 馬引きむけよ 郭公(ほととぎす)」 松尾芭蕉
中部横断自動車道(静岡市の新清水JCTから長野県小諸市の佐久小諸JCTに至る総延長約132kmの高速道路)の下を抜けてひたすら前へ進みます。
これはズッキーニの畑です。根元を見ると、見事なズッキーニが幾つも実っていて、収穫時期を迎えています。実は埼玉県さいたま市の我が家の庭の家庭菜園でも、今年初めてズッキーニを植えてみたのですが、失敗中なのです。葉はここのズッキーニよりも大きく茂っているのですが、肝心の実が結実しないのです。花はそれなりに咲くのですが、どうも雄花と雌花の咲くタイミングが微妙に合わず、失恋続きでうまく受粉しないようなのです。人工授粉に切り替えるなど工夫しないといけません。ミニトマトとキュウリは例年以上に収穫できてるのですが……。
そうそう、ズッキーニって果実の外見はキュウリのように見えて、実はカボチャの仲間だってことをご存知でしょうか。原産地はメキシコのようで、巨大カボチャ種の変種のようです。西洋野菜の代表のような顔をしていますが、実はヨーロッパには植民地活動により16世紀頃に持ち込まれ、本格的に普及が開始したのは20世紀に入ってからのことで、歴史が浅い野菜なのです。余談でした。
大きな土塀の家があったり、建物自体は新しくても屋号が書かれた古い看板を今も掲げている家があったり…、随所で旧中山道らしい歴史を感じさせる街並みが続きます。
おおっ、これは!! 昔の公衆電話ボックスです。元電電公社マンとしてはこういうモノを見掛けると思わず反応してしまいます。渋い!! (ちょっと郵便受けと牛乳瓶受けが邪魔ですが…)
その古い公衆電話ボックスの横は民家の門になっているのですが、その門の上にはツバメの巣がビッシリ並んでいます。ツバメの長屋ってところですね。今も使われている巣があるようで、ところどころで雛がチョコっと巣から顔を出しています。
歴史を感じさせる街並みをさらに進みます。
おお!っと、これは見事に剪定された松の木です。
道の左手に百万遍供養塔が立っています。百万遍(ひゃくまんべん)とは、集落の人々が講を作り、その講の人々が円陣を組んで座り、大きな数珠を送りながら南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を百万遍唱えて、疫病退散などを祈った百万遍念仏のことです。百万遍供養塔は全員の念仏が合わせて百万回に達したのを記念して建てられたものです。ふむふむ、庚申塔もそうですが、その昔、一般庶民はこういうことを楽しみにしていたのですね。
周囲には雄大な佐久平の風景が広がっています。前方には蓼科山、左手には八ヶ岳連峰の山々が見えます。中山道最大の難所である碓氷峠を越えた次は五街道最高地点(標高1,600メートル)の和田峠越えが待っています。その和田峠はあのあたりでしょうか。前方の山々を見ながら、次の難所、和田峠越えが楽しみになってきました。
右手には北陸新幹線越しに浅間山が見えます。
……(その10)に続きます。
岩村田における中山道のルートは江戸時代に一度、大火からの復興時に付け替えられているそうで、佐久ホテルのすぐ前を通っているこの道路が“旧の旧中山道”です。元々、佐久ホテルは中山道に面して建っていたのですが、その後、今はアーケード街となっている“現在の旧中山道”に中山道が付け替えられたので、街道から一筋奥に入ったところに変わってしまいました。今はアーケード街となっている“現在の旧中山道”より、こちらの“旧の旧中山道”のほうが旧街道としての趣きが色濃く残っているように思います。
中山道六十九次の各宿場の風景では渓斎英泉と安藤広重の描いた浮世絵があまりにも有名ですが、追分宿の分去れにある「中山道69次資料館」の岸本豊館長によると、渓斎英泉がこの岩村田宿を描いた浮世絵ほど変わった絵は、中山道だけでなく、東海道を含めても他にないのだそうです。盲人同士が喧嘩をし、座り込んで出番を窺っている者もいます。犬は吠え立てて、絵全体が殺気立っているようにも感じます。広々とした平野は確かに佐久平を描いたものですが、描かれている人物と岩村田宿との因果関係は特に考えられません。
この作品は渓斎英泉が描いた中山道24図のうちの一番最後の作品で、渓斎英泉はこの異色の作品を描いてすぐに安藤(歌川)広重にバトンタッチさせられ、安藤広重が残りの49図を描いて完成させました。こういうことを背景に、この岩村田宿の様子を描いた絵に秘められた謎を、岸本館長は次のように解き明かしてくれました。
東海道五十三次の各宿場を描いた絵を安藤広重に描かせて大成功した版元は、今度は中山道六十九次の宿場の絵を当時美人画で有名だった渓斎英泉に依頼しました。ところが渓斎英泉の描いた中山道六十九次の絵は安藤広重の東海道五十三次ほど売れなかったので、版元は渓斎英泉に注文を出しました。「安藤広重のような風景中心の絵を描いて欲しい」と。
これは美人画を描かせれば安藤広重なんぞ足元にも及ばないと自負する渓斎英泉のプライドに火をつけることになり、最後に極め付けの1枚の絵を描いて版元に送り付けました。それが岩村田宿の様子を描いたこの絵です。取っ組み合いの喧嘩をしているのは渓斎英泉と版元であり、目が見えない全員は渓斎英泉の絵の良さがまったく見えていない当時の人達を象徴して描いたとされています。もちろん、左端で高みの見物をしているのは、次の出番を窺う安藤広重のようです。
岩村田宿の絵に代表される渓斎英泉の描く動きのある人物像に比べ、安藤広重の描く人物像はどれも動きがほとんど感じられません。渓斎英泉の描いた絵は安藤広重より当時は売れませんでしたが、ディズニーやスタジオジブリ等のアニメーションを観て育った現代人の目から見ると、その評価は逆転するかもしれません。日本のアニメーションが世界的に注目されている今日、渓斎英泉は日本のアニメーションの先駆者であり、その代表作が中山道六十九次のうち岩村田宿を描いたこの1枚である…とも言えようかと思います。
なるほどぉ~。私もこれまで各宿場で渓斎英泉や安藤広重の描いた中山道六十九次の宿場の絵を目にしてきましたが、明らかに絵の構図や筆のタッチが異なります。加えて、私はどちらかと言うと、世界的に有名な安藤広重の描いた絵よりも、描かれた人物に動きや表情が感じられる渓斎英泉の描いた絵のほうが好きです。それは私がアニメーションを観て育ったほとんど最初の世代だからでしょうね。岸本館長の解説に大いに納得してしまいました。それにしても渓斎英泉の描いた岩村田宿の絵は面白いです。(ちなみに、この絵は佐久ホテルのフロントで10円で購入しました。佐久ホテルさんが所有している版画のカラーコピーのようです。)
岩村田交差点を左折し、旧中山道(長野県道9号佐久軽井沢線)を進みます。前述のようにこのあたりは歩道がアーケード街になっています。
歩道はアーケードになって近代的ではあるのですが、その向こうにはこうした古い建物が残っているのが旧街道の宿場です。
うっかり見逃してしまいましたが、商店街の中ほどに「日本一小さい酒蔵」と染め抜かれた暖簾の「造り酒屋の戸塚酒造店」があります。300年の歴史があり、今は15代目が暖簾を守っているのですが、少量でも品質の良い酒造りを目指した結果、日本一小さな酒蔵になってしまったのだそうです。
最盛期でも旅籠の数が8軒のみと小規模の宿場だったので、城下町といっても、今も町の中心街は小さいものになっています。
商店街中央付近を右手に入ると西念寺という寺があります。ここも武田信玄ゆかりの寺院で、昔は広大な敷地を持っていたといわれています。山門や鐘楼も堂々としており、楼門も12本の柱の上に立っていたりと、かなり立派なお寺です。この西念寺に戦国武将の仙石秀久の墓所があります。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、初代小諸藩主となった仙谷秀久は、鴻巣で死去し、この西念寺で火葬されたといわれています。とは言え、今回は街道歩きが主のため、訪れるのはパスです。
こちらは『いわんだ・ゴールデン街』の入り口です。入口の店の名前は「スナック・マリー」。まさに昭和レトロって感じのスナックが奥に向かってズラァ~っと並んでいます。「スナック・マリー」の旧中山道に面した側の壁面に貼られたポスターは何語で書かれているのでしょうか? そして何が書かれているのか、気になります。
おやおや、7月の 15日(土)、16日(日)は岩村田の祇園祭なのですね。第628回という文字に驚かされます。この岩村田の祇園祭は毎年7月中旬の週末に開催される岩村田地区にある「若宮神社」、「祇園天王社」の例祭で、室町時代の1398年、愛知県津島神社より当時蔓延した伝染病を鎮めるために勧進したと伝わっています。「田舎の祭りだと言って、ナメたらあかんぞ! こちとら東京の神田明神の祭や浅草の三社祭よりも古い歴史を持っとんじゃい!」(若干、四国弁が混じっていますが…)って地元の人達の心意気が伝わってくるポスターです。
いいですねぇ~o(^▽^)o
旧中山道は商店街を抜けてアーケード街が終わる岩村田本町の交差点で直角に右折します。このあたりに枡形があり、岩村田宿は大体このあたりまでだったそうです。岩村田本町交差点を直進する道は「佐久甲州街道」と言い、野辺山を経て甲州・甲斐国(山梨県)の韮崎で甲州街道に繋がる道で、ここが追分(分岐点)になっていました。
武田信玄はこの道を通って甲斐国の甲府から岩村田まで来ていたのですね。平野の少ない甲斐国を本拠にした武田家にとって、この広々とした平野が広がる佐久平を治めることは、戦略的に極めて重要なことだったということは、周囲の風景を眺めるとよく分かります。そう言えば、昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で描かれた真田家も、当初は信濃国(長野県)小県(ちいさがた)を本拠にする武田家中の国衆でした。小県とは、現在の上田市、小諸市から、この佐久市岩村田にかけての佐久平一帯のことです。なるほどなるほど。このあたり、実際に現地を訪れてみないと、実感として掴みにくいところがあります。
岩村田宿の枡形を出てすぐのところにある西宮神社です。この神社は岩村田宿の京方の入口に位置していることから、道祖神、双体道祖神を設置して旅の安全を祈念するとともに、疫病の侵入を防いでいたようです。また、双体道祖神を祀っているということは、併せて家族の繁栄を願ったのかもしれません。また、御嶽信者の木曽への道標べ(しるべ)となる石碑も立っています。
次の塩名田宿を目指して歩きます。
道端には道祖神や馬頭観音が幾つもあり、ここが旧中山道だったことを窺わせます。
JR小海線の踏切を渡ります。
小海線は小諸と中央本線の小渕沢を結ぶ路線で、八ヶ岳の麓を通っています。JRで日本最高地点にある鉄道駅・清里駅を通っている路線として知られています。
線路の先は枡型に曲がっていたらしく、左手に「御嶽神社」があって、石碑群が残っています。再び旧中山道らしい街並みとなります。
長野県立岩村田高校です。高校の校舎の壁面にはよく「祝・高校総体出場」や「祝・国体出場」って大きな垂れ幕がかかっているのを目にしますが、この岩村田高校の校舎の壁面には「祝・平昌五輪出場!! カーリング競技」の文字が書かれた垂れ幕が! 来年の平昌冬季オリンピックのカーリング競技男子に地元のSC軽井沢クラブが日本代表として出場が決まり、そのメンバーの中に岩村田高校の卒業生が2名含まれているので、その告知と応援のための垂れ幕のようです。カーリング競技っていうのがこのあたりっぽくて、いいですね。
このあたりは古代から水田地帯として開けたところで、古代から中世後期にかけて行われた土地区画制度である条理制の遺構も残されているそうで、11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立した荘園公領制においては八条院領大井庄の中心地だったところです。
広い敷地に立派な建物が幾つも立つ浅間総合病院の横を、病院の敷地に沿うようにして旧中山道は進みます。
突き当たりに「相生の松」があります。男女の松が絡み合っているように見えるめでたい松で、文久元年(1861年)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため旧中山道のこの場所を通った際には、和宮が縁起を担いでこの場所で野点をされたと言われています。「相生の松」は岩村田地域にとってシンボルのような存在で、このあたりの相生町という地名も松にちなんで名づけられたといわれています。現在の松は3代目ということのようです。
塩名田宿まで4.3kmという案内標識が立っています。今日もここまで10km以上も歩いてきたので4.3kmなんて苦もない距離です。まだまだ歩けます。振り返ると、旧街道らしい微妙に蛇行した道になっています。突き当りに見える立派な鉄筋の建物は浅間総合病院の建物です。
田園風景が広がるのどかな道を進みます。ところどころに、石仏や石塔が建ち、旧中山道の雰囲気が色濃く残っています。旧中山道らしい風景です。
広大な佐久平(佐久盆地)が目に飛び込んできました。佐久平は、北は浅間火山群、東は関東山地、西は蓼科山に囲まれた盆地です。佐久平の標高は650~800メートルと日本の盆地としては高く、北部は浅間山の火山噴出物が堆積した台地で、南側は千曲川の沖積地となっています。
これはアンズ(杏)の木です。ちょうど実がなっています。そろそろ食べ頃かな?
ここにもリンゴ畑があります。佐久平は高燥冷涼な気候で日照時間も長いため、色づきも良く、糖度が高いリンゴが収穫できるところとして有名です。
「→追分 11.7km」「←塩名田 3.6km」ですか。追分宿の分去れを出発してから10km以上歩いてきました。今日のゴールの塩名田宿まで残りあと3.6km。1時間ほどの行程です。
濁川にかかる砂田橋を渡ります。砂田橋の手前には江戸の日本橋を出て43里目の一里塚「平塚の一里塚」があったとされているのですが、現在は何も残っていません。今日だけで3つの一里塚を通りました。
砂田橋から15分ほど歩くと田んぼの先に荘山(かがりやま)稲荷神社があります。ここに「芭蕉句碑」があるのだそうです。
中部横断自動車道(静岡市の新清水JCTから長野県小諸市の佐久小諸JCTに至る総延長約132kmの高速道路)の下を抜けてひたすら前へ進みます。
これはズッキーニの畑です。根元を見ると、見事なズッキーニが幾つも実っていて、収穫時期を迎えています。実は埼玉県さいたま市の我が家の庭の家庭菜園でも、今年初めてズッキーニを植えてみたのですが、失敗中なのです。葉はここのズッキーニよりも大きく茂っているのですが、肝心の実が結実しないのです。花はそれなりに咲くのですが、どうも雄花と雌花の咲くタイミングが微妙に合わず、失恋続きでうまく受粉しないようなのです。人工授粉に切り替えるなど工夫しないといけません。ミニトマトとキュウリは例年以上に収穫できてるのですが……。
そうそう、ズッキーニって果実の外見はキュウリのように見えて、実はカボチャの仲間だってことをご存知でしょうか。原産地はメキシコのようで、巨大カボチャ種の変種のようです。西洋野菜の代表のような顔をしていますが、実はヨーロッパには植民地活動により16世紀頃に持ち込まれ、本格的に普及が開始したのは20世紀に入ってからのことで、歴史が浅い野菜なのです。余談でした。
大きな土塀の家があったり、建物自体は新しくても屋号が書かれた古い看板を今も掲げている家があったり…、随所で旧中山道らしい歴史を感じさせる街並みが続きます。
おおっ、これは!! 昔の公衆電話ボックスです。元電電公社マンとしてはこういうモノを見掛けると思わず反応してしまいます。渋い!! (ちょっと郵便受けと牛乳瓶受けが邪魔ですが…)
その古い公衆電話ボックスの横は民家の門になっているのですが、その門の上にはツバメの巣がビッシリ並んでいます。ツバメの長屋ってところですね。今も使われている巣があるようで、ところどころで雛がチョコっと巣から顔を出しています。
歴史を感じさせる街並みをさらに進みます。
おお!っと、これは見事に剪定された松の木です。
道の左手に百万遍供養塔が立っています。百万遍(ひゃくまんべん)とは、集落の人々が講を作り、その講の人々が円陣を組んで座り、大きな数珠を送りながら南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を百万遍唱えて、疫病退散などを祈った百万遍念仏のことです。百万遍供養塔は全員の念仏が合わせて百万回に達したのを記念して建てられたものです。ふむふむ、庚申塔もそうですが、その昔、一般庶民はこういうことを楽しみにしていたのですね。
周囲には雄大な佐久平の風景が広がっています。前方には蓼科山、左手には八ヶ岳連峰の山々が見えます。中山道最大の難所である碓氷峠を越えた次は五街道最高地点(標高1,600メートル)の和田峠越えが待っています。その和田峠はあのあたりでしょうか。前方の山々を見ながら、次の難所、和田峠越えが楽しみになってきました。
右手には北陸新幹線越しに浅間山が見えます。
……(その10)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
おちゃめ日記のタグ
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