2017/04/26
中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その6)
和田多中町交差点で国道17号線の高架の下を潜ります。ここからは群馬県道12号前橋高崎線に入り、すぐに新後閑町交差点で群馬県道134号新田町新後閑線に入ります。
国道17号線に続いて上越新幹線の高架の下を潜ります。
次に上信電鉄上信線の踏切を渡ります。上信電鉄上信線は高崎駅と下仁田駅間の33.7kmを結ぶ鉄道路線です。明治28年(1895年)に上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、明治30年(1897年)に開業し、同年中に高崎駅~下仁田駅間が全通しました。現存する日本の地方私鉄(大手以外の私鉄)路線の中では、私の故郷愛媛県松山を走る伊予鉄道についで2番目に古い路線です。上信電鉄の名称は、当初、下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現在のJR小海線)の羽黒下駅まで延伸する計画で会社を設立したことによるもので、上州と信州を結ぶ鉄道という意味で、上信電鉄上信線となっているのです。しかし、この延伸計画は世界恐慌により実現することはなく、現在は上州だけを走る路線になっています。
ちなみに、高崎駅は関東地方に住む鉄ちゃん、特に“乗り鉄”にとってはパラダイスのようなところで、実に魅力的な鉄道路線が目白押しで伸びています。JR東日本の在来線だけをとっても高崎線(当駅終点)、上越線(当駅起点)、信越本線(当駅起点)、吾妻線(渋川駅で上越線から分岐)、両毛線(新前橋駅で上越線から分岐)、八高線(倉賀野駅で高崎線から分岐)と合計6方面の列車が発着しており、それに私鉄のこの上信電鉄上信線、さらには上越新幹線と高崎駅が起点の北陸新幹線が加わります。どれも鉄道マニアにとっては魅力的な路線ばかりで、私も時折、“鉄分”があまりにも不足状態になると乗りに来ています。
高崎駅は明治17年(1884年)、日本最初の私鉄である日本鉄道の駅として開業しました。高崎は古くから交通の要衝として栄え、現在の高崎駅も前述のように9路線が乗り入れる群馬県のみならず北関東最大のターミナル駅として機能しています。新幹線開業前は東京方面から上越線方面と信越本線方面との分岐点として機能していて、東京(上野駅)から新潟、長野、北陸方面へ向かう長距離の特急列車や急行列車がひっきりなしにこの駅を通っていました。長距離輸送の役目を新幹線に譲った現在でも上越新幹線と北陸新幹線の分岐点となっているほか、在来線においても群馬県内各地へ向かう各路線のターミナル駅としての役割を担っています。
上信電鉄上信線の踏切を渡ったあたりからが高崎宿です。
高崎宿は江戸・日本橋から数えて13番目の宿場で、天保14年(1843年)の記録によると、人口3,235人、家数837軒、本陣と脇本陣はなく、旅籠15軒。高崎城下の宿場町であった関係で譜代大名であった藩主に遠慮したのか本陣、脇本陣ともに置かれず、また飯盛り女も置けないかたっ苦しい宿場だったことが嫌われたのか、旅籠の数も15軒と少ない宿場でした。しかしながら、高崎は昔も今と変わらず交通の要衝で、越後へ向かう三国街道がここから分岐していました。また、城下の本町・田町・新町では六斎市(月に6回の市)が開かれ、合わせて18回もの市が立ち、問屋、仲買の大商店が並ぶなど商業が盛んで、規模は小さかったものの上州最大の賑わいを見せる宿場でした。
ですが、残念ながら現在のこのあたりにはその宿場街の風情はまったく感じられません。
群馬県道134号新田町新後閑線は新田町交差点で群馬県道25号高崎渋川線に変わります。南町交差点のところにある愛宕神社です。江戸時代のはじめ、和田城(後の高崎城)の鎮護神として京都の愛宕神社の御分霊を祭祀創建されたものです。後に、元和3年(1617年)、 高崎城主松平信吉が再建したもので。火防の神として崇敬されているそうです。
旧中山道はここから右に大きくカーブをとり、高崎市街をほぼ直線に突き抜けていきます。このあたり、城下町であった名残ですね。
宿場饅頭わらじ高崎店です。この店でお饅頭を買って糖分補給しました。生地もギッシリ詰まった餡子も素朴な味わいで、甘さは控えめ。なかなかの味でした。大量生産はしていない模様で、売り切れたら終わりのようです。行きの観光バスの中で1個注文しておいたので、なんとかありつけました。ちなみに、この宿場饅頭わらじは同じ中山道の宿場でも高崎宿の次の安中宿が本店なのだそうです。店の前の道路の突き当りはJR高崎駅です。
あら町にある真言宗高野山派の寺院「延養寺」です。
延文3年(1358年)の創建とされる延養寺は、足利尊氏が開山した寺院とされています。そのため、延養寺の寺紋は◯に二文字の足利氏と同じです。浅間山の噴火や天明の飢饉など克明に記された文書の版木も残されているのだそうです。
ここで高崎市の観光ボランティアガイドさんのこの延養寺と高崎宿に関する説明を受けました。
寺宝である神像は円空(江戸時代前期の僧で全国で約12万体の仏像を彫り込んだとされます)が制作したものとされ、高さ40cm弱。檜材の一木造で、像の底に梅の木が描かれていることから天神像だったと推察されています。天神とは平安時代に右大臣にまで出世した菅原道真の御霊のことで、勤勉家だったとのことから学問の神様として信仰されてきました。この延養寺の円空作神像は高崎市の重要文化財に指定されています。また、境内には下仁田町出身の俳人・羽鳥一紅の「はじめて 菊をつくる 植えて待てば げに 長月や きょうの きく 一紅」との句碑があります。高崎市の観光ボランティアガイドさんは熱く語っていただいたのですが、大変に申し訳ないことに羽鳥一紅という俳人、私は存じあげておりません。
……(その7)に続きます。
国道17号線に続いて上越新幹線の高架の下を潜ります。
次に上信電鉄上信線の踏切を渡ります。上信電鉄上信線は高崎駅と下仁田駅間の33.7kmを結ぶ鉄道路線です。明治28年(1895年)に上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、明治30年(1897年)に開業し、同年中に高崎駅~下仁田駅間が全通しました。現存する日本の地方私鉄(大手以外の私鉄)路線の中では、私の故郷愛媛県松山を走る伊予鉄道についで2番目に古い路線です。上信電鉄の名称は、当初、下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現在のJR小海線)の羽黒下駅まで延伸する計画で会社を設立したことによるもので、上州と信州を結ぶ鉄道という意味で、上信電鉄上信線となっているのです。しかし、この延伸計画は世界恐慌により実現することはなく、現在は上州だけを走る路線になっています。
ちなみに、高崎駅は関東地方に住む鉄ちゃん、特に“乗り鉄”にとってはパラダイスのようなところで、実に魅力的な鉄道路線が目白押しで伸びています。JR東日本の在来線だけをとっても高崎線(当駅終点)、上越線(当駅起点)、信越本線(当駅起点)、吾妻線(渋川駅で上越線から分岐)、両毛線(新前橋駅で上越線から分岐)、八高線(倉賀野駅で高崎線から分岐)と合計6方面の列車が発着しており、それに私鉄のこの上信電鉄上信線、さらには上越新幹線と高崎駅が起点の北陸新幹線が加わります。どれも鉄道マニアにとっては魅力的な路線ばかりで、私も時折、“鉄分”があまりにも不足状態になると乗りに来ています。
高崎駅は明治17年(1884年)、日本最初の私鉄である日本鉄道の駅として開業しました。高崎は古くから交通の要衝として栄え、現在の高崎駅も前述のように9路線が乗り入れる群馬県のみならず北関東最大のターミナル駅として機能しています。新幹線開業前は東京方面から上越線方面と信越本線方面との分岐点として機能していて、東京(上野駅)から新潟、長野、北陸方面へ向かう長距離の特急列車や急行列車がひっきりなしにこの駅を通っていました。長距離輸送の役目を新幹線に譲った現在でも上越新幹線と北陸新幹線の分岐点となっているほか、在来線においても群馬県内各地へ向かう各路線のターミナル駅としての役割を担っています。
上信電鉄上信線の踏切を渡ったあたりからが高崎宿です。
高崎宿は江戸・日本橋から数えて13番目の宿場で、天保14年(1843年)の記録によると、人口3,235人、家数837軒、本陣と脇本陣はなく、旅籠15軒。高崎城下の宿場町であった関係で譜代大名であった藩主に遠慮したのか本陣、脇本陣ともに置かれず、また飯盛り女も置けないかたっ苦しい宿場だったことが嫌われたのか、旅籠の数も15軒と少ない宿場でした。しかしながら、高崎は昔も今と変わらず交通の要衝で、越後へ向かう三国街道がここから分岐していました。また、城下の本町・田町・新町では六斎市(月に6回の市)が開かれ、合わせて18回もの市が立ち、問屋、仲買の大商店が並ぶなど商業が盛んで、規模は小さかったものの上州最大の賑わいを見せる宿場でした。
ですが、残念ながら現在のこのあたりにはその宿場街の風情はまったく感じられません。
群馬県道134号新田町新後閑線は新田町交差点で群馬県道25号高崎渋川線に変わります。南町交差点のところにある愛宕神社です。江戸時代のはじめ、和田城(後の高崎城)の鎮護神として京都の愛宕神社の御分霊を祭祀創建されたものです。後に、元和3年(1617年)、 高崎城主松平信吉が再建したもので。火防の神として崇敬されているそうです。
旧中山道はここから右に大きくカーブをとり、高崎市街をほぼ直線に突き抜けていきます。このあたり、城下町であった名残ですね。
宿場饅頭わらじ高崎店です。この店でお饅頭を買って糖分補給しました。生地もギッシリ詰まった餡子も素朴な味わいで、甘さは控えめ。なかなかの味でした。大量生産はしていない模様で、売り切れたら終わりのようです。行きの観光バスの中で1個注文しておいたので、なんとかありつけました。ちなみに、この宿場饅頭わらじは同じ中山道の宿場でも高崎宿の次の安中宿が本店なのだそうです。店の前の道路の突き当りはJR高崎駅です。
あら町にある真言宗高野山派の寺院「延養寺」です。
延文3年(1358年)の創建とされる延養寺は、足利尊氏が開山した寺院とされています。そのため、延養寺の寺紋は◯に二文字の足利氏と同じです。浅間山の噴火や天明の飢饉など克明に記された文書の版木も残されているのだそうです。
ここで高崎市の観光ボランティアガイドさんのこの延養寺と高崎宿に関する説明を受けました。
寺宝である神像は円空(江戸時代前期の僧で全国で約12万体の仏像を彫り込んだとされます)が制作したものとされ、高さ40cm弱。檜材の一木造で、像の底に梅の木が描かれていることから天神像だったと推察されています。天神とは平安時代に右大臣にまで出世した菅原道真の御霊のことで、勤勉家だったとのことから学問の神様として信仰されてきました。この延養寺の円空作神像は高崎市の重要文化財に指定されています。また、境内には下仁田町出身の俳人・羽鳥一紅の「はじめて 菊をつくる 植えて待てば げに 長月や きょうの きく 一紅」との句碑があります。高崎市の観光ボランティアガイドさんは熱く語っていただいたのですが、大変に申し訳ないことに羽鳥一紅という俳人、私は存じあげておりません。
……(その7)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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