2017/05/22
中山道六十九次・街道歩き【第11回: 高崎→安中】(その7)
旧中山道のルートは広い国道18号線の中に埋没してしまっているようなので、ここは国道18号線を横断し、JR安中駅に向かいます。安中駅前にあるトイレを使わせていただきながら、しばしの休憩です。
JR安中駅の反対側に、先ほど鷹之巣橋のところから見えた東邦亜鉛安中精錬所の巨大な工場群があります。ホームの向こう側には「5781レ安中貨物」で運ばれてきた無蓋車が入れ替え用の小型のディーゼル機関車に連結されて停まっています。
JR安中駅前の横断歩道橋を渡ります。東邦亜鉛安中精錬所工場群の異様な光景を後ろに見ながら、旧中山道街道歩きを再開します。
久芳橋で碓氷川を渡ります。前方に妙義山と真っ白な浅間山が真っ青な空の下に見えます。
本来の中山道は、碓氷川を徒歩で渡る道でした。川を渡った先は、現在は「ひさよし緑地公園」となっていて、旧中山道は野球のグランドの中に消失しているのですが、「ひさよし緑地公園」の先でその道筋は再び出現し、そこに中山道の標柱が建っています。ここからが旧中山道です。
下ノ尻交差点で国道18号線から左に分岐し、道は群馬県道125号一本木平小井戸安中線と変わり、安中宿の中へと入っていきます。
旧中山道らしい古い建物が立ち並ぶ街並みに変わります。
国道18号線と分かれて10分ちょっと歩いたところにある熊野神社です。起源は永禄2年(1559年)、安中忠政が安中城を築城した時、熊野三社を勧請して安中城の鬼門の守護神としたのが始まりといわれています。境内の大欅は樹齢1,000年といわれていますが、落雷により樹身の2/3が崩れ落ち、残る1/3も傾いてしまい鉄柱で支え補強をしているのですが、見応えのある巨樹・古木です。
安中は上野安中藩3万石の城下町です。かつて、この地は関東平野の一番端っこという意味で“野尻(野後):のじり”と呼ばれていたのですが、永禄2年(1559年)この地に城を構えた安中越前守忠政が元々の野尻(野後)という地名を改め、安中としました。中山道以前の東山道と呼ばれた時代から「野尻の郷」として旅人の往来があった宿場でした。
また、この地は碓氷川と九十九川に挟まれた天然の要害の地で、戦国時代、武田氏と後北条氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられたところでした。築城当時、安中氏は武田信玄と激しく敵対していたのですが、永禄7年(1564年)に降伏し武田家に属しました。しかし時代の変化の激流に翻弄され、天正3年(1575年)、あの長篠の戦いにおいて安中忠政率いる安中隊は全滅。武田家と命運を共にして滅びてしまいました。その後、慶長19年(1614年)、初代高崎藩主・井伊直正の子の井伊直勝が藩主となると、安中氏の滅亡により廃城になっていた安中城を再建し、町割りを行って安中宿を整備しました。(ちなみに井伊直勝は嫡男であったものの病弱だったため、徳川家康の直命により井伊家は直勝が分家して上野安中藩主となり、直勝の弟の井伊直孝が井伊直政の家督を継ぐこととなり、その直孝の子孫が代々彦根藩主を継承することとなりました。)
安中宿は中山道六十九次のうち起点の江戸・日本橋から数えて15番目の宿場です。日本橋からは119.9kmの距離にあります。天保14年(1843年)の記録によると、人口348人、家数64軒、本陣1、脇本陣2、旅籠屋17軒という小さな宿場でした。城下町ということで、武士をはじめ村人一同が飯盛り女を置くことに猛反対。城下町のかたっ苦しさも嫌われて、宿場は、営業的には大変に苦戦をしていたそうです。いっぽうで、城下町にある宿場ということで極めて健全な宿場だったこともあり、女性の旅行客からは随分と好評を博した宿場だったそうです。
安中宿の下野尻から宿場の中心へと入っていくと旧商家の建物が所々に見え、ここが中山道の宿場であったことの雰囲気が伝わってきます。左手の安中郵便局のある場所が安中宿本陣の須藤家跡です。駐車場脇の植え込みの中にここに安中宿の本陣があったことを示す標石が立っています。
中山道を挟み、その郵便局の前に大泉寺があります。この寺院の創建は文安年間(1444年~1449年)とされ、初代安中藩主・井伊直勝の母親(すなわち、初代高崎藩主井伊直正の正室)の墓があります。また、門前に1813年に建てられた庚申塔があります。
伝馬町の信号を右折し、100mほど先に旧碓氷郡役所があります。明治11年(1878年)、郡区町村編成法が公布され、群馬県には17の郡が置かれ11の郡役所が設置されました。碓氷郡役所はその1つで、当初は先ほどの安中宿本陣の須藤家に置かれていたのですが、明治21年(1888年)、この場所に碓氷郡役所が新築されました。しかし初期の建物は明治42年(1910年)に原因不明の火災により焼失し、現在の建物は明治43年(1911年)に再建されたものです。大正12年(1924年)に郡制が廃止されたことに伴い、この郡役所は廃止されたのですが、1996年~97年に修復工事が行われ、創建当時の姿に復元されました。
郡役所隣りの安中教会は、郡役所と同時期の明治11年(1878年)、新島襄より湯浅治郎ら地元の求道者30名が洗礼を受け創立された群馬県では最初のキリスト教会であり、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会でもあります。現在の建物は大正8年(1919年)竣工の石造りの建物です。新島襄召天30周年を記念して建てられた会堂で、安中教会の現在の建物と同じく大正8年(1919年)に竣工しました。内正面をステンドグラスが飾っています。
安中教会の隣は安中市文化センター、その正門前に「安中城址碑」が立っています。この郡役所のある高台一帯は安中城址で、北に九十九川、南の碓氷川に挟まれる天然の要害でした。この文化センターのある敷地が安中城の本丸跡で、安中小学校が二の丸跡です。遺構はなにも残っていません。
残念ながら、時間の関係があるので、旧碓氷郡役所やの安中教会、安中城址はバッサリとパスです。まぁ~、この旅は旧中山道の街道歩きがメインなので、仕方ありません。興味があるので、また別の機会に訪れてみたいと思っています。
この日の中山道六十九次街道歩きはここまで。この交差点を右折して、帰りの観光バスが待つ安中市商工会館に向かいます。
旧中山道を右に曲がり少し先に行ったところに建つ茅葺屋根の建物が安中藩郡奉行役宅です。この建物は幕末から明治初年にかけて安中藩郡奉行を務めた猪狩幾右衛門懐忠が役宅として住んでいたもので、建物の痕跡と古図面から復元修復されたものだそうです。母屋は曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関など武家屋敷の姿をよくとどめています。
安中藩郡奉行役宅のところを右折したところに安中市商工会館があり、そこの駐車場で帰りの観光バスが待っていました。
今回も25,420歩、距離にして17.9km心配していた上州名物の“からっ風”に今回も遭うこともなく、快適に歩くことができました。
次回、【第12回】はここ安中宿を出発して、松井田宿を経由して“間の宿(あいのしゅく)”である五料を目指します。安中市役所の標高は海抜約180メートル。これまでの11回でこの高さを登ってきたわけですが、次回【第12回】のコース上の標高差は163メートル。これまで11回かけて登ってきた高さを1回で登ります。徐々に中山道最大のハイライトの1つ、『碓氷峠越え』が近づいてきました。
――――――――〔完結〕――――――――
JR安中駅の反対側に、先ほど鷹之巣橋のところから見えた東邦亜鉛安中精錬所の巨大な工場群があります。ホームの向こう側には「5781レ安中貨物」で運ばれてきた無蓋車が入れ替え用の小型のディーゼル機関車に連結されて停まっています。
JR安中駅前の横断歩道橋を渡ります。東邦亜鉛安中精錬所工場群の異様な光景を後ろに見ながら、旧中山道街道歩きを再開します。
久芳橋で碓氷川を渡ります。前方に妙義山と真っ白な浅間山が真っ青な空の下に見えます。
本来の中山道は、碓氷川を徒歩で渡る道でした。川を渡った先は、現在は「ひさよし緑地公園」となっていて、旧中山道は野球のグランドの中に消失しているのですが、「ひさよし緑地公園」の先でその道筋は再び出現し、そこに中山道の標柱が建っています。ここからが旧中山道です。
下ノ尻交差点で国道18号線から左に分岐し、道は群馬県道125号一本木平小井戸安中線と変わり、安中宿の中へと入っていきます。
旧中山道らしい古い建物が立ち並ぶ街並みに変わります。
国道18号線と分かれて10分ちょっと歩いたところにある熊野神社です。起源は永禄2年(1559年)、安中忠政が安中城を築城した時、熊野三社を勧請して安中城の鬼門の守護神としたのが始まりといわれています。境内の大欅は樹齢1,000年といわれていますが、落雷により樹身の2/3が崩れ落ち、残る1/3も傾いてしまい鉄柱で支え補強をしているのですが、見応えのある巨樹・古木です。
安中は上野安中藩3万石の城下町です。かつて、この地は関東平野の一番端っこという意味で“野尻(野後):のじり”と呼ばれていたのですが、永禄2年(1559年)この地に城を構えた安中越前守忠政が元々の野尻(野後)という地名を改め、安中としました。中山道以前の東山道と呼ばれた時代から「野尻の郷」として旅人の往来があった宿場でした。
また、この地は碓氷川と九十九川に挟まれた天然の要害の地で、戦国時代、武田氏と後北条氏の間で激しい争奪戦が繰り広げられたところでした。築城当時、安中氏は武田信玄と激しく敵対していたのですが、永禄7年(1564年)に降伏し武田家に属しました。しかし時代の変化の激流に翻弄され、天正3年(1575年)、あの長篠の戦いにおいて安中忠政率いる安中隊は全滅。武田家と命運を共にして滅びてしまいました。その後、慶長19年(1614年)、初代高崎藩主・井伊直正の子の井伊直勝が藩主となると、安中氏の滅亡により廃城になっていた安中城を再建し、町割りを行って安中宿を整備しました。(ちなみに井伊直勝は嫡男であったものの病弱だったため、徳川家康の直命により井伊家は直勝が分家して上野安中藩主となり、直勝の弟の井伊直孝が井伊直政の家督を継ぐこととなり、その直孝の子孫が代々彦根藩主を継承することとなりました。)
安中宿は中山道六十九次のうち起点の江戸・日本橋から数えて15番目の宿場です。日本橋からは119.9kmの距離にあります。天保14年(1843年)の記録によると、人口348人、家数64軒、本陣1、脇本陣2、旅籠屋17軒という小さな宿場でした。城下町ということで、武士をはじめ村人一同が飯盛り女を置くことに猛反対。城下町のかたっ苦しさも嫌われて、宿場は、営業的には大変に苦戦をしていたそうです。いっぽうで、城下町にある宿場ということで極めて健全な宿場だったこともあり、女性の旅行客からは随分と好評を博した宿場だったそうです。
安中宿の下野尻から宿場の中心へと入っていくと旧商家の建物が所々に見え、ここが中山道の宿場であったことの雰囲気が伝わってきます。左手の安中郵便局のある場所が安中宿本陣の須藤家跡です。駐車場脇の植え込みの中にここに安中宿の本陣があったことを示す標石が立っています。
中山道を挟み、その郵便局の前に大泉寺があります。この寺院の創建は文安年間(1444年~1449年)とされ、初代安中藩主・井伊直勝の母親(すなわち、初代高崎藩主井伊直正の正室)の墓があります。また、門前に1813年に建てられた庚申塔があります。
伝馬町の信号を右折し、100mほど先に旧碓氷郡役所があります。明治11年(1878年)、郡区町村編成法が公布され、群馬県には17の郡が置かれ11の郡役所が設置されました。碓氷郡役所はその1つで、当初は先ほどの安中宿本陣の須藤家に置かれていたのですが、明治21年(1888年)、この場所に碓氷郡役所が新築されました。しかし初期の建物は明治42年(1910年)に原因不明の火災により焼失し、現在の建物は明治43年(1911年)に再建されたものです。大正12年(1924年)に郡制が廃止されたことに伴い、この郡役所は廃止されたのですが、1996年~97年に修復工事が行われ、創建当時の姿に復元されました。
郡役所隣りの安中教会は、郡役所と同時期の明治11年(1878年)、新島襄より湯浅治郎ら地元の求道者30名が洗礼を受け創立された群馬県では最初のキリスト教会であり、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会でもあります。現在の建物は大正8年(1919年)竣工の石造りの建物です。新島襄召天30周年を記念して建てられた会堂で、安中教会の現在の建物と同じく大正8年(1919年)に竣工しました。内正面をステンドグラスが飾っています。
安中教会の隣は安中市文化センター、その正門前に「安中城址碑」が立っています。この郡役所のある高台一帯は安中城址で、北に九十九川、南の碓氷川に挟まれる天然の要害でした。この文化センターのある敷地が安中城の本丸跡で、安中小学校が二の丸跡です。遺構はなにも残っていません。
残念ながら、時間の関係があるので、旧碓氷郡役所やの安中教会、安中城址はバッサリとパスです。まぁ~、この旅は旧中山道の街道歩きがメインなので、仕方ありません。興味があるので、また別の機会に訪れてみたいと思っています。
この日の中山道六十九次街道歩きはここまで。この交差点を右折して、帰りの観光バスが待つ安中市商工会館に向かいます。
旧中山道を右に曲がり少し先に行ったところに建つ茅葺屋根の建物が安中藩郡奉行役宅です。この建物は幕末から明治初年にかけて安中藩郡奉行を務めた猪狩幾右衛門懐忠が役宅として住んでいたもので、建物の痕跡と古図面から復元修復されたものだそうです。母屋は曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台付きの玄関など武家屋敷の姿をよくとどめています。
安中藩郡奉行役宅のところを右折したところに安中市商工会館があり、そこの駐車場で帰りの観光バスが待っていました。
今回も25,420歩、距離にして17.9km心配していた上州名物の“からっ風”に今回も遭うこともなく、快適に歩くことができました。
次回、【第12回】はここ安中宿を出発して、松井田宿を経由して“間の宿(あいのしゅく)”である五料を目指します。安中市役所の標高は海抜約180メートル。これまでの11回でこの高さを登ってきたわけですが、次回【第12回】のコース上の標高差は163メートル。これまで11回かけて登ってきた高さを1回で登ります。徐々に中山道最大のハイライトの1つ、『碓氷峠越え』が近づいてきました。
――――――――〔完結〕――――――――
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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