2014/09/04
歴史に学ぶ(巨大地震編)
9月1日は『防災の日』でした。何故9月1日が『防災の日』に制定されたかと言うと、今から91年前の1923年(大正12年)に関東大震災が起きた日だからです。関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分に発生しました。震源は伊豆大島北端にある千ヶ崎の北15km付近の相模湾の海底で、地震の規模を示すマグニチュードは7.9という巨大地震でした。
人口密集地の東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城から静岡県東部までの広い範囲を最大震度7という強い揺れが襲い、甚大な被害をもたらしました。地震の主要動が10分間にわたって継続したと言われ、公式に記録されている関東大震災の死者・行方不明者は14万2,800人、被害総額は現在の貨幣価値に換算すると約320兆円という日本災害史上最大のものとなりました。
ちなみに、2011年(平成23年)3月11日14時46分に発生し東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0。死者、行方不明者の数は合わせて2万0,208人で、その被害の多くは巨大地震によって引き起こされた巨大津波によるもので、地震の揺れによる直接的な被害はそれほどのものではありませんでした。
関東大震災は人口密集地の首都圏を直撃したから死者、行方不明者の数が多かったとも言われています。
その首都圏を襲った巨大地震はこの関東大震災だけではありません。その前にも、元禄地震(1703年)、天明地震(1782年)、安政江戸地震(1855年)、そして関東大震災(1923年)と、だいたい70?80年に1回程度の割合で、巨大地震が起きています。そして、関東大震災が起きた1923年から今年で91年が経過しました。いたずらに危機感を煽ることはしたくはありませんが、この事実だけは忘れてはいけないと思っています。
また、記録を調べてみると、関東大震災前に発生した巨大地震による被害は、
元禄地震(1703年) 死者約1万名
天明地震(1782年) 死者少数
安政地震(1855年) 死者7,444名
と言われています。
関東大震災は、当時の家屋が木造であったために、火災が一気に広がったため、これほどまでに大きな被害が出たと言われていますが、元禄、天明、安政の頃も江戸(東京)の家屋はほとんど全てが木造でした。人口が違うと言われるかもしれませんが、江戸時代の江戸の人口は、諸説ありますが、概ね200万人から250万人であったと言われています。いっぽう、1923年(大正9年)の東京市の人口は217万人と、江戸時代とほとんど大差はありません。ならば、なぜ関東大震災だけが元禄、天明、安政の頃の地震の10倍以上の規模の被害になったのか、その違いを調べることは、今後首都圏を直撃するであろう巨大地震における「防災」というものを考えるにあたって、非常に大きな示唆を与えてくれると思っています。
まさに歴史に学ぶってことです。
【追記】
アメリカ合衆国のペリー提督が黒船サスケハナ号に乗って三浦半島の浦賀沖にやってきたのは1853年7月8日のこと。同年8月22日にはロシアのプチャーチン提督のディアナ号に乗って九州の長崎に来航し、江戸幕府に対して相次いで開港を迫りました。江戸幕府とアメリカ合衆国との間で日米和親条約が締結されたのは1854年3月31日のことです。その後、江戸幕府はロシアをはじめ欧米各国と和親条約を結ぶことになるのですが、他のアジア諸国とは違って日本だけがその後そうした欧米列強の植民地にならなかったことの背景には、安政江戸地震をはじめ江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震の影響があるように思えます。
1854年3月31日に日米和親条約が締結された以降、日本列島では各地で大きな地震が相次ぎました。同年7月9日に伊賀上野地震、12月23日には南海トラフ巨大地震である安政東海地震、翌12月24日には安政南海地震、12月26日には豊予海峡地震が発生しました。特に12月23日に発生した安政東海地震ではロシアのプチャーチン提督が乗るディアナ号が津波で遭難し、座礁。その後沈没します。
翌1855年にも3月18日に飛騨地震、9月13日に陸前地震、11月7日に前年の東海地震の余震と思われる遠州灘地震が発生しました。そして、11月11日には安政江戸地震が江戸の町を襲い、水戸藩士で水戸学藤田派の高名な学者であった藤田東湖が圧死するなど、甚大な被害が出ました。翌年の1856年8月23日には安政八戸沖地震、1857年7月14日には駿河で地震、同年10月12日には芸予地震、1858年4月9日には飛越地震と続きます。
そうした背景の中、1858年10月に「安政の大獄」が始まり、1860年には「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺され、1867年にはついに大政奉還に至ることになります。幕末を語る上で巨大地震が頻発したことが語られることは少ないのですが、実はこうした巨大地震による日本全土の荒廃という時代背景があったという事実をもって語らないと、正しい時代認識はできないと、私は思います。
「history」とは「his story」の略だと言われています。今、一般に伝わっている歴史は、ほとんどが後世の誰かが書いたものであり、必ずしも真実と同じであるとは言えません。真実を並べて、そこから真実を探ろうという取り組みを行わないと、いつまで経っても真実は見えてこないと思っています。
で、日本だけが他のアジア諸国とは違って欧米列強の植民地にならなかった理由ですが、この安政年間に日本各地で頻発した巨大地震の影響があったと考えて間違いはないと思います。地震というものを経験したことがないか、あったとしても少ない欧米人にとって、この地震というものの脅威は想像を絶するくらい凄まじいものがあったと考えられます。
「ここはいったいどういうところなんだ!? こんなに揺れる大地は初めて経験した。こんな危険なところを植民地にして支配するなんて、考えられない!」…と、日本の植民地化を断念させたことは間違いない!…と私は思っています。
人口密集地の東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城から静岡県東部までの広い範囲を最大震度7という強い揺れが襲い、甚大な被害をもたらしました。地震の主要動が10分間にわたって継続したと言われ、公式に記録されている関東大震災の死者・行方不明者は14万2,800人、被害総額は現在の貨幣価値に換算すると約320兆円という日本災害史上最大のものとなりました。
ちなみに、2011年(平成23年)3月11日14時46分に発生し東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0。死者、行方不明者の数は合わせて2万0,208人で、その被害の多くは巨大地震によって引き起こされた巨大津波によるもので、地震の揺れによる直接的な被害はそれほどのものではありませんでした。
関東大震災は人口密集地の首都圏を直撃したから死者、行方不明者の数が多かったとも言われています。
その首都圏を襲った巨大地震はこの関東大震災だけではありません。その前にも、元禄地震(1703年)、天明地震(1782年)、安政江戸地震(1855年)、そして関東大震災(1923年)と、だいたい70?80年に1回程度の割合で、巨大地震が起きています。そして、関東大震災が起きた1923年から今年で91年が経過しました。いたずらに危機感を煽ることはしたくはありませんが、この事実だけは忘れてはいけないと思っています。
また、記録を調べてみると、関東大震災前に発生した巨大地震による被害は、
元禄地震(1703年) 死者約1万名
天明地震(1782年) 死者少数
安政地震(1855年) 死者7,444名
と言われています。
関東大震災は、当時の家屋が木造であったために、火災が一気に広がったため、これほどまでに大きな被害が出たと言われていますが、元禄、天明、安政の頃も江戸(東京)の家屋はほとんど全てが木造でした。人口が違うと言われるかもしれませんが、江戸時代の江戸の人口は、諸説ありますが、概ね200万人から250万人であったと言われています。いっぽう、1923年(大正9年)の東京市の人口は217万人と、江戸時代とほとんど大差はありません。ならば、なぜ関東大震災だけが元禄、天明、安政の頃の地震の10倍以上の規模の被害になったのか、その違いを調べることは、今後首都圏を直撃するであろう巨大地震における「防災」というものを考えるにあたって、非常に大きな示唆を与えてくれると思っています。
まさに歴史に学ぶってことです。
【追記】
アメリカ合衆国のペリー提督が黒船サスケハナ号に乗って三浦半島の浦賀沖にやってきたのは1853年7月8日のこと。同年8月22日にはロシアのプチャーチン提督のディアナ号に乗って九州の長崎に来航し、江戸幕府に対して相次いで開港を迫りました。江戸幕府とアメリカ合衆国との間で日米和親条約が締結されたのは1854年3月31日のことです。その後、江戸幕府はロシアをはじめ欧米各国と和親条約を結ぶことになるのですが、他のアジア諸国とは違って日本だけがその後そうした欧米列強の植民地にならなかったことの背景には、安政江戸地震をはじめ江戸時代後期の安政年間に日本各地で連発した大地震の影響があるように思えます。
1854年3月31日に日米和親条約が締結された以降、日本列島では各地で大きな地震が相次ぎました。同年7月9日に伊賀上野地震、12月23日には南海トラフ巨大地震である安政東海地震、翌12月24日には安政南海地震、12月26日には豊予海峡地震が発生しました。特に12月23日に発生した安政東海地震ではロシアのプチャーチン提督が乗るディアナ号が津波で遭難し、座礁。その後沈没します。
翌1855年にも3月18日に飛騨地震、9月13日に陸前地震、11月7日に前年の東海地震の余震と思われる遠州灘地震が発生しました。そして、11月11日には安政江戸地震が江戸の町を襲い、水戸藩士で水戸学藤田派の高名な学者であった藤田東湖が圧死するなど、甚大な被害が出ました。翌年の1856年8月23日には安政八戸沖地震、1857年7月14日には駿河で地震、同年10月12日には芸予地震、1858年4月9日には飛越地震と続きます。
そうした背景の中、1858年10月に「安政の大獄」が始まり、1860年には「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺され、1867年にはついに大政奉還に至ることになります。幕末を語る上で巨大地震が頻発したことが語られることは少ないのですが、実はこうした巨大地震による日本全土の荒廃という時代背景があったという事実をもって語らないと、正しい時代認識はできないと、私は思います。
「history」とは「his story」の略だと言われています。今、一般に伝わっている歴史は、ほとんどが後世の誰かが書いたものであり、必ずしも真実と同じであるとは言えません。真実を並べて、そこから真実を探ろうという取り組みを行わないと、いつまで経っても真実は見えてこないと思っています。
で、日本だけが他のアジア諸国とは違って欧米列強の植民地にならなかった理由ですが、この安政年間に日本各地で頻発した巨大地震の影響があったと考えて間違いはないと思います。地震というものを経験したことがないか、あったとしても少ない欧米人にとって、この地震というものの脅威は想像を絶するくらい凄まじいものがあったと考えられます。
「ここはいったいどういうところなんだ!? こんなに揺れる大地は初めて経験した。こんな危険なところを植民地にして支配するなんて、考えられない!」…と、日本の植民地化を断念させたことは間違いない!…と私は思っています。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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