2015/04/17
救難飛行艇US-1
前回はCH-47Jチヌークがそのあまりの性能の良さのため半世紀以上も後継機が出てこないヘリコプターとして名機中の名機だいうことを書きましたが、日本の自衛隊にはもう1機種、同じように名機中の名機と言われる航空機があります。それも我が国の国産で(^^)d
それが兵庫県宝塚市に本社を置く新明和工業が作り出した救難飛行艇US-1とUS-1A、それらをベースに大幅な近代化・性能向上を図ったUS-2がそれです。
新明和工業は、かつての社名を川西航空機といいます。大東亜戦争(太平洋戦争)末期、日本本土に大挙襲来したB-29などの爆撃機の大群や米航空母艦艦載機を迎え撃つ(迎撃する)本土決戦用の局地戦闘機として活躍した「紫電改」を作り出した製造メーカーとして知られています。
この「紫電改」は、1943年以後、急速に進む名機・零式艦上戦闘機(通称:ゼロ戦)の陳腐化、その正統後継機である「烈風」の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵戦闘機に正面から対抗可能な制空戦闘機として、敗色濃厚となった太平洋戦争末期の日本本土防空戦で大活躍した航空機です。
高高度で日本本土に侵入して爆撃を行う米軍の爆撃機とその護衛のための戦闘機を迎撃するためには、大出力のエンジンを搭載し、離陸後、速やかに高高度まで上昇できる優れた急上昇性能を発揮することが求められ、名機ではありましたが広い太平洋を戦場とするために航続距離最優先で設計されたゼロ戦では、その任務には適さないとの判断でした。
そういう背景から急遽、新しい迎撃専用の戦闘機を開発することになったのですが、そこで日本海軍が目をつけたのが、既に川西航空機が製造し、実戦に投入されていた水上戦闘機の「強風」でした。その「強風」からフロートと呼ばれる機体下部に取り付けられた浮きの部分を取り外し、代わりに車輪を取り付けて陸上戦闘機化したものが局地戦闘機「紫電」で、中翼機であったその「紫電」を低翼機へと改造し、欠点を解消すべく再設計した機体が「紫電改」です。水上戦闘機としてはあまりパッとしなかった「強風」も、空気抵抗が大きく邪魔なフロートを取り外した途端に、素晴らしい戦闘機に生まれ変わったということです。
自動空戦フラップや層流翼といった新機軸が設計に盛り込まれたのが特徴で、戦後、米空軍がこの「紫電改」を接収して、米国製のオクタン価の高い航空燃料を搭載して飛行させたところ、当時世界で一番の最高速度を記録し、空戦性能もよかったことから、これに驚いた米空軍が「こんな信じられないような高性能の機体を産み出す技術力の高い国に飛行機を作らせては危険だ!」として日本の航空機製造を禁止させるきっかけとなった傑作機が「紫電改」でした。
この「紫電改」が水上戦闘機「強風」からの改造で作り出したように、川西航空機は元々は優れた水上機を製造するメーカーとして知られていました。
その「強風」や「紫電改」を作り出した川西航空機の設計チームを率いていた設計主任が菊原静男さん。名機・零式艦上戦闘機を設計した三菱重工業の堀越二郎さん、マレー沖海戦で英国の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈させた九六式陸上攻撃機とその後継機である一式陸上攻撃機を設計した同じく三菱重工業の本庄季郎さんと並ぶ天才航空エンジニアのお一人です。(それぞれ戦闘機、大型爆撃機、水上機と得意分野が異なるのが面白いところです。)
この天才エンジニア菊原静男さん率いる川西航空機の設計チームが大東亜戦争中に作り出した四発(エンジンを4基搭載した機体)飛行艇が二式大型飛行艇、通称「二式大艇」です。
この「二式大艇」は当時世界最大の軍用飛行艇であったばかりか、日本が実用化した(現代に至るまで)最大の大きさの大型レシプロエンジン機です。全幅38.00m、全長28.13m、全高9.15m、最大重量32,500kg。
二式大艇 Wikipedia
当時の米軍の四発重戦略爆撃機と比較しても全幅43.1m、全長30.2mというB-29にはちょっとかなわないものの、フライングフォートレス(空飛ぶ要塞)と呼ばれて恐れられたB-17(全幅31.6m、全長22.6m)より遥かに大きい機体でした。ちなみに、現在の飛行機と比較してみると国内ローカル線の主力機材として羽田空港でもよく見掛けるボーイングB737-800が全幅35.8m、全長39.5m、全高12.5mなので、まぁそれと同じくらいの大きさの飛行機だったとイメージしていただければよろしいかと思います。
驚くべきは航空性能。1,850馬力発動機4基を搭載し、最高速度465km/h(高度5,000m)。これはB-29にはかなわないまでも、B-17の426km/hより速い数字です。そして、乗員10~13名を乗せての最大航続距離はなんとなんとの7,153km!(@_@) 陸上機である日本軍の一式陸上攻撃機や米軍のB-17爆撃機の5割増、B-29爆撃機と比べても30%近く長い数字です。片道だけならハワイまで飛んでいって爆撃ができるくらいの航続距離性能です。
機体の外見上の特徴としては、それまでの一般的な飛行艇の胴体が、着水時の安定性を考慮して幅広に作られていたのに対して、二式大艇では空気抵抗を減らすため機体の幅を抑えてスリムになり、その一方で背が高い独特な形状が挙げられます。また、胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用も挙げられます。これは、滑走中に生じる波飛沫を抑えることにより、水上滑走中にプロペラや尾翼の損傷を防ぐために考え出されたもので、この発明が当時世界最大の大型飛行艇の実用化を可能としました。
もうこうなると、飛行艇と言うよりも「空飛ぶ船」とでも呼べばいいくらいで、実際、大きな機体を活かして備え付けられた重火器や優れた防弾設備等から「空飛ぶ戦艦」とも呼ばれ、敵軍からも恐れられていました。まさに周囲を海に囲まれた“海洋国家”日本ならではとも言えるような飛行機でした。
あまり知られてはいませんが、当時の日本海軍はこの世界に誇る大型飛行艇を総勢167機も実戦に投入していたということで、当時の日本の航空工学がいかに優れていたかが分かります。
戦後、川西航空機から名称を変えた新明和工業が開発した対潜哨戒飛行艇PS-1です。
設計主任はもちろん、かつて川西航空機の設計チームを率いて二式大艇を作り上げた天才航空エンジニア菊原静男さん。彼等は1953年から社内で新たな飛行艇の構想を練っており、1957年には防衛庁に対して飛行艇の実験機を作らないかと持ちかけていたそうです。これを受けて防衛庁でも飛行艇の実用化を検討して、1960年には新型飛行艇を対潜哨戒機として使用する案がまとまりました。
この背景にあったのが、二式大艇の大変に優れた性能に興味を示し、川西航空機が持つ技術をなんとか自社へ移転しようと考えた米国グラマン社の思惑があったようです。
正式に防衛庁から新明和工業に対して対潜哨戒飛行艇の試作機製作の発注があったのが1965年。防衛庁から提示された開発コンセプトは「外洋における運用を第一の目的とする世界初の飛行艇」でした。
この開発コンセプトを受けて菊原静男さん率いる設計チームが出した答えがPS-1で、二式大艇をベースとしてエンジンを従来のレシプロエンジンからジェット燃料を使うターポプロップエンジンに積み替え、高揚力装置と自動安定装置による超低速飛行と、高いSTOL(短距離飛翔)性能、波消し装置と新設計の機体による耐波特性を持つもので、二式大艇譲りの良好な凌波性能を備えた機体は、設計上は波高3メートルの荒波での離着水も可能とました。
対潜哨戒飛行艇PS-1は試作機による試験を重ねた後、1970年に制式に海上自衛隊への導入が決定。実戦投入されました。しかし、死亡事故が相次いだことや、対潜哨戒能力が米海軍が導入したロッキード社製のP-3C対潜哨戒機に及ばなかったことなどから、総計23機で調達が打ち切られました。しかし、これはPS-1の飛行性能によるものではなく、単に搭載する電子機器の対潜哨戒能力によるもの。飛行機としてのPS-1は大変に優れた機体であったことから、それを別の目的の機材に改造することができないか…と、考えられました。
このような背景があって、対潜哨戒飛行艇PS-1から米国製に比べ劣っていた対潜哨戒用機材を取り除き、代わりに災害救助用機材を搭載、さらに降着装置などを備えて陸上への離着陸も可能とした(多くの飛行艇は離着陸できず、離着水のみです)災害救助用モデルが救難飛行艇US-1(PS-1改)です。
さらに、US-1のエンジンをより大出力のものに転換した世界最高水準の救難用水陸両用機US-1A。この機体は海上自衛隊が現在14機運用しており、岩国基地と厚木基地に配備されています。飛行場の無い東京都小笠原村の父島や母島で急病人が発生した場合など、この同機が厚木基地から派遣され東京23区の病院に搬送しています。
さらに、このUS-1Aをベースに大幅に近代化と性能向上を図ったのが救難飛行艇US-2で、機内の快適性を増すための与圧キャビンや、電子制御を可能としたグラスコックピット、フライ・バイ・ワイヤなどの新機軸を取り入れることで運用能力の向上を図っており、新明和工業では同型機の国際市場での売り込みも狙っているようです。
このように、救難飛行艇US-1も初飛行から半世紀近くが経つ、また、その前身である二式大艇からすると、なんと70年以上が経過する大変に歴史のある飛行艇ですが、あまりに性能がいいため、後継機が出てくる気配すらありません。
同時期に開発された国産の民間航空機(旅客機)のYS-11が退役して久しいのと比べ、現在も世界最高の称号を欲しいままにしています。なので、名機中の名機と呼べる飛行艇です。しかも、これが日本製、日本の技術が産み出したものであるということが、嬉しい限りですね。
救難飛行艇という性格上、実に地味な機体だし、滅多にお目にかかる機会もないので、ほとんど知られていないことが残念です。実は、私もまだ実機を見たことはありません。是非、海面から離陸していく雄大な姿を、一度見てみたいものだと思っています。
で、この救難飛行艇US-1も災害救助、特に海難救助で大活躍する機体ということで我々民間気象情報会社にも少なからず関係があります。そのことに心より敬意を表して、大型輸送用ヘリコプターCH-47J チヌークに続く2機目の自 衛隊航空機として“五反田重工業”にてプラモデルを作成し、弊社ハレックスの社長室執務机の横に飾らせていただいております(^o^ゞ
【追記】
私の飛行機に関する知識は、30年ほど前に航空路レーダー情報処理システムを担当するようになって、“乗り物好きのDNA”が刺激され、一気に飛行機マニアになってからです。軍用機についての勉強もしましたが、どちらかと言うと私はエンジニアとしての視点でそれらを見ています。
エンジニアの目からすると、「性能のいいものは、美しい!」、ましてや、重力に逆らって、空中を飛行するものは、美しすぎます(^^)d
福山雅治さん演じるドラマ『ガリレオ』の帝都大学理工学部物理学科の湯川学先生じゃあありませんが、「実に面白い(^^)d」……です。
それが兵庫県宝塚市に本社を置く新明和工業が作り出した救難飛行艇US-1とUS-1A、それらをベースに大幅な近代化・性能向上を図ったUS-2がそれです。
新明和工業は、かつての社名を川西航空機といいます。大東亜戦争(太平洋戦争)末期、日本本土に大挙襲来したB-29などの爆撃機の大群や米航空母艦艦載機を迎え撃つ(迎撃する)本土決戦用の局地戦闘機として活躍した「紫電改」を作り出した製造メーカーとして知られています。
この「紫電改」は、1943年以後、急速に進む名機・零式艦上戦闘機(通称:ゼロ戦)の陳腐化、その正統後継機である「烈風」の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵戦闘機に正面から対抗可能な制空戦闘機として、敗色濃厚となった太平洋戦争末期の日本本土防空戦で大活躍した航空機です。
高高度で日本本土に侵入して爆撃を行う米軍の爆撃機とその護衛のための戦闘機を迎撃するためには、大出力のエンジンを搭載し、離陸後、速やかに高高度まで上昇できる優れた急上昇性能を発揮することが求められ、名機ではありましたが広い太平洋を戦場とするために航続距離最優先で設計されたゼロ戦では、その任務には適さないとの判断でした。
そういう背景から急遽、新しい迎撃専用の戦闘機を開発することになったのですが、そこで日本海軍が目をつけたのが、既に川西航空機が製造し、実戦に投入されていた水上戦闘機の「強風」でした。その「強風」からフロートと呼ばれる機体下部に取り付けられた浮きの部分を取り外し、代わりに車輪を取り付けて陸上戦闘機化したものが局地戦闘機「紫電」で、中翼機であったその「紫電」を低翼機へと改造し、欠点を解消すべく再設計した機体が「紫電改」です。水上戦闘機としてはあまりパッとしなかった「強風」も、空気抵抗が大きく邪魔なフロートを取り外した途端に、素晴らしい戦闘機に生まれ変わったということです。
自動空戦フラップや層流翼といった新機軸が設計に盛り込まれたのが特徴で、戦後、米空軍がこの「紫電改」を接収して、米国製のオクタン価の高い航空燃料を搭載して飛行させたところ、当時世界で一番の最高速度を記録し、空戦性能もよかったことから、これに驚いた米空軍が「こんな信じられないような高性能の機体を産み出す技術力の高い国に飛行機を作らせては危険だ!」として日本の航空機製造を禁止させるきっかけとなった傑作機が「紫電改」でした。
この「紫電改」が水上戦闘機「強風」からの改造で作り出したように、川西航空機は元々は優れた水上機を製造するメーカーとして知られていました。
その「強風」や「紫電改」を作り出した川西航空機の設計チームを率いていた設計主任が菊原静男さん。名機・零式艦上戦闘機を設計した三菱重工業の堀越二郎さん、マレー沖海戦で英国の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈させた九六式陸上攻撃機とその後継機である一式陸上攻撃機を設計した同じく三菱重工業の本庄季郎さんと並ぶ天才航空エンジニアのお一人です。(それぞれ戦闘機、大型爆撃機、水上機と得意分野が異なるのが面白いところです。)
この天才エンジニア菊原静男さん率いる川西航空機の設計チームが大東亜戦争中に作り出した四発(エンジンを4基搭載した機体)飛行艇が二式大型飛行艇、通称「二式大艇」です。
この「二式大艇」は当時世界最大の軍用飛行艇であったばかりか、日本が実用化した(現代に至るまで)最大の大きさの大型レシプロエンジン機です。全幅38.00m、全長28.13m、全高9.15m、最大重量32,500kg。
二式大艇 Wikipedia
当時の米軍の四発重戦略爆撃機と比較しても全幅43.1m、全長30.2mというB-29にはちょっとかなわないものの、フライングフォートレス(空飛ぶ要塞)と呼ばれて恐れられたB-17(全幅31.6m、全長22.6m)より遥かに大きい機体でした。ちなみに、現在の飛行機と比較してみると国内ローカル線の主力機材として羽田空港でもよく見掛けるボーイングB737-800が全幅35.8m、全長39.5m、全高12.5mなので、まぁそれと同じくらいの大きさの飛行機だったとイメージしていただければよろしいかと思います。
驚くべきは航空性能。1,850馬力発動機4基を搭載し、最高速度465km/h(高度5,000m)。これはB-29にはかなわないまでも、B-17の426km/hより速い数字です。そして、乗員10~13名を乗せての最大航続距離はなんとなんとの7,153km!(@_@) 陸上機である日本軍の一式陸上攻撃機や米軍のB-17爆撃機の5割増、B-29爆撃機と比べても30%近く長い数字です。片道だけならハワイまで飛んでいって爆撃ができるくらいの航続距離性能です。
機体の外見上の特徴としては、それまでの一般的な飛行艇の胴体が、着水時の安定性を考慮して幅広に作られていたのに対して、二式大艇では空気抵抗を減らすため機体の幅を抑えてスリムになり、その一方で背が高い独特な形状が挙げられます。また、胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用も挙げられます。これは、滑走中に生じる波飛沫を抑えることにより、水上滑走中にプロペラや尾翼の損傷を防ぐために考え出されたもので、この発明が当時世界最大の大型飛行艇の実用化を可能としました。
もうこうなると、飛行艇と言うよりも「空飛ぶ船」とでも呼べばいいくらいで、実際、大きな機体を活かして備え付けられた重火器や優れた防弾設備等から「空飛ぶ戦艦」とも呼ばれ、敵軍からも恐れられていました。まさに周囲を海に囲まれた“海洋国家”日本ならではとも言えるような飛行機でした。
あまり知られてはいませんが、当時の日本海軍はこの世界に誇る大型飛行艇を総勢167機も実戦に投入していたということで、当時の日本の航空工学がいかに優れていたかが分かります。
戦後、川西航空機から名称を変えた新明和工業が開発した対潜哨戒飛行艇PS-1です。
設計主任はもちろん、かつて川西航空機の設計チームを率いて二式大艇を作り上げた天才航空エンジニア菊原静男さん。彼等は1953年から社内で新たな飛行艇の構想を練っており、1957年には防衛庁に対して飛行艇の実験機を作らないかと持ちかけていたそうです。これを受けて防衛庁でも飛行艇の実用化を検討して、1960年には新型飛行艇を対潜哨戒機として使用する案がまとまりました。
この背景にあったのが、二式大艇の大変に優れた性能に興味を示し、川西航空機が持つ技術をなんとか自社へ移転しようと考えた米国グラマン社の思惑があったようです。
正式に防衛庁から新明和工業に対して対潜哨戒飛行艇の試作機製作の発注があったのが1965年。防衛庁から提示された開発コンセプトは「外洋における運用を第一の目的とする世界初の飛行艇」でした。
この開発コンセプトを受けて菊原静男さん率いる設計チームが出した答えがPS-1で、二式大艇をベースとしてエンジンを従来のレシプロエンジンからジェット燃料を使うターポプロップエンジンに積み替え、高揚力装置と自動安定装置による超低速飛行と、高いSTOL(短距離飛翔)性能、波消し装置と新設計の機体による耐波特性を持つもので、二式大艇譲りの良好な凌波性能を備えた機体は、設計上は波高3メートルの荒波での離着水も可能とました。
対潜哨戒飛行艇PS-1は試作機による試験を重ねた後、1970年に制式に海上自衛隊への導入が決定。実戦投入されました。しかし、死亡事故が相次いだことや、対潜哨戒能力が米海軍が導入したロッキード社製のP-3C対潜哨戒機に及ばなかったことなどから、総計23機で調達が打ち切られました。しかし、これはPS-1の飛行性能によるものではなく、単に搭載する電子機器の対潜哨戒能力によるもの。飛行機としてのPS-1は大変に優れた機体であったことから、それを別の目的の機材に改造することができないか…と、考えられました。
このような背景があって、対潜哨戒飛行艇PS-1から米国製に比べ劣っていた対潜哨戒用機材を取り除き、代わりに災害救助用機材を搭載、さらに降着装置などを備えて陸上への離着陸も可能とした(多くの飛行艇は離着陸できず、離着水のみです)災害救助用モデルが救難飛行艇US-1(PS-1改)です。
さらに、US-1のエンジンをより大出力のものに転換した世界最高水準の救難用水陸両用機US-1A。この機体は海上自衛隊が現在14機運用しており、岩国基地と厚木基地に配備されています。飛行場の無い東京都小笠原村の父島や母島で急病人が発生した場合など、この同機が厚木基地から派遣され東京23区の病院に搬送しています。
さらに、このUS-1Aをベースに大幅に近代化と性能向上を図ったのが救難飛行艇US-2で、機内の快適性を増すための与圧キャビンや、電子制御を可能としたグラスコックピット、フライ・バイ・ワイヤなどの新機軸を取り入れることで運用能力の向上を図っており、新明和工業では同型機の国際市場での売り込みも狙っているようです。
このように、救難飛行艇US-1も初飛行から半世紀近くが経つ、また、その前身である二式大艇からすると、なんと70年以上が経過する大変に歴史のある飛行艇ですが、あまりに性能がいいため、後継機が出てくる気配すらありません。
同時期に開発された国産の民間航空機(旅客機)のYS-11が退役して久しいのと比べ、現在も世界最高の称号を欲しいままにしています。なので、名機中の名機と呼べる飛行艇です。しかも、これが日本製、日本の技術が産み出したものであるということが、嬉しい限りですね。
救難飛行艇という性格上、実に地味な機体だし、滅多にお目にかかる機会もないので、ほとんど知られていないことが残念です。実は、私もまだ実機を見たことはありません。是非、海面から離陸していく雄大な姿を、一度見てみたいものだと思っています。
で、この救難飛行艇US-1も災害救助、特に海難救助で大活躍する機体ということで我々民間気象情報会社にも少なからず関係があります。そのことに心より敬意を表して、大型輸送用ヘリコプターCH-47J チヌークに続く2機目の自 衛隊航空機として“五反田重工業”にてプラモデルを作成し、弊社ハレックスの社長室執務机の横に飾らせていただいております(^o^ゞ
【追記】
私の飛行機に関する知識は、30年ほど前に航空路レーダー情報処理システムを担当するようになって、“乗り物好きのDNA”が刺激され、一気に飛行機マニアになってからです。軍用機についての勉強もしましたが、どちらかと言うと私はエンジニアとしての視点でそれらを見ています。
エンジニアの目からすると、「性能のいいものは、美しい!」、ましてや、重力に逆らって、空中を飛行するものは、美しすぎます(^^)d
福山雅治さん演じるドラマ『ガリレオ』の帝都大学理工学部物理学科の湯川学先生じゃあありませんが、「実に面白い(^^)d」……です。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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