2016/04/05
10万年前にマンモスが歩いて渡った道を、新幹線が渡る!
3月26日(土)、北海道新幹線は整備計画の決定から43年の長い年月を経て、新函館北斗と新青森の間、149kmの区間で開業し、ついに津軽海峡を渡って日本が誇る新幹線が北海道に乗り入れ、東京と新函館北斗の間が最速4時間02分で結ばれるようになりました。これにより、日本列島は北海道から九州までが新幹線規格の線路で繋がることになりました。大変に素晴らしいことです。
北海道新幹線の開業に沸く報道を見ながら、私の脳裡に浮かんだのは1982年に公開された映画『海峡』のシーンでした。
この映画『海峡』は、青函連絡船洞爺丸事故から約30年にわたり青函トンネルの工事に執念を燃やす日本国有鉄道(国鉄:現在のJR)の技師達の物語を描いた映画です。監督は『日本沈没』『八甲田山』『動乱』の森谷司郎監督。東宝創立50周年記念作品であり、主演は高倉健さん。吉永小百合さん、森繁久彌さん、三浦友和さん、大谷直子さん、伊佐山ひろ子さん、大滝秀治さん、山谷初男さん、笠智衆さん、小林稔侍さん、小林昭二さん、北村和夫さん…等々、東宝創立50周年記念作品に相応しい豪華な出演陣が脇を固めた超大作の作品でした。
私が高倉健さんにのめり込むきっかけとなった作品だけによく覚えています。映画館で観た当時、私は26歳。日本電信電話公社(電電公社、現在のNTT)技術局という部署で通信網のディジタル化に取り組む若きエンジニアでした。土木工学と通信工学、エンジニアとしてのジャンルは違えど、交通網と通信網という同じ社会基盤インフラの構築に取り組むエンジニアとして、大いに気持ちが高揚したのを覚えています(電電公社と国鉄は、専売公社と合わせて当時は“3公社”と呼ばれていて、同類だという意識もありましたし)。
実は高倉健さんという俳優さんが出演した作品を私が初めて観たのは1977年に公開された『幸せの黄色いハンカチ』(山田洋次監督)でした。この『幸せの黄色いハンカチ』も、公式には高倉健さんが主演ということになってはいるのですが、どうしても助演の武田鉄矢さんと桃井かおりさん、そして倍賞千恵子さんのほうにばかり意識がいってしまい、初めて観た時の私の中での印象としては、申し訳ないことに、高倉健さんは助演並みの位置付けでした。
『幸せの黄色いハンカチ』から5年後に私が久しぶりに観た高倉健さん主演の映画が『海峡』で、その時には私も大学を卒業してエンジニアになっていただけに、観た印象もそれまでとはまるで違っていました。映画の内容もさることながら、高倉健さんという「これぞ“プロ”」とでも言うべき俳優さんにいっぺんで魅了されてしまいました。まさに衝撃でした。この『海峡』を観て以降、それ以前の高倉健さん出演作品を次から次へとビデオテープを借りてきてはあさるように観たものです。このような『海峡』ですので、私の中では高倉健さん主演の映画でナンバーワンの作品と言えば、迷うことなく『海峡』なんです(^^)d 仕事でメゲるようなことがあると、映画『海峡』のビデオを借りてきては観て、モチベーションを高めていました。
『海峡』の主なあらすじは以下の通りです。
1954年(昭和29年)9月26日、台風第15号の襲来により国鉄の青函連絡船洞爺丸が沈没し、1千人以上の死者・行方不明者を出す日本海難史上最大の惨事が起こりました(洞爺丸事故)。
その翌年の1955年(昭和30年)、地質学を修めた国鉄(1964年以降は日本鉄道建設公団に移籍)の若き土木エンジニア阿久津剛(演・高倉健さん)は、本州(青森)と北海道(函館)の間に横たわる津軽海峡を地下で結ぶ『青函トンネル』を実現するための地質調査を命じられ、青森県津軽半島の龍飛岬を赴きます。遭難者が打ち上げられた七重浜に献花する阿久津。そのそばで海に向かって何度も石を投げつける1人の少年がいました。その少年の姿を見て、なにか言いたげな阿久津。(この無言の演技は凄いです。この演技ができる俳優は高倉健さんだけだと思います)
阿久津の仕事は地質の調査。漁船を借りて海底の石を拾い上げて分析したり、海が荒れた日は海岸で石を拾う毎日。そんなある日、阿久津は岸壁から身を投げようとしていた若い女性、多恵(演・吉永小百合さん)を救い、彼女を岬の近くの漁師相手の酒場の女将おれん(演・伊佐山ひろ子さん)に世話します。彼女は福井の旅館で不注意から出火を招き、泊り客を死なせた暗い過去がありました。女将おれんに預けられた夜、おれんの出産に立ち会った多恵は1人の生命を誕生させたことによって生きる勇気を取り戻します。その赤ん坊は、阿久津によって峡子と名付けられました。
再び生きる気持ちになった多恵はしだいに命を助けて貰った阿久津に想いを寄せるようになり、何かと阿久津の世話をし始めます。しかし、阿久津には既に婚約者・佳代子(演・大谷直子さん)がいました。(ここが切ない…)
当初予定された地質調査が終了し、阿久津に今度は明石海峡大橋建設に向けた地質調査の辞令が下り、津軽海峡に心を残しながらも、故郷の岡山に戻ります。また、当時の国鉄総裁(当時の総裁は東海道新幹線建設を推進し「新幹線の父」と呼ばれた第4代の十河信二総裁でした)の方針により青函トンネル建設計画はその後なかなか前へ進まない時代が長く続きます(当時は1964年の東京オリンピックを控えて東海道新幹線の建設工事が佳境を迎えていて、建設予算の超過問題もあり、他の新たなプロジェクトのスタートがなかなか切れなかったものと思われます)。
しかし、それから5年後の1961年(昭和36年)、総裁の下した方針変更により計画がにわかに進み始め、1963年(昭和38年)、様々な工事の現場で経験を積んできた阿久津も8年ぶりに今度は先進導坑を掘るプロジェクトの責任者として龍飛に戻ってきます。龍飛の工事事務所長を演じたのは大滝秀治さんでした。先進導坑とは実際のトンネルで使用する本坑を掘る前に、事前調査の目的で掘る細めのトンネルのことです。この先進導坑は青函トンネル工事にとって、地中を見極める目のようなもので、極めて重要な仕事でした。
阿久津はその直前まで北陸トンネルの工事で一緒に働いていた老齢だが腕利きのベテラントンネル坑夫・源助(演・森繁久彌さん)に必死で頼み込みます。関門トンネルをはじめ幾つもの難工事を手がけた源助が参加すれば、彼を慕う多くの腕利きのトンネル坑夫達を津軽に呼び寄せられますから。しかし、源助をはじめ源助配下のチームは故郷の九州に帰りたがってなかなか首を縦に振りません。その時に阿久津が放った一言に、私は心の底から痺れました。
「10万年前にマンモスが歩いて渡った道を、俺たちも渡ろう!」o(^o^)o (……確か)
寒い所は嫌だとゴネていた源助も、阿久津のこの一言で説得に応じ、青函トンネルの先進導坑を掘るという難工事への参加を決断します。あの健さんに真顔でこんなことを言われて応じないプロのエンジニアはいませんよね。この時の高倉健さん、男が男に惚れる…と言いますか、痺れます。
こうして先進導坑に先立つ斜坑の工事は始まったものの、津軽海峡の海底は軟弱な地盤の箇所が多く、度重なる出水事故や些細なミスにより命を落とす坑夫が続出します。悲しむ家族。それでも阿久津をはじめ坑夫達の北海道に向けて前へ前へと掘り進めようとする強い気持ちは少しも揺るぎません。しかし、作業は困難を極め、1ヶ月に5メートルしか掘り進めないような状況の中、阿久津も源助もさすがに苛立ち、作業方針に関して互いにぶつかりあう日々が続きます。犠牲はあまりに大きく、阿久津自身も生活を犠牲にしていました。妻・佳代子も病気の父(演・笠智衆)も故郷・岡山に残したまま。息子からは冷たく「父親はいないものだと思っている」…とまで言われてしまいます。
大好きだった酒を断ち、湧水に立ち向かい、ルート変更など次々と重大な決断が迫られる中、阿久津たち先進導坑掘削チームの結束はしだいに強くなっていきます。その中に、かつて七重浜で海に向かって石を投げていた少年・成瀬仙太(演・三浦友和)の成長した姿がありました。先進導坑の工事が始まった翌年の1964年、日本鉄道建設公団が設立され、その公団第1期生の募集に成瀬仙太は応募してきたのでした。仙太は、洞爺丸事故の際、母の腕に抱かれて転覆した洞爺丸から浜に打ち上げられ、その時、両親を失っていたのでした。仙太は津軽の海を掘ることで、両親の復讐をしたかったのかも知れません。このようにして、竜飛に源肋、阿久津、仙太の三世代の男達が集まり、そんな男達を、おれん、多恵、峡子の女性陣が見守ります。
そうこうしながら、斜めに掘り進んだ斜坑が底に到達し、真っ直ぐに掘り進む先進導坑の掘削が本格的に開始してしばらくした1971年9月、国鉄の青函トンネル建設計画は正式に国から認可され、本坑の工事にも多くの大手ゼネコンが参加してきて、現場の規模は大きくなっていきます。そうした中も先進導坑の工事はなおも進みます。
1976年5月、阿久津が最初に現地調査に赴いてから21年、先進導坑の工事に着工してから13年が経過し、阿久津の髪にも白髪が目立つようになってきました。そんな阿久津のもとへ、妻・佳代子から父危篤の電報が届きます。今度ばかりは故郷・岡山へ帰ろうと支度する阿久津。そんな時、大規模な出水事故が発生します。吉岡作業坑の異常出水と呼ばれるもので、湧水の量はなんとなんとの毎分70トン。青函トンネル工事における最大の難関工事でした。
軟弱な地盤を掘り進む青函トンネル工事で導入された新しい技法が「注入」と「吹付コンクリート」と呼ばれる技法です。「注入」とは、ミルク状にしたセメント(注入材)を高圧ポンプを用いて岩盤の中に注入し、注入材が固まった後でそこを掘っていくという工法で、「吹付コンクリート」とは、掘削直後にコンクリートを岩盤に吹き付けて崩落を防ぐ工法です。これらの工法は1950年代に開発された工法ですが、注入材やコンクリートが固まるまでに時間がかかるため、掘削の現場はその時間を出来るだけ短くすることと出水との壮絶な戦いでした。この吉岡作業坑の異常出水でベテラントンネル坑夫・源助は命を落としてしまいます。
悪戦苦闘の末、なんとかその異常出水を克服し、ついに1983年(昭和58年)1月27日、津軽海峡の海底深くで、最後の発破がかけられ、本州側と北海道側の両側から掘り進んできた先進導坑が開通し、本州から北海道へ“風が吹き抜け”ました。その最後の発破のスイッチを押したのは仙太でした。モウモウと立ち込める土煙の向こう側から北海道側から掘り進んできた相手方の灯りが見えた瞬間に阿久津が思わずとったガッツポーズ。さすがは高倉健さんです、健さんのあのガッツポーズは邦画史上に残る最高のガッツポーズではなかったか…と私は思っています。
そして、それから2年後の1985年(昭和60年)3月10日、本坑が開通。さらに2年後の1987年(昭和62年)11月、ついに青函トンネルが完成します。翌1988年(昭和63年)3月13日、最初の列車が青函トンネルを通り、供用が開始されました。それから28年後の今年(2016年)3月26日、その青函トンネルをついに新幹線が走るようになりました。阿久津が最初に龍飛へ地質調査に赴いてから61年の長い月日が経ちましたが、10万年前にマンモスが歩いて渡った道を、ついに日本の誇る最新テクノロジーがギッシリと詰まった新幹線が渡りました!
ちなみに、映画『海峡』は1982年の公開ですので、公開された時点ではまだ本坑はおろか先進導坑も開通されていなかったという裏話もあります。
とにかく、生活のすべてをトンネル掘削の難工事に捧げた男達、失われた幾多の尊い命、洞爺丸事故への想い…等が伝わってくるスクリーンからストレートに伝わってくる映画です。家庭を顧みずに仕事に打ち込む男達の姿は、女性から見れば腹立たしいことこの上ないと言えることでしょう。その女性達の気持ちをスクリーンでは阿久津の妻・佳代子が見事に代弁してくれています。それでも、日本が高度経済成長へ向かう“昭和の時代”にはこれが当たり前のことでした。私もそんな昭和の時代にエンジニアになった者ですから、少なからずそういうところがありました。
映画『海峡』のラストシーンは成田国際空港の第1ターミナルビル(当時は第1しかターミナルビルはありませんでしたが…)。青函トンネルの先進導坑の掘削プロジェクトが終了した阿久津は日本鉄道建設公団の役員の椅子を断わり、新たな建設の“現場”を求めて海外に飛び立ちます。目的地はトルコのイスタンブール。地図をご覧いただくとお分かりいただけますが、イスタンブール市街地は南北に細長く伸びるボスポラス海峡で東西に分断されています。ボスポラス海峡は北は黒海、南はマルマラ海に繋がり、マルマラ海とエーゲ海を繋ぐダーダネルス海峡とあわせて黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝となっています。トルコのヨーロッパ部分(オクシデント:Occident)とアジア部分(オリエント:Orient)を隔てる海峡で、長さは南北約30km、幅は最も広い地点で3,700メートル、最も狭い地点でわずか800メートルほど。そこに鉄道用海底トンネルを建設するための事前の地質調査を実施するためです。日本列島の本州と北海道を結ぶ海底トンネルの次は、ヨーロッパとアジアを結ぶ世界規模の海底トンネルの建設に挑戦するということです。
阿久津は、それまでの作業服にヘルメットという現場の姿とは一変、ビシッとしたスーツにトレンチコートです。なにかを待っているかのように、チラチラとあたりを見渡しています。しかし、懐かしい反転フラップ式の出発案内表示盤がパタパタという音を立ててクルクルと回るのを見上げた阿久津は、すべてを吹っ切ったかのようにキリッと表情を変え、まっすぐに前だけを向いて出国審査フロアーに向けてエスカレータを下りてスクリーンから消えていきます。その間いっさいのセリフはありませんが、その表情だけで阿久津の心境が十分過ぎるくらいに伝わってきます。これぞ高倉健、痺れるくらいにカッコいいシーンです。
ちなみに、このボスポラス海峡の鉄道用海底トンネルは日本の大成建設グループなどにより建設が進められ、2013年に開通しています。(もしかすると、阿久津が向かったのは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を隔てるジブラルタル海峡の海底トンネル建設調査だったかもしれません。このジブラルタルトンネルは計画はあるものの、まだ実現はされていません。)
北海道新幹線がついに開通した今、改めてこの高倉健さん主演の映画『海峡』を観て、青函トンネルの難工事に携わったエンジニアの方々の大変なご苦労の一端に触れてみられてはいかがでしょうか。私もこの週末にDVDを借りてきて、久し振りに観てみようかな…と思っています。
かつて何度も観た映画なので上記のあらすじは大筋では合っていると思いますが、記憶が不確かなところがあり、細部で違っているかもしれません。違っている部分はご容赦願います。
【追記】
青函連絡船洞爺丸事故に関連した映画では『飢餓海峡』(1965年:東映。三國連太郎さん主演)があります。この映画で高倉健さんは犯人を追い詰める舞鶴警察署の刑事の役をやっています。その他の高倉健さん主演の映画でも、海と言うか海峡の風景がたびたび出てくるように思います。高倉健さんは本当に海峡が似合う俳優さんだと思います。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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