2014/07/18

巨大古墳は公共工事の跡!?

気象に関わるようになって、また、『気候で読み解く日本の歴史』(田家 康著)や『日本史の謎は地形で解ける』(竹村公太郎著)といった本を読んだことによって、このところ俄然、歴史に興味を持つようになってきました。中学高校時代に社会科(特に歴史科目)が大の苦手科目で、大学受験にあたっても、当時、社会科が受験科目に入ってなかった国立大学一期校の工学部が東工大と広島大しか選択肢になかったので、実はそれが本当の理由で広島大学工学部を受験した…というほどだった私が、今は歴史の謎解き、すなわちある仮説を立てて歴史の謎に迫り、場合によってはこれまでの定説を覆すことが面白くて面白くて仕方がないほどになっています。

『気候で読み解く日本の歴史』の著者である田家 康さんとは定期的に意見交換会(楽しい飲み会)を開くようになっていて、それに向けてのネタ集めという意味合いもあります。まぁ~、ネタの引き出しをとにかくいっぱい用意して臨まないと、あの場では存在感が薄くなって、どうにも堪えられませんからねぇ~(^^; (笑)

で、今回取り上げるのが『古墳』(^^)d

ある新聞記事によると、最近静かなブームなんだそうで、「形がカワイイ」と各地を巡る「古墳にコーフン協会」なる組織まで発足しているのだとか。その『古墳』に関して、私のある推察を書かせていただきます。

日本史の教科書を開くと、最初のほうに出てくるのが『古墳』です。『古墳』とは、日本史上、今から1700年ほど前の3世紀後半から7世紀前半にかけての約400年間に築造された墳丘を持つ古い墓のことを指します。古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として、土と石を使って高く盛った大きな墓が盛んに築造されたと言われていて、この日本の『古墳』もそうした当時の身分の高い権力者の墓だという学説が一般的ですが、これって本当にただの権力者の墓だったのでしょうか? それにしては必要以上に立派すぎます。この素直な疑問 に着目して、いろいろと調べ、私なりに推察してみました。

答えから先に書きます。

大阪府堺市にある仁徳天皇陵をはじめとした巨大古墳群は我が国にはたくさんありますが、それがいったい何のために作られたのかと言えば、ズバリ「水田開墾のための土木工事のため」だったのではないでしょうか(^^)d

仁徳天皇陵もそうですが、そもそも巨大古墳は日本列島の面積の7割を占める山間部には1つもなく、基本的に平野部にしかありません。平野部といっても、今でこそ平野になっていますが、原始のままなら相当に凸凹と細かい起伏のある地形だったのではないでしょうか。あるいは、竹村公太郎さんが『日本史の謎は地形で解ける』に書いておられるように、見渡す限り一面に葦が生い茂るジメジメとした湿地帯だったのかもしれません(おそらくこちらのほうが当たっていると思います)。

そういう土地で自分達が生きていく上で必要となる食糧(特に米)を作るためには、自分達の手で水田を開墾しなければなりません。そのためには、まず、全部の土地を水平にならさなければなりません。水田は水を使うからです。水平でなければ水が流れていってしまって貯まらず、水田にならないからです。

そして水田には水を引く必要がありますから、水路や用水池の整備も必要です。しかも平野部は大雨のときの水害に弱いですから、その対策には、河川に堤防も築かなければなりません(もしかしたら、河川の付け替えだってやったかもしれません)。

するとあたりまえのことですが、大量の土砂が発生します。そうした土砂は、今の時代ならダンプカーで沿岸の埋め立て地にでも運んで投棄しちゃいますが、昔はダンプカーなんてありませんから、開墾地のすぐ近くに計画的に盛り土することにより廃棄処理をすることになります。その時にちょっとした遊び心が芽生えて、円墳や方墳、八角墳や前方後円墳といったその時の流行に合わせて様々な形状に盛ってみた。これが今の時代まで残り、『古墳』と呼ばれるものになったのではないでしょうか。

このような広大な土木工事を営むとなれば、想像を絶するような大工事になるため、単独の村落共同体だけの活動では到底不可能なことです。たくさんの村落共同体が集まって、皆で力を合わせる必要があります。そして子や孫たちが、将来、安心して腹一杯飯が食えるように、皆で協力して、工事を推進しなければなりません。

今の学説では、古墳を墳墓(豪族達の墓)とする説が一般的ですが、私はその逆だったのではないかと考えています。雑木林や湿地帯などの広大な地所を開墾するとなれば、昔はそれをすべて人力の手作業でやらねばならなかったわけですから、一代ではとてもじゃないが出来ることではありません。それこそ、祖父、父、自分…と何代にも渡って地所を皆で開墾し、ようやく広大な田圃を手に入れることができたわけです。その開墾の言い出しっぺであり、陣頭指揮をとり、皆を励ましてくれたのが死んだ祖父なら、その方のお墓は、皆の総意として、どこに造るものでしょうか?

私だってそうしますが、開墾した田畑を全部見渡せる小高い丘の上と考えるのが一般的で、もしそうだとすると、まさに皆で盛り土して造り上げたその丘の上ではなかったでしょうか。「俺達みんなで開墾したこの土地を、お祖父さん、ずっとずっと見守っていてくれよ」…そんな感謝の気持ちで、盛り土の上に墓を造った…それだけのことだったのではないのか…と私は思っています。これなら納得がいきます。

このことは、日本最大の古墳である仁徳天皇陵が、見事に証明してくれているように思います。

以前、大手ゼネコンの大林組が、この仁徳天皇陵を造るのにいったいどれだけの労力がかかったのかを計算したことがあるのですが、この時の計算では、完成までに15年8ヶ月という長い年月を要し、必要人員は延べ680万人(1日当たりピーク時2,000人)かかるという計算になりました。

http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_59ad_1.html

余談ですが、大林組では弘法大師・空海の改修した『満濃池』の想定復元の研究などもやっていて、エンジニアとしては大変に興味深いです。

http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/manno/p01.html


最近の歴史学者の先生がたの学説によると、仁徳天皇が強権を発動して、生前に自分の墓を作るために民衆を使役して古墳が作られたというのが一般的な解釈となっていますが、これには大いなる疑問があります。仁徳天皇の治世の頃の日本列島の人口は、多く見積もっても全国でせいぜい4~500万人程度のものと言われています。そんな時代にどうやって延べ680万人も膨大な労力(人員)を動員することができたのか…ってことです。しかも約16年もの長い間、民を自分の墓作りのための山盛りだけに使役していたら、民そのものが飢えて死に絶えてしまいます。いくら強大な権力を持った天皇といえどもそんな無体なことをする筈がありません。

おそらくそうではないのです。仁徳天皇は、それだけ巨大な“土木事業”を、民とともに営んだのです。その結果、あの巨大な盛り土が出来上がったと考えるのが分かりやすい…と私は思います。21世紀の現代の感覚で考えてはダメなんです。

仁徳天皇陵は、巨大な盛り土なのですが、周囲が堀になっています。盛り土は人工的に造られたものであるため土が柔らかく、雨が降ると土砂が流れます。そうすると周辺の田圃に甚大な被害が出ます。そうならないように、周囲を堀で二重に囲むわけです。これは実に効果的な方法です。

その仁徳天皇は、日本書紀によれば、難波の堀江の開削、茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)、山背の栗隈県(くるくまのあがた:京都府城陽市西北~久世郡久御山町)の灌漑用水、茨田屯倉(まむたのみやけ)設立、和珥池(わにのいけ:奈良市)、横野堤(よこののつつみ:大阪市生野区)の築造、灌漑用水としての感玖大溝(こむくのおおみぞ:大阪府南河内郡河南町辺り)の掘削…等々、広大な田地の開拓を行っています。たいへん失礼な言い方になるかもしれませんが、仁徳天皇は広く知られている「竈(かまど)のお話」の天皇というよりも、むしろ「土木天皇」と言ってもいいくらい、民のために広大な土木事業を営んだ天皇、「偉大なプロジェクトリーダー」だったということのようです。

「竈(かまど)のお話」とは、仁徳天皇が人家の竈(かまど)から食事を準備する炊煙が立ち上っていないことに気付いて租税を免除し、その間は倹約のため自らの宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった…という仁徳天皇の人柄を表す逸話です。そうした仁徳天皇が自分自身の墓を造るためだけに約16年間もの間、延べ680万人もの人員を動員したとは、とてもとても考えにくいのです。

しかしながら、上記のように民と一緒になって(むしろ民の先頭に立って)水田開墾という巨大な土木工事を営んだことの“結果”として出来上がったのがあの仁徳天皇陵だ…とする仮説を立ててみると、「なるほどなぁ~」と、腑に落ちるところがあるのです。

このように、そもそも古代大和朝廷は、そうした村落共同体のリーダーとして誕生し、皆を支え、皆のために、民こそ宝という体制を築いてきたと考えられるのではないでしょうか。この時、民をまとめるために行われた統治が、公共工事。すなわち、水田の開墾でした。皆で共通の問題意識、つまり、子や孫たちが、将来、安心して腹一杯飯が食えるようにしようじゃないか…という問題意識を共有し、みんなが協力しあって共同して大規模な工事を営んだってわけです。その“副産物”として出来上がったのが『古墳』というわけです。

世界中の多くの国や地域では、都市国家は村落共同体を破壊することで成立しました。また、その都市国家はより強大な武力を持った別の王によって破壊され、併呑されることで国というものが成立しました。ところが日本ではそれとはまったく逆に、村落共同体が互いに共生し、共同体を保持することで発展・定着しあうために、徐々に大きくなって古代大和朝廷が成立したという点に大きな特徴があるように思います。日本という国の興り(おこり)を、西欧や中国等の他国の歴史と同じ視点で捉えて、考えてはいけないということです。周囲を海に囲まれた日本ならではの特徴があり、その上で推察しないといけないのです。これが正しい歴史認識というものです(^^)d

そして、凄いと思うのは、それから2000年近く経った21世紀の今の時代にも、この流れが脈々と続いているということです。ちょっと田舎のほうへ行くと、今も村落共同体が社会の中心に据えられて、それを中心に世の中が回っているようなところがあります。最近の言葉で言うと、「地域コミュニティ」ってことになるのでしょうか。日本文化のベース、もっと言うと日本国の“力の源”は、まさにこの「地域コミュニティ」にあるように思います。

現在、防災においても、『共助』の観点から、この「地域コミュニティ」の重要性が叫ばれています。日本人として大事にしたいものの一つですね。

どんなものでも、物事の判断を誤らせる最大の要因が、自分自身の中にある“先入観”です。先入観の多くは自分自身の経験や価値観から来る自分勝手な(あるいは、自分に都合のいい)“妄想”に過ぎないことが多く、それを大した根拠もなく言っている場合は、真実と大きくかけ離れていることが多々あります。くれぐれも注意しないといけません(^^)d

この『古墳』の場合は、『古墳』を単純に権力者の墓だとする先入観がそれ以上の思考を停止させているように思います。それに疑問を持ち、もう一歩推論を進めてみることで、見えてくる世界が大きく変わってくるように思えます。

ただ、私の仮説もあくまでも1つの推論に過ぎません。真実はどうだったのかは、タイムスリップしてその時代のその場所に行き、自分の目で確かめてみないと分かりません。

『古墳』の話題から、いつの間にやらこんなところに話が飛躍しちゃいました。でもまぁ~、こういうことが歴史を勉強する本当の楽しさでもあるとも言えます(^^)d

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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