2016/08/08
大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その2)
私以外の参加者は既に集合していて、私の到着を待っていてくれました。幹事のイッカク(横浜在住)、オネエ(地元京都在住)に加え、関東組のユウテン(深夜高速バス利用で、早朝に京都入りしていたようです)、香川県組のウスキ、キョウコさん、ノリコさん、大阪在住のヨシキとバンタロー、それに私エッチャンを加えて男性陣6名と女性陣3名の計9名。これにトシエさん(大阪在住)が午前中の診療を終えて午後から合流することになっています。みんなこれまで7回開催した『大人の修学旅行』にほぼ毎回参加しているコアメンバー達で、今年3月に開催した『大人の修学旅行2016 in 城崎温泉』でも顔を合わせたばかりと言えばばかりの人達なので、「やぁ、お待たせ」「おぅ」ってな感じで極々自然に仲間の輪の中に入っていけます。城崎温泉の時は城崎温泉駅やこの京都駅で徐々にみんなと別れ、東京に戻って行ったので、その時点に戻って、メチャメチャ楽しかった『大人の修学旅行2016 in 城崎温泉』の続きを楽しむような感覚です。大きく違っているのは服装。これまで7回開催した『大人の修学旅行』はいずれも1月や3月といった冬から春にかけての開催だったのが、今回は7月中旬の開催。なので、ちょこっと新鮮な感じがします。
祇園祭の宵山は“宵”の文字が表すように陽が落ちて夜になってからが本番なので、それまでどこかで時間を潰さないといけません。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産にも登録され見どころがたくさんある京都の中で、幹事のイッカクとオネエが選んだところが宇治でした。宇治といえば平等院。この平等院も世界文化遺産に「古都京都の文化財」(後述)として登録されている17の建造物の1つです。
京都駅の在来線西口改札を入り、10番線ホームからJR奈良線の快速電車に乗り込みました。京都から奈良へは何度か行ったことがあるのですが、利用したのは近鉄京都線の電車ばかりで、JR奈良線を利用するのは初めてです。ちょっと嬉しい。私達9人はバラバラではありますが、なんとか全員座席に座ることができたのですが、快速電車は京都駅を出た時には朝の通勤電車並みに混み合っていました。ほとんどが観光客で、さすがに世界的な観光地である古都京都、欧米人を中心に海外からの観光客の姿も多く見受けられます。私達と同様、祇園祭の宵山見物に来て、宵山が始まるまでの昼間、ちょいと宇治の平等院にでも足を伸ばしてみよう‥‥ということなのでしょうか。JR奈良線の快速電車は東福寺、六地蔵といかにも京都らしい駅名の駅に停車して、僅か18分で宇治駅に到着しました。私が想像した通り、この宇治駅で乗客がドッと下車します。皆さん、宇治の平等院に行くのでしょうか。
宇治駅は平等院の玄関駅らしく、落ち着いた雰囲気の駅です。土産物屋が立ち並ぶ駅からの商店街を抜けると広い川幅の川と、そこに架かる赤い欄干の橋が目に入ってきます。これが宇治川と宇治橋。宇治川は一級河川・淀川の京都府内での名称です。淀川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川で、上流の滋賀県内は瀬田川、京都府内(中でも宇治市より下流)は宇治川、京都府と大阪府との府境付近で桂川、木津川と合流し、大阪府内は淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む淀川水系の本流で一級河川。流路の延長は75.1km、流域面積は8,240km²という近畿地方を代表する河川です。宇治川と言えば、中学校の歴史の教科書にも出てくる「宇治川の合戦」を思い出します。この「宇治川の合戦」は、平安時代末期の寿永3年(1184年) 1月に、鎌倉の源頼朝から派遣されて都に攻め上ろうとする弟の源範頼、源義経軍と、それを迎え撃つ従兄にあたる源義仲(木曽義仲)軍との間で戦われた合戦のことです。
この「宇治川の合戦」の経緯は次のとおりです。後白河天皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)の令旨に応じる形で数万の兵士を率いて信濃国で平家打倒の挙兵をした源義仲は、都から逃れた以仁王の遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って、寿永2年(1183年)7月、京の都(平安京)に入洛します。長く続く飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した京の都の治安回復を期待されたのですが、寄せ集めの義仲軍は統制がまったくとれておらず、京の街で乱暴狼藉を働き、治安の維持に失敗。さらには大軍が京の都に居座ったことによる食糧事情の悪化もあり、ついには皇位継承を巡って後白河法皇とも対立します。9月、義仲軍は備中国水島の戦いで京都奪還の反撃に出た平氏軍に大敗、後白河法皇は義仲を見放します。10月、後白河法皇は鎌倉にいた源頼朝に接近し、東海道・東山道の支配を認める院宣を下します。11月、その後白河法皇の動きに対して起死回生を図った義仲はクーデターを起こし、院御所の法住寺殿を攻撃。後白河法皇を幽閉して政権を掌握するのですが、前述の水島の戦いの大敗北とその後の状況の悪化により脱落者が続出して兵の数は激減。仕方なく、義仲は平氏との和平を打診するのですが、平氏はこれをきっぱりと拒絶。義仲は孤立を深めていきます。12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させ、翌寿永3年(1184年)1月、義仲は征東大将軍に任命されます。しかし、1月20日、頼朝は既に近江付近にまで兵を進出させていた弟の範頼、義経に義仲追討を命じます。そこで勃発した戦闘が「宇治川の合戦」です。
『吾妻鏡』によると、範頼は大手軍3万騎を率いて瀬田の唐橋を、また、義経は搦手軍2万5千騎を率いて宇治を攻撃しました。義経軍は義仲軍が放つ矢が降り注ぐ中、騎馬で宇治川に乗り入れます。佐々木高綱と梶原景季の間で繰り広げられた有名な「宇治川の先陣争い」はこの時の出来事です。根井行親、楯親忠を将とした義仲軍は大量の矢を射かけて必死の防戦を行いますが、ついに義経軍に宇治川を突破されてしまいます。宇治川の防衛ラインを突破した義経軍は、その後、雪崩を打って京の都に突入します。京の街中で待ち構えていた義仲の本隊と義経軍との間で激戦となるのですが、義仲軍は奮戦するものの戦力の差はどうしようもなく、あえなく敗れてしまいます(六条河原の戦い)。敗れた義仲は後白河法皇を連れて西国へ脱出することを試みたのですが、ひと足早く義経軍に後白河法皇を確保され、これも断念。それでは…と、瀬田の唐橋で範頼軍と戦っていた家来の今井兼平の軍勢と合流して北陸へ脱出し態勢を立て直そうとします。翌1月21日、粟津で今井兼平の軍勢と合流することには成功したものの、そこに範頼軍の大軍が襲いかかり、遂に義仲は顔面に矢を受けて討ち取られてしまいました。また、家来の今井兼平も義仲を追って自害しました。これで、木曽義仲軍は完全に崩壊してしました(粟津の戦い)。
ちなみに、宇治川の合戦が起きる3年前の治承4年(1180年)5月に、源義仲と同様、以仁王の令旨を奉じ平氏打倒の挙兵をした源頼政が、以仁王とともに東大寺・興福寺のある南都(奈良)へと向う途中、平知盛らに追撃され、宇治橋の橋板を落とし、平等院に籠もって抵抗した「宇治平等院の戦い」という戦いもあります。この戦いで、源頼政は、「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」と辞世の一首を残し自刃しました。また、以仁王は辛うじて平等院から脱出したのですが、山城国相楽郡で平氏の藤原景高の軍勢に追いつかれ討ち取られたと『吾妻鏡』には書かれています。この「宇治平等院の戦い」を契機に全国各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、源義仲、源頼朝といった反乱勢力同士の対立がありつつも、平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る全国的な動乱が起こることになります。これが「治承・寿永の乱」、俗にいう「源平の乱」です。この大動乱が起きたきっかけが、ここ宇治の地でした。
写真は宇治橋より宇治川上流を眺めたところです。宇治川にかかる宇治橋は、初めて架けられたのが、大化2年(西暦646年)と伝えられ、日本最古の大規模な橋の1つといわれています。今でこそ平成8年(1996年)に架け替えられた近代的な橋になっていますが、京都府乙訓郡大山崎町の山崎橋、滋賀県大津市の瀬田の唐橋とあわせて「日本三古橋」の1つに数えられている橋であり、この宇治橋から眺める上流の景色もまた情緒のある景色となっています(今の橋も欄干は昔風の木製っぽくデコレートされています)。遠くに写っている塔の島、橘島と呼ばれる中洲は昔からあった中洲のようで、「宇治川の合戦」の際、佐々木高綱と梶原景季の間で繰り広げられた「宇治川の先陣争い」が行われたのは、この中洲あたりだったと言われています。このように、このあたり一帯が「宇治川の合戦」、さらには「宇治平等院の戦い」という日本の歴史に大きく影響を残した戦闘が繰り広げられた古戦場です。橋の下を流れる宇治川はかなりの流量で、流れもそうとうに速く白波が立っています。この宇治川の流量と流れの速さにより、宇治川は天然の要害として京都防衛のための最終ラインになっていたように思えます。なるほどぉ~、なのでここ場所なのね。でも、源義経軍はよくこの流れの速い川を騎馬で渡ったものですね。一歩間違えば流れに捲かれて溺死です。宇治川はそのくらい急流の川です。
十三重の石塔があることから塔の島と呼ばれる宇治川の中洲へ渡る喜撰橋です。古風な赤い欄干が素敵です。手前には遊覧船の発着場があります。このあたりは鵜飼で有名で、鮎が獲れるこの時期は、多くの鵜飼遊覧船が待機しています。ちなみに鵜飼は夜間に篝火の中で行われるので、昼間はただの遊覧船です。
宇治川沿いの「あじろぎの道」を少し歩いたところに、この日の昼食会場、京懐石料理の『辰巳屋』があります。この『辰巳屋』さんは、1840年頃、茶問屋として発祥し、大正2年に料理屋に変わり現在に至っているという大変に歴史のある京懐石の料亭です。
『辰巳屋』公式HP
宇治といえばお茶で有名なところです。高級茶の代名詞としても使われている「宇治茶」ですが、その起源は非常に古く、源頼朝が鎌倉幕府を設立する前年の建久2年(1191年)、臨済宗の開祖である栄西によって中国から日本に、茶種と共に宋の時代の抹茶法が伝えられたといわれています。栄西は、京都栂尾高山寺の明恵上人に茶の種子を贈り、明恵上人が栂尾に植えたのが栂尾茶の始まりで、その後、明恵上人がさらに宇治の地に茶の種を蒔いたのが、宇治茶の始まりと伝えられています。宇治茶は、14世紀末頃までは、栂尾の茶を「本茶」と呼ぶのに対し「非茶」と呼ばれていたりしましたが、宇治七銘園が拓かれたことで宇治が日本一の茶産地となり、栂尾から「本茶」の地位を奪い、その地位を固めました。明治初期、宇治市や京都市の周辺には、京都府の約半分の面積にあたる1,300ヘクタールもの茶園があったそうなのですが、時代の経過とともにそれは激減し、現在では100ヘクタールを下回る規模になっています。しかしながら、生産者や茶商工業者のたゆまぬ努力により、現在においても宇治茶は日本一の品質の座を保ち続けていて、宇治には伊藤久右衛門や辻利、摘翠園、山政小山園といった高級宇治茶の老舗があります。
『辰巳屋』も当初は宇治茶を扱う茶問屋として創業したお店なのですが、前述のように大正2年に料理屋に変わり現在に至っているという歴史を持っています。まさにお茶とともに歩んできた老舗で、そういう店だからこそできる、抹茶の風味と旬の食材を活かした抹茶料理、そして京都の伝統に基づいた趣のある京懐石料理が名物になっています。私達もその抹茶料理を懐石料理のコースでいただきました。お酒は天下の酒どころ京都伏見の名酒「玉乃光」の純米大吟醸を冷酒でいただきました。「玉乃光」は延宝元年(1673年)創業という伏見でも老舗の酒蔵の1つで、その純米大吟醸は辛口で抹茶懐石料理の味を引き立てる感じで非常によく合い、お酒に弱い私でもクイクイ飲めちゃいます。これ、ちょっとヤバい!
緑豊かな風景と宇治川の流れを目の前にしていただく抹茶懐石料理と伏見の名酒、上品なお味で、なかなか美味しかったです。真っ昼間からこういう風光明媚なところで、こういう美味しい料理とお酒を味わう……、こういうのを本当の贅沢というのでしょうね。ちなみに、宴会場から外を見た写真で、目の前の中洲のうち、右側が塔の島、赤い欄干の橋を渡った左側が橘島です。宇治川はこの中洲を挟んで流れが二つに分かれているのですが、中洲より手前側の流れは極めて穏やかで、観覧船の船着き場にもなっていますが、中洲の向こう側は急流、いや激流と言ってもいいくらい流れが速くなっています。その対比がまた一つの味となっている風景です。対岸に並ぶ小さな山々の木々の深い緑色が、いただいている宇治茶を使った抹茶懐石料理の緑色とも相まって、いかにも宇治らしい風景って感じです。
……(その3)に続きます。
祇園祭の宵山は“宵”の文字が表すように陽が落ちて夜になってからが本番なので、それまでどこかで時間を潰さないといけません。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産にも登録され見どころがたくさんある京都の中で、幹事のイッカクとオネエが選んだところが宇治でした。宇治といえば平等院。この平等院も世界文化遺産に「古都京都の文化財」(後述)として登録されている17の建造物の1つです。
京都駅の在来線西口改札を入り、10番線ホームからJR奈良線の快速電車に乗り込みました。京都から奈良へは何度か行ったことがあるのですが、利用したのは近鉄京都線の電車ばかりで、JR奈良線を利用するのは初めてです。ちょっと嬉しい。私達9人はバラバラではありますが、なんとか全員座席に座ることができたのですが、快速電車は京都駅を出た時には朝の通勤電車並みに混み合っていました。ほとんどが観光客で、さすがに世界的な観光地である古都京都、欧米人を中心に海外からの観光客の姿も多く見受けられます。私達と同様、祇園祭の宵山見物に来て、宵山が始まるまでの昼間、ちょいと宇治の平等院にでも足を伸ばしてみよう‥‥ということなのでしょうか。JR奈良線の快速電車は東福寺、六地蔵といかにも京都らしい駅名の駅に停車して、僅か18分で宇治駅に到着しました。私が想像した通り、この宇治駅で乗客がドッと下車します。皆さん、宇治の平等院に行くのでしょうか。
宇治駅は平等院の玄関駅らしく、落ち着いた雰囲気の駅です。土産物屋が立ち並ぶ駅からの商店街を抜けると広い川幅の川と、そこに架かる赤い欄干の橋が目に入ってきます。これが宇治川と宇治橋。宇治川は一級河川・淀川の京都府内での名称です。淀川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川で、上流の滋賀県内は瀬田川、京都府内(中でも宇治市より下流)は宇治川、京都府と大阪府との府境付近で桂川、木津川と合流し、大阪府内は淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む淀川水系の本流で一級河川。流路の延長は75.1km、流域面積は8,240km²という近畿地方を代表する河川です。宇治川と言えば、中学校の歴史の教科書にも出てくる「宇治川の合戦」を思い出します。この「宇治川の合戦」は、平安時代末期の寿永3年(1184年) 1月に、鎌倉の源頼朝から派遣されて都に攻め上ろうとする弟の源範頼、源義経軍と、それを迎え撃つ従兄にあたる源義仲(木曽義仲)軍との間で戦われた合戦のことです。
この「宇治川の合戦」の経緯は次のとおりです。後白河天皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)の令旨に応じる形で数万の兵士を率いて信濃国で平家打倒の挙兵をした源義仲は、都から逃れた以仁王の遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って、寿永2年(1183年)7月、京の都(平安京)に入洛します。長く続く飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した京の都の治安回復を期待されたのですが、寄せ集めの義仲軍は統制がまったくとれておらず、京の街で乱暴狼藉を働き、治安の維持に失敗。さらには大軍が京の都に居座ったことによる食糧事情の悪化もあり、ついには皇位継承を巡って後白河法皇とも対立します。9月、義仲軍は備中国水島の戦いで京都奪還の反撃に出た平氏軍に大敗、後白河法皇は義仲を見放します。10月、後白河法皇は鎌倉にいた源頼朝に接近し、東海道・東山道の支配を認める院宣を下します。11月、その後白河法皇の動きに対して起死回生を図った義仲はクーデターを起こし、院御所の法住寺殿を攻撃。後白河法皇を幽閉して政権を掌握するのですが、前述の水島の戦いの大敗北とその後の状況の悪化により脱落者が続出して兵の数は激減。仕方なく、義仲は平氏との和平を打診するのですが、平氏はこれをきっぱりと拒絶。義仲は孤立を深めていきます。12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させ、翌寿永3年(1184年)1月、義仲は征東大将軍に任命されます。しかし、1月20日、頼朝は既に近江付近にまで兵を進出させていた弟の範頼、義経に義仲追討を命じます。そこで勃発した戦闘が「宇治川の合戦」です。
『吾妻鏡』によると、範頼は大手軍3万騎を率いて瀬田の唐橋を、また、義経は搦手軍2万5千騎を率いて宇治を攻撃しました。義経軍は義仲軍が放つ矢が降り注ぐ中、騎馬で宇治川に乗り入れます。佐々木高綱と梶原景季の間で繰り広げられた有名な「宇治川の先陣争い」はこの時の出来事です。根井行親、楯親忠を将とした義仲軍は大量の矢を射かけて必死の防戦を行いますが、ついに義経軍に宇治川を突破されてしまいます。宇治川の防衛ラインを突破した義経軍は、その後、雪崩を打って京の都に突入します。京の街中で待ち構えていた義仲の本隊と義経軍との間で激戦となるのですが、義仲軍は奮戦するものの戦力の差はどうしようもなく、あえなく敗れてしまいます(六条河原の戦い)。敗れた義仲は後白河法皇を連れて西国へ脱出することを試みたのですが、ひと足早く義経軍に後白河法皇を確保され、これも断念。それでは…と、瀬田の唐橋で範頼軍と戦っていた家来の今井兼平の軍勢と合流して北陸へ脱出し態勢を立て直そうとします。翌1月21日、粟津で今井兼平の軍勢と合流することには成功したものの、そこに範頼軍の大軍が襲いかかり、遂に義仲は顔面に矢を受けて討ち取られてしまいました。また、家来の今井兼平も義仲を追って自害しました。これで、木曽義仲軍は完全に崩壊してしました(粟津の戦い)。
ちなみに、宇治川の合戦が起きる3年前の治承4年(1180年)5月に、源義仲と同様、以仁王の令旨を奉じ平氏打倒の挙兵をした源頼政が、以仁王とともに東大寺・興福寺のある南都(奈良)へと向う途中、平知盛らに追撃され、宇治橋の橋板を落とし、平等院に籠もって抵抗した「宇治平等院の戦い」という戦いもあります。この戦いで、源頼政は、「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」と辞世の一首を残し自刃しました。また、以仁王は辛うじて平等院から脱出したのですが、山城国相楽郡で平氏の藤原景高の軍勢に追いつかれ討ち取られたと『吾妻鏡』には書かれています。この「宇治平等院の戦い」を契機に全国各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、源義仲、源頼朝といった反乱勢力同士の対立がありつつも、平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る全国的な動乱が起こることになります。これが「治承・寿永の乱」、俗にいう「源平の乱」です。この大動乱が起きたきっかけが、ここ宇治の地でした。
写真は宇治橋より宇治川上流を眺めたところです。宇治川にかかる宇治橋は、初めて架けられたのが、大化2年(西暦646年)と伝えられ、日本最古の大規模な橋の1つといわれています。今でこそ平成8年(1996年)に架け替えられた近代的な橋になっていますが、京都府乙訓郡大山崎町の山崎橋、滋賀県大津市の瀬田の唐橋とあわせて「日本三古橋」の1つに数えられている橋であり、この宇治橋から眺める上流の景色もまた情緒のある景色となっています(今の橋も欄干は昔風の木製っぽくデコレートされています)。遠くに写っている塔の島、橘島と呼ばれる中洲は昔からあった中洲のようで、「宇治川の合戦」の際、佐々木高綱と梶原景季の間で繰り広げられた「宇治川の先陣争い」が行われたのは、この中洲あたりだったと言われています。このように、このあたり一帯が「宇治川の合戦」、さらには「宇治平等院の戦い」という日本の歴史に大きく影響を残した戦闘が繰り広げられた古戦場です。橋の下を流れる宇治川はかなりの流量で、流れもそうとうに速く白波が立っています。この宇治川の流量と流れの速さにより、宇治川は天然の要害として京都防衛のための最終ラインになっていたように思えます。なるほどぉ~、なのでここ場所なのね。でも、源義経軍はよくこの流れの速い川を騎馬で渡ったものですね。一歩間違えば流れに捲かれて溺死です。宇治川はそのくらい急流の川です。
十三重の石塔があることから塔の島と呼ばれる宇治川の中洲へ渡る喜撰橋です。古風な赤い欄干が素敵です。手前には遊覧船の発着場があります。このあたりは鵜飼で有名で、鮎が獲れるこの時期は、多くの鵜飼遊覧船が待機しています。ちなみに鵜飼は夜間に篝火の中で行われるので、昼間はただの遊覧船です。
宇治川沿いの「あじろぎの道」を少し歩いたところに、この日の昼食会場、京懐石料理の『辰巳屋』があります。この『辰巳屋』さんは、1840年頃、茶問屋として発祥し、大正2年に料理屋に変わり現在に至っているという大変に歴史のある京懐石の料亭です。
『辰巳屋』公式HP
宇治といえばお茶で有名なところです。高級茶の代名詞としても使われている「宇治茶」ですが、その起源は非常に古く、源頼朝が鎌倉幕府を設立する前年の建久2年(1191年)、臨済宗の開祖である栄西によって中国から日本に、茶種と共に宋の時代の抹茶法が伝えられたといわれています。栄西は、京都栂尾高山寺の明恵上人に茶の種子を贈り、明恵上人が栂尾に植えたのが栂尾茶の始まりで、その後、明恵上人がさらに宇治の地に茶の種を蒔いたのが、宇治茶の始まりと伝えられています。宇治茶は、14世紀末頃までは、栂尾の茶を「本茶」と呼ぶのに対し「非茶」と呼ばれていたりしましたが、宇治七銘園が拓かれたことで宇治が日本一の茶産地となり、栂尾から「本茶」の地位を奪い、その地位を固めました。明治初期、宇治市や京都市の周辺には、京都府の約半分の面積にあたる1,300ヘクタールもの茶園があったそうなのですが、時代の経過とともにそれは激減し、現在では100ヘクタールを下回る規模になっています。しかしながら、生産者や茶商工業者のたゆまぬ努力により、現在においても宇治茶は日本一の品質の座を保ち続けていて、宇治には伊藤久右衛門や辻利、摘翠園、山政小山園といった高級宇治茶の老舗があります。
『辰巳屋』も当初は宇治茶を扱う茶問屋として創業したお店なのですが、前述のように大正2年に料理屋に変わり現在に至っているという歴史を持っています。まさにお茶とともに歩んできた老舗で、そういう店だからこそできる、抹茶の風味と旬の食材を活かした抹茶料理、そして京都の伝統に基づいた趣のある京懐石料理が名物になっています。私達もその抹茶料理を懐石料理のコースでいただきました。お酒は天下の酒どころ京都伏見の名酒「玉乃光」の純米大吟醸を冷酒でいただきました。「玉乃光」は延宝元年(1673年)創業という伏見でも老舗の酒蔵の1つで、その純米大吟醸は辛口で抹茶懐石料理の味を引き立てる感じで非常によく合い、お酒に弱い私でもクイクイ飲めちゃいます。これ、ちょっとヤバい!
緑豊かな風景と宇治川の流れを目の前にしていただく抹茶懐石料理と伏見の名酒、上品なお味で、なかなか美味しかったです。真っ昼間からこういう風光明媚なところで、こういう美味しい料理とお酒を味わう……、こういうのを本当の贅沢というのでしょうね。ちなみに、宴会場から外を見た写真で、目の前の中洲のうち、右側が塔の島、赤い欄干の橋を渡った左側が橘島です。宇治川はこの中洲を挟んで流れが二つに分かれているのですが、中洲より手前側の流れは極めて穏やかで、観覧船の船着き場にもなっていますが、中洲の向こう側は急流、いや激流と言ってもいいくらい流れが速くなっています。その対比がまた一つの味となっている風景です。対岸に並ぶ小さな山々の木々の深い緑色が、いただいている宇治茶を使った抹茶懐石料理の緑色とも相まって、いかにも宇治らしい風景って感じです。
……(その3)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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