2017/12/15
中山道六十九次・街道歩き【第18回: 岡谷→贄川宿】(その4)
「松本藩塩尻口留番所跡碑」です。この口留番所は松本藩の私設の関所とも言える施設です。口留番所とは、東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所のような幕府指定の関所とは異なり、各藩独自で治安維持、特産品の不当な流失を防ぐために設立されたものです。ここでは主に女人の通行(出女)の監視と年貢徴収前の米の横流し(松本藩外への米の流出)防止、材木、塩の流出を取り締まっていました。
この松本藩塩尻口留番所跡碑の道を挟んで反対側に「三州街道碑」が立っています。ここが三州街道との追分(分岐点)でした。三州街道は、愛知県(三河国)の岡崎市から、足助(豊田市)を経て長野県の伊那谷を通って塩尻に到達する街道でした。道程は現在の国道153号線とほぼ一致します。愛知県側では飯田街道と呼び,長野県側では三州街道と呼ばれています。明治以前は伊那街道とも呼ばれ,さらに古くは馬によって塩や魚介類,陶磁器,木材,薪炭などの物資が運搬されたため,中馬街道 (ちゅうまかいどう) の別名もありました。“中馬”は宿ごとに馬を変えない方式で運搬速度が速いのが特徴でした。太平洋の塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道、すなわち「塩の道」で、太平洋産の表塩が運ばれてきたことから「表塩の道」とも呼ばれていました。反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた物流の主要ルートでした。
塩尻宿は後述のように最盛期には旅籠が70軒以上あったというたいそう栄えた宿場だったのですが、宿場自体の長さはさほど長くなく、その短い距離の中にここが随分と栄えた宿場であったことの痕跡がギューっと凝縮して残されている感じです。また、同じく後述のように明治16年(1883年)に起きた大火により町の大部分を焼失したため、往時の様子を留める建物等はほとんど残っていないのですが、その跡を示す小さな石碑が幾つも建っています。注意していないと見落としてしまいそうです。
この三州街道碑、うっかりして写真を撮るのを忘れていました。前述のように塩尻宿は大変に栄えた宿場のわりに宿場内の距離が短く、◯◯跡の碑というのが幾つも幾つも立っているので、全ては撮影できません。
「十王堂跡碑」です。十王とは閻魔大王をはじめとする冥土で死者の裁きをする十人の王の総称のことで、十王信仰では、死者の罪の重さは遺族などが死者に代わって善行を積み、供養することで軽減されるとされていました。
「三州街道碑」の前を過ぎてすぐに「五千石街道碑」が立っています。五千石街道とは奇妙な名前の街道ですが、その由来もまた面白いものがあります。ここを領地とする松本藩は、小笠原秀政を領主としていましたが、大阪夏の陣で討死したため、その後の八万石を忠政が継ぎます。しかし播州明石移封されてしまい、高崎藩から戸田康長七万石が領地替で、松本藩にやってきます。そこに石高の差が一万石できてしまったため、これを高島(諏訪)藩と高遠藩に五千石ずつ分け与えられました。高島(諏訪)藩は飛び地となったこの五千石の領地巡見のため、この街道を作ったと言われています。ここから延びる五千石街道はその高嶋(諏訪)藩の飛び地である五千石領を経て松本に至る街道で、日本海産の裏塩が運ばれてきたことから「裏塩の道」とも呼ばれていました。専ら領内の年貢や物資を運ぶためのものとして利用されたといわれています。
塩尻宿(しおじりしゅく)は中山道六十九次のうち江戸から数えて30番目にあたる宿場です。中山道が江戸時代初期の慶長年間に大久保長安によって整備された当初は、ここを通らず下諏訪宿から諏訪湖沿いに進んで三沢峠・小野宿・牛首峠を越え贄川宿を結ぶ(短絡する)最短経路であったのですが、この区間が険しい峠越えを繰り返す難所続きであったため、大久保長安の死後の慶長18年(1613年)に廃止され、その翌年の慶長19年(1614年)から新たに下諏訪宿から塩尻峠を越えて塩尻宿・洗馬宿・本山宿を経て木曽に向かう新しい中山道が造られました。塩尻宿はその中山道の経路変更の際に整備された宿場です。そのため、現在の塩尻宿は既成集落ではなく、当時五千石街道沿いにあった塩尻宿(古町付近)や近郷から人々を移して宿場造りがされました。宿場づくりに当たって、古町にあった長福寺(現在の永福寺)を移転し、明神平にあった阿礼神社を遷座しています。
最盛期には旅籠が70軒以上あり、松本藩六万石の玄関口として大いに栄えたとされています。享保10年(1726年)以降は天領になり、幕府の塩尻陣屋(五万三千石)が置かれていました。塩の道と呼ばれる三州街道と五千石街道の追分(分岐点)でもあり、三河国からは太平洋産の表塩(南塩)が、また糸魚川からは松本経由で日本海産の裏塩(北塩)が入る接点であり、「塩尻」という名称が付けられました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒で宿内人口は794人。交通の要衝で、信州の中山道で最多の旅籠屋数を誇ったのですが、明治16年(1883年)の大火で最大級規模の本陣を含め町の大部分を焼失したため、今では往時の様子を留めるものは少ないのですが、堀内家住宅など国の重要文化財に指定された貴重な文化財が幾つか残されています。
小野家住宅の旧旅籠「いてふ(いちょう)屋」です。小野家は、屋号を「いてふ(いちょう)屋」と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行っていた家です。旅籠として使われていた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵等を構え、さらに畑地をはさんだ奥には長屋門が置かれていました。
最初の建物は文政9年(1826年)に建設され、文政11年(1828年)の火災でいったん焼失したのですが、同12年(1829年)から天保7年(1836年)にかけて主屋他が建設されました。創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものであったことが知られています。
地味な外観に比べ、極彩色の部屋を持つと言われ、主屋2階の客室として使われた5室には、いずれにも絵画・装飾が施され、「桜の間」など、各室にそれにちなんだ室名がつけられていました。また、主屋の東側に取り込まれて作られた表門は、1階2階それぞれに便所が設けられ、旅籠としての機能と格式を融合させた巧妙な立体配置を見せています。国の重要文化財に指定されています。
旧旅籠「いてふ(いちょう)屋」だけでなく、歴史を感じさせる旅籠造りの家が幾つも建ち並んでいます。
向側には「上問屋場」跡碑や「下問屋跡碑」、「飛脚問屋跡碑」、「高札場跡碑」等が立っています。
「明治天皇鹽尻行在所(めいじてんのうしおじりあんざいしょ)」跡碑です。明治天皇の行幸のとき、ここに仮宮が設けられました。
その隣に塩尻宿の川上本陣跡の碑が立っています。塩尻宿の本陣は小口家から平林家へ、そして明和8年(1771年)からは川上家が勤めました。川上家は富豪で造り酒屋も営み、裏の宿場用水の南に酒造場と酒蔵があったのだそうです。本陣は建坪367坪という中山道最大規模を誇りました。その建物は、残念ながら明治18年(1882年)の大火で消失してしまっています。
本陣跡の隣は脇本陣跡で「中山道・塩尻宿」のモニュメントと「脇本陣跡碑」が立っています。塩尻宿の脇本陣は本陣を勤めた川上家の分家の川上喜十郎家が勤めました。この脇本陣も本陣同様、建坪270坪という堂々たる規模の建物だったようですが、この建物も、本陣同様、残念ながら明治18年(1882年)の大火で消失してしまっています。敷地跡には庭石等が残されています。庭石には天保10年の銘が刻まれているのだそうです。庭園に隣接して土蔵と稲荷が残っています。
本陣、脇本陣の隣は「陣屋跡(笑亀酒造)」です。前述のように塩尻宿は享保10年(1725年)に幕府の直轄領(天領)となり、陣屋が置かれました。陣屋跡の笑亀酒造は銘酒「笑亀」の蔵元で、明治の創業です。なまこ壁で覆われた穀蔵は国の登録有形文化財に指定されています。酒造屋らしく、街道に面して「酒林(さかばやし)」と呼ばれる大きな杉玉が飾ってあり、人目を引きます。門脇に「塩尻陣屋跡」の碑が立っています。
歩道橋の所で、旧中山道は国道20号線を離れ右に曲がります。その角に「中山道鉤の手跡」の碑が立っています。桝形がここにも見られ、ここが塩尻宿の京方の入口でした。
鉤の手を右に曲り1~2分歩くと阿礼神社が鎮座しています。
阿礼神社は静かな林の中に建つ神社は格式高い式内社で、延暦年間には蝦夷征討に向かう坂上田村麻呂が、また治承4年(1180年)には挙兵した木曽義仲が参拝し、塩尻の諸豪族や諏訪一族に挙兵参加を要請したと伝わっています。なお、当時の阿礼神社は塩尻峠を下る途中の明神平というところにあったそうで、慶長19年(1614年)の塩尻宿が整備された際に、ここに遷座されたものなので、坂上田村麻呂や木曽義仲が参拝したのはこの地ではないようです。社殿は将軍綱吉時代の寛保3年(1743年)に再建されたものです。
ここで地元の観光ボランティアガイドさんから塩尻宿に関する説明を受けました。この観光ボランティアガイドさん、地元の歴史のみならず、日本史全般や神社仏閣、仏像等に関しても造詣が深い方のようで、いろいろと説明をしてくれます。知識が豊富なだけでなく、サービス精神が旺盛なとってもいい方のようで、とにかく話が終わりません。時間がある時ならば大変にありがたいことなのですが、残念なことにこの日は中央自動車道の事故渋滞に巻き込まれたおかげでスケジュールが1時間半ほど予定より遅れていて、そろそろ日の入りが心配な時刻になってきました。この日のゴールである平出遺跡の駐車場はここから3kmほど先です。1時間弱は覚悟しないといけません。ウォーキングガイドさんが丁重に丁重にお断りをした上で話を遮らせていただいて、先を進むことにしました。
阿礼神社の前で中山道は左に曲がります。先ほど「鉤の手跡」の碑が立っていましたが、まさに鉤の手のように道がカクカクと曲がっています。ここにも男女が抱き合う双体道祖神像が祀られています。
国の重要文化財に指定されている「堀内家住宅」です。堀内家は旧堀の内村の庄屋を務めていた家です。建物は築200年の本棟造りで19世紀初期の文化年間に近隣の下西条村から移築したものと伝えられています。建築様式は本棟造りで、切妻造りの妻入り。板葺きで勾配の緩い大屋根と、その屋根に飾られた大きな雀オドリの庇棟飾りに特徴がある当時の代表的な民家形式の一つです。現在は来年(平成30年)4月まで保存修理工事が行われていて、建物全体が養生幕で覆われているため、残念ながらその堂々たる姿を見ることはできませんでした。
……(その5)に続きます。
この松本藩塩尻口留番所跡碑の道を挟んで反対側に「三州街道碑」が立っています。ここが三州街道との追分(分岐点)でした。三州街道は、愛知県(三河国)の岡崎市から、足助(豊田市)を経て長野県の伊那谷を通って塩尻に到達する街道でした。道程は現在の国道153号線とほぼ一致します。愛知県側では飯田街道と呼び,長野県側では三州街道と呼ばれています。明治以前は伊那街道とも呼ばれ,さらに古くは馬によって塩や魚介類,陶磁器,木材,薪炭などの物資が運搬されたため,中馬街道 (ちゅうまかいどう) の別名もありました。“中馬”は宿ごとに馬を変えない方式で運搬速度が速いのが特徴でした。太平洋の塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道、すなわち「塩の道」で、太平洋産の表塩が運ばれてきたことから「表塩の道」とも呼ばれていました。反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた物流の主要ルートでした。
塩尻宿は後述のように最盛期には旅籠が70軒以上あったというたいそう栄えた宿場だったのですが、宿場自体の長さはさほど長くなく、その短い距離の中にここが随分と栄えた宿場であったことの痕跡がギューっと凝縮して残されている感じです。また、同じく後述のように明治16年(1883年)に起きた大火により町の大部分を焼失したため、往時の様子を留める建物等はほとんど残っていないのですが、その跡を示す小さな石碑が幾つも建っています。注意していないと見落としてしまいそうです。
この三州街道碑、うっかりして写真を撮るのを忘れていました。前述のように塩尻宿は大変に栄えた宿場のわりに宿場内の距離が短く、◯◯跡の碑というのが幾つも幾つも立っているので、全ては撮影できません。
「十王堂跡碑」です。十王とは閻魔大王をはじめとする冥土で死者の裁きをする十人の王の総称のことで、十王信仰では、死者の罪の重さは遺族などが死者に代わって善行を積み、供養することで軽減されるとされていました。
「三州街道碑」の前を過ぎてすぐに「五千石街道碑」が立っています。五千石街道とは奇妙な名前の街道ですが、その由来もまた面白いものがあります。ここを領地とする松本藩は、小笠原秀政を領主としていましたが、大阪夏の陣で討死したため、その後の八万石を忠政が継ぎます。しかし播州明石移封されてしまい、高崎藩から戸田康長七万石が領地替で、松本藩にやってきます。そこに石高の差が一万石できてしまったため、これを高島(諏訪)藩と高遠藩に五千石ずつ分け与えられました。高島(諏訪)藩は飛び地となったこの五千石の領地巡見のため、この街道を作ったと言われています。ここから延びる五千石街道はその高嶋(諏訪)藩の飛び地である五千石領を経て松本に至る街道で、日本海産の裏塩が運ばれてきたことから「裏塩の道」とも呼ばれていました。専ら領内の年貢や物資を運ぶためのものとして利用されたといわれています。
塩尻宿(しおじりしゅく)は中山道六十九次のうち江戸から数えて30番目にあたる宿場です。中山道が江戸時代初期の慶長年間に大久保長安によって整備された当初は、ここを通らず下諏訪宿から諏訪湖沿いに進んで三沢峠・小野宿・牛首峠を越え贄川宿を結ぶ(短絡する)最短経路であったのですが、この区間が険しい峠越えを繰り返す難所続きであったため、大久保長安の死後の慶長18年(1613年)に廃止され、その翌年の慶長19年(1614年)から新たに下諏訪宿から塩尻峠を越えて塩尻宿・洗馬宿・本山宿を経て木曽に向かう新しい中山道が造られました。塩尻宿はその中山道の経路変更の際に整備された宿場です。そのため、現在の塩尻宿は既成集落ではなく、当時五千石街道沿いにあった塩尻宿(古町付近)や近郷から人々を移して宿場造りがされました。宿場づくりに当たって、古町にあった長福寺(現在の永福寺)を移転し、明神平にあった阿礼神社を遷座しています。
最盛期には旅籠が70軒以上あり、松本藩六万石の玄関口として大いに栄えたとされています。享保10年(1726年)以降は天領になり、幕府の塩尻陣屋(五万三千石)が置かれていました。塩の道と呼ばれる三州街道と五千石街道の追分(分岐点)でもあり、三河国からは太平洋産の表塩(南塩)が、また糸魚川からは松本経由で日本海産の裏塩(北塩)が入る接点であり、「塩尻」という名称が付けられました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒で宿内人口は794人。交通の要衝で、信州の中山道で最多の旅籠屋数を誇ったのですが、明治16年(1883年)の大火で最大級規模の本陣を含め町の大部分を焼失したため、今では往時の様子を留めるものは少ないのですが、堀内家住宅など国の重要文化財に指定された貴重な文化財が幾つか残されています。
小野家住宅の旧旅籠「いてふ(いちょう)屋」です。小野家は、屋号を「いてふ(いちょう)屋」と称し、中山道塩尻宿の中心部であるこの場所において旅籠屋を経営し、同時に農地経営を大規模に行っていた家です。旅籠として使われていた主屋は、中山道に北面する短冊形の敷地に街道に面して建てられ、主屋の東側に庭園、その背後に文庫・味噌蔵等を構え、さらに畑地をはさんだ奥には長屋門が置かれていました。
最初の建物は文政9年(1826年)に建設され、文政11年(1828年)の火災でいったん焼失したのですが、同12年(1829年)から天保7年(1836年)にかけて主屋他が建設されました。創建時の建物は、現存の主屋表屋・角屋に加え、その背後に屋敷棟を持つより大規模なものであったことが知られています。
地味な外観に比べ、極彩色の部屋を持つと言われ、主屋2階の客室として使われた5室には、いずれにも絵画・装飾が施され、「桜の間」など、各室にそれにちなんだ室名がつけられていました。また、主屋の東側に取り込まれて作られた表門は、1階2階それぞれに便所が設けられ、旅籠としての機能と格式を融合させた巧妙な立体配置を見せています。国の重要文化財に指定されています。
旧旅籠「いてふ(いちょう)屋」だけでなく、歴史を感じさせる旅籠造りの家が幾つも建ち並んでいます。
向側には「上問屋場」跡碑や「下問屋跡碑」、「飛脚問屋跡碑」、「高札場跡碑」等が立っています。
「明治天皇鹽尻行在所(めいじてんのうしおじりあんざいしょ)」跡碑です。明治天皇の行幸のとき、ここに仮宮が設けられました。
その隣に塩尻宿の川上本陣跡の碑が立っています。塩尻宿の本陣は小口家から平林家へ、そして明和8年(1771年)からは川上家が勤めました。川上家は富豪で造り酒屋も営み、裏の宿場用水の南に酒造場と酒蔵があったのだそうです。本陣は建坪367坪という中山道最大規模を誇りました。その建物は、残念ながら明治18年(1882年)の大火で消失してしまっています。
本陣跡の隣は脇本陣跡で「中山道・塩尻宿」のモニュメントと「脇本陣跡碑」が立っています。塩尻宿の脇本陣は本陣を勤めた川上家の分家の川上喜十郎家が勤めました。この脇本陣も本陣同様、建坪270坪という堂々たる規模の建物だったようですが、この建物も、本陣同様、残念ながら明治18年(1882年)の大火で消失してしまっています。敷地跡には庭石等が残されています。庭石には天保10年の銘が刻まれているのだそうです。庭園に隣接して土蔵と稲荷が残っています。
本陣、脇本陣の隣は「陣屋跡(笑亀酒造)」です。前述のように塩尻宿は享保10年(1725年)に幕府の直轄領(天領)となり、陣屋が置かれました。陣屋跡の笑亀酒造は銘酒「笑亀」の蔵元で、明治の創業です。なまこ壁で覆われた穀蔵は国の登録有形文化財に指定されています。酒造屋らしく、街道に面して「酒林(さかばやし)」と呼ばれる大きな杉玉が飾ってあり、人目を引きます。門脇に「塩尻陣屋跡」の碑が立っています。
歩道橋の所で、旧中山道は国道20号線を離れ右に曲がります。その角に「中山道鉤の手跡」の碑が立っています。桝形がここにも見られ、ここが塩尻宿の京方の入口でした。
鉤の手を右に曲り1~2分歩くと阿礼神社が鎮座しています。
阿礼神社は静かな林の中に建つ神社は格式高い式内社で、延暦年間には蝦夷征討に向かう坂上田村麻呂が、また治承4年(1180年)には挙兵した木曽義仲が参拝し、塩尻の諸豪族や諏訪一族に挙兵参加を要請したと伝わっています。なお、当時の阿礼神社は塩尻峠を下る途中の明神平というところにあったそうで、慶長19年(1614年)の塩尻宿が整備された際に、ここに遷座されたものなので、坂上田村麻呂や木曽義仲が参拝したのはこの地ではないようです。社殿は将軍綱吉時代の寛保3年(1743年)に再建されたものです。
ここで地元の観光ボランティアガイドさんから塩尻宿に関する説明を受けました。この観光ボランティアガイドさん、地元の歴史のみならず、日本史全般や神社仏閣、仏像等に関しても造詣が深い方のようで、いろいろと説明をしてくれます。知識が豊富なだけでなく、サービス精神が旺盛なとってもいい方のようで、とにかく話が終わりません。時間がある時ならば大変にありがたいことなのですが、残念なことにこの日は中央自動車道の事故渋滞に巻き込まれたおかげでスケジュールが1時間半ほど予定より遅れていて、そろそろ日の入りが心配な時刻になってきました。この日のゴールである平出遺跡の駐車場はここから3kmほど先です。1時間弱は覚悟しないといけません。ウォーキングガイドさんが丁重に丁重にお断りをした上で話を遮らせていただいて、先を進むことにしました。
阿礼神社の前で中山道は左に曲がります。先ほど「鉤の手跡」の碑が立っていましたが、まさに鉤の手のように道がカクカクと曲がっています。ここにも男女が抱き合う双体道祖神像が祀られています。
国の重要文化財に指定されている「堀内家住宅」です。堀内家は旧堀の内村の庄屋を務めていた家です。建物は築200年の本棟造りで19世紀初期の文化年間に近隣の下西条村から移築したものと伝えられています。建築様式は本棟造りで、切妻造りの妻入り。板葺きで勾配の緩い大屋根と、その屋根に飾られた大きな雀オドリの庇棟飾りに特徴がある当時の代表的な民家形式の一つです。現在は来年(平成30年)4月まで保存修理工事が行われていて、建物全体が養生幕で覆われているため、残念ながらその堂々たる姿を見ることはできませんでした。
……(その5)に続きます。
執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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