2017/10/23

日光街道ダイジェストウォーク【今市宿→大沢宿】(その2)

さらに見事な杉並木の中を進んでいきます。

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「七本桜一里塚」付近の日光街道杉並木です。

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この今市宿から旧・森友村にかけて続く杉並木の中に2つの見所があります。1つは“桜杉”、もう1つは“並木ホテル”です。”桜杉”とは読んで字の如くで、杉の根元の割れ目から山桜が根を張り、今では合体して1本の立派な木と化している杉の木です。一見の価値がある珍しい杉の木なのだそうですが、うっかりして見逃してしまいました。そして“並木ホテル”。“並木ホテル”と言ってもラブホでもビジネスホテルでもなく、1本の杉の木の愛称です。この杉は「七本桜一里塚」の塚上に立つ杉の大木なのですが、根元に大人が4人程入れる空洞があることから”並木ホテル”と呼ばれるようになりました。きっと昔は雨を凌ぐひと時の場として、或いは一夜の宿とした旅人もいたのではなかったでしょうか。

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「七本桜一里塚」は江戸の日本橋から数えて33里目(約130km)にあたる一里塚です。前述のように、「七本桜一里塚」の塚上には“並木ホテル”と呼ばれる根元に大きな空洞がある杉の巨木が植えられています。

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「七本桜一里塚」とは、かつてこのあたりに7本の桜の木があったからでしょうか。先ほど渡った交差点の名称が「七本桜交差点」、七本桜はこのあたりの地名にもなっているようです。「日光市七本桜」、なかなか洒落た地名ですねぇ~。

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七本桜一里塚のちょっと先の杉並木の中に壊れかけた民家があったりします。昔はきっと茶屋だったではないでしょうか。

荘厳で美しい杉並木が途切れると旧・森友村です。今市宿と大沢宿の中間に位置する森友村ですが、ここにはかつて休憩のための立場茶屋が置かれていました。村名の由来は源義経の家臣に森高哉という者がおり、文治年間(1185年年~1189年)にその森高哉が仲間達と共にこの地を開墾し、かけがえのない友を作ったことから森友村と呼ばれるようになったといわれています。森友村から日光にかけての街道筋は、戊辰戦争時に宇都宮方面から会津へ退く旧幕府軍と、それを追撃する新政府軍の激しい攻防戦の戦場となり、森友村の名主が旧幕府軍への兵糧提供や新政府軍の動きを通謀したという嫌疑を掛けられ、新政府軍によって斬首されたと伝えられています。おそらく旧恩に報いたい幕府贔屓の人だったのでしょう。明治維新の犠牲者は多くの草莽の志士だけでなく、こんな小さな村の庶民にも及んでいたのですね。

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その戊辰戦争時の攻防戦により破壊され尽くしたようで、残念ながら現在の旧・森友村の町並みに往時の様子は感じられません。

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そういう中でも、側面に家紋の入った立派な土蔵が建つ大きなお屋敷のような家があったりして、かつてここに立場茶屋が置かれて随分と賑わったところである…という雰囲気がところどころに残っています。

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緑色をした『日本ロマンチック街道』の道路標識が立っています。『日本ロマンチック街道』は、長野県上田市から栃木県日光市までの全長約320kmを通過する広域観光ルートからなる街道で、「ロマンチック街道」という名称はドイツのロマンティック街道(ヴュルツブルクからフュッセンまでの全長約366kmの街道ルート)に由来します。『日本ロマンチック街道』は一つの道路ではなく、次の4つの国道を合わせた総合名称のようです。

栃木県日光市の神橋交差点を起点として標高差約500メートルの「いろは坂」を通り、日光国立公園の日光連山から奥日光の山域を東西に横断して群馬県沼田市の下川田交差点まで到る国道120号線。
その群馬県沼田市の下川田交差点を起点に群馬県吾妻郡長野原町の羽根尾交差点に到る国道145号線。
群馬県長野原町の羽根尾交差点を起点に長野原町北軽井沢を経由しながら南進し、長野県北佐久郡軽井沢町の中軽井沢交差点までの国道146号線。
その長野県の軽井沢町の中軽井沢交差点からは国道18号線に入ります。まず、千曲川沿いに上田や長野市、黒姫高原といった高原や盆地を通過し、妙高高原から新潟県に入ります。新潟県内では関川沿いに緩やかに下り、妙高市を通って日本海に面した港町である上越市直江津に到ります。

地図を眺める限り、この『日本ロマンチック街道』の沿線には上信越高原国立公園、軽井沢、日光国立公園などの有名観光地があり、また、近世の城下町、温泉町、宿場町、門前町を経由する、まさに『日本ロマンチック街道』の名前に相応しいたいへんに魅力的なルートです。該当する道路沿いには街道の現在地(市町村)を案内する緑色のマップ標識が設置されているようです。

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旧・森友村の集落を過ぎ、再び杉並木の街道を歩きます。

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道の両脇を用水路が流れています。水路の音が心地いいです。また、流れる水の温度が低いらしく、用水路の傍に行くと、冷気がとても気持ちいいです。

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街道脇を流れる用水路のあたりにはイトトンボがいっぱいいます。イトトンボはかつては都市部でも川辺などで極々ふつうに見かけたのですが、こんなにいっぱいいるのは久しぶりに見た感じがします。

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日光街道脇に不思議な建物が建っています。「宇都宮市水道 第弐接合井」と書かれています。

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接合井(せつごうせい)とは、上水道の濾過池(ろかち)と配水池を繋ぐ水道工事において、導水渠の分岐点や合流点、屈曲点及び管水路に変化する場所などに設置する水圧調整用のマス(桝)、すなわち井戸のことです。宇都宮市の上水道は、市街地を南に望む“水道山”の愛称で市民に親しまれてきた高台にある戸祭配水場からの水で賄われてきました。そして、その水は今市にある今市浄水場からは日光街道に埋設された送水管で戸祭配水場まで送られていました。その今市浄水場から戸祭配水場まで日光街道の地下に埋設された送水管は総延長が約26km、また、高低差が約240メートルもあったため、管路内部の水圧を弱めるため、途中6ヶ所の接合井が設けられました。

この6ヶ所の接合井は大正2年(1913年)に着工し、大正5年(1916年) 3月から給水を開始した宇都宮市の上水道創設当時からの施設です。この「第弐接合井」はその6ヶ所の接合井の1つで、コンクリート造りの構造物の上に、西洋城郭風の意匠をあしらう八角形平面の煉瓦造上屋が建っています。この宇都宮市水道の6ヶ所の接合井のうち第一接合井から第五接合井までは、その後、上屋の改築が施されているのだそうですが、第六接合井だけは創設当時の建屋のまま残っているそうで、「宇都宮市水道今市水系第六号接合井」として国の登録有形文化財(建造物)に指定されているのだそうです。

現在は、今市浄水場からの送水は行われておらず、新たに作られた松田新田浄水場から自然流下方式で戸祭配水場まで送り、戸祭配水場の旧配水池をポンプ井(調整池)として使用するように変更になったことから、日光街道に埋設された送水管ともども、6ヶ所の接合井も宇都宮市の近代化のために大いに貢献した水道施設の“遺構”となっています。

杉並木の中をさらに進みます。現在の日光街道である国道119号線はこの杉並木の右側を走っています。

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まもなく、国道119号線と合流します。歩道が設けられていない道路なので、道路の端を一列になって、行き交うクルマに気をつけながら進みます。

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途中、日光街道を外れ、大室ダムの公園に立ち寄りました。日光街道は杉並木の中を歩くのが大変に魅力的なのですが、難点は途中にこの大人数が休憩できる適当な場所がないこと。特に、トイレの確保が問題になります。昔なら先ほどの森友のような立場茶屋があったりしたのですが、今はすっかり寂れて途中にちょっと休めるところもありません。なので、街道を外れて、寄り道です。ここは旧日光街道ではないのですが、杉並木になっています。というか、この杉並木、かなり奥行きのある広い杉林になっていて、その杉林の中を進んでいきます。

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杉林を抜けると、目の前にのどかな田園風景が広がります。目の前に広がる田圃ではイネが穂をつけています。今年の関東地方は冷夏と日照不足でイネの生育具合が気になるところなのですが、見る限りはその心配もなさそうです。最近は冷夏や台風の襲来を避けて田植えの時期が多少早まっているようです。イネが穂を形成する出穂期は早稲(わせ)の品種の場合では50日後頃、晩稲(おくて)の品種の場合では80日後頃で、この時期に天候が不順であると受粉が進まず、収獲量に大きく影響が出ると言われています。最近は5月のGW前後に田植えをするようで、その場合は7月末には出穂期を迎えて受粉が行われたようで、なんとか大丈夫そうです。

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こちらはソバ(蕎麦)の畑です。ソバはタデ科ソバ属の一年草で、種播きをしてから70~80日程度で収穫でき、痩せた土壌やpH6程度の土壌でも成長し結実することから、救荒食物として5世紀頃から栽培されてきました。栽培形態として、播種期の違いにより春播きの夏蕎麦と夏播きの秋蕎麦があるのですが、これは夏播きの秋蕎麦のようです。亜寒帯に属するような冷涼な気候、雨が少なかったり水利が悪かったりする乾燥した土地でも、容易に生育しますが、湿潤には極端に弱いため、多くの圃場では暗渠施設を施工したり、あえて傾斜地が選定されて栽培されることも多いようです。また、日最低気温の平均値が17.5℃を越えると実に栄養が行かず結実率は顕著に低下するため、山間地や冷涼な気候の地域で栽培される事が多いという特徴があります。このあたりはそうした特性に合っているということなのでしょう。

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こちらはダイズ(大豆)の畑です。今市宿を中心とした日光の周辺は「日光湯葉」と称してユバ(湯葉)料理が特産なのですが、そのユバは適地適作ってことで、このあたりの畑で採れるダイズを原材料にしているのでしょう、きっと。

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アガパンサスでしょうか。途中の民家の庭先に咲いていました。なかなか魅力的な花です。

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大室ダムの手前に「民草神社」という不思議な神社があります。鉄パイプで作られた鳥居の傍らにはトトロやメイちゃん、サツキちゃん、さらには猫バスの絵も…。民草(たみくさ)とは名もない庶民のことを意味します。おそらく公の神社ではなく、信心深い人の個人の所有物ではないでしょうか。ちょっと気になる妖しい佇まいの神社で立ち寄ってみたい衝動に駆られるのですが、団体行動なので、残念ながら諦めました。本殿や拝殿はどうなっているのでしょうね。

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大室ダムは平成15年(2003年)に完成した、農業用水の安定供給を目的とした灌漑用の栃木県営のダムです。里山の「前山」の散策コースとともに、1周約1,300mの周回道路は日光連山を望めるジョギングコースとして日光地域の市民ランナーのメッカとなっているのだそうです。 また、春にはさまざまな種類のサクラの花を楽しむことができるのだそうです。

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今市宿を含む日光市の市街地は、鬼怒川支流の大谷川(だいやがわ)中流にある渓谷が形成する河岸段丘の上の平坦地に広がっています。標高は500メートル前後。意外と標高が高く、東京都心や私が住む埼玉県さいたま市と比べると、気温はちょっと低い感じがします。実際、弊社のオリジナル気象情報サービス「HalexDream!」で今市宿あたりのこの日の13時の気温を確認すると29℃。この日の日中の最高気温は、群馬県の伊勢崎市と館林市でいずれも36.7℃、東京都練馬区と埼玉県熊谷市でいずれも36.4℃、さいたま市で36.2℃、水戸市で35.7℃、日光からほど近い栃木県佐野市で35.3℃、千葉市で35.1℃など各地で猛暑日になりました。また、東京の都心と横浜市も34.8℃と厳しい暑さになりました。同時刻の東京都心とさいたま市の気温が35℃ですので、6℃ほど低いようです。なので、街道歩きをするには絶好な天気です。

目の前に今市宿と背後に聳える日光連山の山々が見えてきます。左より男体山(2,484メートル)、大真名子山(おおまなこさん:2,375メートル)、小真名子山(こまなこさん:2,323メートル)、女峰山(2,483メートル)、そして赤薙山(2,010メートル)の山々です。一番右の女峰山と赤薙山の山麓にはニッコウキスゲの群生で有名な霧降高原があります。遠く霞んで見えるのは、男体山(2,484メートル)と大真名子山(2,375メートル)でしょうか。

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大室ダムの周囲はこのあたり一帯の桜の名所だそうですが、今は濃いピンク色をしたサルスベリの花が綺麗に咲いています。

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……(その3)に続きます。