2014/09/01
私の本籍地(愛媛県今治市朝倉)の謎
この『おちゃめ日記』の場で何回か書いてきましたが、私の本籍地(先祖代々の地で、ここには越智本家があります)は四国の愛媛県今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)というところです。その地にある我が家の菩提寺・無量寺の若い住職とお盆の法要の後で話していると、これがなかなか面白いんです(^^)d (彼も私と会うのが楽しみのようで、いろいろと新ネタを仕入れてきてくれます。)
この旧朝倉村、今でこそ人口5千人ほどの過疎の小さな寂れた、“ド”という接頭語が最初に付くくらいの“田舎の村”なのですが、驚くことに、もしかしたら1400年ほど前にはここがこのあたり(今の愛媛県)一帯の中心地だったようなんです。
(今は鉄道も高速道路も一般国道も主要地方道(主要県道)も通っていないようなところ…すなわち、文化文明の発展からちょっと忘れ去られたようなところです。でも、だからこそ、私はそこに先祖代々の本籍地があることに誇りを持っています。)
まず、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に、この地のことを“朝倉”と称するという記述が見られるとかで、この地は古くから「朝倉」と呼ばれていたようです。
この「朝倉」という地名の由来については諸説あるようですが、第37代天皇の斉明天皇が大きく関わっているようなのです。斉明天皇自らが陣頭指揮して窮地に立っていた朝鮮半島の百済の国に援軍を派遣しようとしたのですが、その際に、どういうわけかこの愛媛県の朝倉の地に約3ヶ月間滞在され(おそらく兵糧の確保のため)、これにちなんで「朝倉」と命名されたとされているようなのです。
この斉明天皇にちなんだ地名には何故か「朝倉」という名称が多いとのことです。斉明天皇は、愛媛県の朝倉に滞在した後、九州の筑紫(今の福岡県)の国にまで兵を進め、そこで急逝されたのですが、その地もどういうか朝倉(現在の福岡県朝倉市)という名称なんです。
斉明天皇が立寄られたところは、古くから朝倉郷と呼ばれたところが多いのだとか。斉明天皇がご滞在されている時に、どこも斉明天皇のご希望の建築様式により木造の御殿を建てたようなのですが、その建築様式というのが“校倉(あぜくら)づくり”であったことから、その「あぜくら」が「あさくら」に転訛したという説が有力なようです。
また、愛媛県の朝倉には、その名も「斉明」というズバリ!の地名(字:あざ)が今も残っているそうで、これは何らかの形で斉明天皇にちなむものとみるのが適当ですね。また、今年87歳になる父に聞いたところ、父が子供の頃には、このあたりには古墳とおぼしきなんらかの遺構が多数あったそうで、伊予(現在の愛媛県)の国の国府に近いこともあって、その昔はかなり開けていた土地だったと推察されます。
今でもこのあたりは良質な米の採れるところで知られていますからねぇ~。(大きな川はないものの、背後に高い高縄半島の山々が控え、そこに降った雨がたっぷりとミネラルを含んだ良質の湧き水となって湧いてくるため、水には困らない。また、瀬戸内海が見える東側は大きく開け、西側は背後に高縄半島の高い山々が迫っているので、夜明けが早く、日の入りが早いことも良質な稲作に適しているのだとか。)
さらに、父によると、このあたりは父が子供の頃までは小さな水晶がふつうにそこら中に転がっていたそうです(ちょっと大袈裟な言い方でしょうが…)。
えっ!? そんな話、初めて聞いた!
ここで、「朝倉」という地名の鍵を握る斉明天皇についてネット等で調べてみると、またまたこれが実に面白いんです。(斉明天皇という方がいらっしゃったことは、実は初めて知ったことなのですが…)
斉明天皇は、「大化の改新」を起こした天智天皇(中大兄皇子:なかのおおえのおう )と、その弟で「壬申の乱」で有名な天武天皇(大海人皇子:おおあまのおうじ)という日本の古代史を学ぶ上で超が付くほど有名な2人の天皇の“母親”なんです。夫である第34代の舒明天皇の崩御後、継嗣ぎとなる皇子がいろいろな“大人の事情”があったようで定まらなかったので、仕方なく49歳の時に、ワンポイントリリーフの感じで第35代の皇極天皇として、推古天皇(最初の女帝)から一代おいて即位(642年)して女帝となります。
息子の中大兄皇子が大化の改新(645年)を起こした責任をとったのか、大化の改新があった年に弟である孝徳天皇にすぐに譲位したのですが、その孝徳天皇が10年後に崩御し、62歳にして再び即位し(655年) 、第37代の斉明天皇となっ た方です(同じ人物が二度天皇に即位することを“重祚(ちょうそ)”と言いますが、現在までに重祚を行った天皇は2人のみで、この皇極天皇が斉明天皇として、また孝謙天皇が称徳天皇としてそれぞれ重祚した2例だけです)。
この斉明天皇、在位中の実権は中大兄皇子(後の天智天皇)にあったとされているのですが、女帝に関わらずなかなか精力的と言うか、男気があると言うか、肝っ玉母さんと言うか、好戦的な方だったようで、日本書紀によれば、しばしば大規模な土木工事を行ったために、民の労役の負担が非常に大きかったと言われています。また、阿倍比羅夫を派遣して北方民族の蝦夷を討たせたことでも知られていますし、唐と新羅の連合軍に滅ぼされかけた朝鮮半島の百済国支援のために、自ら兵を率いて出兵。その途中に、筑紫(今の福岡県)の国の朝倉の地で急逝なさっとされています。在位6年、崩御なさったのは661年のことです。
で、ここからがもっと驚くような事実が判明します。この斉明天皇の墓は奈良県高市郡高取町にあるのですが、その墓の名称を見て、私は腰を抜かすくらいに驚いてしまいました(@_@)。
なんとなんと!『越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)』と言うのだそうです!(@_@)
最初にこの事実を知った時、ゾゾゾ…って鳥肌が立ちました。
宮内庁HP
なんで、ここに“越智”という字が出てくるの!?(^_^;) 訳がわかりません。日本史を習うと必ず出てくる(最初のほうに習うから、まだしっかりと覚えている)「大化の改新」と「壬申の乱」。それに関係した天智天皇と、その弟である天武天皇という日本の古代史を学ぶ上で超が付くほど有名な2人の天皇の“母親”でもあった斉明天皇の名称に“越智”の文字が付けられているなんて…。
私の本籍地であるこの愛媛県の“朝倉”ってところ、いったいどういうところなの??
そして、私の苗字である“越智”って、いったいなんなの???……
調べてみると、この『越智崗上陵(斉明天皇の墓)』には近鉄南大阪線か京都線の橿原神宮前駅から近鉄御所駅行きバスに乗れば行けるようなので、こりゃあ一度行ってみないといけません。さらに何かが判るかもしれませんから(^^)d
さらにさらに、この愛媛県の“朝倉”というところの謎はもっとあるのです。江戸時代初期、この朝倉には、朝倉上(かみ)、朝倉中(なか)、朝倉下(しも)、古谷(こや)の4ヵ所の村があったそうで、それが江戸時代後期には、さらに朝倉郷7ヵ村に分かれていたのだそうです。しかも、江戸時代後期の7ヵ村のうち、古谷、山口、朝倉上、朝倉南、朝倉北は今治藩に属し、朝倉上之村は松山藩に属し、さらに朝倉下は幕府直轄領であるなど、支配関係が入り組んでいて、またその境界も複雑に入り組んでいたのだそうです。日本中探してもこのような例は極めて珍しいことです。
明治以降も不思議な分離・合併を繰り返します。
1879年(明治12年)、朝倉南北村が成立。
しかし、1885年(明治18年)、南北に分離して朝倉南村と朝倉北村が成立。
1889年(明治22年)12月15日、町村制の施行に伴い、その南北がガラガラポンして、朝倉上、朝倉上之村の2集落で上朝倉村となり、残りの朝倉下、朝倉南、朝倉北、古谷、山口で下朝倉村となります。
1956年(昭和31年)3月31日 すなわち私が生まれて1ヶ月ちょっと経った時に、この上朝倉村と下朝倉村の両村が合併して、なんとか統一。朝倉村となっています。
で、2005年(平成17年)1月16日、今治市と越智郡11ヶ町村の合併により朝倉村は自治体としての歴史を閉じることになりました。
地図を眺めていただくとお分かりいただけると思いますが、朝倉はさほど広いところとは思えないのですが(むしろ村としては狭い)、これほど何度も離合集散を繰り返したのには、絶対になんらかの知られざる理由があると、私は睨んでいます。これを調べるのは絶対に面白い!(^^)d それにしても、なんなんだ、ここは???(^_^;)?
皆さんもご自分の住んでおられるところや、所縁のところの歴史を調べてみると、面白いことが判ってくるかもしれませんよ。『大人の自由研究』ってやつですが、メチャメチャ面白いですよ(^-^)v
【追記】
朝倉というわけではないのですが、(朝倉村も合併して一緒になった)今治市って、都市の規模から考えると四国八十八箇所の札所(寺院)の数がやけに多い感じがします。第54番札所の延命寺にはじまって、第55番南光坊、第56番泰山寺、第57番栄福寺、第58番仙遊寺、第59番国分寺という6つの札所が今治市に集中しています。松山市も8つの札所が集中していますが、都市の規模から考えると今治市に6つも札所が集中しているというのはあまりにも不自然な感じです。四国の他の都市と比べてみても、ちょっと多い。“88分の6”ってことですからね。その昔、今治には伊予の国の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺も置かれて、昔から栄え、人の往来が多かったところ…ということなのかもしれませんが、やはりそこになにか隠されているものがあるような気がしてなりません。
しかも、これだけ多くの札所が点在しているのに、旧朝倉村には1つも札所はなく、朝倉を取り囲むようにして6つの札所が建っているというのも何か意味がありそうな気がしています。(たまたまかもしれませんが…)
この旧朝倉村、今でこそ人口5千人ほどの過疎の小さな寂れた、“ド”という接頭語が最初に付くくらいの“田舎の村”なのですが、驚くことに、もしかしたら1400年ほど前にはここがこのあたり(今の愛媛県)一帯の中心地だったようなんです。
(今は鉄道も高速道路も一般国道も主要地方道(主要県道)も通っていないようなところ…すなわち、文化文明の発展からちょっと忘れ去られたようなところです。でも、だからこそ、私はそこに先祖代々の本籍地があることに誇りを持っています。)
まず、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に、この地のことを“朝倉”と称するという記述が見られるとかで、この地は古くから「朝倉」と呼ばれていたようです。
この「朝倉」という地名の由来については諸説あるようですが、第37代天皇の斉明天皇が大きく関わっているようなのです。斉明天皇自らが陣頭指揮して窮地に立っていた朝鮮半島の百済の国に援軍を派遣しようとしたのですが、その際に、どういうわけかこの愛媛県の朝倉の地に約3ヶ月間滞在され(おそらく兵糧の確保のため)、これにちなんで「朝倉」と命名されたとされているようなのです。
この斉明天皇にちなんだ地名には何故か「朝倉」という名称が多いとのことです。斉明天皇は、愛媛県の朝倉に滞在した後、九州の筑紫(今の福岡県)の国にまで兵を進め、そこで急逝されたのですが、その地もどういうか朝倉(現在の福岡県朝倉市)という名称なんです。
斉明天皇が立寄られたところは、古くから朝倉郷と呼ばれたところが多いのだとか。斉明天皇がご滞在されている時に、どこも斉明天皇のご希望の建築様式により木造の御殿を建てたようなのですが、その建築様式というのが“校倉(あぜくら)づくり”であったことから、その「あぜくら」が「あさくら」に転訛したという説が有力なようです。
また、愛媛県の朝倉には、その名も「斉明」というズバリ!の地名(字:あざ)が今も残っているそうで、これは何らかの形で斉明天皇にちなむものとみるのが適当ですね。また、今年87歳になる父に聞いたところ、父が子供の頃には、このあたりには古墳とおぼしきなんらかの遺構が多数あったそうで、伊予(現在の愛媛県)の国の国府に近いこともあって、その昔はかなり開けていた土地だったと推察されます。
今でもこのあたりは良質な米の採れるところで知られていますからねぇ~。(大きな川はないものの、背後に高い高縄半島の山々が控え、そこに降った雨がたっぷりとミネラルを含んだ良質の湧き水となって湧いてくるため、水には困らない。また、瀬戸内海が見える東側は大きく開け、西側は背後に高縄半島の高い山々が迫っているので、夜明けが早く、日の入りが早いことも良質な稲作に適しているのだとか。)
さらに、父によると、このあたりは父が子供の頃までは小さな水晶がふつうにそこら中に転がっていたそうです(ちょっと大袈裟な言い方でしょうが…)。
えっ!? そんな話、初めて聞いた!
ここで、「朝倉」という地名の鍵を握る斉明天皇についてネット等で調べてみると、またまたこれが実に面白いんです。(斉明天皇という方がいらっしゃったことは、実は初めて知ったことなのですが…)
斉明天皇は、「大化の改新」を起こした天智天皇(中大兄皇子:なかのおおえのおう )と、その弟で「壬申の乱」で有名な天武天皇(大海人皇子:おおあまのおうじ)という日本の古代史を学ぶ上で超が付くほど有名な2人の天皇の“母親”なんです。夫である第34代の舒明天皇の崩御後、継嗣ぎとなる皇子がいろいろな“大人の事情”があったようで定まらなかったので、仕方なく49歳の時に、ワンポイントリリーフの感じで第35代の皇極天皇として、推古天皇(最初の女帝)から一代おいて即位(642年)して女帝となります。
息子の中大兄皇子が大化の改新(645年)を起こした責任をとったのか、大化の改新があった年に弟である孝徳天皇にすぐに譲位したのですが、その孝徳天皇が10年後に崩御し、62歳にして再び即位し(655年) 、第37代の斉明天皇となっ た方です(同じ人物が二度天皇に即位することを“重祚(ちょうそ)”と言いますが、現在までに重祚を行った天皇は2人のみで、この皇極天皇が斉明天皇として、また孝謙天皇が称徳天皇としてそれぞれ重祚した2例だけです)。
この斉明天皇、在位中の実権は中大兄皇子(後の天智天皇)にあったとされているのですが、女帝に関わらずなかなか精力的と言うか、男気があると言うか、肝っ玉母さんと言うか、好戦的な方だったようで、日本書紀によれば、しばしば大規模な土木工事を行ったために、民の労役の負担が非常に大きかったと言われています。また、阿倍比羅夫を派遣して北方民族の蝦夷を討たせたことでも知られていますし、唐と新羅の連合軍に滅ぼされかけた朝鮮半島の百済国支援のために、自ら兵を率いて出兵。その途中に、筑紫(今の福岡県)の国の朝倉の地で急逝なさっとされています。在位6年、崩御なさったのは661年のことです。
で、ここからがもっと驚くような事実が判明します。この斉明天皇の墓は奈良県高市郡高取町にあるのですが、その墓の名称を見て、私は腰を抜かすくらいに驚いてしまいました(@_@)。
なんとなんと!『越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)』と言うのだそうです!(@_@)
最初にこの事実を知った時、ゾゾゾ…って鳥肌が立ちました。
宮内庁HP
なんで、ここに“越智”という字が出てくるの!?(^_^;) 訳がわかりません。日本史を習うと必ず出てくる(最初のほうに習うから、まだしっかりと覚えている)「大化の改新」と「壬申の乱」。それに関係した天智天皇と、その弟である天武天皇という日本の古代史を学ぶ上で超が付くほど有名な2人の天皇の“母親”でもあった斉明天皇の名称に“越智”の文字が付けられているなんて…。
私の本籍地であるこの愛媛県の“朝倉”ってところ、いったいどういうところなの??
そして、私の苗字である“越智”って、いったいなんなの???……
調べてみると、この『越智崗上陵(斉明天皇の墓)』には近鉄南大阪線か京都線の橿原神宮前駅から近鉄御所駅行きバスに乗れば行けるようなので、こりゃあ一度行ってみないといけません。さらに何かが判るかもしれませんから(^^)d
さらにさらに、この愛媛県の“朝倉”というところの謎はもっとあるのです。江戸時代初期、この朝倉には、朝倉上(かみ)、朝倉中(なか)、朝倉下(しも)、古谷(こや)の4ヵ所の村があったそうで、それが江戸時代後期には、さらに朝倉郷7ヵ村に分かれていたのだそうです。しかも、江戸時代後期の7ヵ村のうち、古谷、山口、朝倉上、朝倉南、朝倉北は今治藩に属し、朝倉上之村は松山藩に属し、さらに朝倉下は幕府直轄領であるなど、支配関係が入り組んでいて、またその境界も複雑に入り組んでいたのだそうです。日本中探してもこのような例は極めて珍しいことです。
明治以降も不思議な分離・合併を繰り返します。
1879年(明治12年)、朝倉南北村が成立。
しかし、1885年(明治18年)、南北に分離して朝倉南村と朝倉北村が成立。
1889年(明治22年)12月15日、町村制の施行に伴い、その南北がガラガラポンして、朝倉上、朝倉上之村の2集落で上朝倉村となり、残りの朝倉下、朝倉南、朝倉北、古谷、山口で下朝倉村となります。
1956年(昭和31年)3月31日 すなわち私が生まれて1ヶ月ちょっと経った時に、この上朝倉村と下朝倉村の両村が合併して、なんとか統一。朝倉村となっています。
で、2005年(平成17年)1月16日、今治市と越智郡11ヶ町村の合併により朝倉村は自治体としての歴史を閉じることになりました。
地図を眺めていただくとお分かりいただけると思いますが、朝倉はさほど広いところとは思えないのですが(むしろ村としては狭い)、これほど何度も離合集散を繰り返したのには、絶対になんらかの知られざる理由があると、私は睨んでいます。これを調べるのは絶対に面白い!(^^)d それにしても、なんなんだ、ここは???(^_^;)?
皆さんもご自分の住んでおられるところや、所縁のところの歴史を調べてみると、面白いことが判ってくるかもしれませんよ。『大人の自由研究』ってやつですが、メチャメチャ面白いですよ(^-^)v
【追記】
朝倉というわけではないのですが、(朝倉村も合併して一緒になった)今治市って、都市の規模から考えると四国八十八箇所の札所(寺院)の数がやけに多い感じがします。第54番札所の延命寺にはじまって、第55番南光坊、第56番泰山寺、第57番栄福寺、第58番仙遊寺、第59番国分寺という6つの札所が今治市に集中しています。松山市も8つの札所が集中していますが、都市の規模から考えると今治市に6つも札所が集中しているというのはあまりにも不自然な感じです。四国の他の都市と比べてみても、ちょっと多い。“88分の6”ってことですからね。その昔、今治には伊予の国の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺も置かれて、昔から栄え、人の往来が多かったところ…ということなのかもしれませんが、やはりそこになにか隠されているものがあるような気がしてなりません。
しかも、これだけ多くの札所が点在しているのに、旧朝倉村には1つも札所はなく、朝倉を取り囲むようにして6つの札所が建っているというのも何か意味がありそうな気がしています。(たまたまかもしれませんが…)
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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