2016/09/02

中山道六十九次・街道歩き【第4回: 大宮→桶川】(その3)

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大宮宿を出て幾つかの庚申塔や道標、神社を見ながら旧中山道(県道164号線)をかれこれ1時間半、黙々と歩き、この南方神社の先でさいたま市北区から上尾市に入ります。ちょっくらお疲れです。県道164号線の50メートルほど西側を道路と並行するようにJR高崎線の線路が延びていて、時折電車が走っていきます。鉄道マニアにとっては、その電車がすぐそばを通過していく音がとぉ〜っても嬉しいものです。その電車の音に元気を貰う気分です。でも、電車が最高速度で通り過ぎていくということは、上尾駅はまだまだ先ってことか‥‥。

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上尾市に入ってすぐの信号の左手の二俣になった分岐点に寛政12年に建てられた庚申塔があり、そこから左手に入る細い道が川越に向かう「川越道」なんだそうですが、現在は住宅地になっていて消失してしまっているのだそうです。

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上尾陸橋交差点です。左右に交差している道路が「鎌倉街道」ということなのですが、現在は「運動公園通り」と呼ばれています。中世、埼玉県内には所沢、狭山、毛呂山、嵐山、寄居、児玉を通る「上道」と、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手、栗橋を抜ける「中道」の2本の「鎌倉街道」が通っていたと言われています。この上尾から延びる鎌倉街道は、「上道」、「中道」という本線ではなく、鎌倉街道の支線として、ちょうど「上道」と「中道」を繋ぐような位置付けの街道だったようで、鎌倉街道羽根倉道(奥州脇道)と呼ばれていたようです。

ちなみに、現在でも首都圏に住む人達の間では東京都府中市より多摩市を経て町田市に至る東京都道18号府中町田線や、神奈川県横浜市中区から鎌倉市に至る神奈川県道21号横浜鎌倉線のことを別称で「鎌倉街道」と呼んでいますが、「鎌倉街道」とは元々は中世の鎌倉時代に、鎌倉幕府が置かれていた鎌倉と各地を結んだ道路網(古道)のことです。有事の際に鎌倉幕府の御家人達が「いざ鎌倉!」と鎌倉幕府の将軍の元に馳せ参じるために整備された道のことで、1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路整備に力を注ぎ、次々と道路網が建設されました。このため、一般に「鎌倉街道」と呼ばれる道路は実は無数にあったようです。鎌倉街道の中でも幹線道とも言える道路は全国の国府が置かれていた場所を通るような道路で、街道沿いに守護所も置かれ、その数はごく限られていたようです。その主要な鎌倉街道の幹線道としては‥‥、

1.京や駿河・遠江(静岡県)と鎌倉の間、そして鎌倉よりさらに下総(千葉県)・常陸(茨城県)にまで向かう「東海道」
2.鎌倉から武蔵(埼玉県)東部や下野(栃木県)に向かう「中路」
3.さらに中路を経て奥州(東北地方)に向かう「奥大道」
4.鎌倉から武蔵(埼玉県)西部や上州(群馬県)に向かう「上道」 (鎌倉時代に書かれた鎌倉幕府自らの記録である『吾妻鏡』では、「下道」と記されているようです)
5.上道(下道)からさらに信濃(長野県)・越後(新潟県)に向かう「北陸道」
6.下野足利荘から鎌倉に至る経路上の道である「武蔵大路」
‥‥などがあったようです。

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かつてこの上尾陸橋交差点のそばには鶴亀松という立派な松の大木があったそうなのですが、今は枯れてしまったのか、道路拡張の邪魔になるので伐採されてしまったのかわかりませんが、形跡すらありません。

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上尾陸橋交差点を渡った先の左手に愛宕神社があり、そのあたりが上尾宿の江戸方。すなわち、江戸方面からの上尾宿の入り口ってことです。従って、この愛宕神社の鎮守の森が、当時の旅人に対して上尾宿の入り口を示すランドマークのようなものになっていたのではないでしょうか。

上尾宿は中山道の起点である江戸・日本橋から9里16町(約37.1km)の距離にあります。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて5番目の宿場町だったのですが、朝早く出立してその日のうちに到達できる距離がだいたいこの約10里だったので、たいていの旅人は日本橋を出て最初の泊まりがこの上尾宿でした(中にはその日のうちに次の桶川宿まで行っちゃうような健脚もいらっしゃったようです)。なので、この上尾宿は旅籠の数が41軒と多いことを特徴としていました。その他に本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒、高札場1軒が軒を並べ、現在の仲町付近が上尾宿の中心で、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などはここに集中していました。比較的規模が小さい宿場ではあったのですが、本陣の規模は中山道では信濃国・塩尻宿のものに次ぐ大きさを誇っていました。ですが、安政7年(1860年)の大火とその後に発生した何度かの火事で当時の建物はほとんど焼失してしまい、往時の面影を残すものは残念ながらほとんど残っていません。

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愛宕神社の境内に入る入り口左手にある小さな祠の中に「庚申塔」が鎮座しています。ごく普通の庚申塔なのですが、享保7年(1722年)の建立ということなので、300年近く前のものです。これまで幾つもの庚申塔を見てきましたが、これはその中でもかなり古いほうのものです。

上尾宿は愛宕神社側から「下宿」「中宿」「上宿」の3つの地区に分かれていて、「下宿」の中心がこの原内科眼科医院があるあたりだったと言われています。ここに上尾宿の江戸方の木戸があったようなので、当時、上尾宿はこのあたりから北に向って続いていたということです。

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原内科眼科医院が建っているところの手前から右手(東方面)に入る道が「岩槻街道」です。「岩槻街道」は【第1回】の項でも書きましたが当時の「日光御成道」、すなわち中世の鎌倉街道の「中道」を前身として江戸時代に整備された日光街道の脇街道のことで、徳川将軍が日光東照宮へ参拝する際に利用された街道のことです。当時は本郷追分(東京都文京区)で中山道から分岐し、岩淵宿(東京都北区)、川口宿(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(現・さいたま市緑区)、岩槻宿(さいたま市岩槻区)、幸手宿(埼玉県幸手市)を通って日光街道に合流する道筋で、岩槻藩の参勤交代にも使用されたことから「岩槻街道」とも呼ばれていました。この上尾宿からの岩槻街道は、その「岩槻街道」の支線で、埼玉県伊奈町、蓮田市を経由して白岡町あたりから「日光御成道(本来の岩槻街道)」に結ばれていたのではないかと推測されます。

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この道路と互い違いの位置に左折(西方面)する小道があり、この小道がかつては「川越街道」と呼ばれた道で、川越に向かう道路でした。上尾宿に入る手前にも川越に向かう川越道の追分(分岐点)がありましたが、途中で合流するのかもしれません。

川越街道もまた中山道の脇往還として江戸時代に整備された街道です。川越街道は板橋宿の江戸方の入り口にある平尾追分から中山道と分岐し、上板橋宿(東京都板橋区)、下練馬宿(東京都練馬区)、白子宿(埼玉県和光市)、膝折宿(埼玉県朝霞市)、大和田宿(埼玉県新座市)、大井宿(埼玉県ふじみ野市)の6つの宿場が設置され、川越に通じていました。川越から先は「児玉街道」となり上野国藤岡(群馬県藤岡市)まで通じ、2つの街道をあわせて川越児玉往還とも呼ばれていました。川越街道は距離も短く、中山道のように河川の氾濫で通行止めになることも少なかったことから、川越藩以外でも中山道から迂回して参勤交代で使用する藩もあったようで、常に賑わっていったようです。この上尾から分岐する川越街道は、その本来の川越街道の支線で、中山道から川越街道(川越児玉往還)への迂回路だったようです。

このように、上尾は中世では鎌倉街道の「上・中道」の連絡道の、また江戸時代に入ってからは日光御成道や川越児玉往還への迂回路の追分(分岐点)でもあったことから、宿場として徐々に整備されていったのではないかと思われます。ちなみに、この川越街道の北に接して、中山道両側に「一里塚」があったようなのですが、現存はしておらず、今ではその痕跡すら残っていません。

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「下宿」に連なる家並みをさらに北上すると「中宿」へ入ります。和菓子屋さんの店頭に何故か「鍾馗様」の像が飾られています。この伊勢屋和菓子店は創業180年という老舗の和菓子屋さんで、お勧めは「鍾馗羊羹」と「ゆず最中」。ほんのりとした柚子味がなんとも美味しいのだとか。江戸時代には上尾宿の周辺では各家庭に柚子の木があったくらい柚子の産地だったようで、その名残を留めたのが「ゆず最中」で、同じように江戸時代における上尾地内の名物である「屋根の鐘馗様」を永く伝えるための作られたのが「鐘馗羊羹」なのだそうです。

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上尾宿は火事が多かったことから魔除けの鬼瓦を屋根の上に乗せる家が多かったのだそうです。その鬼よりも強い勇者ということで、鬼瓦と対峙するように屋根の上に鍾馗様を飾っているってことなのでしょうか。とにかく、上尾宿のキャラクターは鍾馗様のようです。鬼瓦と鍾馗様が道を挟んで睨み合っているところもあります。

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伊勢屋和菓子店から数分歩いた右側、駐車場奥の塀の上に鬼瓦が2基。「脇本陣井上家の鬼瓦」が街道を睨んでいます。その当時の鬼瓦を現在の塀に使用しているのだそうです。現在でも井上の表札が掲げられていますので、現在も子孫の方が住まわれているのでしょう。その斜め先、「おしゃれ工房新井屋」の看板の下に「鍾馗様」が。足を踏み出して探している先は、どうも脇本陣の鬼瓦のようです。多少離れているので「睨みあい」というほどでもありませんが、街道の両側に鬼と鍾馗様が睨みあっています。

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おしゃれ工房のちょっと先、JR上尾駅の手前に「お鍬様」こと御鍬太神宮があります。今は「氷川鍬神社」と呼ばれる上尾宿の鎮守様です。上尾宿の名残はほとんどと言っていいくらい何も残っていない現在の上尾市ですが、江戸時代の名残を唯一と言っていいくらい残しているのがこの氷川鍬神社です。創建の云われが面白いので書かせていただきます。江戸初期・万治の時代の頃、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣をかざしながら踊り歩いて上尾宿のほうへ向かっていると、突然3人の童子は神隠しにあったように消えてしまい、その場に鍬と稲束だけが残されました。その2挺の鍬をご神体として祀ったのが鍬太神宮なのだそうです。その後に氷川女体神社と合祀したので、氷川鍬神社と名を変えたのだそうです。創建は寛永9年(1632年)と言われています。

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参道を入った境内に「二賢堂(じけんどう)跡」が残されています。右手の石碑に二賢堂の謂れが書かれています。ここは上尾宿で旅籠を経営していた山崎武平治が学僧の雲室上人を招いて近隣子弟の教育にあたるために天明8年(1788年)に開いた聚学義塾(学舎)の跡で、二賢堂とは山崎武平治が学門の神様である菅原道真と儒学の朱子の二賢人を合わせて祀ったことにより「二賢堂」と名付けたということのようです。

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かつては、この氷川鍬神社の目の前に上尾宿の林八郎右衛門本陣があり、本陣の左右には井上五郎右衛門脇本陣と、白石長左衛門脇本陣が建ち並んでいました。さらに付近には細井弥一郎脇本陣や問屋場があって、上尾宿の中心部をなしていました。今は個別の標識もなく、新しい雑居ビルや医院が連なっているだけになっていて、その当時の面影はいっさい感じられません。

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JR上尾駅です。日本最初の私鉄である日本鉄道が明治16年(1883年)7月28日に最初の営業路線である上野〜熊谷間を開業した際に設けられた駅は、上野を出ると、王子、浦和、上尾、鴻巣、そして当時の終点であった熊谷の5駅でした。なので、この上尾駅は日本の鉄道史上で最古参の駅の1つと言うことができます。ということからも分かるように、かつては上尾宿がそれだけ賑わいを見せた宿場町だったということです。


……(その4)に続きます。