2014/10/20

閏月…メトン周期

今日は西洋暦(グレゴリオ暦)では10月20日ですが、旧暦、すなわち太陰太陽暦では9月27日です。で、旧暦の9月30日が西洋暦の10月23日。では西洋暦の10月24日が旧暦では10月1日になるとふつうは思うのですが、これが違うのですね。なんと旧暦では9月1日に戻るのです(@_@)

これは閏月(うるうづき)が起きたからです。閏月とは、旧暦すなわち太陰太陽暦において加えられる「月」のことです。これによって1年が13ヶ月となるわけです(^^)d

現在私達が使っている西洋暦(グレゴリオ暦)は、太陽の動きをもとにして作られているため、「太陽暦」と呼ばれます。一方、太陽暦が明治6年に採用される以前の日本では、月の満ち欠けをもとに、季節を表す太陽の動きを加味して作られた「太陰太陽暦」が使われていました。一口に太陰太陽暦といっても、歴史の中ではたくさんの暦法(計算の規則)が使われてきましたが、太陽暦への改暦の直前に使われていた「天保暦」と呼ばれる暦法のことを、日本では一般的に「旧暦」と呼んでいます。

旧暦を含む太陰太陽暦では、月が新月になる日を月の始まりと考え、各月の「1日」としました。それから翌日を2日、その次の日を3日と数えたのです。そして、次の新月の日がやってくると、それを次の月の「1日」としました。これにより、空の月が欠けて満ちそして再び欠けるまでを「1ヶ月」とし、それを12回繰り返すことで12ヶ月、すなわち「1年」としています。

しかしこの月の満ち欠け(平均朔望月 = 約29.530589日)による12ヶ月は約354.3671日であり、太陽暦の1年(約365.2422日)と比べて約11日ほど短いので、この太陰暦をこのまま使い続けると、暦と実際の季節が大幅にずれてしまうことになります。このずれは11×3=33日つまり3年間で1ヶ月分ほどになります。

(【余談】 新月のことを「朔(さく)」、満月のことを「望(ぼう)」とも呼ぶことから、月の満ち欠けの一巡りのことを「朔望月(さくぼうげつ)」と呼びます。)

この暦と季節とのずれをなるべく少なくするように調整するために導入されたのが「閏月(うるうづき)」です。閏(うるう)といってもグレゴリオ暦で採用されている4年ごとに1日を加算する閏年(うるうどし)とは大きく異なり、旧暦では約3年に1度、1年を13ヶ月とします。この挿入された月のことを「閏月」と言います。閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置いて呼称します。すなわち、前述の西洋暦の今週の金曜日10月24日が旧暦では「閏9月1日」となるわけです。

約3年に1度、閏月を入れると言いましたが、正確には19年に7度の割合で閏月を挿入します。


    太陽暦の19年(365.2422日×19=6,939.602日)
    =月の満ち欠け235サイクル(29.530589日×235=6,939.688日)
    235=12×19+7

上記の式とおり、太陽暦の19年分の日数と月の満ち欠け235回分(旧暦235か月分)の日数はほぼ一致しています。これを「メトン周期」と言うそうです。

235=12×19+7ですから、すなわち正確には19年に7度の割合で閏月を挿入すれば、太陽暦とのズレはほぼ完璧に解消されることになるわけです。

最近では2012年の旧暦3月と4月の間に余分な1ヶ月、「閏3月」が入りました。そして今年2014年旧暦9月と10月のあいだに「閏9月」が挿入されるわけです(この挿入位置は一定のルールに基づかれていて、年により異なります)。

この6,939日周期で月と太陽とが同期するサイクルは、紀元前433年にギリシアのメトンという数学者が発見したとされることから「メトン周期」と呼ばれているそうです。古代中国でも殷の時代から暦と季節との調整を行うために閏月を入れることが行われていました。メトンがこの周期のことを発見されたとされる春秋時代の頃には、既にこのメトン周期の原理が知られていて、さらに太初暦以来、二十四節気を暦法に用いた置閏法によって閏月が暦に入れられていたそうです。凄いことです。

日本で最初に使われた太陰太陽暦は中国で元嘉10年(西暦442年)から使われた元嘉暦であったとされており、その後幾度か改暦が行われましたが、閏月の入る太陰太陽暦は明治時代の政府により西洋暦(グレゴリオ暦)へ改暦されるまで使い続けられました。

現在、日本で“公式な”太陰太陽暦の計算というものは行われておりません。しかし現在でも、かつて太陰太陽暦に従って行われていた数々の習慣は私達の生活の中で生きています。例えば、「中秋の名月」は太陰太陽暦の8月15日の夜の月のことを言い、大変美しいものとして古くから鑑賞されてきました。また、「七夕」も本来は太陰太陽暦の7月7日に行っていたものです。

太陰太陽暦は公式には使われなくなりましたが、このような昔からの習慣の意味や、そこに込められた昔の人の心のようなものは、これから先も受け継いでいきたいものです(^.^)


【追記1】
昔の人は長い経験の塗り重ねから、月と植物の関係を色々と発見しています。特に農業では栽培管理をしていく上で、月との関係は極めて重要な事柄だったようで、今も各地に月と農作業に関する経験に基づいた言い伝えや諺(ことわざ)が多く残されています。

地球の表面は月の影響を強く受けていて、満潮と干潮が1日に2回ずつ繰り返されるのも、満月と新月の時に潮の干満差が大きい大潮となるのも、どちらも月の引力の影響によるものです。

この月の引力は生物にも作用するらしく、出産は1日のうち満潮の時間帯に多く、満月と新月の日にも出産数が増えるとも言われています。

ベテランの農家の中には、この月と生物の関係を作物の栽培管理に活かす人が少なくありません。

植物は太陽の動き(季節)を大きな基準にして成長していきますが、季節という範囲はあまりに幅が大きく、そこに月の動きを加味して成長の基準にしているのだそうです。

月は、1朔望月=約29.530589日で地球を1周します《注》。これが新月⇒満月⇒新月のサイクルです。旧暦の7日前後(小潮)から15日(大潮)にかけては植物の生長が緩やかになり、16日頃(大潮)から22日頃(小潮)にかけては伸長が旺盛になり、また22日から翌月の1日(大潮)にかけては緩やかになるのだそうです。つまり、季節の基準となる太陽暦のカレンダーに、月の満ち欠けを記入しておけば、植物の成長を読み取る目安になるということです。

また、害虫の防除は、満月(大潮)の3日後が防除に適した時期なんだそうです。多くの虫の生態は、満月(大潮)の3日前に交尾して、満月(大潮)の日に産卵します。そして満月(大潮)の3日後に孵化する傾向があると言われているのだそうです。卵は固い殻に守られていて、いくら農薬を散布してもほとんど効かないので、最も弱い孵化直後の一齢幼虫を狙って農薬を散布するのが、防除としては一番効果的なのだそうです。つまり、満月(大潮)の3~4日後が防除に最も適した時期となる…というわけです(もっとも防除する害虫にもよるのでしょうが…)。

また、大潮のときは作物の体質が強まるので追肥や灌水の適期であるとか、タネ播きは満月、移植は新月の時がいい……等々、月と植物の関係はいろいろとあるようです。

農業の生産現場においては太陽暦と太陰太陽暦の併用はとても意味がありそうで、研究してみる価値がありそうです。

ホント、暦は、いや自然は奥が深いです(^^)d


《注》 1朔望月、すなわち月の満ち欠けの周期は約29.530589日なのですが、月が地球の周囲を回る公転周期は約27.321662日で、朔望月より2.2日ほど短くなっていて、必ずしも1朔望月=約29.530589日で月が地球を1周するとは言い難いところがあります。これは月が地球の周囲を回る間に、地球もまた太陽の周囲を公転しているからです。

地球が太陽の周りを回らずに一定の場所にいれば、月の公転周期と満ち欠けはピッタリと一致します。ところが地球も太陽の周りを回っているわけです。そうすると、満月の時の地球の位置から見て次の満月の時には、軸となるべき地球自体が動いていますから、月が太陽と地球を結ぶ線の延長線上に来るためには地球が動いた角度のぶんだけ月は余分に地球の周りを回らなければなりません。その分がこの差の2.2日ということになるのです。

余談ですが、月は自転周期と公転周期が同じ(約27.321662日)になっているので、常に地球に同じ面を向けているのだそうです。 このような同期は二つの天体の距離が比較的近く、相手の天体が及ぼす潮汐力が強い場合に起こるらしいのですが、説明を読んでも私にはちょっと理解できませんでした(^^;

これらは宇宙物理学の基本なんだそうですが、なんとも奥が深い……( ̄^ ̄)


【追記2】
ん!?……、旧暦(太陰太陽暦)で「閏月」を入れるそもそもの理由は、暦と季節とのずれをなるべく少なくするように調整するためということのようでしたが、それからすると9月と10月の間のこのタイミングで「閏月」を入れることにはなんらかの深い意味がありそうです。西洋暦の10月24日が旧暦の9月1日になるわけで、西洋暦の11月になってもしばらくは旧暦の9月のままですからね。

それって、このところ毎年のように残暑の期間が長くなって、生物が本能的に感じる季節感のようなものが変わってきたから????

確かに日本の四季が三季化、あるいは二季化しているように思うことがありますからねぇ~。

月と植物(生物)の生育には深い関係があるということを書きましたが、もしそうだとしたら、これは大変に興味深いことです。本文中に「閏月」の挿入位置は年により異なり、一定のルールに基づかれて行われている…って書きましたが、そのルールってものに興味が湧いてきました。それこそ、長年の経験則から割り出された“先人の知恵”ってやつでしょうからね(^^)d


【追記3】
調べてみると、旧暦で9月が2回ある「閏9月」が発生するのは珍しいことのようで、前回「閏9月」があったのは今から182年前の西暦1832年のことで、次回は95年後の西暦2109年になるのだそうです。

で、前回「閏9月」が発生した西暦1832年と言うと、江戸四大飢饉(寛永、亨保、天明、天保)の1つ、「天保の大飢饉」が発生した前年にあたります。「天保の大飢饉」とは、天保4年(1833年)から天保10年(1839年)にかけて発生した全国的な大飢饉のことです。その前年(1832年)から続く全国的な大雨と洪水、それに伴う異常低温の冷夏(稲刈りの時期に雪が降ったという記録も残っているのだそうです)等が原因で、東北地方を中心に全国的な大凶作となり、酷い飢饉となりました。

特に天保4年の作柄は全国平均で3~7分作、天保7年も天候不順がさらに激しく3~4分作となりました。このような天候の不順が1832年から8年間も続き、これにより全国各地で一揆や打ち壊しが続出。これにより江戸幕府の急激な体制的弱体化を促したとされています。ちなみに、徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が終焉を告げたのが1867年、「天保の大飢饉」が終わってから28年後のことです。

「天保の大飢饉」は天保4年からとされていますが、実は天保3年(1832年)も天候不順による大凶作で、翌年(天保4年)には備蓄していた食糧も底をつき、飢饉となったわけで、飢饉としては天保4年からですが、天候の不順はその前年の天保3年(1832年)から起きていたようです。

まったくの余談ですが、その後、明治時代以降も飢饉は断続的に発生し、特に昭和8年(1933年)から昭和10年(1935年)にかけて東北地方を中心に発生した飢饉は「昭和東北大飢饉」と呼ばれ、日本史上最後の飢饉と言われています。この「昭和東北大飢饉」が第二次世界大戦前の軍国主義化の1つの背景とされ、さらには満州事変に繋がる背景ともなりました。

ですが、全国的な大飢饉と呼べるものは、「天保の大飢饉」がこれまでのところ最後です。

それにしても、全国的な大雨と洪水、それに伴う冷夏ですか…。なぁ~んとなく今年と似ているような感じもしています。前回の1832年の時と同じようにならなければいいのですが…。


【追記4】
『スーパー台風』の稿で10月に日本列島に接近した台風は2012年に4個、2013年に5個と増えてきていて、今年2014年もこれまでのところ2個。しかも18号、19号とその2個の台風が続けざまに上陸してきているということを書きました。なぁ~んか変だなぁ~って思っていたのですが、暦と季節が微妙にズレてきていたってことですね。「閏9月」があるということは、旧暦で言うと、台風シーズンの9月はまだまだ1ヶ月以上も続くってことですからねぇ~(^.^)

衛星画像を見ると、まだまだ赤道にほど近いマーシャル諸島やマリアナ諸島周辺には台風の卵のような雲の塊が幾つか見受けられます。台風に成長して日本列島に接近してこなきゃいいのですが…(^^;

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

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前代表取締役社長

越智正昭

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