2017/05/19

中山道六十九次・街道歩き【第11回: 高崎→安中】(その6)

旧中山道は板鼻宿内をここまで群馬県道137号箕郷板鼻線を通っていたのですが、鷹巣神社の先で群馬県道171号吉井安中線と合流します。この群馬県道171号吉井安中線は板鼻宿に入る手前で分岐した群馬県道26号高崎安中渋川線から続く道路です。群馬県道171号吉井安中線はこの先の鷹之巣橋を渡ってしばらく行ったところで国道18号線と合流します。この道路は現在「上毛三山パノラマ街道」と呼ばれています。

鷹之巣橋で碓氷川を渡ります。

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前方の山一帯を占拠する場違いとも思える実に異様な光景は東邦亜鉛安中精錬所です。戦前から亜鉛を精錬し続けてきた工場です。この東邦亜鉛安中精錬所といえば、安中公害訴訟を思い出します。安中公害訴訟は、1937年から1986年まで、ここ群馬県安中市付近で起きた公害事件のことです。公害の原因はこの東邦亜鉛安中製錬所の排煙、廃液によるもので、原因物質はカドミウム。付近の田畑で稲や桑の立ち枯れ、カイコの生育不良、碓氷川の魚の大量死などの被害が出ました。1986年に、東邦亜鉛が責任を認め、付近農民らに4億5000万円を賠償する形で和解が成立し、同時に公害防止協定も締結され、現在に至っています。

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また、“鉄分”が相当に濃い人(相当の鉄道マニア)の中で有名な「安中貨物」は、この東邦亜鉛安中精錬所に亜鉛の鉱石を搬入するための定期貨物列車のことです。貨車に「東邦亜鉛」と書かれているので、すぐにわかります。この5781列車こと「5781レ安中貨物」は、実は首都圏に住む鉄道マニア(特に貨物列車マニア)の間では圧倒的な人気を誇る貨物列車なのです。

海外から輸入された亜鉛の鉱石は、まず福島県の小名浜港で陸揚げされ、港付近の工場で貨車に積載されます。亜鉛は現在の鉄道貨物の主流であるコンテナで運ぶのではなく、タンク車と無蓋車(蓋がないトラックの平ボディ車体のような形をした貨車)で運びます。「5781レ安中貨物」は、福島県の小名浜からJR常磐線を上ってきて首都圏へ。田端で次にJR高崎線に入り高崎へ。さらにJR信越本線に入りここ安中まで毎日定期的に亜鉛の鉱石を運ぶわけです。薄汚い小さな貨車が何両も何両も連なって首都圏を駆け抜ける姿は極めて印象的で、鉄道にまったく興味がない“非鉄”の人が見ても、「ん?ありゃあなんだ?」と目にとまり、不思議に思うことでしょう。

また、JR常磐線は架線の電化種別が途中で交流から直流に変化します。従って、「5781レ安中貨物」の運用には交直流機という両電源に対応する機関車が必要となるわけですが、JR常磐線において、この運用はJR貨物ではなくJR東日本の機関車が就いています。これも、マニアの人気を集めている理由の一つです。少し前までは先頭に「北斗星」や「あけぼの」のマークが描かれた丸いヘッドマークを掲げて花形のブルートレイン(夜行寝台特急列車)を牽引していたEF81型のような交直流電気機関車が、今は長い貨物列車を牽引して頑張っています。まぁ?、最近はさすがに後継のEF510形電気機関車にその役目を委ねることも多くなったと聞いていますが…。

確か15時半頃に私の自宅近くの与野駅やさいたま新都心駅付近の高崎線(東北本線)を通るので、私もたまにその姿を見掛けることがあり、散歩や買い物の際などに見掛けた時には「オッ!」と足を止めて、通り過ぎて姿が完全に見えなくなるまで見てしまうことがあります。ステンレス製車体の近代的な電車ばかりで均一化された感のある首都圏の鉄道で、思いっきり異彩を放ってくれていますからね。ブルートレインが姿を消してしまったので、これからの“鉄(道)”のブームは“貨物(列車)”なのかもしれません。そうそう、「5781レ安中貨物」に関しては、工場での貨車の入れ替え作業をわざわざ見に安中まで行く“追っかけマニア”もいるそうですよ。ところで、“鉄”と“亜鉛”の合金って、ありましたっけ?(笑)

最近は「工場萌え」とかいって、巨大工場の鑑賞、特に24時間操業の工場の夜景の鑑賞が、特に女性を中心に密かなブームになっているそうです。この東邦亜鉛安中精錬所は丘陵の斜面に立体的に、かつ高密度に建てられている工場なので、まるでスタジオ・ジブリのアニメに出てくる要塞のようです。夜景では、各施設のパーツパーツが、外部や内部からの照明で暗い空間から濃い影を作りながら浮かび上がるでしょうから、さぞや幻想的な光景になるのではないか…と思われます。「工場萌え」の方、ここはお薦めです。

この東邦亜鉛安中精錬所の異様な工場群を見ながら鷹之巣橋で碓氷川を渡ります。ここは碓氷川と九十九川の合流地点が近く、流れがきつかったので、中山道随一の難所と言われていたそうです。水量の少ない冬季には仮土地橋、夏は川越し人足によって渡ったそうで、「碓氷川の渡し」と呼ばれていました。本来の中山道はこの鷹之巣橋の上流50mのあたりを徒歩で渡っていたといわれています。当時、渡し場には鷹之巣茶屋が設けられていました。そして、ここは板鼻宿の西の見附にあたります。

江戸時代、川を渡るには主に2つの方法がありました。1つは、“川越し人足”の手を借りて歩いてわたる方法です。旅人が人足に肩車をしてもらったり、あるいは輩台(れんだい)に乗って担がれたりして川を渡っていました。これを「徒歩(かち)渡し」といいます。もう1つが渡し船を利用するもので、「船(ふな)渡し」といいます。この碓氷川の渡しは「徒歩(かち)渡し」でした。鷹之巣橋から碓氷川越しに妙義山の姿が見えます。川を見ると渇水期の今であれば、徒歩でも渡れそうですが、ひとたび雨が降ると水嵩が増して「川留め」になったのだろうな…ということは容易に想像できます。水量の少ない冬季には仮土橋が架けられたそうで、宝暦2年(1752年)からは常設の土橋が架けられたのだそうです。また渡し場跡にはその常設の土橋(旧鷹之巣橋)が架けられていた場所でもあり、現在もレンガ造りの橋台が残っています。

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橋を渡ると中宿集落です。この中宿は板鼻宿と安中宿の中間に位置する“間の宿”で、先ほど渡った碓氷川の“川越し人足”待ちや、増水時に川留め時に旅人達が待機するところとして使われました。

鷹之巣橋を渡り終えた国道18号線・中宿交差点の左側に諏訪神社があります。ここは 明治11年(1878年)の明治天皇の北陸御巡幸の際、明治天皇が小休止をとられたところで、「明治天皇小休止所」の石碑と、その際、明治天皇が腰かけたとされる「明治天皇腰掛石」があります。

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中宿交差点を右に曲がり、碓氷川を徒歩で渡ってきた旧中山道に戻ります。下の左側の写真で、この道の先の行き止まりになっているところが、碓氷川の渡しの中宿側の渡し場があったところです。近くに射撃場があるのか、バンバンという銃声が時折聞こえます。中宿集落には、古い家が幾つも残っています。

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このあたりに江戸日本橋を出てから29番目の一里塚、「中宿の一里塚」があったそうなのですが、道路脇に小さな石碑が遺されているだけで、何も残っていません。

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しばらく行くと中宿公民館の向かいに道標を兼ねた大きな庚申塔があります。享和2年(1802年)に建立されたもので、中山道に面した面には「庚申塔」、左面には「従是一宮、大日、街道」という文字が刻まれています。この一宮とは上野(こうずけ)国一宮(現在の富岡市)の貫前(ぬきさき)神社へのこと、また、大日とは同じく富岡市にある黒岩の大日堂(遍照寺)のことで、ここから左へ行く小道はその貫前神社や大日堂に通じていました。

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木製手作りの「中仙道」という道標があり、その道標の先でY字の分岐があります。右側に分岐する道が旧中山道です。

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しばらく歩くと、道は行き止まりになります。かつてはここで碓氷川を徒歩で渡っていたのですが、今は、石積の堤防で行き止まりになっています。その行き止まりを左に曲がると正面がJR信越本線の安中駅です。案内標識の傍らに、道祖神と何と読むのか判らない文字の刻まれた石碑が建っています。虫という字が幾つか見えますので、文字の感じから、どうも養蚕で使う蚕の神様を祀った石碑のようです。

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石積の堤防の上に上り碓氷川の下流方向(右奥方向)を眺めた先に、左方向から流れてくる九十九川との合流地点が見えます。

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……(その7)に続きます。