2014/09/10

四国遷都説(衝撃の予備調査編)…追記集

ある仮説をもってその地を訪問してみると、たった1時間ほどの滞在でしたけれど、思いがけずたくさんの収穫がありました。今治市朝倉は私の本籍地であり、これまで幾度となく訪れた私にとってはお馴染みの場所、見慣れた風景の場所ではあるのですが、まるで知らないことだらけでした。でも、1つの疑問と言うか“きっかけ”をもとに、ある仮説を立てて改めて眺めてみると、ここは実に歴史上興味深いところだということが判ってきました。

「仮説をもって(お客様やマーケットと)接する」…これは“ソリューション営業の鉄則”ではあるのですが、ここでもそれが活きている感じです。仮説を立てて朝倉の風景を改めて眺め返してみると、これまでとはまるで違った見え方がしてくるので不思議です。ふつうではないどこかおかしなところ、謎めいたところが次から次へと見つかります。

謎のような伝承が次から次へと出てくるし、さらに調べてみると、その謎が1つに繋がってくるし、仮説を立証する証拠のようなものも次々と見つかってくる。そして、それらを論理的に組み立ててみると、これまでの通説とは異なる新たな歴史の仮説が出来上がってくる…恐ろしいくらいです(^^;

風景はこれまでとまったく変わらないのに、ある仮説をもって眺めてみると、やたらと気になるところがいっぱい見えてくるから不思議です。伝承だって過去に一度くらいは耳に入っていたかもしれないことなのですが、仮説をもってそれを聴くことで、こんなにも解釈が違ってくることなのか…と驚いてしまいます。

それでは、今回の予備調査やその後の調査で判ったこと、また、それらをもとに私流の解釈により新たに立てた仮説等で、本編では書ききれなかったことを、【追記】の形で幾つか備忘録のように書き残します。



【追記1】
今回の朝倉研究の予備調査では、「空海はすごい!(越智の大胆仮説編:その2)」で書かせていただいた弘法大師空海の謎に迫る私の大胆仮説にも大きな進展が見られました。

なんとなんと、朝倉の隣町、今治市玉川(旧越智郡玉川町)は、今から1300年以上も前の古代、“丹生(にゅう)”と呼ばれていた土地だったそうなんです。

今治市朝倉の高速道路工事現場から今年2月に自然由来の水銀が発見された話題にして、私が物識り顔で

「水銀は昔、“丹”と呼ばれていて、昔、水銀が採れたところの地名にはたいてい“丹”という字がついているらしい。(朝倉の隣町の)丹原も、もしかしたら水銀が採れた場所かもしれない」

と言ったところ、本家を継いでいる私と同い年の従兄が衝撃の一言、

「そんなこと言っとったら、(同じく隣町の)玉川なんか昔は丹生(にゅう)って呼ばれとったって聞いたことがあるが…」

「えっ!? なにっ!? それって、マジかっ!」(@_@) って、思わず大声を出してしまったので、従兄は「ナンジャ、コイツ?」って顔で私をポカ~ンと見ていました(笑)

“丹生(にゅう)”なんて、まさに水銀鉱山があったところだ…って地名です!。そんな話、私は初めて知りましたが、まさにドンピシャ、ど真ん中の直球…って感じです。

テレビの推理ドラマで、探偵役(あるいは刑事役)が聞き込みにいった先で聞いた何気ない一言で、一気に推理が進み事件のあらゆる謎が解けていくことがあるように、私の頭の中でも一気に歴史の謎解きが進んでいきました。これは、なんと……(@_@)

朝倉で今年2月に自然由来の水銀が発見されたことからも推察できるように、もしかすると、その昔、朝倉のこのあたりは水銀の一大産地と言うか集積地としてかなり栄えていたのではないでしょうか。朝倉と境を接する北の隣町が“丹生”(今治市玉川)で、同じく境を接する南側の隣町が西条市の“丹原”。まさに“丹(水銀)”に囲まれた町ってことですから、朝倉は。

そして、水銀と言えば……、そう!、弘法大師『空海』です(^-^)v このことに関しては、この『おちゃめ日記』の場で「空海はすごい!(越智の大胆仮説編:その2)」で書かせていただきました。

何度も書いてきたように(そのあたりの地図を開いて見ていただけたらすぐに判るように)、朝倉から東の方角へ一山越えて少し行った先にあるところが、かつて伊予の国の国府が置かれていたとされる今治市桜井。瀬戸内海に面したそこの浜の名前が唐子浜。えらく遠回りしましたが、空海の謎に立ち戻って、ここで一気に繋がった感じがします!

もしそうだとすると、斉明天皇の時代(7世紀後半)から弘法大師の時代(9世紀前半)にかけてしばらくの間、この朝倉の地は水銀採掘によりかなり栄えていた筈だということです。

これを証明するには、この地を外敵の侵入から守るための城というか砦の跡が絶対にその周辺には残っているわけで、それに関してネットで調べてみました。すると、次のようなものがすぐに見つかりました。『城郭放浪記 伊予国城郭分 布地図』。趣味でこういうことを調べている方がいらっしゃるのですね。現代は居ながらにしていろいろと調べられるので便利です。

城郭放浪記 伊予国城郭分布地図

この地図の今治市周辺をグッと拡大していただくとお分かりいただけますが、実に奇妙な分布をしているんです。どう考えても、これらの砦や城郭は朝倉と桜井の地を守るように配置されているようにしか私には見えないんです。個々の砦や城郭の築城年代はバラバラで、問題の9世紀より前にはどうだったかはまったく読み取れませんが、少なくとも砦や城郭が置かれているところは昔の街道(道)沿いの要衝だったところということなので(決して今の道路で考えてはいけません)、それが朝倉や桜井を守るように配置されているということは、何を意味しているか…と言うことです。

とすると、四国の今治市朝倉の周辺に、もしかしたら四国朝廷(王国)なるものが置かれていたことがある(かもしれない)という私の大胆仮説の1つの証明にもなるのではないか…と、私は思います。まぁ、1000年以上も昔のことなので、ホントのことは判りませんが…。

ホント、四国、それも私の本籍地のある愛媛県今治市周辺というのは不思議な不思議なところです。私も今の今まで注目したこともありませんでしたし、日本中の誰も、まだほとんど注目していただいてはおりませんが…(^-^)v


【追記2】
その昔、人や物の移動はほとんど船によるものでした。現代のように日本列島の全国に道路網が発達したのは、実は明治時代以降のことで、江戸時代より前の時代においては、交通網の主体は海路(船)でした。そうした中、年中穏やかな瀬戸内海という海は、太古の昔から日本の人と物が交流する一大動脈でした。

大陸から文化が伝わってきたのも船、遣唐使だって船があったからこそ出来たことです。近畿地方から四国や九州への人や物の移動なんて、実は極めて簡単なことで、時間もさほど長くかかるものではなかったわけです(海路を使えば、現代とほとんど変わらないくらいの時間で、すぐに行けたわけです)。

そう思って瀬戸内海を眺めてみると、愛媛県今治市の周辺って、極めて重要な位置だったってことが容易に想像がつくと思います。この周辺は旧愛媛県越智郡の島々が関所のように並んでいて、行き交う船をトオセンボしているようにも見えます(まるで駅の改札口のようです)。その島々の間は潮の流れが極めて速い危険な海峡になっていて、このあたりはまさに“交通の一大要衝”という表現がピッタリのところです。

すなわち、瀬戸内海のこの地を治めたものは天下をとれると言っても過言ではなかったわけで、この今治市周辺の地が歴史上であまり表面に出て来ていないほうが、逆におかしいのではないか…と私は思っています。と言うことで、私には、歴史上、封印されている何かがあるように思えて仕方ないのですが…。それって、もしかすると、私が仮説に立てた「その昔、四国の今治周辺に朝廷が置かれていた」…ということなのかもしれません。


【追記3】
愛媛県今治市朝倉には『今治市朝倉ふるさと美術古墳館』という施設もありますので、入門編としての朝倉の歴史に関する情報収集、プラス調査協力を依頼するため、まずはそこの学芸員さんに聞きに行くところから始めようかと思っています。

今治市朝倉ふるさと美術古墳館HP 

朝倉の地に“古墳館”なる施設があるということを、私はこれまでまったく知りませんでしたが、公的な“古墳館”がある以上、古代と言われる昔に、この朝倉の地にそれなりに栄えた都市文明があったのは確かだ…ということを意味しています。もしかすると、それが『四国遷都説』に繋がるかもしれません。

幸い、今治市役所には同い年を含め従兄弟が3人も勤務しています。今はどうかは判りませんが、少なくとも二代前(私の祖父の代)までは同じ今治市朝倉太之原上を本籍地とする従兄弟達です。ここの地の謎を調べたい…と言うことには絶対に協力してくれる筈です。加えて、もしかしたら、今治市の新しい観光資源が発掘されるかもしれないわけです。市役所として応援して貰わないといけません。まずは従兄弟に協力要請して、そのルートを活用することかな(^-^)v

それにしても、これだけ大規模な古墳があることが判っているにも関わらず、出土品も含め、国はおろか県の文化財にも指定されていないことが、なぁ~んかおかしい! 吉田史学会の皆さんはこういう調査資料 を発表しておられますが、それ以外、なにも見当たらないのも不思議。私は本籍地に興味を持ち始めて約半年でいとも簡単にこの仮説にまで行き着いたのに、地元の人も含め、これまで誰も真剣に調査してこなかったというのも不思議と言えば不思議。もしかすると、1300年という長い間、ここは歴史から存在を消されていた地域…ってことになるのでしょうか? 自分と直接関係のないところ なら、「ふぅ~ん、面白そうじゃん」くらいで済ましちゃうのですが、自分の本籍地、我が家が先祖代々住んでいた土地だけに、好奇心がやたらと膨らみます。

なぁ~んか、触れてはならない何か、開けてはならない何かの扉が伊予朝倉の地には残されているようで、正直、少し恐い気もしています(^^; ここはいったいどういうところなんだろう?

皆さんも、自分がお住まいの場所や、本籍地、先祖の方々が住んでいた場所などに興味を持って調べてみると、きっとメチャメチャ面白いかもしれませんよ(^-^)v そういう時、地元の寺院や神社の由来や歴史等 を調べることから始められるといいと思います。寺院や神社には必ずそこの場所に建っている理由、由来、訳というものがありますから。

私も我が家の菩提寺である愛媛県今治市朝倉の無量寺が1300年の歴史があると聞いて、「あれっ!?おかしいじゃん。弘法大師が高野山を開いてから来年で1200年になると言われているのに、同じ真言宗にも関わらず、その100年も前から(すなわち、弘法大師が遣唐使として唐に渡る前から)寺があったなんて、信じられない」と疑問に思ったところから一連の謎解きが始まりました(^-^)v


【追記4】
愛媛県今治市朝倉は『今治市朝倉ふるさと美術古墳館』という施設はありますが、他にはなぁ~んにも観光資源もない、まさに“ド”が付くくらいの田舎です。最近まで「朝倉村」でしたし。主な産業は農業。朝倉は周囲を山で囲まれた盆地になっていて、大きな川はないものの、高縄半島の高い山々に降った雨が湧き水(ミネラルたっぷりの清流)として湧き出すことから、昔から米作が盛んで、上等な酒米の産地として知られていました。

また、酒造メーカーや酒蔵は1つもありませんが、四国一の杜氏集団として「越智杜氏」と呼ばれる職人達がいて、全国各地の酒蔵に呼ばれて活躍していました。なんで、こんなところで酒作りの技術が…って感じもします。どうしても良質の酒を作る必要があったということではないでしょうか。もしかすると、天皇に献上するため?


【追記5】
それにしても、これだけ大規模な古墳があることが判っているにも関わらず、出土品も含め、国はおろか県の文化財にもほとんど指定されていないことが、なぁ~んかおかしい! 私がWeb検索で発見して引用した 『古田史学の会』の調査資料以外、なにも見当たらないのも不思議。私は本籍地に興味を持ち始めて約半年でいとも簡単にこの仮説にまで行き着いたのに、地元の人も含め、これまで誰も真剣に調査してこなかったというのも不思議と言えば不思議。1300年という長い間、このあたりは“歴史から存在を消されていた地域”…ってことになるのでしょうか? 自分と直接関係のないところな ら、「ふぅ~ん、面白そうじゃん」くらいで済ましちゃうのですが、自分の本籍地、我が家が先祖代々住んでいた土地だけに、好奇心がやたらと膨らみます。

なぁ~んか、触れてはならない何か、開けてはならない何かの扉が伊予朝倉の地には残されているようで、正直、少し恐い気もしています(^^; ここはいったいどういうところなんだろう?

皆さんも、自分がお住まいの場所や、本籍地、先祖の方々が住んでいた場所などに興味を持って調べてみると、きっとメチャメチャ面白いかもしれませんよ(^-^)v そういう時、地元の寺院や神社の由来や歴史等 を調べることから始められるといいと思います。寺院や神社には必ずそこの場所に建っている理由、由来、訳というものがありますから。

私も我が家の菩提寺である愛媛県今治市朝倉の無量寺が1300年の歴史があると聞いて、「あれっ!?おかしいじゃん。弘法大師が高野山を開いてから来年で1200年になると言われているのに、同じ真言宗にも関わらず、その100年も前から(すなわち、弘法大師が遣唐使として唐に渡る前から)寺があったなんて、信じられない」…と疑問に思ったところから一連の本格的な謎解きが始まりました(^-^)v

そもそもは防災が目的で、その土地に残る自然災害の歴史を探るために始めたことなのですが、その目的から逸脱して、妙な方向に進みつつあります(苦笑)。


【追記6】
ネットで調べてみると、私がWeb資料を引用した『古田史学の会』とは、古代史研究家の古田武彦さん(現在88歳、京都府在住)の賛同者で組織された全国組織の会のようです。古田武彦さんは『“邪馬台国”はなかった』(魏志倭人伝に書かれているのは“邪馬台国”ではなく、“邪馬壹国”)、『失われた九州王朝』、『盗まれた神話』等の多くの著書があり、古文書の原文に忠実な文献の解読と、独自の論理展開から熱狂的な読者、支持者も多いようです。ただ、歴史の教科書に載っているような日本の古代史の通説を真っ向から否定するところや、歴史学会でタブー視されることの多いことに果敢に切り込んだりすることもあり、歴史学者の間でも評価は真っ二つに別れるようです。

私は古田武彦さんのお名前も、『古田史学』なる学派の存在も今回初めて知りましたが(そもそも歴史に興味を持ったのが、この半年ほどのことですから)、調べてみると近畿天皇家一元史観を疑うという点で、私が到達した『四国遷都説』と共通点が多い感じがします。まだまだ読みたい本が増えてきました(^^;

知らないことっていっぱいありますね。特に歴史って、“謎解き”みたいで、本当に面白いです。

ちなみに、『history(歴史)』とは『his story』の略であるとも言われています。すなわち、結局は誰かの都合のいいように後世の人によって勝手に書き替えられたり解釈されたものに過ぎず、現在伝わっている歴史は誰かが書き換えたもの、あるいは誰かが立てた仮説に基づくもの(場合によっては、創作したもの)に過ぎないってことです。すなわち、本当の“真実”ではないかもしれないってことです。特に1000年以上も昔のことって、現代人の誰もその真実なんて分からないことですので、いろいろ考えられて面白いですね(^^)d

開けてはならない歴史の扉を開いているようで、正直、ちょっと恐い感じがしますけど……(^^;


【追記7】
劇作家の寺山修司さんが「一番面白い劇は何かと聞かれたら“歴史”と答える」とおっしゃられたようです。まさにその通りですね。

先般、昭和天皇の1901年のお誕生から1989年にお亡くなりになられるまでの足跡を綴った『昭和天皇実録』が完成したというニュースが流れていました。宮内庁による24年間の編集作業だったようです。日誌や公文書等の調査だけでなく、元側近からの聞き取り調査も行って、計61分冊、約1万2千ページに及ぶ大作だそうで、歴史を書き残すとは現代でもそのくらい大変なことで、今から1000年以上も昔のことなんて、ほとんど何も記録は残っていないので、ここは残されている断片的な記録や遺構、地域に伝わる伝承といった“物的証拠”や“状況証拠”を繋げあわせることで埋め合わせて、仮説を立て類推していくしかないないと思っています。なので、幾つもの仮説があってもおかしくないわけで、だから面白い。今はこんなに面白いことはほかにない!…って感じでハマってしまっています(^-^)v

田家康さんの『気候で読み解く日本の歴史』や竹村公太郎さんの『日本史の謎は「地形」で解ける』を読んだことで刺激を受けてハマった私の歴史趣味、歴史研究ですので、私も地形や気象、気候といった理系の観点、ITエンジニアとしての論理性を重視した観点で歴史を読み解いています。地形や気象、気候といった自然環境その土地その土地の農林水産業や鉱工業等の諸産業を特徴付け、それに地理的条件(地勢的条件をも含む)を加えることで歴史や民俗を含むその土地のいっさいの人文条件を支配しているのではないか…と思っていますから。そう思って眺めてみると、これまで通説で言われていることとは一味も二味も違った歴史が見えてくる感じです。