2014/06/06

『気候で読み解く日本の歴史』続編

私が先日、推薦図書としてご紹介した『気候で読み解く日本の歴史』の著者である田家 康(たんげ・やすし)さんと過日お会いする機会があり、会食をしてきました。

田家さんは、現在、独立行政法人・農林漁業信用基金の漁業部長で気象予報士、日本気象予報士会の東京支部長でもあります。

私が懇意にしている愛媛県農業法人協会の牧会長のご紹介でお会いしました。牧会長は農林中央金庫の某委員会の委員をなさっている関係で、農林中央金庫様とも太い人脈を有していて、「ぜひ田家さんとお会いしてみたい」という私の願いをそのツテを駆使して実現していただきました(牧会長も、私がお願いした時に「おぉっ!、儂も会いたい!」と二つ返事ですぐに行動を起こしていただきました)。

牧会長はその農林中央金庫の委員会や全国農業法人協会の会合でたびたび愛媛・松山から上京していて、今回も牧会長の上京に合わせての会食でした。この日、顔を合わせたのは私と牧会長、田家さんに加えて、田家さんの農林中央金庫のご友人お2人の5人。

場所は農林中金様にお取りいただいた銀座にある野菜割烹料理のお店。さすがに農林中央金庫様御用達のお店、野菜づくしの料理を出すお店でした。野菜づくしで、肉や魚介類がいっさい出ないというのは、はっきり言って精進料理みたいなものですが、このお店の野菜づくし創作料理は絶品で、現代風。美味しくて、これは材料に何を使っているのか?…って想像するだけで楽しい。野菜に詳しい(農家だから当たり前か)牧さんが一番興奮してらっしゃいました。一品出てくるたびに嬉しそうに大騒ぎするので、しまいに料理長自らが出てきて説明してくれる事態に(笑)。この年齢になると、こういうのがいいですね。気軽に行けるような安いお店ではありませんでしたが、なかなかのお店で、特にお料理がことのほか美味しく、私は気に入りました。

18時から会食の予定だったのですが、私も含め皆さん楽しみにしていたようで、開始の時刻の15分前には全員が集合。名刺を交換して、初対面のご挨拶をしたのですが、その時点で妙に意気投合! 牧会長が事前に私のことを 田家さんをはじめ農林中央金庫サイドの3人の方々に「面白い人を連れていく」と吹き込んでくれていたようで、顔を合わすなり、あぁ!なるほど!…ってな感じで盛り上がりました。

当然、話題の中心は田家さんのお書きになった著書『気候で読み解く日本の歴史』。我々4人は当然その本を読んでいて、全員が本を持参。「忘れないうちに…」と、全員で田家さんにサインをねだっちゃいました。

読者4人が口々に『気候で読み解く日本の歴史』読後の感想を述べ、田家さんが本に書ききれなかったウラ話のようなエピソードなどを述べてくれたのですが、そのどれもが興味深く面白かったですね。読者側はめいめいツボに嵌まったポイントが違っていたのが面白かったし(立場が違うと、ツボは異なるものですね)、著者の田家さんの話なんて、どこでそんな情報を仕入れてきたの?…って感じで、次から次へと出てきて、飽きません。

たとえば、日本人にとって秋の味覚の代名詞のように語られ、珍重されているマツタケ。このマツタケが古代の森林破壊の産物だというエピソードには驚かされました。

もともと古代の日本で珍重されていた茸(キノコ)は、日本古来の広葉樹林に生えていたヒラタケだったのですが、宮廷や巨大寺院などの建設資材(木材)として、また燃料としての木炭の製造のためにその広葉樹林の森林伐採が進み、広葉樹林に生えるヒラタケも採れなくなってしまいました。

その過度な森林伐採により奈良時代後期以降の畿内には禿げ山が多くなり、そこに針葉樹であるアカマツが繁るようになった結果、アカマツにだけ寄生するマツタケが増えたそうなんです。

石炭や石油もない時代、木は唯一と言ってもいい燃料でしたからね。土器や陶器の製造、さらには銅や鉄といった金属の精錬や加工には大量の熱を必要としますからね。東大寺をはじめとする奈良や京都の古刹の建築と急激な都市化が大規模な自然破壊を招いたと言うことで、その自然破壊の産物がマツタケなんだとか。これには驚きですね。

そう言えば、現在は北◯鮮がマツタケの産地として知られていますが(中国でも北◯鮮国境に近い遼寧省の大連ではマツタケが安く食べられます)、あそこも燃料として樹木の伐採による自然破壊が進んでいます。マツタケが自然破壊の産物と言われたら、腑に落ちます。

また、西暦794年に平城京から平安京に遷都した理由もこの過度な森林伐採によるものだという説も、腑に落ちるものがありました。

昨年、20年に1度の遷宮が行われた伊勢神宮、その遷宮って、そもそもあんな大型の木造建築物が20年くらいしかもたないから行われるもののようなのです(特に柱の根本の部分)。平城京のような都の建物も同様で、東大寺のような大型の木造建築物を20年に一回建て直していたのでは周囲の木材資源などすぐに涸渇してしまいます。宮廷や寺院だけではなく、都には上級の公家の屋敷などもありますから、それも20年に一回建て直していたのでは、なおのことです。(ちなみに、建て替えられた古い建物の木材は地方に払い下げられ、傷んだ表面を削られて、地方の神社や橋梁、屋敷の建設資材に再利用されました。これにより朝廷の中央集権による律令政治の政治力を高めていったということで、遷都や遷宮というのは当時の重要な“公共工事”だったということが言えます。)

で、新しい木材資源を求めて京都に遷都したというのが、本書で書かれている背景です。とにかく近いところで木材資源の確保ができるところが都を立地する絶対条件だったわけです。

平清盛が福原(今の神戸市)に遷都したがったのも、背景にはこの木材資源の確保があるとの推測もできます。瀬戸内海に面した福原なら、海運を使って四国や中国地方、九州などから豊富な木材を海に浮かべて運んでこれますからね。

一昨年のNHK大河ドラマや一般的な歴史の教科書などでは、福原遷都は平清盛の大陸との交流の野望実現のため…なんて解釈されていますが、大陸との交流は遣隋使、遣唐使の時代から都が京にあっても問題なく行われていたわけで、それだけが理由で遷都(首都を移す)するとは考えにくく、むしろ木材資源確保のためと考えたほうが遥かに納得感があります。

平家の栄華を世に知らしめ、長い繁栄を築くには、きらびやかな都を建設する必要があり、それを立地する最適な場所を探したところ、見つかったのが福原(今の神戸)ってことだったんでしょう。実際、平城京から平安京に遷都した際も、さらに、その後も都の代替候補地として何度も難波(大阪)の名前が挙げられては実現に至らなかった記録も残っています(理由のほとんどは財政上の課題だったようですが…)。当時の都市においては、建設資材、燃料資源としての木材資源の確保は極めて重要なことで、平清盛は海上輸送による利便性に着目したというわけです。

また、地球は今よりも“遥かに温暖であった”のではないかという話は、大変に興味深い話でした。青森県青森市に三内丸山遺跡と呼ばれる縄文時代前期中頃から中期末葉に建てられたと推測される大規模集落跡があります。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、遺跡のシンボルとなっている3層の掘立柱建物が再現されているのですが、ここで注目すべきは、三内丸山遺跡が津軽地方の青森県青森市というところにあるという事実。

まだ化石燃料は発見されてなく、今のようにまんぞくな暖房の設備がなかった縄文時代前期、冬になるとあんなに寒くなり、雪が深く積もるような北国・津軽の地に、都市文明が栄えたというのは、いくらなんでも無理があるでしょ…と田家さんはおっしゃいます。言われてみると、確かにそのとおりです。ちょこっと南にいけば、もっともっと暮らしやすい土地はいっくらでもありますからね。どうしてもあのあたりの場所でないといけない理由があるか、あるいは元々あのあたりは温暖で暮らしやすい土地だったからと考えるのが自然。この中でも前者の理由は根拠に弱く、後者、すなわち、昔の津軽地方はもっともっと温暖で暮らしやすかったと考えるのが妥当…ってことになります。

もしかしたら、縄文時代や弥生時代の日本(地球全体)は今よりも遥かに温暖で暮らしやすかったのが、その後、長く寒冷期を迎え、そして今また再び温暖期に戻っているのだ…、このように捉えると現在の地球規模の気候変動というものもまったく見方が変わってきます。

そういう風に歴史上の事実をもとに仮説をおいて調べてみると、いろいろと面白いことが見えてくると田家さんはおっしゃいます。

人間は誰も争い事など嫌いなもので、豊かに暮らしている時は戦争や征服、政変、内乱など起こしたいとも思わないものです。それでも戦争や征服、政変、内乱などが起きてしまうのは、そうしないといけない、もっと言うと、そうしないと自分達が生きていけないやむにやまれぬ明確な理由があったからとしか思えません。それは人間の力ではどうしようもない圧倒的な破壊力を持つ“自然という脅威”に晒された時と考えるのが妥当と思われます。

ここで言う“自然の脅威”というと地震や台風のような地形を一変させてしまうような大きな事象だけではありません。寒冷化による冷害や少雨による干魃、長雨が続くことによる日照不足は農作物の成長に大きな影響をもたらし、人々が暮らしていく上で絶対に必要な食料の供給に甚大な被害をもらたします。人間は食料がないと生きてはいけず、餓死者が出るような事態ともなれば、社会は安定を失い、政情は不安化し、政変、内乱が起こったわけです。

実際、昔の日本で年号が変わる(すなわち、天皇が代わる)際にはこの天変地異や異常気象の発生が大きく影響していると田家さんは分析しています。昔は天変地異が起きるのは天照大御神の末裔である天皇の信神心が足りないからだと思われていたようなところがあって、人々の目に見える形で天皇としての責任を取り、人心を落ち着かせるために、天皇位の移譲と年号の変更を行ったのだという分析を田家さんは行っています。

実際、年号が変更される直前にはなんらかの天変地異や異常気象が起こり、人心が乱れていた状態の時と符合するそうです。農業技術や土木工事技術、気象技術などが今ほど発展していなかったその当時おいては、神に祈りを捧げるくらいしか対処の方法はありませんでしたからね(今もそのようなところは残っていますが、それだけ自然の力は偉大で、畏敬の念をもって接しないといけない…ということに繋がります)。

そうした国内での対処だけでは人心の乱れを収めることができず、武力を用いて他国の侵略し、その土地の食料やら資源を略奪し、自分達は生き残ろうとして起こすのが、戦争や征服。でないと、支配者だけでなく国民が命を賭けて戦いに行く理由が説明できません。戦争を仕掛けないと自分達や自分の大事な家族が生きていけない…そんな空気が世の中に満ちてきてしまっていたから戦争や侵略、征服になったのだ…と田家さん。事実、世界中の歴史を振り返ってみても、大きな戦争が起こった時の直前には、なんらかの天変地異や異常気象が発生しているのだとか。これには大いに納得します。

だからこそ、自然環境と真っ正面から向き合う農業、特に農業技術の発展や気象技術の発展は世界平和のため、安定した社会を作り出すためにも重要なのですよ!…と声を強くする田家さん。その思いを漠然としながらも持っている人達ばかりが集まっているので、この田家さんの言葉には、一同、「そうだ!その通りだ!」と賛同。オッサンばかりが集まった会では、この志を同じくする“賛同”ってのが極めて大事になるのです(^^)d

なるほどぉ~って腑に落ちる話ばかりで、聞いていて非常に興味深かったです。

でも、さすがは気象予報士。最新の気象知識に基づき、世界的かつ長いスパンで、気象や自然環境の変化を語られているのが、私にとってはとても新鮮でした。私はこの『気候で読み解く日本の歴史』を読んで「1300年イベント」というものの存在を初めて知りました。

13世紀後半からの100年間、地球は著しい気温低下に見舞われ、ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起き、それまでの数百年間に渡るヨーロッパの繁栄と成長に急激に歯止めがかかり、それがヨーロッパから全世界にかけて様々な激動に繋がりました。

まず、1315年から1317年の大飢饉や黒死病(ペスト)といった、14世紀には一連の飢饉と疫病の大流行によってヨーロッパ全域において人口が激減しました。人口の減少とともに各地で社会不安と地域的騒乱が発生し、フランスやイングランドでは、大規模な農民蜂起が起こるなど、都市や農村での民衆暴動や党派的抗争が頻発しました。この時代はこのような多くの問題に加えて、それまで人々の心の拠り所であったカトリック教会も教会大分裂によって打ち砕かれ、統一性が失われたりもしました。

こうした危機にもかかわらず、14世紀は芸術と科学技術の分野において大きな発展を遂げた時代でもありました。12世紀に興ったルネサンスは度重なる十字軍の遠征やオスマントルコによるコンスタンティノープル占領などによりアラブ文化を取り込むことでさらに進化しました。また、印刷技術の発明は印刷物の普及と学問の大衆化を促進に結び付き、この2つのことは、後に宗教改革に繋がっていくことになります。

また、この時代の終わり頃、ヨーロッパの人々は新たな食料と資源の供給源を求めて、次々と海を渡り、新大陸発見の時代(大航海時代)が始まります。1453年のコンスタンティノープル陥落で全盛期を迎えたオスマン帝国の隆盛によって、東洋との交易機会が阻まれ、ヨーロッパ人は新たな貿易航路の発見を余儀なくされたからです。1492年のコロンブスによるアメリカ大陸への航海や、1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ経由のインドへの周航の背景にあったのもこの「1300年イベント」の経験から食料と資源の安定的確保の重要性を認識したためだとのこと。

この世界規模の気候変動に起因する激動の歴史はヨーロッパだけにとどまりません。

1200年代後半、第5代皇帝クビライに率いられてユーラシア大陸全土を征服し一大帝国を築き上げたモンゴル帝国も、クビライの死後、後継者争いから内部分裂が相次ぎ、徐々に帝国としての統制力を失っていったのですが、そのモンゴル帝国の安定にトドメを刺したのが、著しい気温低下という異常気象による大飢饉とペストの大流行をはじめとする疫病、さらには自然災害の続発でした。

後継者争いから政権の分裂がさらに激しく行われるようになり、1351年に起こった紅巾の乱によって経済の中心地であった江南の地を失い、1368年、ついに紅巾党の首領の1人であった朱元璋のうち立てた明王朝によって中国を追われることになります。1206年、チンギス・ハンが創設し、急激に勢力を拡大し、一時期はユーラシア大陸全土をも支配下においた一大帝国も、僅か150年あまりで呆気ない感じで姿を消すことになったのですが、その背景にあるのも、「1300年イベント」と呼ばれる地球規模の著しい気温低下とそれがもたらした大飢饉と疫病の大流行だったと田家さんは分析しています。

その天変地異の様子がヨーロッパなどから遠く離れた日本でも、日蓮上人が書き残した『立正安国論』の中に記されているのだとか。世界規模の気候変動が起きていたということですね。

もちろん、日本も例外ではなく、歴史を振り返ってみると、この「1300年イベント」の影響は見られます。『太平記』に出てくる、新田義貞の有名な鎌倉攻めも、この「1300年イベント」の影響が大きいというんです。寒冷化が進むと海水面が低下(海退)する。普段は通れない稲村ケ崎の海沿いを「俄かに潮干して」通れたのも、この海退のおかげではないかと田家さんは推測しておられるのですが、非常に興味深い分析だと私は思います。その後、日本も足利幕府の時代になり、その足利幕府も勢力が弱まり、群雄が割拠する戦国時代へと突入していくわけです。お話を聞いていると、さもありなん…と、納得させられます。

しかし、田家さんの推測は単なる気候決定論ではないところが素晴らしいところです。寒冷化や火山噴火、それに大地震などの天変地異は確かに人知を超えたものがあるのですが、それにその当時の人々がいかに対処してきたかを知ることが重要なんですね。

田家さんは、具体的には2つの事柄を指摘しています。1つは科学技術の発達。そしてより重要なのは為政者による有効な政策なのだ…と説いていらっしゃいます。そして、そこが最も重要な指摘なのです。

現代の日本の歴史の教科書には、そうした自然環境の変動がいかに歴史に影響したのか…という視点が決定的に抜け落ちています。火山噴火や飢饉の年代は覚えさせられるのですが、なぜ凶作になるのか、学際的に考えさせようという発想がないように思えます。災害大国日本としての歴史の見せ方・考え方が今こそ求められていると私は思います。他の国々では歴史を学祭的に教えるのは当たり前のことになっていて、日本の歴史教育だけが特殊なんです。私も中学や高校時代にこうやって教えていただけたら歴史にもっと興味をもっただろうし、社会科も得意科目になっただろうに…と思っちゃいます。受験科目に社会科が必要ない大学を選んで受験したくらい苦手の科目でしたから(^^;  この意味で、田家さんの視点は 極めて貴重だと私は思っています。

さすがに実際に農業の生産現場の最前線にいらっしゃる方や、農林中央金庫という金融の方面から農家と向き合っていらっしゃる方々、さらにこのところ農業向け気象情報提供に強い関心を示している気象情報会社の社長である私、こうした人達が集まっただけに、田家さんの著書『気候で読み解く日本の歴史』に関連した話から、しだいに現在の日本の農業が直面する課題・問題に関する真面目な話題にも話が及びます(^^)d なるほどぉ~。実際に農業に携わっている人や深く関係している人達のナマの(本音の)話は大いに参考になります。

一般的にテレビや新聞で取り上げられていること以上に、現代の日本の農業が直面する課題や問題は大きく、それが年々深刻さを増しているということのようです。どうしてもテレビや新聞はTPP参加問題や政府の減反政策の見直しといった政治的な話題ばかりに目がいきがちのようなところがあって、世の中の人達もそれが日本の農業が直面する最大の課題のように捉えているようなフシがあります。ですが、日本の農業が直面している課題や問題はそのような表面的なものではなく、もっと根深く深刻な課題や問題が横たわっているということを、この日の会合で改めて認識しました。

たとえば化学肥料の問題。植物(農作物)の生育には窒素、リン酸、カリが三大要素として必要で、それを補うために化学肥料が用いられることは中学校の理科や社会科で学ぶので、皆さんご存知のことなのですが、この窒素、リン酸、カリを今の日本は100%海外からの輸入に頼っているという現実を日本人のほとんどは誰も理解していないのです。窒素をどこから輸入しているかは忘れましたが、リン酸のもとになるリン鉱石はほとんど全てを中国から、カリウムに関してはほとんど全てをカナダからの輸入に頼っているそうなんです。これは大変に危険なことです。それらの輸入がストップしてしまったら、化学肥料の使用にばかり頼っている日本の農業はたちまち破綻してしまいます。今後、世界の人口が急増して、世界中で食料危機が起きるかもしれないと言われていますが、その時、日本は窒素、リン酸、カリをこれまでのように輸入できるのか…という大きな課題があります。

今は化学肥料を使わない農業と言うと、食の安心や安全の観点から語られることが多いのですが、国家安全保障の観点から言うと、この化学肥料の原料を100%海外からの輸入に頼っているという問題のほうがよっぽど重要。そのためには、これまでJA(農協)主導で行われてきた化学肥料による生産量拡大という安易な方法からの脱却が重要で、農業本来の自然の力をできる限り活用した農業への“回帰”を今こそやるべきだということで、意見は一致しました。その際、気象や気候変動に関する情報は極めて重要になり、気象情報会社の果たす社会的な役割も今後ますます増すとの意見もいただきました。

こんな真面目な話ばかりではなく、このオッサン5人の会話はドンドン膨らみます。たまたま偶然なんでしょうが、私も牧さんもほとんどゲコで、それほどお酒を飲むほうではなく、また、他の3人も同様で、少しのお酒で酔っ払って盛り上がり、会話は思いっきり弾みました。喋るために舌を湿らすためにビールや焼酎をクチに含む…って感じで、喋りのエンジンはフルスロットルの全開状態でした。

皆さん、それぞれの分野の論客揃いで、話の流れの中で、御自身のいろいろな引き出しの中から話のネタを引っ張り出してきては話題にされます。私も話のネタはそれなりに多く持っているつもりでいたのですが、田家さんをはじめとしたこの方々の前ではすっかり霞むくらいでした。しかも、皆さん、話がメチャメチャ面白い(^O^)

時には、それは若干危ないんじゃあないかい…と感じられるような都市伝説ネタまで出てきて、大いに盛り上がりました(笑)

気がつくと時計の針は22時を大きく回っていました。お店の方が「そろそろ閉店のお時間ですが…」って言ってこられなかったら、このまま朝まで続きそうな勢いでした。初対面の方がほとんどだったのですが、4時間以上もこうして会話が弾み、楽しめたのは、今回顔を会わせた5人が皆さん論客揃いだったのと、共通の課題認識、問題認識を持っていて、言ってみれば“志”を同じくする人達だったということなのかもしれません。

御開きの時、田家さんのほうから「この会の続きを是非近いうちにやりましょう。と言うか、定期的に開催するようにしませんか」と提案があり、全酪連の常務理事が「大賛成です。私が事務局を務めます」と事務局までできちゃいました。「よっしゃ! それならば次回は同じく“志”を同じくできそうな人をあと何人か連れてくる !」と牧さん。皆さん、よっぽど気持ちよかったんでしょうね。

次回以降も楽しみになってきました。

ただ、私も次回までに新たなネタ、と言うか蘊蓄をいっぱい蓄えておかないと、このメンバーの中では存在感を発揮できそうにありません(^^; まぁ、それもまた楽し…です(^-^)v

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

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