2017/09/25
中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その6)
長坂橋を渡ってすぐのところに「望月の駒像」が立っています。前述のようにこの北にある「望月の牧」は古来より名馬を産出する所として知られていました。平安時代,諸国の牧(まき:牧場)から貢進された馬を天皇が見る儀式のことを“駒牽き”と呼ぶのですが、その望月の牧の駒牽きに因み、この銅像が建てられました。
「逢坂の 関の清水に 影見えて いまや牽くらむ 望月の駒」 紀貫之
という歌が像の台に刻まれています。
あっ!、うっかりして「望月の駒像」の写真を撮るのを忘れていました。
一度坂を下り、次に坂を登ります。この日のコースは短いわりにはアップダウンが多く、それなりにタフなコースです。
これは馬頭観音です。ホント石像や石碑が多いところです。
望月宿に入っていきます。「望月宿入口」交差点を右折します。ここからはしばらく長野県道166号線を歩きます。
望月宿(もちづきしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて25番目の宿場です。天保14年(1843年)の記録(中山道宿村大概帳)によると、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿内人口は360人でした。手前の八幡宿との間の宿間距離も約30町(約3.3km)と、中山道で2番目の短さです。現在の長野県佐久市望月にあたります。特に大きな宿場ではなかったのですが、馬を売買する人でたいそう賑わったのだそうです。平安時代からこの地を収めていた豪族・望月氏の氏名(うじな)や、その望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として名高い蓼科山裾野に広がる「望月の牧」から、「望月」の名が付いたと言われています。ちなみに、豪族・望月氏の由来も「望月の牧」からであり、前述のように、その「望月の牧」の由来は、一族が毎年旧暦の8月15日の満月の日(望月の日)に馬を朝廷や幕府に献上していたためと言われています。
大和屋呉服店です。土蔵を備えた風格のある家です。
望月宿には現在でも当時の建物が数多く残っています。古風な旅館や出桁造りの家、連子格子(れんじこうし:面格子)、卯建(うだつ)、古い看板のある家が多く、当時の宿場の雰囲気を偲ぶことができます。
元旅籠だったと思われる家がところどころにあります。町並みは昔の雰囲気を残すべく、地元の方々が努力を続けておられる様子が窺えます。
横溝正史原作で石坂浩二さん主演の映画・金田一耕助シリーズの第1作『犬神家の一族』(1976年公開)は信州にある那須というところが舞台なのですが、上田市や佐久市といった長野県一帯で撮影が行われました。その映画『犬神家の一族』の中で、主人公・金田一耕助が投宿する「那須ホテル」は、この望月宿にある「井出野屋旅館」で撮影されたのだそうです。なるほど、歴史を感じさせるけれども、“ホテル”と称しても違和感のない昭和レトロな感じの微妙な新しさも兼ね備えていて、撮影には絶妙な感じがします。
この映画『犬神家の一族』、風で波立つ湖面からニュッと突き出た2本の足のシーンや、不気味なマスクを被った謎の人物“佐清(すけきよ)”などの印象的なシーンが多く、大ヒットを記録しました。公開された当時、私は大学生でしたが、もちろん観にいきました。横溝正史原作ということで、ちょっと怖い映画でした。主人公・金田一耕助が投宿していただけに、この「井出野屋旅館」を使った「那須ホテル」のシーンは多く登場しました。そうそう、那須ホテルの主人の役で、原作者の横溝正史さんが特別出演していました。
旅館「山城屋」です。江戸時代に旅籠として創業し、今でも現役の旅館として営業しています。外観は昔のままですが、内部は近代的で、設備もいいそうです。
望月宿の本陣跡です。本陣を務めていた大森家は小児科医院となり、敷地の大半は望月歴史民俗資料館となっています。入口にある本陣門は再建されたものですが、見事です。
佐久市立望月歴史民俗資料館です。この資料館は建物の内部に解体された民家の梁を使うなど、大変に趣きのある造りとなっています。
望月歴史民俗資料館の入り口前には、望月宿内から集められた歴史的に価値のあるモノの一部が展示されています。これは八幡宿からここに来る途中の百沢で見掛けた「祝言道祖神」の変形です。
これは釣瓶沢(つるべさわ)の「水割場石(みずわりばいし)」と「木樋(きどい)」です。これらは蓼科山の水源(五斗水水源)から引いた用水に設置されていたものです。全水量の九分(一尺八寸)を布施村(現望月 布施)へ流し、一分(二寸)を五郎兵衛新田村(現浅科 甲)へ分けられました。明治11年から17年にかけて水争いが起こり、その結果、九分と一分の分水が決められました。「水割場石」はその分水を行うための堰に用いられていた石です。大きく開いたところを通った水が布施村へ、狭い隙間を通った水が五郎兵衛新田村に流されました。「木樋」は昭和18年に畳石用堰として布施村によって設置されたものです。天然のカラマツを刳り貫いた見事な樋で、これにより、遥か布施村にまで水が運ばれました。
これは「駒(こま)つなぎ石」。江戸時代末期の望月宿は道幅が五間(約9メートル)で、その中央を川(用水路)が流れており、旅人や荷継ぎの馬などに利用されていました。この「駒つなぎ石」は馬や牛などを繋ぎ止めるために利用したものです。馬や牛には動かせませんが、人が持てる重さになっています。
ここ望月は雄大な蓼科山を背景に、豊かな自然と、それにより培われた歴史的風土の中、遥か太古、縄文の昔から人々が数多くの文化を生み出してきたところです。また、東山道や中山道が通っていることから多くの人々が往来し、新たな文化を持ち込み、それらが定着してきました。
この佐久市立望月歴史民俗資料館の館内は写真撮影が禁止でしたので、写真でご紹介はできませんが、その代わりとして資料館のパンフレットの写真とホームページを紹介します。
佐久市立望月歴史民俗資料館HP
この佐久市立望月歴史民俗資料館がこの日のゴールでした。歩き始めてからも空を見上げるたびに見るからに大気の状態が不安定そうな状況が続いていて、いつどこで積乱雲が発生して突然の激しい雷雨に襲われてもおかしくないような状況だったのですが、幸い、雨に降られることはありませんでした。これは、文字通り幸いだったってことで、私はここまで歩いてくる間、時々スマートフォンで降雨レーダーのデータを見てチェックしていたのですが、私達が望月宿にちょうど入った頃、北のほうではこの望月宿からさほど距離も離れていない長野県上田市付近を西から東の方向に(画面上で)赤い色をした激しい雨域が通過中でした。いっぽう南のほうでも、長野県の諏訪地域と佐久地域、及び山梨県の境にある八ヶ岳南麓の小淵沢付近を同じく西から東の方向に赤い色をした激しい雨域が通過中でした。それも雷つきで…。私達がこの日歩いた佐久平地方はその2つの激しい雨域の間の狭い谷間のようなところにあり、これが幸いでした。最後の望月宿に入ったあたりから頬に細かい雨粒が当たるのを感じましたが、雨具を必要とするほどではありませんでした。むしろ、都内で、この時期、時々見かける冷却用のミスト(霧)って感じで気持ちよかったくらいでした。このように、奇跡的に天気に恵まれた…って感じですね。湿度は高かったですが、上空にはずっと薄い雲がかかっていて、直射日光に曝されることもなく、比較的歩きやすいコンディションでしたから。
ちなみに、このように大気の状態が不安定だったのは関東平野南部の首都圏も同じだったようで、首都圏では夕方から広い範囲で激しい雷雨に見舞われました。私が住む埼玉県さいたま市も3時間最大雨量が90ミリと予想され、大雨警報と洪水警報が発表されました。我が家のすぐ近くを流れる鴻沼川も、上流部のさいたま市北区にある十五条橋の観測点で氾濫危険水位を越えたとして、埼玉県が氾濫の危険性が高まっているので厳重に警戒するよう呼びかける(アラートメールを発出する)ほどの状態になりました。この鴻沼川は氾濫危険水位を越えたとされる十五条橋の観測点のすぐ下流に大きな地下貯水池が整備されていることもあり、さらには我が家の近傍は大規模な河川の改修工事が終わっているので、経験則から言って上流の十五条橋の観測点で氾濫危険水位を越えたとしても我が家のあるさいたま市中央区付近はほとんどどうってことはないのですが(20年ほど前に鴻沼川が氾濫して現在のさいたま市中央区のほぼ全域が床下浸水の被害に遭い、激甚災害地域に指定されることがあったので、大掛かりな治水工事が行われました)、さすがに気になります。さいたま市という首都圏の中核都市に洪水警報が発令されるほどの豪雨だったようです。
また、熊谷地方気象台からは竜巻注意情報が出されていたのですが、18時30分頃、上尾市のJR上尾駅前で開かれていた「上尾夏まつり」の会場で、出店していた露店が次々と強風で飛ばされる事態が起きました。露店に設置されていた調理用油の入れ物が倒れて油が飛び散り、周囲にいた男性7人と女性4人が軽い火傷を負う被害が出ました。また、ほぼ同じ時刻、上尾市と隣接する同県桶川市の「桶川祇園祭」の会場でも、露店が強風で倒れ、調理用油で男性1人が火傷を負う被害が出ました。
そういう中、呑気に街道歩きが楽しめたわけです。私の「晴れ男のレジェンド」はこの日も健在でした。この日は約10.6km、歩数にして14,584歩、歩きました。これまでと比べ距離は短かったのですが、塩名田宿から八幡宿、望月宿と3つの宿場を巡り、いろいろなものが見えて、興味深かったです。
佐久市立望月歴史民俗資料館前の駐車場で整理体操のストレッチを行い、観光バスでこの日の宿泊場所であるJR佐久平駅隣のホテル「佐久平プラザ21」に連れていってもらいました。このあたり、旅行会社のツアーを使うと本当に楽です。自分でホテルを予約して中山道を歩こうと思っても、そのホテルまで移動するための手段の確保が問題で、なかなかうまくいきそうにありません。少なくとも私は自信がないです。
まだ時刻は17時を少し回ったところです。夕食の開始は18時半なので、部屋に入るとさっそく大浴場に行き、汗を流しました。このホテルは温泉こそないものの、健康ランド「ニュー健康ランド佐久」が併設されているので、露天風呂やサウナもある大浴場があります。街道歩きの疲れを取るには部屋のユニットバスではなく、大浴場、それも露天風呂に限ります。
写真はホテルの部屋から撮った雄大な浅間山の光景です。前述のように、浅間山の麓の上田市あたりを、先ほど激しい雨域が西から東へと通り過ぎていきました。その雨で空気中の余計な水分が雨となって地上に落下したようで、空気が澄みきっていて、浅間山の山容が綺麗に見えます。山頂から白い噴煙が出ているのも見て取れます。こんなに近くから浅間山の全貌が見えたのは初めてかもしれません。素晴らしい光景でした。
風呂からあがった後は参加した皆さん揃っての夕食。顔馴染みにもなってきているので、夕食タイムは適度にお酒も入って会話が弾みます。外からは遠く打ち上げ花火の音が聞こえてきます。
……(その7)に続きます。
という歌が像の台に刻まれています。
あっ!、うっかりして「望月の駒像」の写真を撮るのを忘れていました。
一度坂を下り、次に坂を登ります。この日のコースは短いわりにはアップダウンが多く、それなりにタフなコースです。
これは馬頭観音です。ホント石像や石碑が多いところです。
望月宿に入っていきます。「望月宿入口」交差点を右折します。ここからはしばらく長野県道166号線を歩きます。
望月宿(もちづきしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて25番目の宿場です。天保14年(1843年)の記録(中山道宿村大概帳)によると、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿内人口は360人でした。手前の八幡宿との間の宿間距離も約30町(約3.3km)と、中山道で2番目の短さです。現在の長野県佐久市望月にあたります。特に大きな宿場ではなかったのですが、馬を売買する人でたいそう賑わったのだそうです。平安時代からこの地を収めていた豪族・望月氏の氏名(うじな)や、その望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として名高い蓼科山裾野に広がる「望月の牧」から、「望月」の名が付いたと言われています。ちなみに、豪族・望月氏の由来も「望月の牧」からであり、前述のように、その「望月の牧」の由来は、一族が毎年旧暦の8月15日の満月の日(望月の日)に馬を朝廷や幕府に献上していたためと言われています。
大和屋呉服店です。土蔵を備えた風格のある家です。
望月宿には現在でも当時の建物が数多く残っています。古風な旅館や出桁造りの家、連子格子(れんじこうし:面格子)、卯建(うだつ)、古い看板のある家が多く、当時の宿場の雰囲気を偲ぶことができます。
元旅籠だったと思われる家がところどころにあります。町並みは昔の雰囲気を残すべく、地元の方々が努力を続けておられる様子が窺えます。
横溝正史原作で石坂浩二さん主演の映画・金田一耕助シリーズの第1作『犬神家の一族』(1976年公開)は信州にある那須というところが舞台なのですが、上田市や佐久市といった長野県一帯で撮影が行われました。その映画『犬神家の一族』の中で、主人公・金田一耕助が投宿する「那須ホテル」は、この望月宿にある「井出野屋旅館」で撮影されたのだそうです。なるほど、歴史を感じさせるけれども、“ホテル”と称しても違和感のない昭和レトロな感じの微妙な新しさも兼ね備えていて、撮影には絶妙な感じがします。
この映画『犬神家の一族』、風で波立つ湖面からニュッと突き出た2本の足のシーンや、不気味なマスクを被った謎の人物“佐清(すけきよ)”などの印象的なシーンが多く、大ヒットを記録しました。公開された当時、私は大学生でしたが、もちろん観にいきました。横溝正史原作ということで、ちょっと怖い映画でした。主人公・金田一耕助が投宿していただけに、この「井出野屋旅館」を使った「那須ホテル」のシーンは多く登場しました。そうそう、那須ホテルの主人の役で、原作者の横溝正史さんが特別出演していました。
旅館「山城屋」です。江戸時代に旅籠として創業し、今でも現役の旅館として営業しています。外観は昔のままですが、内部は近代的で、設備もいいそうです。
望月宿の本陣跡です。本陣を務めていた大森家は小児科医院となり、敷地の大半は望月歴史民俗資料館となっています。入口にある本陣門は再建されたものですが、見事です。
佐久市立望月歴史民俗資料館です。この資料館は建物の内部に解体された民家の梁を使うなど、大変に趣きのある造りとなっています。
望月歴史民俗資料館の入り口前には、望月宿内から集められた歴史的に価値のあるモノの一部が展示されています。これは八幡宿からここに来る途中の百沢で見掛けた「祝言道祖神」の変形です。
これは釣瓶沢(つるべさわ)の「水割場石(みずわりばいし)」と「木樋(きどい)」です。これらは蓼科山の水源(五斗水水源)から引いた用水に設置されていたものです。全水量の九分(一尺八寸)を布施村(現望月 布施)へ流し、一分(二寸)を五郎兵衛新田村(現浅科 甲)へ分けられました。明治11年から17年にかけて水争いが起こり、その結果、九分と一分の分水が決められました。「水割場石」はその分水を行うための堰に用いられていた石です。大きく開いたところを通った水が布施村へ、狭い隙間を通った水が五郎兵衛新田村に流されました。「木樋」は昭和18年に畳石用堰として布施村によって設置されたものです。天然のカラマツを刳り貫いた見事な樋で、これにより、遥か布施村にまで水が運ばれました。
これは「駒(こま)つなぎ石」。江戸時代末期の望月宿は道幅が五間(約9メートル)で、その中央を川(用水路)が流れており、旅人や荷継ぎの馬などに利用されていました。この「駒つなぎ石」は馬や牛などを繋ぎ止めるために利用したものです。馬や牛には動かせませんが、人が持てる重さになっています。
ここ望月は雄大な蓼科山を背景に、豊かな自然と、それにより培われた歴史的風土の中、遥か太古、縄文の昔から人々が数多くの文化を生み出してきたところです。また、東山道や中山道が通っていることから多くの人々が往来し、新たな文化を持ち込み、それらが定着してきました。
この佐久市立望月歴史民俗資料館の館内は写真撮影が禁止でしたので、写真でご紹介はできませんが、その代わりとして資料館のパンフレットの写真とホームページを紹介します。
佐久市立望月歴史民俗資料館HP
この佐久市立望月歴史民俗資料館がこの日のゴールでした。歩き始めてからも空を見上げるたびに見るからに大気の状態が不安定そうな状況が続いていて、いつどこで積乱雲が発生して突然の激しい雷雨に襲われてもおかしくないような状況だったのですが、幸い、雨に降られることはありませんでした。これは、文字通り幸いだったってことで、私はここまで歩いてくる間、時々スマートフォンで降雨レーダーのデータを見てチェックしていたのですが、私達が望月宿にちょうど入った頃、北のほうではこの望月宿からさほど距離も離れていない長野県上田市付近を西から東の方向に(画面上で)赤い色をした激しい雨域が通過中でした。いっぽう南のほうでも、長野県の諏訪地域と佐久地域、及び山梨県の境にある八ヶ岳南麓の小淵沢付近を同じく西から東の方向に赤い色をした激しい雨域が通過中でした。それも雷つきで…。私達がこの日歩いた佐久平地方はその2つの激しい雨域の間の狭い谷間のようなところにあり、これが幸いでした。最後の望月宿に入ったあたりから頬に細かい雨粒が当たるのを感じましたが、雨具を必要とするほどではありませんでした。むしろ、都内で、この時期、時々見かける冷却用のミスト(霧)って感じで気持ちよかったくらいでした。このように、奇跡的に天気に恵まれた…って感じですね。湿度は高かったですが、上空にはずっと薄い雲がかかっていて、直射日光に曝されることもなく、比較的歩きやすいコンディションでしたから。
ちなみに、このように大気の状態が不安定だったのは関東平野南部の首都圏も同じだったようで、首都圏では夕方から広い範囲で激しい雷雨に見舞われました。私が住む埼玉県さいたま市も3時間最大雨量が90ミリと予想され、大雨警報と洪水警報が発表されました。我が家のすぐ近くを流れる鴻沼川も、上流部のさいたま市北区にある十五条橋の観測点で氾濫危険水位を越えたとして、埼玉県が氾濫の危険性が高まっているので厳重に警戒するよう呼びかける(アラートメールを発出する)ほどの状態になりました。この鴻沼川は氾濫危険水位を越えたとされる十五条橋の観測点のすぐ下流に大きな地下貯水池が整備されていることもあり、さらには我が家の近傍は大規模な河川の改修工事が終わっているので、経験則から言って上流の十五条橋の観測点で氾濫危険水位を越えたとしても我が家のあるさいたま市中央区付近はほとんどどうってことはないのですが(20年ほど前に鴻沼川が氾濫して現在のさいたま市中央区のほぼ全域が床下浸水の被害に遭い、激甚災害地域に指定されることがあったので、大掛かりな治水工事が行われました)、さすがに気になります。さいたま市という首都圏の中核都市に洪水警報が発令されるほどの豪雨だったようです。
また、熊谷地方気象台からは竜巻注意情報が出されていたのですが、18時30分頃、上尾市のJR上尾駅前で開かれていた「上尾夏まつり」の会場で、出店していた露店が次々と強風で飛ばされる事態が起きました。露店に設置されていた調理用油の入れ物が倒れて油が飛び散り、周囲にいた男性7人と女性4人が軽い火傷を負う被害が出ました。また、ほぼ同じ時刻、上尾市と隣接する同県桶川市の「桶川祇園祭」の会場でも、露店が強風で倒れ、調理用油で男性1人が火傷を負う被害が出ました。
そういう中、呑気に街道歩きが楽しめたわけです。私の「晴れ男のレジェンド」はこの日も健在でした。この日は約10.6km、歩数にして14,584歩、歩きました。これまでと比べ距離は短かったのですが、塩名田宿から八幡宿、望月宿と3つの宿場を巡り、いろいろなものが見えて、興味深かったです。
佐久市立望月歴史民俗資料館前の駐車場で整理体操のストレッチを行い、観光バスでこの日の宿泊場所であるJR佐久平駅隣のホテル「佐久平プラザ21」に連れていってもらいました。このあたり、旅行会社のツアーを使うと本当に楽です。自分でホテルを予約して中山道を歩こうと思っても、そのホテルまで移動するための手段の確保が問題で、なかなかうまくいきそうにありません。少なくとも私は自信がないです。
まだ時刻は17時を少し回ったところです。夕食の開始は18時半なので、部屋に入るとさっそく大浴場に行き、汗を流しました。このホテルは温泉こそないものの、健康ランド「ニュー健康ランド佐久」が併設されているので、露天風呂やサウナもある大浴場があります。街道歩きの疲れを取るには部屋のユニットバスではなく、大浴場、それも露天風呂に限ります。
写真はホテルの部屋から撮った雄大な浅間山の光景です。前述のように、浅間山の麓の上田市あたりを、先ほど激しい雨域が西から東へと通り過ぎていきました。その雨で空気中の余計な水分が雨となって地上に落下したようで、空気が澄みきっていて、浅間山の山容が綺麗に見えます。山頂から白い噴煙が出ているのも見て取れます。こんなに近くから浅間山の全貌が見えたのは初めてかもしれません。素晴らしい光景でした。
風呂からあがった後は参加した皆さん揃っての夕食。顔馴染みにもなってきているので、夕食タイムは適度にお酒も入って会話が弾みます。外からは遠く打ち上げ花火の音が聞こえてきます。
……(その7)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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