2018/02/16
邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その8)
貞光町で国道438号線に入ってから狭い国道438号線を走ること約1時間半 (徳島市からクルマで走ること約2時間半)、やっと見ノ越の剣山登山口に到着しました。見ノ越は剣山の北方の鞍部にあり、徳島県美馬市木屋平(こやだいら:旧美馬郡木屋平村)と三好市東祖谷(旧三好郡東祖谷山村)の境、剣山と丸笹山の間に位置する峠で、標高は1,410メートル。古くからある峠道で、現在はその峠道の下を国道438号線の見ノ越トンネルが通っています。貞光町側からやってくると、その見ノ越トンネルの手前一体には剣山登山用リフトの乗り場と土産物屋及び民宿が立ち並んでおり、登山シーズンには観光客でかなりの賑わいを見せるそうです。この日も剣山に登山に来た登山客のクルマが駐車場に何台も停まっています。
前述のように、この見ノ越の標高は1,410メートル。ここに至るまでまったく路面に雪は積もっていなかったのに、この剣山登山口のところだけうっすらと路面に雪が積もっています。前日に行者の宮本さんからお聞きした情報によると、徳島市から神山町経由の国道438号線は神山町から先の区間が先週末に降った雪のため大変に危険な状態のはずだから行かないほうがいいということでしたが、同じ国道438号線でも反対側の貞光町経由のルートのほうはここまでまったく路面に雪はありませんでした。牧さんはクルマのタイヤをスタッドレスタイヤに変えていて、それなりの準備はしていたものの、細い道だし雪が積もっていたら危険だから引き返そうということにしていたのですが、ちょっぴり拍子抜けです。標高1,955メートルの剣山は山の北側と南側で気象条件がまったく異なるようです。
徳島県は,大きく2つの気候区分に大別されます。北部(特に西部)は瀬戸内気候に属し、南部は太平洋気候に属しています。剣山を含む四国山地より北の地域は全国的に見ても少雨の地域ですが、南の地域は日本でも有数の多雨地域に入り、1976年9月11日に剣山で観測した726.0ミリという日降水量は、アメダスの観測地点の歴代ランキングで第9位に入っています。徳島県は県の面積の約8割を山地が占めていることや、県西部の山間部では沿岸部に比べ気温の変動が大きいなど、気候特性は非常に複雑になっていて、これらの気候特性が徳島県を自然災害の多発する地域にしています。
徳島県における年平均気温は、県東部の海岸地方では約16℃で、県西部の山沿い地方に向かうに従い次第に低くなる傾向にあります。県内で最も寒冷地にあたる剣山周辺(剣山山頂は除く)の山麓地方の年平均気温は約12℃で、海岸地方と比べ4℃もの差があります。月平均気温の差は、夏は小さく、冬は大きくなり、時にはその差は7℃にも達します。徳島県の年平均降水量は、剣山系の南側(太平洋側)で約3,000~3,500ミリ、北側(瀬戸内海側)で約1,300ミリとなっていて、極端に異なっています。剣山系を境として、県北部(瀬戸内海側)の降水量は県南部(太平洋側)の降水量の2分の1以下となっているのが大きな特徴です。雨の多い年には剣山系の南側(太平洋側)では、4,000~5,000ミリに達することもある日本有数の多雨地域として知られています。台風が襲来した際にはたびたび物凄い豪雨に見舞われます。この地域にある徳島県那賀郡那賀町海川(旧上那賀町海川)で平成16年(2004年)8月1日に観測された1,317ミリは、1日の降水量としての日本記録となっています。それ以前の日本記録も、同じく那賀町木頭日早(旧木頭村日早)で昭和51年(1976年)9月11日に観測された1,114ミリでした。1日に降った雨の量が1,317ミリ。1,317ミリと言えば1メートル31センチ7ミリです。大人の胸を超えるくらいの雨が24時間で降ったことになります。気象庁の雨の強さを表す表現では「時間雨量が50ミリ以上 80ミリ未満」は「非常に激しい雨」、「80ミリ以上」は「猛烈な雨」と表されます。その「非常に激しい雨」以上の雨が24時間ずっと降り続かないと1,317ミリなんてとんでもない数字にはなりません。想像を絶する降りかたです。そのくらい多雨の地域だと言うことです。
気象庁HP「災害をもたらした気象事例」
これは太平洋からの温かく湿った空気が南から大量に流れ込んできて、この剣山を中心として屏風のように立ちはだかる1,800メートルを超える四国山地の山々にぶつかるからです。雪も同じなのでしょう。南から流れ込む太平洋からの温かく湿った空気が、剣山系の山々の頂上付近で北(大陸)から流れ込む乾いた冷たい空気とぶつかって雪を降らせるわけです。このため、この剣山系では南側斜面のほうに多く積雪するようです。剣山の南側(太平洋側)を走る国道438号線(国道439号線と重複)の神山町より先の徳島県コリトリ~見ノ越間は冬季閉鎖になるそうで、冬季は北側(瀬戸内海側)の国道438号線だけが徳島市からこの剣山登山口まで通行可能な道路となるようです。
剣山(つるぎさん)は標高1,955mメートル。徳島県の最高峰で、日本百名山の一つに選定されている山です。徳島県では県のシンボルともされて親しまれています。千数百メートル級の山々が屏風のように連なる四国山地の東部にあり、同じく四国山地の西部(愛媛県)にある石鎚山(標高1,982メートル)に次いで、近畿以西の西日本では2番目に高い山です。一帯は剣山国定公園に指定され、山頂には一等三角点「剣山」が設置されています。
修験道の山として古くから知られ、山頂近くには「行場」と呼ばれる修行用の難所があるほか、山岳信仰の対象とされ劒神社、大劒神社、龍光寺、円福寺などがあります。山名の由来は安徳天皇ゆかりの剣にちなむとされていますが、山頂直下にある大劒神社の剣岩が由来とする説もあります。
剣山という名称から険しい山のように思われがちですが、頂上付近はなだらかで、登山としては結構余裕を持って登れる山です。冬期を除き登山口の見ノ越駅(標高1,420メートル:7合目)から登山道中央付近の西島駅(標高1,750メートル:9合目)までの全長830メートル、高低差330メートルを約15分で結ぶ剣山観光登山リフトが運行されていて、日本百名山の中では筑波山や伊吹山、大台ヶ原山と並び、最も登りやすい山の1つになっています。「平家の馬場」と呼ばれる山頂付近は、ミヤマクマザサを中心とする平坦な草原となっています。
剣山山頂付近にはかつて富士山山頂に次ぐ、日本で2番目に高い標高にある気象庁の測候所があったのですが(1943年設置)、1991年に自動化されて無人となり、高層気象観測技術の革新により、2001年に廃止されました。建物や屋外の観測機器の多くは今でも撤去されていないのだそうです。
剣山観光登山リフトで標高1,750メートル(9合目)の西島駅を目指します。スキー場で見かける1人乗リフトと同じタイプで、秒速1メートルほどの歩くくらいのスピードで、のんびりと進んで行きます。座っているだけで標高1,750メートルの地点まで連れて行ってくれるので楽チンなのですが、この時期は標高が高くなるにつれ徐々に気温が下がり、寒くなってきます。間違いなく氷点下です。ヒートテックの下着にかなり重ね着をしてきたのですが、それでも寒く感じます。加えて、風が強くなり、リフトが左右に揺れます。
標高1,750メートル(9合目)の西島駅に到着しました。ここまで登ってくると雪が薄く積もっています。
見上げると剣山の山頂付近は雲に霞んでいて見えません。山頂はすぐそこに見えるはずなのですが、どうも雪が降っているようです。それもこの風だと吹雪いている感じです。降雨レーダーで確認すると、ちょうど愛媛県松山市付近から積乱雲と思われる強い雨量の雲が四国山地に沿って東に向かって移動してきています。この影響なのでしょうね、きっと。
私と大塚さんは装備も軽く、よっぽど環境条件が良くないと山頂までは行かない予定でしたので、この一面の雪を見て山頂を目指すのは断念。牧さんと岸本さん、村上さんの3人は山頂をアタックしようとやる気マンマンの様子だったのですが、先に山頂を目指していた登山客の皆さんが雪で前が見えないので山頂アタックを断念して次々と下山してくる様子を見て、これまた断念。この西島駅周辺を散策することにしました。散策と言ってもここは標高1,750メートルの剣山の9合目。しかも量は少ないですが、一面雪の中。登山気分は十分に味わえます。
標高が高いため、ここから山頂の近辺までは亜高山帯の針葉樹林になっています。生えているのはシラビソやコメツガでしょうか。山頂付近にはコメツガ、ウラジロモミのほか、固有種のシコクシラベが生育しており、一部は林野庁により「鎗戸シコクシラベ林木遺伝資源保存林」に指定されて、保護されているようです。周囲の林は樹氷になっています。ちょっと幻想的な光景です。
徳島に伝わる古代ユダヤ伝説では、古代ユダヤ人がメソポタミアからもってきた聖櫃(アーク)がこの剣山の山中に隠されていて、どうも山頂にある大劒神社が大きな鍵を握っているようだということで、牧さんと岸本さん、村上さんの3人も山頂というよりもその大劒神社に参拝してみたかったようなのですが、この雪ではどうしようもありません。その代わりに小さな祠があったので、そこに参拝しておきました。案内看板によるとここから山頂までは約40分の登山で到達できそうです。しかもなだらかな稜線を行くので、気象条件さえよければ楽に山頂まで到達できそうです。ですが、この日は雪もそうですが、風が強いので、かなり危険と思われます。この9合目の北側斜面にある西島駅周辺でこの風の強さですから、稜線は相当の風でしょう。
風も強くなってきたし、寒いので早々に剣山観光登山リフトに乗って下山することにしました。風でリフトが左右に揺れます。小雪が吹雪のようになって顔に吹き付けてきます。それも少し高度が下がると収まり、目の前に剣山の北側(瀬戸内海側)の山々が重なる雄大な景色が広がります。山は左右(東西方向)に幾重にもなって連なっています。貞光町から国道438号線でこの山々の中を分け入るように走ってきたのですね。その山々の高さはリフトに乗った私の目線よりも低いので、かなり遠くまで見渡せます。登りは空と剣山の山肌しか見えなかったのですが、下りは見事な絶景が楽しめました。リフトは下りが楽しいです。写真を撮りたかったのですが、カメラ(スマホ)を落としてしまったら大変なことになるので、ここは諦めて記憶に残しておくことにしました。
高低差330メートルを登りと同じく約15分で標高1,420メートル(7合目)見ノ越駅まで下ってきました。ここまで下ってくると風はほとんど感じず、晴れています。山の天気はホント難しいです。
国道438号線沿いにお土産物屋兼食堂があり、そこで昼食を摂りました。食べたのはおでんと祖谷そば。温かくて美味しかったです。冷たい風に晒されて冷えた身体もしっかり暖まりました。
そのお店に面白そうな本があったので、迷わず3冊も購入しちゃいました。
私が購入したこの3冊の本の著者はいずれも大杉博さん。大杉博さんは昭和4年(1929年)、岡山県のお生まれ。昭和51年(1976年)から古代史の研究を始め、『日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-』を自費出版。昭和52年(1977年)に「倭国(いのくに)研究会」を主宰。昭和54年(1979年)、自費出版した『ついに解けた古代史の謎』で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。昭和56年(1981年)に倭国(いのくに)研究所を設立し、所長に就任。平成4年(1992年)、『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』(たま出版)を発表して、それまでの研究成果を世に問いました。「邪馬台国四国説」の論客で最も精力的に活動された徳島県三好市池田町在住の郷土史家でした。著書にはほかに『古代ユダヤと日本建国の秘密』、『邪馬台国の結論は四国山上説だ』、『天皇家の大秘密政策―大和朝廷の出自隠し1300年の密謀』、『古代ユダヤと日本建国の秘密―消えたユダヤの秘宝と四国・剣山の謎』など多数あります (それにしても、なんとも刺激的な題名の本ばかりですね。これじゃあ、いわゆる“トンデモ本”と思われても仕方ありませんわね)。
私は大杉博氏の書かれた『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』の概要をネットで読んで、それをきっかけに問題作『エッ! 邪馬台国は四国にあった?』を書いたのですが、実は大杉博さんの著書をこれまでじっくり読んだことはありませんでした。きっかけはいただいたのですが、余計な先入観を入れずに、あくまでも私自身が立てた論理(理系の歴史学)による仮説を構築してみたかったからです。今回、縁あって剣山の見ノ越で購入したこの3冊の本で、改めて大杉博さんの説をじっくりと読み解きたいと思っています。
ちなみに、大杉博さんは「山の民」を表す「山人(やまと)」が「大和(やまと)」の語源だとされています。なるほど、「山の民の国」ですか……。
「山の民」がいるとすれば「海の民」もいたはずで、その「海の民」が作った国があっても良さそうなので、調べてみると……アッ!と、すぐに見つかりました。紀伊水道に面した徳島県南部に海部郡(かいふぐん)という郡があります。高知県安芸郡と県境で接し、牟岐町(むぎちょう)、美波町(みなみちょう)、海陽町(かいようちょう)の3つの町があります。さらに調べてみると、このあたりは古い時代には海運が盛んな地域だったようで、豊富な森林資源と強力な海運力によりかなり繁栄していたようです。海陽町の海部地区にある「芝遺跡」からは3世紀頃に他地域で作られ、ここまで運ばれてきたと思われる土器が多数出土しています。また、徳島県南部で最大の横穴式円墳「大里古墳」もあります。
魏志倭人伝には「邪馬台国の南には狗奴(クナ)國があり、男子を王としている。その官を狗古智卑狗(クコチヒク)といい、女王には属していない 」という文章が書かれています。
エッ!邪馬台国は四国にあった?(その2)
『おちゃめ日記』には邪馬台国周辺の想定地図も載せています。
エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)
この「エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)」に載せた想定地図を見ていただくと、邪馬台国(山の民の国)の南にある邪馬台国に属していないと言われる狗奴(クナ)國は、まさに現在の徳島県海部郡から南の地域にあたります。ここは「海の民の国」、「山の民の国」である邪馬台国とは別の部族が作った国と言えるかもしれません。また一つ、邪馬台国が四国にあったとする仮説を裏付ける証拠が見つかった感じで、ちょっと興奮してきました。
はるばるメソポタミアから徳島にたどり着いた古代ユダヤの人達は、この剣山の山中に聖櫃(アーク)を埋蔵したという噂があります。そのアークが隠されている剣山に誰も近づけさせないために、人々の注意を逸らす目的で、弘法大師が「四国八十八ヶ所霊場」を設けたという話があります。実際、八十八ヶ所の札所のどこからも剣山は見えないと言われています。おそらくその聖櫃(アーク)とは天皇家にとって大切なものであって、それを隠すための事業として、弘法大師は霊場の整備を朝廷から請け負ったとも考えられます。なぜなら88ヶ所もの寺院を作ってそれを維持するのは、資金的にも弘法大師1人でできるような事業ではないからです。おそらく実際の建設は、当時の公共事業として進められたのではないでしょうか。
ちなみに、大杉博さんが主宰しておられた「倭国研究会」では「倭国」を「わこく、わのくに」でなく、「いのくに」と読ませています。確かに“倭”は“い”と読むのが一般的です。委員会の“委(い)”にニンベンが付いた漢字ですからね。“わ”と読ませるほうが不自然と言えば不自然です。また、(その5)で書かせていただきましたように、古事記や日本書紀には「国産み」と呼ばれる日本国の国土(大八島:おおやしま)創世譚を伝える神話が書かれているのですが、イザナギとイザナミの二柱の神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜ、最初に産んだのが「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」で淡路島。次に産んだのが「伊豫(伊予)之二名島(いよのふたなのしま)」で四国のこととされています。この「伊予」、一般的には現在の愛媛県のことだと思われがちなのですが、実は“伊”の国と“予”の国の2つの国のことです。だって、古事記にも日本書紀にも「伊予之二名島」、すなわち「“伊”と“予”の2つの名を持つ島」であると明確に書かれているわけですから。
このうち“予”の国が現在の愛媛県を中心とした四国の西半分。その証拠に、愛媛県は「東予」、「中予」、「南予」という3つの地域に分かれているのですが、そこで用いられるのは“予”。大分県大分市(旧佐賀関町)の関崎と、愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬の間の海峡のことは「豊予海峡」と呼ばれています。大分県(豊後国)と愛媛県(伊予国)の間と言う意味で豊予海峡なのですが、そこでも使われているのは“予”。さらに、香川県(讃岐国)の高松駅と愛媛県(伊予国)の宇和島駅を結ぶJR四国の鉄道路線は「予讃線」。ここでも“予”が用いられ、 “伊”が使われることは私が知る限りまったくありません。伊予国のことを昔は「豫州(予州)」とも呼んでいましたし。
いっぽうで、徳島県(阿波国)と和歌山県の間の海峡のことを紀伊水道と呼びます。和歌山県はもともと“紀”の国と呼ばれていたので用いられたと思うのですが、その次の“伊”。これは、徳島県(阿波国)が古代は“伊”の国と呼ばれていたから、この徳島県と和歌山県の間の海峡の名前を紀伊水道にしたのではないか…という推論が成り立ちます。こういうことから「倭国研究会」では現在の徳島県や香川県、高知県を含む四国の東半分は“伊”の国であったとし、「倭国」は「いのくに」と読むのが正しい…という主張をされておられるようです。この推論を私は論理的に支持します。
……(その9)に続きます。
前述のように、この見ノ越の標高は1,410メートル。ここに至るまでまったく路面に雪は積もっていなかったのに、この剣山登山口のところだけうっすらと路面に雪が積もっています。前日に行者の宮本さんからお聞きした情報によると、徳島市から神山町経由の国道438号線は神山町から先の区間が先週末に降った雪のため大変に危険な状態のはずだから行かないほうがいいということでしたが、同じ国道438号線でも反対側の貞光町経由のルートのほうはここまでまったく路面に雪はありませんでした。牧さんはクルマのタイヤをスタッドレスタイヤに変えていて、それなりの準備はしていたものの、細い道だし雪が積もっていたら危険だから引き返そうということにしていたのですが、ちょっぴり拍子抜けです。標高1,955メートルの剣山は山の北側と南側で気象条件がまったく異なるようです。
徳島県は,大きく2つの気候区分に大別されます。北部(特に西部)は瀬戸内気候に属し、南部は太平洋気候に属しています。剣山を含む四国山地より北の地域は全国的に見ても少雨の地域ですが、南の地域は日本でも有数の多雨地域に入り、1976年9月11日に剣山で観測した726.0ミリという日降水量は、アメダスの観測地点の歴代ランキングで第9位に入っています。徳島県は県の面積の約8割を山地が占めていることや、県西部の山間部では沿岸部に比べ気温の変動が大きいなど、気候特性は非常に複雑になっていて、これらの気候特性が徳島県を自然災害の多発する地域にしています。
徳島県における年平均気温は、県東部の海岸地方では約16℃で、県西部の山沿い地方に向かうに従い次第に低くなる傾向にあります。県内で最も寒冷地にあたる剣山周辺(剣山山頂は除く)の山麓地方の年平均気温は約12℃で、海岸地方と比べ4℃もの差があります。月平均気温の差は、夏は小さく、冬は大きくなり、時にはその差は7℃にも達します。徳島県の年平均降水量は、剣山系の南側(太平洋側)で約3,000~3,500ミリ、北側(瀬戸内海側)で約1,300ミリとなっていて、極端に異なっています。剣山系を境として、県北部(瀬戸内海側)の降水量は県南部(太平洋側)の降水量の2分の1以下となっているのが大きな特徴です。雨の多い年には剣山系の南側(太平洋側)では、4,000~5,000ミリに達することもある日本有数の多雨地域として知られています。台風が襲来した際にはたびたび物凄い豪雨に見舞われます。この地域にある徳島県那賀郡那賀町海川(旧上那賀町海川)で平成16年(2004年)8月1日に観測された1,317ミリは、1日の降水量としての日本記録となっています。それ以前の日本記録も、同じく那賀町木頭日早(旧木頭村日早)で昭和51年(1976年)9月11日に観測された1,114ミリでした。1日に降った雨の量が1,317ミリ。1,317ミリと言えば1メートル31センチ7ミリです。大人の胸を超えるくらいの雨が24時間で降ったことになります。気象庁の雨の強さを表す表現では「時間雨量が50ミリ以上 80ミリ未満」は「非常に激しい雨」、「80ミリ以上」は「猛烈な雨」と表されます。その「非常に激しい雨」以上の雨が24時間ずっと降り続かないと1,317ミリなんてとんでもない数字にはなりません。想像を絶する降りかたです。そのくらい多雨の地域だと言うことです。
気象庁HP「災害をもたらした気象事例」
これは太平洋からの温かく湿った空気が南から大量に流れ込んできて、この剣山を中心として屏風のように立ちはだかる1,800メートルを超える四国山地の山々にぶつかるからです。雪も同じなのでしょう。南から流れ込む太平洋からの温かく湿った空気が、剣山系の山々の頂上付近で北(大陸)から流れ込む乾いた冷たい空気とぶつかって雪を降らせるわけです。このため、この剣山系では南側斜面のほうに多く積雪するようです。剣山の南側(太平洋側)を走る国道438号線(国道439号線と重複)の神山町より先の徳島県コリトリ~見ノ越間は冬季閉鎖になるそうで、冬季は北側(瀬戸内海側)の国道438号線だけが徳島市からこの剣山登山口まで通行可能な道路となるようです。
剣山(つるぎさん)は標高1,955mメートル。徳島県の最高峰で、日本百名山の一つに選定されている山です。徳島県では県のシンボルともされて親しまれています。千数百メートル級の山々が屏風のように連なる四国山地の東部にあり、同じく四国山地の西部(愛媛県)にある石鎚山(標高1,982メートル)に次いで、近畿以西の西日本では2番目に高い山です。一帯は剣山国定公園に指定され、山頂には一等三角点「剣山」が設置されています。
修験道の山として古くから知られ、山頂近くには「行場」と呼ばれる修行用の難所があるほか、山岳信仰の対象とされ劒神社、大劒神社、龍光寺、円福寺などがあります。山名の由来は安徳天皇ゆかりの剣にちなむとされていますが、山頂直下にある大劒神社の剣岩が由来とする説もあります。
剣山という名称から険しい山のように思われがちですが、頂上付近はなだらかで、登山としては結構余裕を持って登れる山です。冬期を除き登山口の見ノ越駅(標高1,420メートル:7合目)から登山道中央付近の西島駅(標高1,750メートル:9合目)までの全長830メートル、高低差330メートルを約15分で結ぶ剣山観光登山リフトが運行されていて、日本百名山の中では筑波山や伊吹山、大台ヶ原山と並び、最も登りやすい山の1つになっています。「平家の馬場」と呼ばれる山頂付近は、ミヤマクマザサを中心とする平坦な草原となっています。
剣山山頂付近にはかつて富士山山頂に次ぐ、日本で2番目に高い標高にある気象庁の測候所があったのですが(1943年設置)、1991年に自動化されて無人となり、高層気象観測技術の革新により、2001年に廃止されました。建物や屋外の観測機器の多くは今でも撤去されていないのだそうです。
剣山観光登山リフトで標高1,750メートル(9合目)の西島駅を目指します。スキー場で見かける1人乗リフトと同じタイプで、秒速1メートルほどの歩くくらいのスピードで、のんびりと進んで行きます。座っているだけで標高1,750メートルの地点まで連れて行ってくれるので楽チンなのですが、この時期は標高が高くなるにつれ徐々に気温が下がり、寒くなってきます。間違いなく氷点下です。ヒートテックの下着にかなり重ね着をしてきたのですが、それでも寒く感じます。加えて、風が強くなり、リフトが左右に揺れます。
標高1,750メートル(9合目)の西島駅に到着しました。ここまで登ってくると雪が薄く積もっています。
見上げると剣山の山頂付近は雲に霞んでいて見えません。山頂はすぐそこに見えるはずなのですが、どうも雪が降っているようです。それもこの風だと吹雪いている感じです。降雨レーダーで確認すると、ちょうど愛媛県松山市付近から積乱雲と思われる強い雨量の雲が四国山地に沿って東に向かって移動してきています。この影響なのでしょうね、きっと。
私と大塚さんは装備も軽く、よっぽど環境条件が良くないと山頂までは行かない予定でしたので、この一面の雪を見て山頂を目指すのは断念。牧さんと岸本さん、村上さんの3人は山頂をアタックしようとやる気マンマンの様子だったのですが、先に山頂を目指していた登山客の皆さんが雪で前が見えないので山頂アタックを断念して次々と下山してくる様子を見て、これまた断念。この西島駅周辺を散策することにしました。散策と言ってもここは標高1,750メートルの剣山の9合目。しかも量は少ないですが、一面雪の中。登山気分は十分に味わえます。
標高が高いため、ここから山頂の近辺までは亜高山帯の針葉樹林になっています。生えているのはシラビソやコメツガでしょうか。山頂付近にはコメツガ、ウラジロモミのほか、固有種のシコクシラベが生育しており、一部は林野庁により「鎗戸シコクシラベ林木遺伝資源保存林」に指定されて、保護されているようです。周囲の林は樹氷になっています。ちょっと幻想的な光景です。
徳島に伝わる古代ユダヤ伝説では、古代ユダヤ人がメソポタミアからもってきた聖櫃(アーク)がこの剣山の山中に隠されていて、どうも山頂にある大劒神社が大きな鍵を握っているようだということで、牧さんと岸本さん、村上さんの3人も山頂というよりもその大劒神社に参拝してみたかったようなのですが、この雪ではどうしようもありません。その代わりに小さな祠があったので、そこに参拝しておきました。案内看板によるとここから山頂までは約40分の登山で到達できそうです。しかもなだらかな稜線を行くので、気象条件さえよければ楽に山頂まで到達できそうです。ですが、この日は雪もそうですが、風が強いので、かなり危険と思われます。この9合目の北側斜面にある西島駅周辺でこの風の強さですから、稜線は相当の風でしょう。
風も強くなってきたし、寒いので早々に剣山観光登山リフトに乗って下山することにしました。風でリフトが左右に揺れます。小雪が吹雪のようになって顔に吹き付けてきます。それも少し高度が下がると収まり、目の前に剣山の北側(瀬戸内海側)の山々が重なる雄大な景色が広がります。山は左右(東西方向)に幾重にもなって連なっています。貞光町から国道438号線でこの山々の中を分け入るように走ってきたのですね。その山々の高さはリフトに乗った私の目線よりも低いので、かなり遠くまで見渡せます。登りは空と剣山の山肌しか見えなかったのですが、下りは見事な絶景が楽しめました。リフトは下りが楽しいです。写真を撮りたかったのですが、カメラ(スマホ)を落としてしまったら大変なことになるので、ここは諦めて記憶に残しておくことにしました。
高低差330メートルを登りと同じく約15分で標高1,420メートル(7合目)見ノ越駅まで下ってきました。ここまで下ってくると風はほとんど感じず、晴れています。山の天気はホント難しいです。
国道438号線沿いにお土産物屋兼食堂があり、そこで昼食を摂りました。食べたのはおでんと祖谷そば。温かくて美味しかったです。冷たい風に晒されて冷えた身体もしっかり暖まりました。
そのお店に面白そうな本があったので、迷わず3冊も購入しちゃいました。
私が購入したこの3冊の本の著者はいずれも大杉博さん。大杉博さんは昭和4年(1929年)、岡山県のお生まれ。昭和51年(1976年)から古代史の研究を始め、『日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-』を自費出版。昭和52年(1977年)に「倭国(いのくに)研究会」を主宰。昭和54年(1979年)、自費出版した『ついに解けた古代史の謎』で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。昭和56年(1981年)に倭国(いのくに)研究所を設立し、所長に就任。平成4年(1992年)、『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』(たま出版)を発表して、それまでの研究成果を世に問いました。「邪馬台国四国説」の論客で最も精力的に活動された徳島県三好市池田町在住の郷土史家でした。著書にはほかに『古代ユダヤと日本建国の秘密』、『邪馬台国の結論は四国山上説だ』、『天皇家の大秘密政策―大和朝廷の出自隠し1300年の密謀』、『古代ユダヤと日本建国の秘密―消えたユダヤの秘宝と四国・剣山の謎』など多数あります (それにしても、なんとも刺激的な題名の本ばかりですね。これじゃあ、いわゆる“トンデモ本”と思われても仕方ありませんわね)。
私は大杉博氏の書かれた『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』の概要をネットで読んで、それをきっかけに問題作『エッ! 邪馬台国は四国にあった?』を書いたのですが、実は大杉博さんの著書をこれまでじっくり読んだことはありませんでした。きっかけはいただいたのですが、余計な先入観を入れずに、あくまでも私自身が立てた論理(理系の歴史学)による仮説を構築してみたかったからです。今回、縁あって剣山の見ノ越で購入したこの3冊の本で、改めて大杉博さんの説をじっくりと読み解きたいと思っています。
ちなみに、大杉博さんは「山の民」を表す「山人(やまと)」が「大和(やまと)」の語源だとされています。なるほど、「山の民の国」ですか……。
「山の民」がいるとすれば「海の民」もいたはずで、その「海の民」が作った国があっても良さそうなので、調べてみると……アッ!と、すぐに見つかりました。紀伊水道に面した徳島県南部に海部郡(かいふぐん)という郡があります。高知県安芸郡と県境で接し、牟岐町(むぎちょう)、美波町(みなみちょう)、海陽町(かいようちょう)の3つの町があります。さらに調べてみると、このあたりは古い時代には海運が盛んな地域だったようで、豊富な森林資源と強力な海運力によりかなり繁栄していたようです。海陽町の海部地区にある「芝遺跡」からは3世紀頃に他地域で作られ、ここまで運ばれてきたと思われる土器が多数出土しています。また、徳島県南部で最大の横穴式円墳「大里古墳」もあります。
魏志倭人伝には「邪馬台国の南には狗奴(クナ)國があり、男子を王としている。その官を狗古智卑狗(クコチヒク)といい、女王には属していない 」という文章が書かれています。
エッ!邪馬台国は四国にあった?(その2)
『おちゃめ日記』には邪馬台国周辺の想定地図も載せています。
エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)
この「エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)」に載せた想定地図を見ていただくと、邪馬台国(山の民の国)の南にある邪馬台国に属していないと言われる狗奴(クナ)國は、まさに現在の徳島県海部郡から南の地域にあたります。ここは「海の民の国」、「山の民の国」である邪馬台国とは別の部族が作った国と言えるかもしれません。また一つ、邪馬台国が四国にあったとする仮説を裏付ける証拠が見つかった感じで、ちょっと興奮してきました。
はるばるメソポタミアから徳島にたどり着いた古代ユダヤの人達は、この剣山の山中に聖櫃(アーク)を埋蔵したという噂があります。そのアークが隠されている剣山に誰も近づけさせないために、人々の注意を逸らす目的で、弘法大師が「四国八十八ヶ所霊場」を設けたという話があります。実際、八十八ヶ所の札所のどこからも剣山は見えないと言われています。おそらくその聖櫃(アーク)とは天皇家にとって大切なものであって、それを隠すための事業として、弘法大師は霊場の整備を朝廷から請け負ったとも考えられます。なぜなら88ヶ所もの寺院を作ってそれを維持するのは、資金的にも弘法大師1人でできるような事業ではないからです。おそらく実際の建設は、当時の公共事業として進められたのではないでしょうか。
ちなみに、大杉博さんが主宰しておられた「倭国研究会」では「倭国」を「わこく、わのくに」でなく、「いのくに」と読ませています。確かに“倭”は“い”と読むのが一般的です。委員会の“委(い)”にニンベンが付いた漢字ですからね。“わ”と読ませるほうが不自然と言えば不自然です。また、(その5)で書かせていただきましたように、古事記や日本書紀には「国産み」と呼ばれる日本国の国土(大八島:おおやしま)創世譚を伝える神話が書かれているのですが、イザナギとイザナミの二柱の神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜ、最初に産んだのが「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」で淡路島。次に産んだのが「伊豫(伊予)之二名島(いよのふたなのしま)」で四国のこととされています。この「伊予」、一般的には現在の愛媛県のことだと思われがちなのですが、実は“伊”の国と“予”の国の2つの国のことです。だって、古事記にも日本書紀にも「伊予之二名島」、すなわち「“伊”と“予”の2つの名を持つ島」であると明確に書かれているわけですから。
このうち“予”の国が現在の愛媛県を中心とした四国の西半分。その証拠に、愛媛県は「東予」、「中予」、「南予」という3つの地域に分かれているのですが、そこで用いられるのは“予”。大分県大分市(旧佐賀関町)の関崎と、愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬の間の海峡のことは「豊予海峡」と呼ばれています。大分県(豊後国)と愛媛県(伊予国)の間と言う意味で豊予海峡なのですが、そこでも使われているのは“予”。さらに、香川県(讃岐国)の高松駅と愛媛県(伊予国)の宇和島駅を結ぶJR四国の鉄道路線は「予讃線」。ここでも“予”が用いられ、 “伊”が使われることは私が知る限りまったくありません。伊予国のことを昔は「豫州(予州)」とも呼んでいましたし。
いっぽうで、徳島県(阿波国)と和歌山県の間の海峡のことを紀伊水道と呼びます。和歌山県はもともと“紀”の国と呼ばれていたので用いられたと思うのですが、その次の“伊”。これは、徳島県(阿波国)が古代は“伊”の国と呼ばれていたから、この徳島県と和歌山県の間の海峡の名前を紀伊水道にしたのではないか…という推論が成り立ちます。こういうことから「倭国研究会」では現在の徳島県や香川県、高知県を含む四国の東半分は“伊”の国であったとし、「倭国」は「いのくに」と読むのが正しい…という主張をされておられるようです。この推論を私は論理的に支持します。
……(その9)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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