2017/07/14

中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その5)

上信越自動車道の高架下を通ると、ほどなく坂本宿の 「下木戸跡」 に到着します。ここから先が上州最後の宿場『坂本宿』です。

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坂本宿は江戸日本橋から17番目の宿場です。天保14年(1843年)の記録によると宿場の人口は732人、家数は162軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿場の規模のわりに旅籠の数が多いのが特徴です。前後に碓氷関所と碓氷峠の難所が控えていたので、この坂本宿で旅装を解く旅人が多かったようです(脇本陣が4軒という記録もあり、これによると、正規の脇本陣が2軒と、行きと帰りの大名行列が運悪く重なってしまった時に臨時的に使われた脇本陣がさらに2軒あったと読み取れます)。宿場の成立は中山道整備後の寛永年間(1624年~1644年)のことで、碓氷峠の登り口であるこの場所に宿場が必要となったことから、計画的な都市計画(町割)を行い、寛永2年(1625年)に付近の住民達を中心として整備された比較的新しい宿場です。元々集落がなかったところを整備して作られた宿場のため、真っ直ぐな宿場構造が特徴で、宿内長は392間(713メートル)、道幅8間1尺(14.8メートル)、今は道路の左端に移され、元々のものは道路の下に埋まっていますが、道路の中央には幅4尺(1.3メートル)の用水が流れていました。中山道の坂本宿の様子を描いた渓斎英泉による浮世絵『木曾街道六拾九次 坂本宿』の写真は、五料の「お西」に飾られていたものを撮影したものです。

坂本宿の建物は渓斎英泉の浮世絵に描かれているように、その用水を挟んだ街道の左右に配置され、ここに前述のように本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒、馬宿、酒屋、米屋などが立ち並び、かなり大きな規模の宿場でした。峠の麓を意味する“坂の下(もと)”から転じて、「坂本」と名付けられました。現在でも当時の建物が幾つか残り、また新しい家でも宿内の家々には宿場時代の屋号が書かれた看板が掲げられるなど、かつての賑わいを偲ぶことができ、大変に趣のある街並みとなっています。

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坂本宿では、江戸方と上方両方の木戸が復元されています。これが江戸方の入り口「下木戸」の跡です。下木戸には「中山道坂本宿」と書かれた木戸のモニュメントが置かれ、ここからが坂本宿の街並みです。先ほどから見えていた正面の山は、これから登る「刎石(はねいし)山」。中山道最大の難所・碓氷峠はその刎石山を越えた向こう側にあります。

坂本宿は東に碓井の関所、西に中山道最大の難所である碓氷峠を控え、大名行列のすれ違いのため、本陣を2つ必要としました。前述のように、前後に碓氷関所と碓氷峠の難所が控えているため、参勤交代のために江戸と国許を往来した加賀や信州の諸大名は必ずと言っていいくらいにここで宿泊しました。上りと下りの宿泊がかち合うこともたびたびあったようで、そんな時は大変な騒ぎになったのではないでしょうか。

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江戸方の下木戸跡から歩いて数分の左側のちょっと奥まったところに「金井本陣跡」があります。今は普通の民家になっていますが、当時は“下の本陣”と呼ばれ、建坪180坪という大きな屋敷で、皇女和宮も降嫁の際にここで1泊しています。案内板の説明書きによると、皇女和宮は七ツ時(午後4時)にこの金井本陣に到着し、翌日の五ツ時(午前8時)に出立されたのだそうです。

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その数軒先の上州櫓造りの建物がある場所がもう1つの「佐藤本陣跡」で、“上の本陣”とも呼ばれていました。佐藤家は明治の中頃に他所へ移住しており、現在の建物は明治34年に建てられた「旅籠小竹屋」の跡で、昔の中山道の旅籠の雰囲気を色濃く残しています。また、この佐藤本陣は坂本小学校発祥の地にもなっています。明治8年(1875年)、佐藤本陣を仮校舎にあて、坂本小学校を開校したのだそうです。

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佐藤本陣の右隣に「脇本陣」の看板が掛けられています。数軒先に「みよがや脇本陣跡」の看板が見え、道路を挟んで反対側斜め先の白壁と屋敷門は「永井脇本陣跡」です。この永井家は坂本宿の年寄役を長年務めた家でした。門構えは昔のままとのことです。

永井脇本陣の先に「中山道坂本宿屋号一覧」が掲示されています。現在も宿内の建物にはほとんどすべて当時の屋号の看板が掛けられていますが、その一覧表です。山口屋、かめや、さかなや…といった名前が並んでいます。

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当時大変賑わった宿場だったということがこの坂本宿屋号一覧の案内板の説明からも十分読み取ることができますが、今は山間の静かな集落といった雰囲気で、静寂感が漂います。そこだけ時間が止まっている感じも受けます。本陣の建物こそ現存していませんが、宿内には旅籠建築や旧商家の建物が所々に残され、刎石山の背景と相まって当時の面影を色濃くとどめています。これぞ旧街道・中山道。『The中山道』と言ってもいい歴史を感じさせてくれる実に素晴らしい光景です!!

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坂本宿屋号一覧の隣にある建物は「酒屋脇本陣跡」で、現在は地区の公民館として使われています。脇本陣はほかにも「八郎兵衛脇本陣」というのもあったのだそうです。前述のように、この2軒の脇本陣は、行きと帰りの大名行列が運悪く重なってしまって、前述の正規の2軒の脇本陣だけでは対処しきれなかった時に臨時的に使われた脇本陣だったのではないか…と思われます。

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さらに3軒先の格子戸の古民家は「旅籠・かぎや跡」。宿場時代の面影を色濃く残す代表的な旅籠建築の建物です。「かぎや」は今から約370年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家が坂本に移住し、旅籠を開業し、それまでの役職にちなんで「かぎや」と命名したといわれています。写真ではちょっと分かりにくいのですが、2階の真ん中あたりにある平仮名で「かぎや」と彫られた看板が坂本宿全盛時を忍ばせます。屋根看板が平仮名で書かれているのは、きっと旅人に分かりやすくするための工夫なのでしょう。

このあたりの民家は、道路に対して“斜めはすかい”に建てられているのが特徴です。その理由の一つは鬼門よけ。もう一つは江戸城防御のためだと言われています。碓氷峠に対してはすかいに作られ、三角屋敷に布陣するためだったのだとか。

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そこから2~3分歩くと江戸時代の俳人・ 小林一茶の定宿だった「たかさごや」と記された説明板が建てられています。小林一茶は、江戸と郷里の信州を往来するために中山道を利用する時には決まってこの 「たかさごや」 を利用したのだそうです。当時、坂本宿では俳諧・短歌が盛んだったようで、ひとたび有名な小林一茶が草履を脱ぐという噂が広まると、この「たかさごや」に近郷近在の同好者が集まって大変賑わったと伝わっています。

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そこからさらに数分のところに、明治から大正にかけての時代の歌人・若山牧水が泊まったという「旅籠つたや跡」があります。若山牧水は明治41年(1908年)8月6日、軽井沢で遊んで碓氷峠を越えて坂本宿にまで辿り着いたのですが、なかなか宿が見つかりませんでした。若山牧水がこの地に来た明治41年頃になると、国鉄の信越本線が開通し、坂本宿も中山道の宿場としての機能が完全に失われた後のことでした。そこで、ただ一軒残っていたこの「旅籠つたや」 に無理に頼んで泊めてもらったのだそうです。その際に若山牧水が詠んだ和歌に次のものがあります。

「秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰りの唄」 若山牧水


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石柱が建っていて、正面に「上州中山道筋坂本宿丸仁屋跡」、側面には「東 江戸へ三十四里」、「西 京へ百二里」 と刻まれています。

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賑わった坂本宿も京方の出入り口である「上木戸」まで。「上木戸」の案内標の柱の脇には「橋供養」の碑が立っています。橋供養は用水に架かっていた橋を供養するためのもので、それだけ昔は用水が大事にされてきたということのようです。

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木戸を出て5~6分も歩くと、中山道最大の難所、碓氷峠の登山口となるのですが、その登山口へ行く前に、まだまだ見どころがあります。木戸のすぐ先、街道際に「芭蕉句碑」が立っています。

「ひとつ脱いで うしろに負ひぬ 衣かへ」 松尾芭蕉


この句碑は、元々はこの先の旧中山道・刎石山山中の刎石茶屋の下付近にあったもので、中山道が明治年間に廃道となったため現在地に移したものなのだそうです。

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句碑のすぐ先の赤い鳥居は「坂本八幡宮」です。鳥居横に立つ御由緒略記によると、「創立年代不詳なれど……景行天皇40年、日本武尊の勧請」と書かれています。この景行天皇40年という年は日本武尊が草薙剣を受け取った年。2000年近くも前のことです。鳥居の向こう側にいる「狛犬」がなんとも愛嬌のある顔をしています。鳥居脇には宝暦4年(1754年)に祀られた双体道祖神などが並んでいます。

刎石山がどんどん近づいてきます。碓氷峠はこの刎石山を向かって左手から登り、山頂付近から尾根線伝いに進んだ先にあります。「軽井沢17km、小諸34km」という道路標識がいよいよこれから信州、信濃国(長野県)に入っていく…という気分を掻き立てます。

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旧中山道の分岐点、すなわち碓氷峠への登山口は国道18号線が大きく右にカーブしたところにある坂本浄水場の巨大な貯水タンクの脇にあります。

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今日の“中山道街道歩き”は、実はこの坂本浄水場の貯水タンクの脇まで。ここからは観光バスが待つ玉屋ドライブインまで、国道18号線をもう少し歩きます。

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この日のゴールはこの玉屋ドライブインの駐車場でした。参加者には名物の力餅が振る舞われました。歩き疲れて糖分を欲していた身体には嬉しい甘さでした。

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駐車場でストレッチ体操をして筋肉をほぐします。翌5月28日(日)に、いよいよ中山道最大の難所と言われる碓氷峠越えを控えています。筋肉痛になっていたり、筋肉に疲れを残していたりしていたのでは碓氷峠越えが大変なことになるので、皆さん、いつもより念入りにストレッチ体操をやられているように見受けられます。もちろん私も…。

ストレッチ体操後、観光バスで安中市内のホテルに向かい、宿泊です。

この日は20,213歩、距離にして14.8km歩きました。いつもより短い距離でしたが、五料の茶屋本陣や碓氷関所の見学等があって、いつも以上に見どころたっぷりの街道歩きだったように感じました。坂本宿に代表されますが、沿道の風景も旧街道らしい歴史を感じられる趣に溢れていて、ここまでやって来ると、これぞ“中山道”って感じになってきました。明日の碓氷峠越えが本当に楽しみです。



……(その6)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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