2014/10/01

しまなみ海道

多々良大橋全景

来島海峡大橋
9月にあった3連休(13日~15日)、父の米寿を祝うため、私達夫婦と娘、息子夫婦に孫娘の家族6人で四国松山に帰省してきました。高校を卒業し、大学進学のため故郷四国を離れて40年。東京で就職し、埼玉に居を構えて、子供達も埼玉生まれの埼玉育ち。子供達も大きくなるとなかなか家族全員が揃って帰省することもなくなり、ホント久し振りの家族揃っての帰省でした。

父の米寿を祝う宴は、私が子供の頃、両親に連れて行ってもらったことのある松山市近くの奥道後温泉のホテルに、亡き弟の家族(義妹、姪、甥)も含めて総勢11名の家族全員で泊まり、開催しました。私が還暦まもない現在でも故郷を遠く離れて東京で頑張っておられるのも、元気な身体に育ててくれたことと、両親とも米寿(88歳)を迎えるこの歳になっても病気一つせずに元気でいてくれているおかげです。その感謝の気持ちも込めての楽しく賑やかな宴でした。

また、宴の後、露天風呂に父と一緒に浸かり、背中を流せてあげられたのも、いい思い出になりました。両親に初曾孫を抱かせてあげることもでき、父も母もこれまで見たことがないくらいの嬉しそうな笑顔でした。長男としての責任が果たせたと言うか、念願が叶いました。家族っていいな…、家族は大切にしないといけないな…と改めて思いました。

で、せっかく家族全員を引き連れて四国松山に帰省したものですから、子供達全員に我が家のルーツである故郷愛媛県を大好きになって貰おうと思い、レンタカーを借りて観光に出掛けました。愛媛県は海、山、温泉、文化、歴史…と観光資源の実に豊富なところで、どこに連れていくべきか迷ってしまうところなのですが、今回はいっさい迷いませんでした。選んだのは『しまなみ海道』!。愛媛県初心者向けにはここは「まずは“しまなみ”でしょう(^^)d」…と、絶対にはずせないところですからね(^-^)v

『しまなみ海道』とは、広島県(本州)の尾道市と愛媛県(四国)の今治市を結ぶ西瀬戸自動車道のことです。本州と四国を結ぶ橋(ルート)は3本あり、その一番西のルートです。尾道市を出ると、向島・因島・生口島(以上広島県)・大三島・伯方島・大島(愛媛県)などの島々を経て、今治市に至ります。延長59.4km。瀬戸内海に浮かぶ島々を繋ぐように合計10本の橋が架けられています。中でも斜張橋として世界最長の多々羅大橋(生口島~大三島間)、世界初の三連吊り橋の来島海峡大橋(大島~今治間)など姿形が美しい橋が多く、穏やかな瀬戸内海と芸予諸島の美しい多島美と相まって、その風景の美しさは日本一、いや世界有数だと私は思っています(地元への贔屓目も多少ありますが…)。

上記添付の橋の写真は『しまなみ海道』の今治側の起点、糸山にあるパーキングエリアから見た来島海峡大橋と、大三島から見た多々羅大橋の光景です。ちなみに、2012年の『ゆるきゃらグランプリ』で優勝した今治市のゆるきゃら『バリィさん』の頭にある冠は、来島海峡大橋をイメージしたものです(^^)d

『しまなみ海道』が通る愛媛県側の島々は、今でこそ今治市になっていますが、平成の大合併が行われる前までは“越智郡”と呼ばれていました。その地名から容易に想像がつくように、我が越智家の先祖代々の本拠地、ホームグラウンドのようなところです(我が家の本家のある朝倉は島岨部ではなく、陸地部にありますが…)。

“海なし県”である埼玉生まれで埼玉育ちの息子や娘、息子の嫁、さらには孫娘に(日本で一番最初に国立公園に指定された)美しい海を見せたいとの思いで連れてきたのですが、同時に我が越智家のルーツの地を是非とも見せておきたいとの思いもありました。

途中、我が家の本籍地である先祖代々の地、今治市朝倉を通りましたが、今回も先を急ぐため途中下車はせずに伏原八幡神社や無量寺(我が家の菩提寺)などを車内から眺めるだけでした。「あれはナニ、これはナニ…」と風景を指差しながら観光バスガイドよろしく説明するとともに、最近私が歴史解明にハマっている『斉明天皇伝説』や『四国遷都説』について熱く語ったのですが、家族の反応はイマイチ。イマイチどころか、「なにを熱く語ってるの?」…と、迷惑そうだったので、それ以上語るのは諦めました┐(‘~`;)┌

息子よ、娘よ、孫娘よ、越智家のDNAを受け継ぐ以上、きっと君達は将来この歴史解明に興味を持つことになるからな。それまで、私1人でやってみる…、勝手にそう思うことにしました。チッ!(-.-)

いよいよ『しまなみ海道』です。来島海峡大橋を渡って対岸の大島へ。驚異的“晴れ男”の私が同行していることもあって、この日はスッキリ快晴。青空も相まって、美しい瀬戸内海がことのほか美しく見えます。まさに絶好の“しまなみ日和(びより)”です(^^)d 世界初の三連吊り橋は走っているクルマ前方に見える景色もメチャメチャ美しかったです(特に橋の造形美が…)。

『しまなみ海道』は正式名称を西瀬戸自動車道といいますが、高速道路ではなくて、厳密には有料道路。道路の両サイドは自転車道や歩道になっていて、自転車や歩いて渡ることも可能です。ここが本州と四国を結ぶ残り2本のルートとの決定的な違いです。この日も、自転車や徒歩で多くの方が来島海峡を渡っておられました。このところ広島県と愛媛県は自転車(サイクリング)を観光の目玉にしようとしているところがあって、力を入れています。この『しまなみ海道』全体を使った大規模なサイクリングイベントも開催され、海外からも多くの参加者が集まるようです。世界的に見てもこんなに素晴らしいサイクリングロードは滅多にない筈で、これはとっても大きな観光資源です。眼下を大きな貨物船が通り過ぎていきます。

来島海峡大橋を渡り終え、道路は大島にはいります。瀬戸内海に限らず、島はたいてい山になっていて、道路は島の高いところを通っています。なので、道路を走っているぶんには島に暮らす人々の日々の生活を垣間見ることはできません。眼下に微かに集落が見えるくらいです。

大島からは伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋の2連橋)を通って伯方島(はかたじま)へ。「伯方の塩」で有名な伯方島ですが、実際は造船と内航船(国内航路の貨物船)の母港という船の島です。実は伯方島は旧越智郡島岨部の行政の中心で(ちょうど愛媛県島岨部の真ん中に位置していますから)、たいていの県の出先機関はこの伯方島に置かれていました。島岨部をすべて管轄する電報電話局も伯方島にありました。その伯方電報電話局の局長が今年米寿を迎えた父の最後の役職でした(父も電電公社(現NTT)マンでした)。なので、3年間ほどこの伯方島が私の帰省先だったことがあります。水が足りない等の不便はありましたが、のんびりとした島の生活もなかなかのもんでした。懐かしい!

伯方島からは大三島橋を渡って大三島へ。この大三島橋が『しまなみ海道』で一番短く、最初に架けられた橋です。あっと言う間に通り過ぎて大三島に到着。今回のドライブの最終目的地は大三島(おおみしま)の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)です。

この大三島は愛媛県の最北に位置し、愛媛県に属する島の中では最大の島です。多々羅大橋を渡った隣の生口島からは広島県に入ります。大三島は大山祇神社がある「神の島」として広く知られています。大三島は島という名称がついていますが、この名称は地理上の島に由来するわけではなく、各地にある「三島」と由来が同じで、かつて、三島神社の総本社である大山祇神社のことを「大三島」と呼んでおり、後にそれが島全体を指す様になったとのことです。

大三島も他の島と同様、中央に鷲ヶ頭山という標高436.5メートルのちょっと高い山があり、鷲ヶ頭山西麓に鎮座する大山祇神社に行くためには、『しまなみ海道』のインターチェンジを出た後、その鷲ヶ頭山を越える必要があります。クルマだとワケもないのですが、自転車で越えようとすると、これはちょっと難儀でしょう。

大山祇神社に到着しました。ここで予期せぬ事態が発生しました。私達が訪れた9月14日は旧暦8月22日にあたり、なんと大山祇神社では産須奈大祭という大きな祭が開催される日だったのです。この産須奈大祭は、神様の衣替えになぞられ、五穀豊穣を祝う祭です。大山祇神社では重要な年中行事の1つらしく、いったいこの島にこんなに人が住んでいたのか!?…って思えるくらいに大勢の人が揃いの祭の衣装を着て、列をなして練り歩いていました。山車があったり、獅子舞いがあったり、笛や太鼓のお囃子隊があったり…。さすがに大山祇神社。古い歴史を感じさせるなかなか本格的なお祭りです。

大山祇神社祭り1

大山祇神社祭り2


大勢の祭りの行列が過ぎ去るのを待って、なんとかクルマを道の駅の駐車場に入れることができ、大山祇神社を参拝することができました。この産須奈大祭、あまり知られていないせいか、島外からの見物客はさほど多くない感じです。もったいない…。

大山祇神社正面

大山祇神社拝殿
大山祇神社拝殿2

大山祇神社楠1
大山祇神社楠2




大三島の大山祇神社は、全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社です。また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がり、静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされています。主祭神の大山祇神(オオヤマツミ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では、神産みにおいて伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)との間に生まれた何人かの神の中の1人とされています。

さらに大山祇神は山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めました。源氏や平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝や重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっていると言われています。

国宝の数は8件。国宝の中には源義経が奉納したと伝えられている甲冑や、源頼朝が奉納したと伝えられている甲冑や武具もあります。国の重要文化財の数は76件。中には武蔵坊弁慶が奉納したと伝えられる大薙刀も含まれています。さらに、「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる鶴姫が着用したと伝えられている女性用の鎧(胴丸)も国の重要文化財に指定されています。胸部を大きく取り、ウエストを狭く絞った形状が、いかにも女性用って感じです。これらの国宝や重要文化財を含め、奉納された鎧、兜、刀剣類は紫陽殿(国宝館)に展示されています。国の重要文化財が1つあるだけで十分に観光資源になるくらいなのですが、ここでは重要文化財程度では凄いという気になりません。これだけ国宝や国の重要文化財がズラァ~っと並んでいれば…ね(^^)d

また、紫陽殿に併設する海事博物館には、昭和天皇の採集船・葉山丸を中心に、瀬戸内の動植物や全国の鉱山から奉納された鉱石等、昭和天皇の研究成果が展示されています。

さらに、島の神社ゆえ境内も鎮守の森もそれほど広くはないのですが、境内のほぼ中心にある御神木の「乎千命(おちのみこと)御手植の楠」と呼ばれる樹齢2600年のクスノキの巨木や、奥の院の門となっている「生樹の御門」など、境内や近隣に存在する計38本のクスノキの巨木群は「大山祇神社のクスノキ群」の名称で国の天然記念物に指定されています。

この大山祇神社には、近代においても、日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者達の参拝があった記録が多数残っています。現在でも、海上自衛隊や海上保安庁の幹部などの参拝が絶えません。

こんなところがこの瀬戸内海の島にあるなんて、あんまり知られていないんですよね。まぁ~、大勢の方々がドッと押し寄せて来られるのも、いかがなものか…とは思いますが…ね。

国の重要文化財である拝殿に参拝した時、息子が「あれっ!? あれってウチのマークじゃん!? あっ!あそこにも、ここにも! ウチのマークだらけじゃん!」 ……ふむふむ、この驚愕の事実にやっと気づいたか(^.^) それと、“ウチのマーク”ではなくて、“我が家の家紋”だろ!

拝殿をはじめ神社のいたるところに大山祇神社の社紋が描かれているのですが、その社紋って、我が家の家紋と同じなんです。我が家の家紋は、さして複雑な形をした家紋でもないのですが、あまり一般には見掛けないような家紋らしいんです。私が結婚する時、式場で紋付き袴に家紋を入れるサービスがあったので頼んだところ、分厚い家紋帳に載っていなかったので、わざわざ田舎の先祖の墓から拓本を取って送ってもらい、それをもとに特注品で作ってくれたのまではよかったのですが、あろうことか紋付きに貼り付けるところで上下が逆になっていることが発覚。せっかくの結婚式なのに、上下反対の家紋を付けた紋付き袴姿で記念写真を撮っています。虫メガネを使ってよく見ないと気づきませんし、結婚式当日も私と私の両親しか気づいてはいませんでしたが…。また、息子の端午の節句で購入した兜の飾りに家紋を入れて貰った時も、娘の初節句に購入した雛人形の冠に家紋を入れて貰った時も、店の家紋帳には載っていなくて、私の結婚式の時の紋付き袴同様、わざわざ先祖の墓から拓本を取って送って貰いました。我が家の家紋はそんな珍しい家紋のようなんですが、実は大山祇神社の社紋と同じなんです。これはいったい何を意味するか?…ってことです。

境内にある御神木の名称が「乎千命(おちのみこと)御手植の楠」。“乎千”とは“おち”、すなわち“越智”のこと。この大山祇神社は越智家にとってはまさに“氏神様”中の“氏神様”ってことのようです。そして前述のように大山祇神は海の神、戦いの神、すなわち水軍の守護神でもあります。

「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」こと鶴姫の姓名は大祝 鶴(おおほうり つる)。この大山祇神社の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘です。この大祝氏は伊予河野氏(俗に言われる河野水軍)の一門で、元々の苗字は越智。大山祇神社の大宮司だけが大祝の姓を名乗っていました。

世は戦国時代、周防(今の山口県南東部)を本拠とする大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大し、伊予河野氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていました。大祝氏は代々神職として戦場に立つことはなかったのですが、いざ戦が起きた場合には一族の者を陣代(侍大将)として派遣していました。1534年(天文3年)に大内氏が侵攻してきた際には、鶴姫の兄の安舎が陣代として出陣し、大内軍を撃退しています。

1541年(天文10年)にも大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻してくると、神職となった長兄の安舎に代わって、次兄の安房が陣代となり出陣しました。安房は河野氏や来島氏と連合して迎撃。大内軍を撤退させることはできたものの、安房は討死を遂げてしまいました。同年10月にも大内氏が侵攻してくると、安房に代わって16歳の鶴姫が陣代として出陣し、大内氏の武将・小原隆言を討ち取って勝利しています。

1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、猛将・陶隆房の水軍を伊予河野氏の勢力圏に派遣。瀬戸内海の覇権の確立を目論みました。河野氏とその一門は全力で迎え撃つのですが、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成も討死してしまいます。陣代である鶴姫は残存兵力を集結させて最後の反撃を行い、不意を突かれた大内軍は壊走、鶴姫率いる伊予河野水軍は逆転の大勝利を収めることができました。

しかし、鶴姫はこの戦の後、無念の戦死を遂げた兄や恋人を想い、18歳で入水自殺したと伝えられています。これが“瀬戸内のジャンヌ・ダルク”『鶴姫伝説』と呼ばれるものです(この『鶴姫伝説』、後藤久美子さん主演でテレビドラマにもなりました)。

この『鶴姫伝説』でも、鶴姫の右腕で恋人とも言われた部下の苗字が越智でした。大山祇神社の社紋を家紋にいただく我が家の先祖も、この伊予河野水軍と何らかの関係があると言われています。たぶん熊手を操って船から敵の兵士を海に引き摺り落とす役目などを担ったただの雑兵の1人だったのでしょうが…。

この話には子供達は熱心に耳を傾けてくれます。ついに眠っていた越智家のDNAが覚醒したか!?(^.^)(笑) 子供達や孫をここに連れてきてよかった…と思いました。まさに私の狙い通りです。源義経や頼朝、武蔵坊弁慶などの奉納品を見て、娘や息子の嫁は眠っていた“歴女”のDNAまでも覚醒されたらしく、「また来た~い!」「今度はゆっくり見た~い!」

うんうん、そうだろう、そうだろう。故郷なんだから、何度でも来てくれぃ!(^^)d

そんな私を含め、家族全員大満足で『しまなみ海道』を後にして、松山に戻りました。


【追記1】
先日お誕生日が来て1歳になったばかりの孫娘は今回の旅行がこれまで一番の遠出。飛行機に乗るのは初めてで、初フライトになりました。搭乗した当初はさすがにいったいここはどこ? どこに連れて行かれるの?…って感じで、幾分緊張した面持ちでしたが、それも離陸するまでのこと。離陸後は往きも帰りもずっとニッコニコ。

気圧の変化による耳ツンで大泣きをして、周囲の皆様にご迷惑をお掛けするのではないかと我々大人達はずっと心配していたのですが、その心配は呆気ないほどの杞憂に終わっちゃいました。フライト中、少し機体が揺れたことがあったのですが、不安そうな顔をした大人達を横目に、なんと孫娘は声をあげてはしゃいでいました。どうも初フライトにして飛行機が大好きになったようです。

CAさんから初フライトの記念のメッセージカードをいただいたので、息子夫婦は同じくアメニティでいただいた飛行機のミニチュアに搭乗日付を書いて、一緒に家に飾っています。今回が初フライトでしたが、孫娘はこれからいっぱい飛行機に乗っていろいろなところに行くのでしょうね、きっと。もしかして、将来CAさんになっていたりして…。その記念すべき初フライトに立ちあえて、私もいい思い出になりました。


【追記2】
10月に入り、いよいよ今月から愛媛新聞の有料経済Webサイト『E4(イーヨン)』で、私の月イチコラム『晴れ時々ちょっと横道』の連載が始まります。第1回の掲載は明日10月2日(木)です。既に原稿は愛媛新聞様のほうに送ってあります。読者の皆様の反応が大いに気になります(^^;

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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