2018/04/13
大人の修学旅行2018 in鹿児島(その4)
ここでも「かごしま まちなか おもてなし隊」の皆さんと遭遇しました。彼女達が喋るほぼネイティブな鹿児島弁はなんかホンワリして、可愛い感じがします。彼女達の薦めもあり、大山巌と東郷平八郎の生家跡を訪ねることにしました。
『大人の修学旅行2018in鹿児島』に参加するほかの仲間達からも次々と写真付きでLINEのメールが入ってきています。地元香川県組と関西在住組は岡山駅で合流して、楽しく一緒にこちらに向かっているようです。「九州新幹線では沿線で地元の住民が手を振って迎えてくれるかと期待したんだけど、そんなことなかった」って身勝手な声も…。たぶん彼が期待したのは、この九州新幹線全線開業時のこの有名なテレビCMですね。地元の皆さんも日々の生活がおありでしょうから、そんなに毎日できることではありませんよ(笑)
九州新幹線全線開業テレビCM
前日先乗りは私だけでなくもう1人。首都圏在住組のユウテン君も先乗りして、彼は前日は大隈半島の串良に行っていたようです。伯父様が戦死(病死)した串良航空基地跡(串良平和公園)に行き、滑走路跡や地下壕跡を見学してきたのだそうです。垂水港から鴨池・垂水フェリーに乗って、鹿児島市の鴨池港を目指しているようです。この鴨池・垂水フェリーに乗船すると、時々、運が良ければフェリーの傍を並行するようにイルカの群れが泳ぐ姿に遭遇することができます。以前、私が鴨池・垂水フェリーに乗った時、その右舷をイルカの群れが並走している姿が見えて、感動したのを覚えています。果たしてユウテン君はイルカと遭遇することができたのでしょうか?
そう言えば、ここ鹿児島は第二次世界大戦末期、特攻隊が出撃する基地が幾つもあったところです。薩摩半島側にある陸軍航空隊の知覧航空基地(南九州市)と、大隈半島側にある海軍航空隊の鹿屋航空基地(鹿屋市)が有名ですが、その他にも小さい基地が幾つもあったようです。イッカクも昨年の12月に鹿屋航空基地跡を訪ねてきたそうです。私は鹿屋市に妻の母方の親戚が何軒か住んでいるので、これまでも何度か鹿屋航空基地跡には行ったことがあるのですが、今年の1月にも入院している妻の叔母の見舞いに鹿屋市に行った際にも、鹿屋航空基地を訪れてきました。
絶対に風化させてはいけない戦争の歴史がそこには残っていますね。日本人なら一度は訪れてみるべきだと私は思います。以下の写真はその時に撮影したものです。資料館内部の展示は零式艦上戦闘機52型(ゼロ戦)以外撮影禁止なので、写真は資料館の外に展示されているものに限定されますが、それでもいろいろと伝わってくるものがあります。写真は左上からご存知・零式艦上戦闘機52型(ゼロ戦)、レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機と言われた二式大型飛行艇(二式大艇)、燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた九三式酸素魚雷 (第二次世界大戦末期には人が乗って操縦できるように改造され、後半のエンジン部基本構造はそのままに、弾頭、全体サイズともに約2倍から3倍に大型化され、特攻兵器である人間魚雷“回天”となりました)、特攻にも投入された海軍攻撃第254飛行隊・天山艦攻雷撃隊の慰霊碑です。
西郷隆盛・従道兄弟の生誕地跡から“みゆき通り”と呼ばれる通りを北に進みます。その“みゆき通り”沿いに「大山巌元帥誕生地」の表示が立っています。
大山巌は天保13年(1842年)、鹿児島城下の加治屋町に薩摩藩の下級藩士・大山彦八の次男として誕生しました。幼名は岩次郎。通称は弥助。西郷家は父の実家であり、西郷隆盛・従道とは従兄弟にあたります。妻は吉井友実の長女沢子、後妻は薩摩軍が倒した会津藩士族出身の捨松で、二人の結婚は当時、大きな話題になりました。ちなみに、捨松の兄弟(すなわち会津藩士)には陸軍少将になった山川浩、東京帝国大学の総長になった山川健次郎がいます。
西郷隆盛に弟同様に可愛がられ、その強い庇護もあってか薩摩藩内での昇進が早かったようです。ただ、生家跡に掲げられている説明板に「下加治屋郷中の元気者」という文字が書かれているように、かなりヤンチャ者だったようで、下加治屋町郷中の先輩にあたる有馬新七等に影響されて藩内過激派に属したこともあったようです。文久2年(1862年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山巌は帰国謹慎処分を受けています。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属されました。ここで西欧列強の軍事力の強さに衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾に入塾。黒田清隆らとともに砲術を学びました。
戊辰戦争期には西郷隆盛のもとで活躍。ことに砲術面で優れた成績をあげました。戊辰戦争後は「弥助(巌の幼名)砲」と呼ばれる国産改造砲の開発を担当するなどもしました。明治2年(1869年)、渡欧し、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリに入城するという経験をします。明治4年(1871年)に再び渡欧。パリ、スイスに住んでフランス語、砲術を学びました。帰国直後33歳で陸軍少将、陸軍少輔兼第1局長に就任します。
西南戦争では新政府に忠節を尽くして田原坂、城山攻防戦での勝利に貢献し、山県有朋に次ぐ陸軍での地位を決定的なものとしました。この西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった従兄の西郷隆盛を最後まで追い詰めて自死に追いやり、大山巌はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかったと言われています。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあったと言われています。
明治13年(1880年)、陸軍卿となり、以後は山県有朋の跡を追う形で参謀本部長、明治24年(1891年)には陸軍大将となりました。陸軍卿時代に陸軍省、参謀本部、監軍本部の鼎立体制を樹立し、また陸軍大学校開校、東京湾砲台建設を実現しました。明治17年(1884年)に3度目の外遊して独仏に学び、帰国後陸軍大臣に就任すると、兵制をフランス式からドイツ式に転換を図る一方、鎮守府と要塞から成るフランス式海岸防備体制を採用しました。
砲術家としての大山巌は西欧の各種大砲、装備の積極的な購入採用に努めました。日清戦争(1894年~1895年)では山県有朋の第1軍司令官に対する第2軍司令官を務め、日露戦争(1904年~1905年)では山県有朋の参謀総長に対する総司令官を務めました。この間、明治31年(1898年)には山県有朋とともに元帥に列し、明治40年(1907年)には山県有朋の侯爵よりも高い公爵の位を与えられました。これは宮中方面で大山巌に対する評価が極めて高かったことが窺われるエピソードです。
胆力に富んだ大山巌は、部下の能力を引き出すのが非常に上手かったと言われています。日露戦争では、初め参謀総長として戦争準備を行い、開戦後は満州軍総司令官として最前線での指揮を執りました。 渾名は「ガマ坊」と呼ばれ、茫洋とした風貌から児玉源太郎がつけたと言われています。総司令官親補にあたって明治天皇が「山県有朋との声もあったが、お前の方がのんびりしていて良いのだそうだ」「するとお上、大山はぼんやりしているから良い…と言う風に聞こえますが」と大山が笑いながら言うと、「まあ、そんなところだ」と明治天皇は声をあげて笑われたというエピソードも残っています。しかし、出征にあたって「作戦は児玉をはじめ勇猛な指揮官がいるから大丈夫。しかし、負け戦の時は私が指揮をとります」と言い、大軍を統率する理想のタイプとされました。大陸進出後は作戦を児玉源太郎総参謀長以下の幕僚にまかせ、縦横に腕をふるわせました。その一方で、奉天会戦の後、児玉源太郎大将を直ちに内地に送り講和の機会を図るなど、政治的視野も広い人物であったと言われています。
大正5年(1916年)、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。12月10日に内大臣在任のまま死去しました。享年75歳でした。12月17日に営まれた国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えられました。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山巌と後の東郷平八郎の二人だけです。遺体は鹿児島ではなく、別荘のあった栃木県の那須に葬られています。
日露戦争時の満州軍総司令官ということは、NHK特別大河ドラマにもなった司馬遼太郎先生の長編歴史小説『坂の上の雲』の3人の主人公の中の1人で、私が最も敬愛する歴史上の人物である秋山好古陸軍大将(日露戦争時は中将)の直属上司ってことですね。大の『坂の上の雲』ファンの私としては、実は西郷隆盛や大久保利通よりも大山巌元帥のほうに、より親近感を感じてしまいます。
『坂の上の雲』ファンが親近感を感じるといえばもう1人、この下加治屋郷中出身の軍人がいます。それが『坂の上の雲』の主人公のもう1人で、秋山好古陸軍大将の実弟の秋山真之海軍中将(日露戦争時は中佐)の直属上司であった東郷平八郎海軍元帥です。次にその東郷平八郎海軍元帥の生家跡を訪れました。現在の鹿児島県立鹿児島中央高校の化学講義室付近に東郷平八郎の生家があったとされ、その記念碑が建っています。
日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る東郷平八郎は、弘化4年(1848年)、鹿児島城下の加治屋町に薩摩藩の下級藩士・東郷吉左衛門の4男として誕生しました。幼名は仲五郎。14歳の時に元服して平八郎実良と名乗ります。妻は子爵・海江田信義の娘テツです。薩摩藩士として文久3年(1863年)の薩英戦争に従軍し初陣。薩英戦争にて力の差をまざまざと見せつけられた時、東郷平八郎はじっと海を睨み、海軍への道を志したと言われています。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。
明治維新後の明治4年(1871年)から明治11年(1878年)まで海軍士官としてイギリスのポーツマスに長期留学します (東郷平八郎は当初はイギリスに留学して鉄道技師になることを希望していたのだそうです)。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかったのだそうです。後で東郷平八郎は大久保利通が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努め、それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになったという逸話が残っています。
帰国後はもっぱら海上勤務に従事します。中央での勤務が海軍大学校長と軍令部長の2回しかないのも当時の海軍将校としては珍しいことです。明治17年(1884年)の清仏戦争の際には「天城」艦長として仏クールベ艦隊に従い、明治26年(1893年)にハワイで政変が起こると「浪速」艦長として居留民保護に急行。日清戦争(1894年~1895年)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し、明治33年(1900年)に義和団事件が中国で起きると常備艦隊を天津港に集結させるなど、歴史的事件が起きるごとに決まってそこに東郷平八郎がいた…と言われるようになります。
明治36年(1903年)に聯合艦隊司令長官となり、明治38年(1905年)の日露戦争終結まで艦隊を指揮しました。特に、明治38年(1905年)5月27日から28日にかけての日本海海戦において、当時世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊をほぼワンサイドゲームで壊滅させ、日本国の勝利を決定的なものとしました。この日本海海戦における完勝により英雄視され、「陸の大山、海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」等と呼ばれました。(アメリカ独立戦争時のノース海峡の海戦でイギリス艦隊を破ったアメリカ艦隊の指揮官)ジョン・ポール・ジョーンズ、(ナポレオン戦争時にアブキール湾の戦いでフランス艦隊を、さらにトラファルガー海戦でもフランス・スペイン連合艦隊を破ったイギリス海軍提督)ホレーショ・ネルソンと並んで「世界三大提督」の1人にも名を連ねています。
日露戦争後は明治38年(1905年)に軍令部長、明治42年(1909年)に軍事参議官となって第一線から退き、大正2年(1913年)に元帥に列し、大正3年(1914年)から大正10年(1921年)まで東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力されました。昭和9年(1934年)5月30日、喉頭癌、膀胱結石、神経痛、気管支炎の悪化のため満86歳で死去されました。死去の前日に侯爵に列せられています。弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和という10個の元号の時代を生きたということですね。6月5日に執り行われた国葬に際してはイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国といった各国海軍の儀礼艦が訪日し、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射したそうです。ちなみに、東郷平八郎の墓地は、西郷従道と同じく東京都府中市の多磨霊園にあります。
「海から来る敵は海にて防ぐべし」。これは東郷平八郎誕生地の碑の横に立つ説明版に書かれている言葉ですが、見事その通りのことを日露戦争における日本海海戦で実践していただきました。
ちなみにこの鹿児島県立鹿児島中央高校の敷地内には、この東郷平八郎のほかにも西南戦争で一番大隊長として活躍した篠原国幹誕生地の碑、同じく二番大隊長として活躍した村田新八誕生地の碑が建っているのだそうです。さらに、もうちょっと奥に入ると海軍大臣、内閣総理大臣、外務大臣などを歴任した山本権兵衛生誕地の碑も立っているそうなのですが、時間の都合で訪れるのは諦めました。
時計を見るとまもなく11時半。初参加のモトム君から12時6分に鹿児島中央駅に到着する九州新幹線でこちらに向かっているというメールが9時過ぎに入っていたので、そろそろ改札口に迎えにいかないといけません。初参加ですので、温かくお迎えしないといけません。
JR鹿児島中央駅を目指して戻るのですが、元来た道を引き返すのも面白くないので、みゆき通りを直進して高麗橋で甲突川を渡り、甲突川の対岸を鹿児島中央駅前に向かって伸びるナポリ通りを歩くことにしました。
高麗橋を渡り終えてすぐに左手(鹿児島中央駅とは反対方向)に曲がり、ちょっと寄り道。ここに大久保利通生誕地の碑と案内板が立っています。大久保利通はここで生まれ、幼少期に加治屋町のほうに引っ越したわけです。この近くには元帥海軍大将で日露戦争時に横須賀鎮守府司令長官を務めた井上良馨誕生地の碑と案内板も立っているはずなのですが、急いでいることもあって見つけられませんでした。
ナポリ通りをJR鹿児島中央駅に向かって進みます。何故、鹿児島にナポリ通りという名の通りがあるのか?……、それは鹿児島市とイタリアのナポリが姉妹都市の盟約を締結しているからです。イタリアのナポリ市とはナポリから眺めるヴェスヴィオの風景が鹿児島から眺める桜島と似ているため1960年に姉妹都市盟約を締結しており、鹿児島市内に「ナポリ通り」、ナポリ市に「鹿児島通り」があります。
鹿児島市はナポリ市のほかにもオーストラリアのパース市、さらにはアメリカ合衆国のマイアミ市とも姉妹都市の盟約を締結しています。オーストラリアのパース市とも気候が似通っており、ともに緯度が32度(鹿児島市は北緯、パースは南緯)であるため1974年に姉妹都市盟約を締結しており、鹿児島市内に「パース通り」が、パース市内に「鹿児島公園」があります。さらに、アメリカ合衆国フロリダ州のマイアミ市とも、ともに本土最南端の都市であり、気候が似通っているなど共通点が多くみられるという理由で1990年に姉妹都市盟約を締結していて、鹿児島市内に「マイアミ通り」、マイアミ市内に「鹿児島通り」があります。
ナポリ通り沿いに「高島鞆之助誕生地」の碑が建っています。この高島鞆之助、私はこれまで存じあげてなかったのですが、天保15年(1844年)の生まれですから、大山巌や西郷従道と同世代の人物です。戊辰戦争に従軍。明治維新後は明治7年(1874年)に陸軍大佐に任ぜられ、明治10年(1877年)の西南戦争では政府軍の別働第1旅団司令長官を務めました。明治16年(1883年)、陸軍中将となり、明治17年(1884年)、子爵に叙せられました。その後、陸軍大臣、拓殖務大臣、枢密顧問官等を歴任した方のようです。他所ならばもっと有名になっていてもおかしくないくらいの経歴をお持ちの方なんですが、ここ鹿児島市では西郷隆盛や大久保利通をはじめとしてキラ星の如く居並ぶ偉人達の中に埋もれてしまっている感じです。これが鹿児島、薩摩ってことなんですね。当時はまさに人財の宝庫でした。
鹿児島中央駅に着いたのですが、モトム君が鹿児島中央駅に到着するまでちょっとだけ時間があるので、急いで昼食を摂ることにしました。もちろんこの日も昼食は鹿児島ラーメン。前日に食べた鹿児島中央駅に直結したアミュプラザの地下1階の「こむらさき」の隣に「ざぼん」という別のラーメン屋さんがあるのが分かっていたので、この日はイッカクを誘ってその「ざぼん」の鹿児島ラーメンをいただくことにしました。
この「ざぼん」のラーメンも鹿児島ラーメンの基本である豚骨をベースにした半濁スープにストレート麺。それに野菜等の具材がたっぷりと載っています。一見すると脂っこそうですが、ひとくちクチにすると決してそういうことはなくて、実にあっさりとした優しい味です。鹿児島では注文するとまずお茶と大根の酢漬けやタクアン(鹿児島では一般的な壺漬けやたまり漬け)が出てきて、注文した品が出てくるまでその漬物を食べながら待つってスタイルのラーメン店が多いのですが、この「ざぼん」もそういうスタイルのお店でした。これこれ、これです。前日に行った「こむらさき」同様、この「ざぼん」のラーメンも美味しかったです。
急いでラーメンを食べ、ちょうど食べ終えた時、12時6分になりました。兵庫県明石市在住のモトム君が九州新幹線でJR鹿児島中央駅に到着するのが12時6分の予定です。急いで地下1階から地上2階にある改札口にエスカレーターを使って昇ります。モトム君には「改札口を出たところで待っていてね。すぐに迎えに行くから」…とメールを送っておいたので、改札口の前で周囲を見回します。イッカクがモトム君を発見。「おっ、いた!」 イッカクの視界の先を見ると、確かにモトム君です。モトム君とは卒業以来約44年ぶりの再会ですが、見掛けは当時とまったく変わりません。「モトム!」と声をかけるとモトム君がこちらのほうに向きかえり、顔を合わせたのですが、ちょっとキョトンとしています。「オレオレ、越智!σ(^_^;)」。やっと気付いてくれたようです。「よく見ると、エッチャンだ」、「そう、越智。こっち、イッカク。そんなに変わったかい?」、「変わったよ。道ですれ違っただけだと分からないよ」、「そう? こっちはすぐに分かったよ。それにしても、遠路お疲れさまです。初参加、ありがとう。みんな喜ぶと思うよ」
これで3名になりました。これから続々と仲間達が到着する予定です。昼食がまだだと言うモトム君をアミュプラザ地下1階のラーメン店「こむらさき」に連れて行き、私とイッカクはその近くにある喫茶店で鹿児島名物の「白くま」を食べることにしました。
鹿児島のスイーツの定番といえばこれですね、「白くま」! 「白くま」はフワフワのカキ氷の上に加糖練乳をタップリかけて缶詰などの果物をドッサリ盛り付け、その上に小豆餡を載せたものです。鹿児島市が発祥の地で、市内の多くの喫茶店や飲食店で提供されています。名称の「白くま」は由来が諸説あり、はっきりしませんが、季節に限らず鹿児島に来るとこれを絶対に食べないといけないってくらいの定番スイーツになっています。最近では、全国各地のコンビニやスーパーでもカップ入りの「白くま」が販売されているので、目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。でもやっぱり本場で食べる「白くま」の味は一味も二味も違うんです。私は34年前に結婚の申し込みのために妻の実家を訪ねた際に「白くま」を初めて食したのですが、とにかく衝撃の美味しさでした。で、今ではカキ氷と言えば「白くま」が定番となっています。
還暦を過ぎたオッサン2人が喫茶店に入って「白くま」を注文するのもいかがなものかと思えるのですが、この鹿児島中央駅のアミュプラザにも「天文館むじゃき アミュプラザ店」という美味しい「白くま」が食べられる店を事前に見つけていたので、その店の前でイッカクに「鹿児島に来たら“白くま”食わなきゃあ。よしっ、デザートに“白くま”食おう!」と誘ってみると、「いいね!」って返事が返ってきました。イッカクとは中学以来の友人なのですが、気心が知れているというか、私が多少の無茶振りをしてもちゃんと付き合ってくれるので楽です。で、そのイッカクも「白くま」の味に感激してくれたようで、「美味い!」 そうでしょ、そうでしょ。
「白くま」を食べている途中でウスキから「同じ新幹線にモトム君らしき乗客が乗っていて、声をかけようかどうか迷ってる」…というメールが入って来たのですが、そのモトム君は既に鹿児島中央駅に着いてここにいるんですけど…(笑) やっぱ、44年ぶりですからね。似た人がいたら見間違うでしょう。まぁ〜ウスキもモトム君と44年ぶりに会うのを心から楽しみにしているってことの表れですね。
そろそろ集合予定時刻の13時30分が近づいてきました。皆さん、既に空路とリムジンバスで、あるいは九州新幹線で鹿児島中央駅に到着しているようで、めいめい昼食を摂っているようです。多くは「こむらさき」と「ざぼん」という鹿児島ラーメンの店へと誘導しておいたので、その店の前で集合することに変更しました。事前に連絡した観光案内所前だと屋外なので、こういう雨の日の集合場所としては不適ですからね。さぁ〜て、いよいよです。
……(その5)に続きます。
『大人の修学旅行2018in鹿児島』に参加するほかの仲間達からも次々と写真付きでLINEのメールが入ってきています。地元香川県組と関西在住組は岡山駅で合流して、楽しく一緒にこちらに向かっているようです。「九州新幹線では沿線で地元の住民が手を振って迎えてくれるかと期待したんだけど、そんなことなかった」って身勝手な声も…。たぶん彼が期待したのは、この九州新幹線全線開業時のこの有名なテレビCMですね。地元の皆さんも日々の生活がおありでしょうから、そんなに毎日できることではありませんよ(笑)
九州新幹線全線開業テレビCM
前日先乗りは私だけでなくもう1人。首都圏在住組のユウテン君も先乗りして、彼は前日は大隈半島の串良に行っていたようです。伯父様が戦死(病死)した串良航空基地跡(串良平和公園)に行き、滑走路跡や地下壕跡を見学してきたのだそうです。垂水港から鴨池・垂水フェリーに乗って、鹿児島市の鴨池港を目指しているようです。この鴨池・垂水フェリーに乗船すると、時々、運が良ければフェリーの傍を並行するようにイルカの群れが泳ぐ姿に遭遇することができます。以前、私が鴨池・垂水フェリーに乗った時、その右舷をイルカの群れが並走している姿が見えて、感動したのを覚えています。果たしてユウテン君はイルカと遭遇することができたのでしょうか?
そう言えば、ここ鹿児島は第二次世界大戦末期、特攻隊が出撃する基地が幾つもあったところです。薩摩半島側にある陸軍航空隊の知覧航空基地(南九州市)と、大隈半島側にある海軍航空隊の鹿屋航空基地(鹿屋市)が有名ですが、その他にも小さい基地が幾つもあったようです。イッカクも昨年の12月に鹿屋航空基地跡を訪ねてきたそうです。私は鹿屋市に妻の母方の親戚が何軒か住んでいるので、これまでも何度か鹿屋航空基地跡には行ったことがあるのですが、今年の1月にも入院している妻の叔母の見舞いに鹿屋市に行った際にも、鹿屋航空基地を訪れてきました。
絶対に風化させてはいけない戦争の歴史がそこには残っていますね。日本人なら一度は訪れてみるべきだと私は思います。以下の写真はその時に撮影したものです。資料館内部の展示は零式艦上戦闘機52型(ゼロ戦)以外撮影禁止なので、写真は資料館の外に展示されているものに限定されますが、それでもいろいろと伝わってくるものがあります。写真は左上からご存知・零式艦上戦闘機52型(ゼロ戦)、レシプロエンジン装備の飛行艇としては当時世界最高の性能を誇る傑作機と言われた二式大型飛行艇(二式大艇)、燃料の酸化剤として空気の代わりに、空気中濃度以上の酸素混合気体もしくは純酸素を用いた九三式酸素魚雷 (第二次世界大戦末期には人が乗って操縦できるように改造され、後半のエンジン部基本構造はそのままに、弾頭、全体サイズともに約2倍から3倍に大型化され、特攻兵器である人間魚雷“回天”となりました)、特攻にも投入された海軍攻撃第254飛行隊・天山艦攻雷撃隊の慰霊碑です。
西郷隆盛・従道兄弟の生誕地跡から“みゆき通り”と呼ばれる通りを北に進みます。その“みゆき通り”沿いに「大山巌元帥誕生地」の表示が立っています。
大山巌は天保13年(1842年)、鹿児島城下の加治屋町に薩摩藩の下級藩士・大山彦八の次男として誕生しました。幼名は岩次郎。通称は弥助。西郷家は父の実家であり、西郷隆盛・従道とは従兄弟にあたります。妻は吉井友実の長女沢子、後妻は薩摩軍が倒した会津藩士族出身の捨松で、二人の結婚は当時、大きな話題になりました。ちなみに、捨松の兄弟(すなわち会津藩士)には陸軍少将になった山川浩、東京帝国大学の総長になった山川健次郎がいます。
西郷隆盛に弟同様に可愛がられ、その強い庇護もあってか薩摩藩内での昇進が早かったようです。ただ、生家跡に掲げられている説明板に「下加治屋郷中の元気者」という文字が書かれているように、かなりヤンチャ者だったようで、下加治屋町郷中の先輩にあたる有馬新七等に影響されて藩内過激派に属したこともあったようです。文久2年(1862年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山巌は帰国謹慎処分を受けています。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属されました。ここで西欧列強の軍事力の強さに衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾に入塾。黒田清隆らとともに砲術を学びました。
戊辰戦争期には西郷隆盛のもとで活躍。ことに砲術面で優れた成績をあげました。戊辰戦争後は「弥助(巌の幼名)砲」と呼ばれる国産改造砲の開発を担当するなどもしました。明治2年(1869年)、渡欧し、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリに入城するという経験をします。明治4年(1871年)に再び渡欧。パリ、スイスに住んでフランス語、砲術を学びました。帰国直後33歳で陸軍少将、陸軍少輔兼第1局長に就任します。
西南戦争では新政府に忠節を尽くして田原坂、城山攻防戦での勝利に貢献し、山県有朋に次ぐ陸軍での地位を決定的なものとしました。この西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった従兄の西郷隆盛を最後まで追い詰めて自死に追いやり、大山巌はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかったと言われています。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあったと言われています。
明治13年(1880年)、陸軍卿となり、以後は山県有朋の跡を追う形で参謀本部長、明治24年(1891年)には陸軍大将となりました。陸軍卿時代に陸軍省、参謀本部、監軍本部の鼎立体制を樹立し、また陸軍大学校開校、東京湾砲台建設を実現しました。明治17年(1884年)に3度目の外遊して独仏に学び、帰国後陸軍大臣に就任すると、兵制をフランス式からドイツ式に転換を図る一方、鎮守府と要塞から成るフランス式海岸防備体制を採用しました。
砲術家としての大山巌は西欧の各種大砲、装備の積極的な購入採用に努めました。日清戦争(1894年~1895年)では山県有朋の第1軍司令官に対する第2軍司令官を務め、日露戦争(1904年~1905年)では山県有朋の参謀総長に対する総司令官を務めました。この間、明治31年(1898年)には山県有朋とともに元帥に列し、明治40年(1907年)には山県有朋の侯爵よりも高い公爵の位を与えられました。これは宮中方面で大山巌に対する評価が極めて高かったことが窺われるエピソードです。
胆力に富んだ大山巌は、部下の能力を引き出すのが非常に上手かったと言われています。日露戦争では、初め参謀総長として戦争準備を行い、開戦後は満州軍総司令官として最前線での指揮を執りました。 渾名は「ガマ坊」と呼ばれ、茫洋とした風貌から児玉源太郎がつけたと言われています。総司令官親補にあたって明治天皇が「山県有朋との声もあったが、お前の方がのんびりしていて良いのだそうだ」「するとお上、大山はぼんやりしているから良い…と言う風に聞こえますが」と大山が笑いながら言うと、「まあ、そんなところだ」と明治天皇は声をあげて笑われたというエピソードも残っています。しかし、出征にあたって「作戦は児玉をはじめ勇猛な指揮官がいるから大丈夫。しかし、負け戦の時は私が指揮をとります」と言い、大軍を統率する理想のタイプとされました。大陸進出後は作戦を児玉源太郎総参謀長以下の幕僚にまかせ、縦横に腕をふるわせました。その一方で、奉天会戦の後、児玉源太郎大将を直ちに内地に送り講和の機会を図るなど、政治的視野も広い人物であったと言われています。
大正5年(1916年)、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。12月10日に内大臣在任のまま死去しました。享年75歳でした。12月17日に営まれた国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えられました。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山巌と後の東郷平八郎の二人だけです。遺体は鹿児島ではなく、別荘のあった栃木県の那須に葬られています。
日露戦争時の満州軍総司令官ということは、NHK特別大河ドラマにもなった司馬遼太郎先生の長編歴史小説『坂の上の雲』の3人の主人公の中の1人で、私が最も敬愛する歴史上の人物である秋山好古陸軍大将(日露戦争時は中将)の直属上司ってことですね。大の『坂の上の雲』ファンの私としては、実は西郷隆盛や大久保利通よりも大山巌元帥のほうに、より親近感を感じてしまいます。
『坂の上の雲』ファンが親近感を感じるといえばもう1人、この下加治屋郷中出身の軍人がいます。それが『坂の上の雲』の主人公のもう1人で、秋山好古陸軍大将の実弟の秋山真之海軍中将(日露戦争時は中佐)の直属上司であった東郷平八郎海軍元帥です。次にその東郷平八郎海軍元帥の生家跡を訪れました。現在の鹿児島県立鹿児島中央高校の化学講義室付近に東郷平八郎の生家があったとされ、その記念碑が建っています。
日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る東郷平八郎は、弘化4年(1848年)、鹿児島城下の加治屋町に薩摩藩の下級藩士・東郷吉左衛門の4男として誕生しました。幼名は仲五郎。14歳の時に元服して平八郎実良と名乗ります。妻は子爵・海江田信義の娘テツです。薩摩藩士として文久3年(1863年)の薩英戦争に従軍し初陣。薩英戦争にて力の差をまざまざと見せつけられた時、東郷平八郎はじっと海を睨み、海軍への道を志したと言われています。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。
明治維新後の明治4年(1871年)から明治11年(1878年)まで海軍士官としてイギリスのポーツマスに長期留学します (東郷平八郎は当初はイギリスに留学して鉄道技師になることを希望していたのだそうです)。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかったのだそうです。後で東郷平八郎は大久保利通が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努め、それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになったという逸話が残っています。
帰国後はもっぱら海上勤務に従事します。中央での勤務が海軍大学校長と軍令部長の2回しかないのも当時の海軍将校としては珍しいことです。明治17年(1884年)の清仏戦争の際には「天城」艦長として仏クールベ艦隊に従い、明治26年(1893年)にハワイで政変が起こると「浪速」艦長として居留民保護に急行。日清戦争(1894年~1895年)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し、明治33年(1900年)に義和団事件が中国で起きると常備艦隊を天津港に集結させるなど、歴史的事件が起きるごとに決まってそこに東郷平八郎がいた…と言われるようになります。
明治36年(1903年)に聯合艦隊司令長官となり、明治38年(1905年)の日露戦争終結まで艦隊を指揮しました。特に、明治38年(1905年)5月27日から28日にかけての日本海海戦において、当時世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊をほぼワンサイドゲームで壊滅させ、日本国の勝利を決定的なものとしました。この日本海海戦における完勝により英雄視され、「陸の大山、海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」等と呼ばれました。(アメリカ独立戦争時のノース海峡の海戦でイギリス艦隊を破ったアメリカ艦隊の指揮官)ジョン・ポール・ジョーンズ、(ナポレオン戦争時にアブキール湾の戦いでフランス艦隊を、さらにトラファルガー海戦でもフランス・スペイン連合艦隊を破ったイギリス海軍提督)ホレーショ・ネルソンと並んで「世界三大提督」の1人にも名を連ねています。
日露戦争後は明治38年(1905年)に軍令部長、明治42年(1909年)に軍事参議官となって第一線から退き、大正2年(1913年)に元帥に列し、大正3年(1914年)から大正10年(1921年)まで東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力されました。昭和9年(1934年)5月30日、喉頭癌、膀胱結石、神経痛、気管支炎の悪化のため満86歳で死去されました。死去の前日に侯爵に列せられています。弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和という10個の元号の時代を生きたということですね。6月5日に執り行われた国葬に際してはイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国といった各国海軍の儀礼艦が訪日し、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射したそうです。ちなみに、東郷平八郎の墓地は、西郷従道と同じく東京都府中市の多磨霊園にあります。
「海から来る敵は海にて防ぐべし」。これは東郷平八郎誕生地の碑の横に立つ説明版に書かれている言葉ですが、見事その通りのことを日露戦争における日本海海戦で実践していただきました。
ちなみにこの鹿児島県立鹿児島中央高校の敷地内には、この東郷平八郎のほかにも西南戦争で一番大隊長として活躍した篠原国幹誕生地の碑、同じく二番大隊長として活躍した村田新八誕生地の碑が建っているのだそうです。さらに、もうちょっと奥に入ると海軍大臣、内閣総理大臣、外務大臣などを歴任した山本権兵衛生誕地の碑も立っているそうなのですが、時間の都合で訪れるのは諦めました。
時計を見るとまもなく11時半。初参加のモトム君から12時6分に鹿児島中央駅に到着する九州新幹線でこちらに向かっているというメールが9時過ぎに入っていたので、そろそろ改札口に迎えにいかないといけません。初参加ですので、温かくお迎えしないといけません。
JR鹿児島中央駅を目指して戻るのですが、元来た道を引き返すのも面白くないので、みゆき通りを直進して高麗橋で甲突川を渡り、甲突川の対岸を鹿児島中央駅前に向かって伸びるナポリ通りを歩くことにしました。
高麗橋を渡り終えてすぐに左手(鹿児島中央駅とは反対方向)に曲がり、ちょっと寄り道。ここに大久保利通生誕地の碑と案内板が立っています。大久保利通はここで生まれ、幼少期に加治屋町のほうに引っ越したわけです。この近くには元帥海軍大将で日露戦争時に横須賀鎮守府司令長官を務めた井上良馨誕生地の碑と案内板も立っているはずなのですが、急いでいることもあって見つけられませんでした。
ナポリ通りをJR鹿児島中央駅に向かって進みます。何故、鹿児島にナポリ通りという名の通りがあるのか?……、それは鹿児島市とイタリアのナポリが姉妹都市の盟約を締結しているからです。イタリアのナポリ市とはナポリから眺めるヴェスヴィオの風景が鹿児島から眺める桜島と似ているため1960年に姉妹都市盟約を締結しており、鹿児島市内に「ナポリ通り」、ナポリ市に「鹿児島通り」があります。
鹿児島市はナポリ市のほかにもオーストラリアのパース市、さらにはアメリカ合衆国のマイアミ市とも姉妹都市の盟約を締結しています。オーストラリアのパース市とも気候が似通っており、ともに緯度が32度(鹿児島市は北緯、パースは南緯)であるため1974年に姉妹都市盟約を締結しており、鹿児島市内に「パース通り」が、パース市内に「鹿児島公園」があります。さらに、アメリカ合衆国フロリダ州のマイアミ市とも、ともに本土最南端の都市であり、気候が似通っているなど共通点が多くみられるという理由で1990年に姉妹都市盟約を締結していて、鹿児島市内に「マイアミ通り」、マイアミ市内に「鹿児島通り」があります。
ナポリ通り沿いに「高島鞆之助誕生地」の碑が建っています。この高島鞆之助、私はこれまで存じあげてなかったのですが、天保15年(1844年)の生まれですから、大山巌や西郷従道と同世代の人物です。戊辰戦争に従軍。明治維新後は明治7年(1874年)に陸軍大佐に任ぜられ、明治10年(1877年)の西南戦争では政府軍の別働第1旅団司令長官を務めました。明治16年(1883年)、陸軍中将となり、明治17年(1884年)、子爵に叙せられました。その後、陸軍大臣、拓殖務大臣、枢密顧問官等を歴任した方のようです。他所ならばもっと有名になっていてもおかしくないくらいの経歴をお持ちの方なんですが、ここ鹿児島市では西郷隆盛や大久保利通をはじめとしてキラ星の如く居並ぶ偉人達の中に埋もれてしまっている感じです。これが鹿児島、薩摩ってことなんですね。当時はまさに人財の宝庫でした。
鹿児島中央駅に着いたのですが、モトム君が鹿児島中央駅に到着するまでちょっとだけ時間があるので、急いで昼食を摂ることにしました。もちろんこの日も昼食は鹿児島ラーメン。前日に食べた鹿児島中央駅に直結したアミュプラザの地下1階の「こむらさき」の隣に「ざぼん」という別のラーメン屋さんがあるのが分かっていたので、この日はイッカクを誘ってその「ざぼん」の鹿児島ラーメンをいただくことにしました。
この「ざぼん」のラーメンも鹿児島ラーメンの基本である豚骨をベースにした半濁スープにストレート麺。それに野菜等の具材がたっぷりと載っています。一見すると脂っこそうですが、ひとくちクチにすると決してそういうことはなくて、実にあっさりとした優しい味です。鹿児島では注文するとまずお茶と大根の酢漬けやタクアン(鹿児島では一般的な壺漬けやたまり漬け)が出てきて、注文した品が出てくるまでその漬物を食べながら待つってスタイルのラーメン店が多いのですが、この「ざぼん」もそういうスタイルのお店でした。これこれ、これです。前日に行った「こむらさき」同様、この「ざぼん」のラーメンも美味しかったです。
急いでラーメンを食べ、ちょうど食べ終えた時、12時6分になりました。兵庫県明石市在住のモトム君が九州新幹線でJR鹿児島中央駅に到着するのが12時6分の予定です。急いで地下1階から地上2階にある改札口にエスカレーターを使って昇ります。モトム君には「改札口を出たところで待っていてね。すぐに迎えに行くから」…とメールを送っておいたので、改札口の前で周囲を見回します。イッカクがモトム君を発見。「おっ、いた!」 イッカクの視界の先を見ると、確かにモトム君です。モトム君とは卒業以来約44年ぶりの再会ですが、見掛けは当時とまったく変わりません。「モトム!」と声をかけるとモトム君がこちらのほうに向きかえり、顔を合わせたのですが、ちょっとキョトンとしています。「オレオレ、越智!σ(^_^;)」。やっと気付いてくれたようです。「よく見ると、エッチャンだ」、「そう、越智。こっち、イッカク。そんなに変わったかい?」、「変わったよ。道ですれ違っただけだと分からないよ」、「そう? こっちはすぐに分かったよ。それにしても、遠路お疲れさまです。初参加、ありがとう。みんな喜ぶと思うよ」
これで3名になりました。これから続々と仲間達が到着する予定です。昼食がまだだと言うモトム君をアミュプラザ地下1階のラーメン店「こむらさき」に連れて行き、私とイッカクはその近くにある喫茶店で鹿児島名物の「白くま」を食べることにしました。
鹿児島のスイーツの定番といえばこれですね、「白くま」! 「白くま」はフワフワのカキ氷の上に加糖練乳をタップリかけて缶詰などの果物をドッサリ盛り付け、その上に小豆餡を載せたものです。鹿児島市が発祥の地で、市内の多くの喫茶店や飲食店で提供されています。名称の「白くま」は由来が諸説あり、はっきりしませんが、季節に限らず鹿児島に来るとこれを絶対に食べないといけないってくらいの定番スイーツになっています。最近では、全国各地のコンビニやスーパーでもカップ入りの「白くま」が販売されているので、目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。でもやっぱり本場で食べる「白くま」の味は一味も二味も違うんです。私は34年前に結婚の申し込みのために妻の実家を訪ねた際に「白くま」を初めて食したのですが、とにかく衝撃の美味しさでした。で、今ではカキ氷と言えば「白くま」が定番となっています。
還暦を過ぎたオッサン2人が喫茶店に入って「白くま」を注文するのもいかがなものかと思えるのですが、この鹿児島中央駅のアミュプラザにも「天文館むじゃき アミュプラザ店」という美味しい「白くま」が食べられる店を事前に見つけていたので、その店の前でイッカクに「鹿児島に来たら“白くま”食わなきゃあ。よしっ、デザートに“白くま”食おう!」と誘ってみると、「いいね!」って返事が返ってきました。イッカクとは中学以来の友人なのですが、気心が知れているというか、私が多少の無茶振りをしてもちゃんと付き合ってくれるので楽です。で、そのイッカクも「白くま」の味に感激してくれたようで、「美味い!」 そうでしょ、そうでしょ。
「白くま」を食べている途中でウスキから「同じ新幹線にモトム君らしき乗客が乗っていて、声をかけようかどうか迷ってる」…というメールが入って来たのですが、そのモトム君は既に鹿児島中央駅に着いてここにいるんですけど…(笑) やっぱ、44年ぶりですからね。似た人がいたら見間違うでしょう。まぁ〜ウスキもモトム君と44年ぶりに会うのを心から楽しみにしているってことの表れですね。
そろそろ集合予定時刻の13時30分が近づいてきました。皆さん、既に空路とリムジンバスで、あるいは九州新幹線で鹿児島中央駅に到着しているようで、めいめい昼食を摂っているようです。多くは「こむらさき」と「ざぼん」という鹿児島ラーメンの店へと誘導しておいたので、その店の前で集合することに変更しました。事前に連絡した観光案内所前だと屋外なので、こういう雨の日の集合場所としては不適ですからね。さぁ〜て、いよいよです。
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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