2017/09/06

エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その5)

これまでは、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの行程から、理系のアプローチにより、邪馬台国が四国にあったのではないか…とする私の大胆すぎるくらいに大胆な仮説をご紹介しました。今回は引き続き「魏志倭人伝」に書かれた行程以外の文章から、邪馬台国が四国にあったとするさらに決定的な証拠をご紹介します。

最初にお断りしておきますが、以下はあくまでも私の立てた大胆な仮説に過ぎません。

魏志倭人伝の第2章「倭國の風俗」にあたる部分の一番最後に、次のような文章があります。

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【現代訳5】
女王の国の東には、海を渡って1,000里ばかりいくとまた国がある。これも皆、倭と同一の種族である。また侏儒国がその南にあり、人々の身長は3、4尺である。女王の国から4,000里ばかり離れたところである。また裸国・黒歯国があり、船で1年行くと到着できる。倭の地を詳細にみると、大海の中の離れた島の中にあり、離れたり連なったりしている。一周まわると5,000里くらいである。
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まず、一番最後の「倭の地を詳細にみると、大海の中の離れた島の中にあり、離れたり連なったりしている。一周まわると5,000里(約400km~500km)くらいである」。これって、倭国が四国ってことを意味していると読み取れませんか? 北部九州や畿内(近畿地方)ではそもそもこの表現はあてはまりません。

(その1)でご紹介しましたが、魏志倭人伝の第1章「倭國を形成する国々」の部分では百支國、伊邪國をはじめとした女王卑弥呼を中心として都市国家連合を形成している国々の名称が出てきます。この国々の推定位置ですが、徳島県在住の郷土史家・大杉博氏の説でプロットしたものを以下に示します。

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これを見ると、愛媛県にも卑弥呼に所縁の国が幾つかあって、今の松山市周辺には華奴蘇奴国や鬼国、爲吾国が、また、私の本籍地である今治市朝倉周辺には呼邑国が、生まれ故郷の四国中央市あたりには不呼国があったようです。高知県の東部にあったと推定される狗奴国は邪馬台国と対立関係にあった国のようで、倭国連合には含まれておりませんので、一周まわると5,000里(約400km~500km)という表現はかなり正確ということができます。

そう言えば、今治市朝倉に「今治市朝倉ふるさと美術古墳館」があり、そこには旧朝倉村の遺跡と古墳から出土した韓式土器や漢式獣帯鏡、さらには平型銅剣といった朝鮮半島や大陸との結びつきを示す貴重な資料が展示されています。

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写真は今治市朝倉ふるさと美術古墳館に展示されている漢式獣帯鏡です。中国から持ち込まれたと考えられる青銅鏡です。展示されているのはレプリカで、本物は東京の国立博物館に収蔵されています。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです)

今治市朝倉ふるさと美術古墳館公式HP

一番最初の「女王の国の東には、海を渡って1,000里ばかりいくとまた国がある。これも皆、倭と同一の種族である」の表現、これも邪馬台国が四国にあったという有力な証拠になります。徳島から東へ海(紀伊水道)を渡って1,000里(約80km)も行くと、紀伊半島、近畿地方です。まさにピッタリです。北部九州説や畿内説(近畿地方説)だとこうはいきません。北部九州説ですと東に海を渡って1,000里も行くと中国地方や四国地方がありますがちょっと無理があり、畿内説(近畿地方説)だと海を渡って東に1,000里(約80km)行ってもこの表現に合致する適当な陸地はありません。

魏志倭人伝には、魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して「親魏倭王」という称号が与えられたという記述があり、少なくとも魏の皇帝は倭国を同盟国として認めていたということですから、当時の倭国は魏が認めるほどのかなりの国力を持った国であるということは容易に想像ができます。実際、それから約400年後の西暦663年には、倭国は朝鮮半島にまで出兵し、新羅・唐の連合軍と戦う(白村江の戦い)までの大戦力を保持するまでになるわけですから。

この国力は単に阿波(現在の徳島県)の国一国だけでは構築・維持することは到底できないため、阿波を中心にしてかなり広い面積の勢力圏を保有していたと思われます。少なくとも近畿地方は直接的・間接的に支配していたと思われます。その国力の源泉は稲作。

この頃には秦の始皇帝の一族である徐福の一団が伝えたであろう水稲耕作による稲作の技術により、麦作から水稲耕作による稲作へと産業の形態が大きく変わっていたと考えられます。ちょうどその頃から日本では古墳時代に入ります。古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間のことです。例えば、世界最大の巨大古墳である大阪府堺市にある仁徳天皇稜(5世紀前期~中期)に祀られているとされる第16代天皇・仁徳天皇は西暦399年に没されています。

古墳は王家の墓ではなくて、巨大な土木工事(水田構築)の残土処理目的で作られたものではないかという説があります(私もエンジニアとして同意見です)。もしそうだとすると、倭国による近畿地方開発は水田開発の一大プロジェクトだったのではないでしょうか。徳島県の吉野川流域は毎年のように大規模な河川氾濫が起き、もともと大規模な稲作には不向きな土地です。実際、農林水産省調査の「平成27年耕地及び作付面積統計」によると、徳島県の水陸稲作付面積は11,900haで、全国的に見ても(都府を除く)道県では最低レベルです。ちなみに、隣県の香川県は13,600ha、愛媛県は14,600ha、高知県は12,000ha。香川県の面積は約1,883平方kmで、徳島県の面積は約4,146平方km。徳島県は香川県の2倍以上の広さでありながら、水陸稲の作付面積は香川県以下ということですから、いかに徳島県が稲作に不向きな土地柄であるかお分かりいただけると思います。今のように吉野川の洪水対策がある程度行われた現在でさえこういう数字なのですから、その昔はもっと稲作に不向きの土地柄だったのではないでしょうか。リスク回避のために紀伊水道を挟んだ対岸の近畿地方において広大な農地開拓を実施したのではないかと思われます。

“倭國”の“倭”は音の“ワ”の中国における漢字での当て字で、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域、及びそこの住人を指す際に用いた呼称です。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国と自称したようです。その後、表意文字としての漢字が持つ意味を知るようになって、日本では同じ音の“ワ”でも、漢字の“和”を当て字として使うようになりました。“和”には調和、平和、均衡、争わないことといった意味があり、推古天皇12年(西暦604年)に聖徳太子が作ったとされる『十七条憲法』の第一条に「以和為貴(和を以って貴しと為す)」と書かれているように、“日本国”を意味する文化的概念が込められた一字です(“和風”って言いますものね)。“和”は、まさに都市国家の連合体からスタートした我が国を一字で表すのに最も相応しい漢字ではないか‥‥と私は思います。全くの余談ですが、十七条憲法はこれまで一度も憲法改正されたとか、無効になったということを歴史の教科書で習っておりませんので、今の時代も日本国の国の基本的なあり方の基盤として、そのままの形で活き続けているものだ…と私は思っています。十七条憲法に関しても、ネットで検索すると原文と現代語訳が幾つも紹介されているので、是非、一度お読みになることをお薦めします。

で、四国の徳島を中心に暮らしていたその「倭(和)國」の人達が大量に新天地である近畿地方に移住して新しくできた国が「大倭(大和)國」。「大倭(和)」の“大”には“新しい”という意味が込められて冠されているように私は思います。喩えるならば、New Yorkの“New”と同じようなものです。すなわち、大倭(大和)国は倭(和)国により計画的に建設された新たな国という具合に受け取るのが妥当なのではないでしょうか。そこに都市国家連合体「倭(和)國」の中心だった邪馬臺国の呼び名である「ヤマトィ(たぶん)」を訓読みとして当てるようにどなたか高貴な方が取り決めたことで、「大和=ヤマト」になったのではないか‥‥と私は推察しています。でないと、漢字古来の音読みでは“大和”と“ヤマト”とは絶対に読めません。

ちなみに、古墳が偉い人の墓ではないというなによりの証拠は、農地(水田)がある程度整備された7世紀末以降、巨大な古墳はほとんど作られていないという事実です。もし最初から墓として建造されたものだったのなら、その後も幾つも作られて然るべきだと私は思うのですが…。この7世紀末以降、突然古墳が全く作られなくなった事実を調査した歴史学者さんは、私が調べた限りいらっしゃいません。

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経済の中心は徐々に近畿地方(大倭国)に移っていったものの、首都機能はその後しばらく倭国(阿波)に残っていました。しかし、あるきっかけで倭国(阿波)は近畿地方(大倭国)に首都機能を移すどころか、集団で移住せざるを得ない事態に陥ったのではないかと私は推察します。そのきっかけとなったのが、西暦684年に発生した『白鳳大地震』。この超巨大地震による壊滅的な被害を受けたことで、倭国はそれまで首都であった阿波の地を完全に放棄。大倭国へ完全移転することとなったのではないかと推測しています。以降、藤原京→平城京→長岡京→平安京と遷都します。

藤原京造営以前にも、主に飛鳥時代を中心に、この地域に多くの天皇の宮と思しき建物や関連施設遺跡も周囲に発見されていることから、当時の倭国の首都としての機能もあったと考えられ、一部の歴史学者や観光業者から「飛鳥京」と呼ばれることもありますが、これまでの発掘調査などでは藤原京以降でみられるような宮殿の周囲を取り囲むように建設された臣民の住居や施設などが見つかっておらず、全体像を明らかするような考古学的成果はほとんどあがっていません。また遺跡の集まる範囲は地政的に「飛鳥京」と呼べるほどの規模を持たず、実態は不明確であり、歴史学や考古学の文脈での「飛鳥京」は学術的ではないとされています。(この時点で、実は邪馬台国畿内説は完全に破綻します。)

飛鳥に遺る天皇の宮と思しき建物や関連施設の遺跡は、単なる出先機関の建物の跡なのではないかと考えられています。奈良地方(近畿地方)における本格的な首都機能を持った都市は藤原京が最初。藤原京に遷都される以前は、どこか別のところに首都機能はあったと考えるのが妥当です。それが阿波の国。阿波の国から奈良地方だと、途中に淡路島という天然の本州四国連絡橋もあり、昔から「撫養(淡路)街道」という旧街道がありましたので、大人数の民の移動を伴う首都機能の大移動も、距離的に決して不可能なことではありません。(この首都機能の移転という点で、邪馬台国九州説も完全に破綻します。九州だとあまりにも遠過ぎます。)

白鳳大地震は南海トラフが動いたことで、中央構造線までもが動いたと推定される超巨大地震で、吉野川北岸を中央構造線が東西に通る阿波の国が無事だったとは到底考えられません。直下型の大きな揺れを受けて壊滅的ともいうべき甚大な被害を受けたことは容易に想像できます(最近の熊本地震における益城町や南阿蘇村を見れば明らかでしょ)。また、海岸線は津波による甚大な被害も受けたのではないかと推察されます。これはそれまで暮らした倭国(阿波)の地を捨て、首都機能を移すという大英断を下すうえで、十分に大きな決定要因になり得ると私は考えています。

ちなみに、日本書紀には藤原京以前の7世紀に「飛鳥板蓋宮(西暦643年)」「難波長柄豊崎宮(西暦645年)」「飛鳥宮(西暦655年)」(いずれも皇極天皇、斉明天皇期。皇極天皇と斉明天皇は重祚)、「朝倉宮(西暦662年)」「近江大津宮(西暦667年)」(天智天皇期)、「飛鳥浄御原宮(西暦672年)」(天武天皇期)といった都(?)の名称が記述されており、頻繁に遷都が繰り返されていたようになっていますが、それらの都がどこにあったのかは、いまだ解明されておりません。前述のように、おそらく都というより行宮(あんぐう:天皇の行幸時の一時的な宮殿)、すなわち出先機関の建物のようなものだったのではないでしょうか。

さらに、白鳳大地震が起きたのが西暦684年で、持統天皇が藤原京の造営を始めたとされるのが西暦690年、藤原京に遷都したのが西暦694年、さらに、平城京に遷都されたのが西暦710年。もうここまで来ると疑いようがないですね。

以前旅行で奈良を訪れて平城京跡を観た時に、なんで突然こんな大規模な都がこの国に現れたのか?…という素朴な疑問を感じたことがあります。この都に住んでいた人達は、ここに住む以前はいったいどこで暮らしていたのだろうか?…って。

数学者で日本史学者の沢田吾一氏が1927年に刊行された「奈良朝時代民政経済の数的研究」に書かれた記述によると、奈良時代における日本の総人口はおおよそ560万人。沢田吾一氏は数学者らしく「和妙抄」に書かれた郷の数、一郷の戸数に戸数の平均人口をかけた人数からこの人口を推定されています。その沢田吾一氏が推定した平城京の当時の人口は約20万人。これには諸説ありますが、都市の規模から推定される藤原京との比較から言っても、そこまではいかず約10万人くらいではないでしょうか。平城京に遷都される前まで都が置かれていた藤原京の当時の推定人口は、奈良県橿原市のHPによると約3万人。

奈良県橿原市公式HP

藤原京は日本で初めて建設された本格的な首都、それも計画都市なわけで、その約3万人もの人々がいったいどこからやって来たのかという疑問が残ります。さらに、藤原京から遷都された平城京の人口が約10万人。急に人が湧いてくるわけでもないので、この差の約7万人がいったいどこからやって来たのかという疑問も残ります。これに都の周辺人口が加わります。おそらくその2倍から3倍の人達が都の周辺に住んでいたと考えられます。当時の日本の総人口が約560万人と推定されることを考えると、この藤原京→平城京の人口の急増は極めて違和感を覚えます。前述のように、藤原京ができたのが西暦694年で、平城京に遷都されたのが西暦710年。僅か16年でここまでの人口の自然増はふつう考えられません。

また、藤原京や平城京へ遷都するにあたっては、広大な敷地の整地からはじまって大規模な土木工事や建設工事を同時並行して進める必要があったため、作業をする多くの人々が必要でした。実際にどのくらいの人々がこの工事に参加していたのか正確な人数は解かりませんが、現在のようにブルドーザーやダンプカー、パワーショベル、クレーンのような重機もなくて、ほとんど人力だけで工事を進めざるを得ない時代のことですから、毎日約1万人近い人々がほぼ専従で動員されていたのではないでしょうか。近隣の近畿地方にお住いの人達は建設期間中も稲作をはじめとする日々の暮らしがあることでしょうから、これだけの人員の継続的な大量動員は無理というもので、この大量の作業員をどこから連れて来ていたのかという疑問も残ります。それと建設資材。これだけ大規模な都を続けざまに2つも造営するわけです。材木や瓦などの建設資材をどこから調達したのか…という大きな疑問も残ります。

この大量の作業員や建設資材をどこから調達していたのかという疑問も、白鳳大地震というキーワードと結び付けてみると、おぼろげながらですが、その答えが見えてくるような気がします。すなわち、それって四国からだったのではないでしょうか。白鳳大地震により壊滅的な被害を受け、安全に住むところのなくなった四国の“被災地の”人達が大量に近畿地方に移住し、藤原京、そして平城京の建設に携わり、その後、一族郎党をあげて移住してきたのではないか…ということです。建設資材も白鳳大地震で崩れた建物からまだまだ使えそうな柱や瓦を大量に持ってきて、移築したのだと考えると、納得できる部分があります。おそらく、藤原京は仮設住宅。平城京が本格的な復興住宅ってことなのでしょう。持統天皇が藤原京の造営を始めたとされるのが西暦690年で、藤原京に遷都したのが西暦694年。そうでないと、僅か4年という短期間でここまで大きな都が建設できるわけがありません。これは阪神淡路大震災や東日本大震災の復興の進捗具合を考えると、明らかなことです。当時は重機もなく、技術力は今より数段劣るわけですから。

ちなみに、藤原京は平城京への遷都後、建物等はほとんど残っておらず、長らく一面の農地(水田)になっていました。現在調査が進んでいるのも礎石等の遺構の発掘がほとんどです。いっぽう、平城京の発掘調査では、藤原京から移設され再利用されたと思われるものが幾つも発見されています。このことから、藤原京の建物のほとんどは、平城京に移設されて建設資材として再利用されたのではないかと推察されています。それで、藤原京の跡地はいったん更地となり、農地へと変貌したわけです。これと同じことが藤原京遷都でも起こり、四国にあったであろう宮殿等の建物の大部分は藤原京の建築資材として移設され再利用されたので、今ではほとんど何も残っていないのだと推察されます。

奈良文化財研究所公式HP

この白鳳大地震に関しては、日本書紀では「現在の高知県の一部が地盤沈下で海に沈んだ」とか、「伊予の道後温泉の湯も湧出が止まった」とか現在の愛媛県や高知県の被害の状況に関しては書き残されているのですが、何故か阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述は残されておりません。中央構造線は吉野川沿いを東西に走っているわけで、中央構造線が動いたとするならば、徳島県一帯が無事だったことは到底考えられません。甚大な被害を遥かに通り越して、ほぼ壊滅に近い状態だったのではないでしょうか。阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述がいっさい残されていない点が、かえって何かが意図的に隠されている感じさえしてきます。

そうそう、松山市東部の東温市との境に位置する松山市来住(きし)町から南久米町にかけての来住台地に「久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)」と呼ばれる古代の官衙(かんが)関連遺跡と古代寺院跡があります。(写真は愛媛新聞社様からご提供いただいたものです:1978年1月31日付「久米官画衙遺跡群」 G20180501-04213)

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松山市公式HP

松山市考古館公式HP

“官衙”とは古代の役所のことです。「久米官衙遺跡群」とよばれるこの場所は、「来住廃寺跡」や古代の官衙やその関連遺構である「久米官衙遺跡」で構成されていて、東西約500メートル、南北約400メートルに渡って広がる広大な敷地を有しています。7世紀前半(西暦600年代前半)に遺跡群の北部に官衙(役所)が建設されたと推定されています。これは現在わかっている中で、“日本最古”の本格的な役所の跡なのだそうです。7世紀中頃までに古代の官庁街として整えられていったようで、基盤の目状に土地を区画して、道路も整備され、様々な役所の建物がどうもこの地割とよばれる土地の区画に従って整然と配置されていたのだそうです。その中の一つが「回廊状遺構」と呼ばれる大規模な施設の遺構です。これは南側に八脚門をもち、内部の建物を2重の柱列によって取り囲んだ1辺が100メートルを超える四方形をした極めて大規模な施設だったと推定されています。またここには、当時の税である米を蓄えるためのものだったのではないかと推定される倉庫群が並んだ「正倉院」 が造られていたようです。

7世紀 の終わり頃、その官庁街の一角に寺院が建設されました。この寺院の一部は現在もその跡が遺っていて、これが来住廃寺跡です。この来住廃寺跡ですが、法隆寺式伽藍配置を持つ白鳳期(7世紀後期)の古代寺院の跡として国の史跡の指定を受けています。これまでの調査によると、この寺院は官衙が廃絶した7世紀後半以降に建立された古代寺院であることが分かっているようです。現在、調査によって確認されている主な遺構には、一辺が約9.75メートルにもなる塔の基壇、及び、その上面に遺された柱の礎石、大型の石製露盤、東西19メートル、南北6メートル、内部が四つの部屋に区切られた僧坊と考えられる掘立柱建物跡、講堂に伴うと考えられる玉石組雨落溝などがあり、現在も継続して調査が続けられています。

7世紀後半というと、前述のように、白鳳大地震(西暦684年)が想起されます。時期的に考えると、白鳳大地震によってこの大規模な官衙が壊滅的な被害を受けたことによって、寺院に建て替えられたのではないか…と推察されます。上記に、この白鳳大地震によって四国に住んでいた人々の大移動が起き、倭國の中心が四国(現在の徳島県)から近畿地方(現在の奈良県)に移され、“大和(大倭)”と呼ばれるようになったのではないかという私の仮説をご紹介させていただきましたが、もしそれが当たっているなら、それとも一致します。おそらく、久米官衙遺跡にあったであろう官衙の建物の大部分は、前述のように、建築資材として藤原京に移設されたのではないかと推察されます。また、関係するかどうかは分かりませんが、聖徳太子は蘇我馬子とともに松山市の久米官衙遺跡のあった地で倭国(日本国)を統治していたとする俄かには信じ難いような説もあるようです。

いずれにせよ、来住廃寺を含む久米官衙遺跡群は、歴史上失われた(隠された?)400年とも言われる3世紀から大和朝廷が成立した7世紀後半にかけての日本の古代史の謎を解き明かす極めて重要な鍵を握っているところのようです。なぜ四国の愛媛県松山市に“日本最古”の本格的な役所の跡が遺されているのか?…、そこにはきっと明確な意味が隠されていると思われます。もしかしたら、それはこれまでの日本の古代史の常識が根底から覆されるような凄いことなのかもしれません。調査の結果が待たれます。



……(その6)に続きます。