2014/08/29

真言宗醍醐派

私の故郷は四国です。その四国と言えば『四国霊場八十八ヶ所巡り』が有名です。私はまだトライしてはおりませんが、せっかく四国で生まれ育ったので、私もいずれは八十八ヶ所の霊場制覇をやってみたいと思っています。

ところで、その八十八ヶ所の霊場って弘法大師・空海が開いたと言われていますが、四国八十八ヶ所の霊場(寺院)がすべて(弘法大師が開いた)真言宗の寺かというと、実はそうではないということをご存知でしょうか? 同じ密教では ありますが、天台宗系の寺も幾つかあります。加えて、真言宗には幾つかの宗派があって、真言宗の総本山が高野山というのは高野山派だけのこと(まぁ、圧倒的大多数ではありますが…)。で、その真言宗高野山派は一般に言われているように日本古来の山岳仏教と結び付きが強いかというと、必ずしもそうではないんですよね。

山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教(密教)に取り入れられた日本独特の宗教が「修験道」。その修験道の実践者のことを修験者または山伏といいます。修験道の流派は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されます。当山派の総本山が京都にある醍醐寺三宝院。いっぽう本山派の総本山が聖護院です。(醍醐寺と言うと京都の桜の名所として知られています。また、聖護院というと、和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根、聖護院かぶが有名です。)

なので、山岳仏教と結び付きが強い真言宗は醍醐派ってことになります。この醍醐派、真言宗の中では極々少数派で、四国八十八ヶ所の霊場の中でも、ほんの数えるくらいしか寺はありません。

我が家の菩提寺である愛媛県今治市(旧越智郡朝倉村)にある無量寺は真言宗醍醐派の寺院。なので、我が家はその本来“修験道”である真言宗醍醐派の家系ということになります。と言うことは、『四国霊場八十八ヶ所巡り』をする前に、山伏の格好をして山に籠り、厳しい修行をしないといけません(^^;

でも、山伏の格好となると、頭に頭巾(ときん)と呼ばれる六角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖。袈裟と篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏い、山中での互いの連絡や合図のために法螺貝を加工した楽器を持つ…そんな山伏姿はちょっと恥ずかしいかな…(笑)

それにしても、山伏の格好って、考えてみれば凄い格好ですもんね。とてもふつうの日本人がする格好じゃあありません。それが1000年以上昔の日本人であっても。

そして、その山伏の格好をしている日本の民間信仰において伝承されている神というか妖怪というか伝説上の生き物が、天狗や烏天狗。その天狗や烏天狗は、赤ら顔と長く尖った鼻を持つという特徴があります(翼があり、空中を飛翔するとも)。これはいったい何を意味しているのでしょうか…。赤ら顔と長く尖った鼻…って、少なくとも、その特徴は、とても日本人とは思えません。もしかして、ユ◯ヤ??? 謎 だらけです。

先日、『古代越智氏の研究』という本を読んでいることを書きました。自分のルーツを調べることって、大変に興味深いですからね。そうした中でも、我が家のルーツの謎を解く鍵として、我が家が檀家になっている菩提寺の宗派である真言宗醍醐派というものに、今は大変興味を持つようになってきました。

私が真言宗醍醐派に興味を持つようになったきっかけは、菩提寺の歴史にあります。来年(2015年)は弘法大師空海が修行の場として高野山に真言宗総本山金剛峯寺を開いてから1200年目を迎えます(高野山開創1200年)。ですが、我が家の菩提寺、愛媛県今治市(旧越智郡朝倉村)にある無量寺は、住職の話によると開闢1300年と言われているんです。ん!? 真言宗総本山の高野山よりも古くからあ る寺なの? 真言宗じゃあなかったの? おかしいじゃん!…てね。

龍門山無量寺HP

私の疑問はそこから始まりました。で、ちょこっと調べてみると、いろいろなことが次々と分かってきました。片手間でやっているので、まだまだ解明なんかできていませんので、詳細は省きますが、これは実に面白いです。

我が家が先祖代々帰依している真言宗醍醐派とはどんな宗派であって、元々修験道であった醍醐派が何故真言宗に組しているのか。そして、何故我が家は先祖代々真言宗醍醐派なのか…、一度疑問を持つとその疑問が膨らんでいって、楽しいです。そして、それらを知ることって自分のルーツを知るうえで極めて重要なことだと思っています。すべてのことには訳がある。宗教の教義の話は傍らに置いておいて、客観的にそのあたりのことを、じっくりと時間をかけてライフワークとして今後調べてみたいと思っています。


【追記】
我が家の菩提寺である無量寺が真言宗総本山と言われる高野山金剛峯寺よりも古くからある寺なのかという謎に関してですが、盆の法要に来ていた無量寺の若い住職を問い詰めて聞いたてみました(笑)。それによると、もともと愛媛県今治市(旧越智郡朝倉村)にある無量寺は南都六宗(なんとろくしゅう)の1つである三論宗の寺で、三論宗がどういう経緯か真言宗に組み込まれて(今のビジネスで言うならば“提携”して)、真言宗醍醐派になったので、今は真言宗の一派なんだそうです。

調べてみると、この南都六宗とは、中国の仏教学の興起にともない、仏教伝来から8世紀中頃までの間に中国より直接もしくは朝鮮半島を通じて日本へもたらされた、三論宗、成実(じょうじつ)宗、法相(ほっそう)宗、舎(くしゃ)宗、律宗、華厳(けごん)宗の6つの宗派から成る仏教学派の総称のことです。

8世紀に官大寺(国家の監督を受ける代わりにその経済的保障を受けていた寺院のこと。一般的には国分寺、国分尼寺がその代表)などを中心に研学されていた宗派。平安時代以降に成立する後世の宗派とは性格を異にし、宗は学僧の集団を意味し、信仰・教化よりも学問的研究を重視していたようです。実際、奈良時代には“宗”は“衆”とも書き、学派を意味し、1つの寺に複数の宗派が存在したようです。(おそらくその当時の国分寺とは国立大学のようなものだったのではないかと想像できます。) 一寺一宗となるのは平安時代以降のこと のようで、これは、9世紀の初めに空海と最澄が中国より持ち帰った真言宗と天台宗の2宗派が大きく影響しているようです。と言うか、真言宗と天台宗の中に派閥として取り込まれていった模様です。

このように宗派が教派教団の意味を次第に持ち出したのは、空海と最澄以降のことで、それ以前は学問集団だったようです。で、彼等が何を学んでいたかですが、三論宗が後の真言宗醍醐派となり、その真言宗醍醐派が山伏(役行者:えんのぎょうじゃ)の流れをくむことから、修験道という名のもしかすると鉱山学を中心とした工学ではなかったか…と想像できます。これが事実だとすると、無量寺が開闢(かいびゃく)1300年で、高野山が開闢1200年という100年のギャップも説明がつきます。

ちなみに、無量寺のある旧越智郡朝倉村の隣町にあたる愛媛県今治市国分には伊予国分寺と国分尼寺があります。このうち伊予国分寺は通常“金光山国分寺”と呼ばれ四国八十八箇所霊場の第五十九番札所です。ここの宗派は真言律宗。真言宗の宗派の1つですが、名前から容易に想像がつくように、元々は南都六宗のうちの律宗の寺院です。と言うか、無量寺はこの国分寺から三論宗が分派して建立された寺院だそうです。伊予国分寺に残ったのが律宗ってことなんでしょう(前記のように三論宗が工学部とするならば、律宗とはおそらく法学部だったのでしょう)。

ふう~む、調べれば調べるほど面白いです( ̄^ ̄)

ちなみに、一般的には真言宗の総本山は高野山金剛峯寺のように思われているようなところがありますが、醍醐派や東寺派、智山派、大覚寺派などは教育の中心である総本山は京都にあるとし、高野山はあくまでも修行の場に過ぎなく、そこの地で生まれた高野山派は自分達の派閥より後に出来た新興派閥だ…というスタンスのようです。宗教の世界もいろいろあるのですね(^^;