2017/12/22
中山道六十九次・街道歩き【第18回: 岡谷→贄川宿】(その7)
やがて右手に「細川幽斎肱懸松」という松が一本見えてきます。細川幽斎とは戦国武将の細川藤孝のこと。細川ガラシャ夫人の夫です。その細川藤孝がこの松に肘をかけて「肘懸けて しばし憩える 松陰に たもとすずしく 通う河風」という歌を詠んだといわれています。松はその何代目か後の松だといわれています。ちなみに、徳川2代将軍・秀忠も上洛の途中でこの松の木に肘をかけて休んだとも伝えられています。ところで、松の木に肘をかける…って、どういう格好のことなのでしょうね?
その肘懸松の傍に「中山道 洗馬宿」の標識が立っています。いよいよ洗馬宿です。
その先に右に分かれる道があり、そこを下っていきます。ちなみにこの坂のことを「肘松の坂」というそうです。
下る途中にも「肘懸松跡」という標識が立っています。現在の松は何代目か後の松ということで、細川幽斎や徳川秀忠が肘を懸けたという松は、実はこの坂の途中のこのあたりに生えていたのかもしれません。
下り坂を下りきったところに高さ4メートルほどの大きな常夜灯が立っていて、その横に「中山道と善光寺街道の分去れ」の表示も立っています。その表示によると、「中山道はここを右に折れて肘松の坂(相生坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。江戸へ30宿50里余り。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績(おみ)から善光寺に向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余り。ここにある常夜灯は安政4年(1857年)の建立で、洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った」のだそうです。この表記は西方(洗馬宿側)から見た書き方になっています。4枚目の写真がその西方(洗馬宿側)から見たところで、写真右下から左上方向に真っ直ぐに延びている道路が善光寺街道で、右上方向に登っていく坂道が中山道です。
ここは中山道にとっては枡形になっていて、ここを左に曲がり50メートルほど、今度は緩やかな登り道を進みます。
そこで先ほどの肱懸松の前を通っていた道に合流するのですが、その角に「追分の碑(分去れ道標)」が立っています。道標には、「右中山道 左北国脇往還 善光寺道」と刻まれています。西方(洗馬宿側)から見た書き方になっていて、実際には、ここから善光寺道に入って50メートルほど行った所の枡形に4メートル近い高さの大きい常夜燈が立っていて、ここが「洗馬追分(分去れ)」だったと案内に書かれています。道標は昭和7年の洗馬の大火以後に行われた道路工事に伴いここに移されたものです。
ここから洗馬宿が始まります
洗馬宿に入ってすぐの右手に「邂逅(あうた)の清水」への矢印が出ています。民家の庭先をかすめて、階段を下りていくと、新しい木製の流しに「邂逅の清水」が流れています。
木曽義仲が依田城攻めに遠征した際、ここが木曽義仲と木曾義仲の乳母子で義仲四天王の1人である今井兼平(妹が巴御前)が落ち合った(邂逅した)場所なのだそうです。その際、強行軍のため疲れ果てて一歩も前へ進むことができなくなってしまった木曽義仲の馬を今井四郎兼平が村はずれに鬱蒼と茂る欅の木の根元からこんこんと湧き出る清水のところまで引いていき、脚を洗ってやったそうなのです。すると馬はたちまち元気を取り戻した…という伝承があります。それ以来、この清水を「邂逅(あふた)の清水」と呼び、馬を洗ってやったことから、この地を「洗馬」と呼ぶようになったという伝説もあります。この清水、水量は結構豊富で飲むこともできます。ちなみに、平安時代に既に洗馬牧の地名があり、今では木曽義仲の馬を家臣が洗ったところという故事は単に伝説に過ぎないと言われています。
ちなみに木曽義仲は本名「源 義仲 (みなもと の よしなか)。平安時代末期の信濃源氏の武将で源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。以仁王の令旨によって挙兵。都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍の大軍を破って破竹の勢いで入京を果たしました。長引く飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたのですが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり、法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となったのですが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、宇治川や瀬田での戦いに惨敗を喫し、最期は粟津の戦いで討たれてしまいました。
木曽義仲の忠臣である今井四郎兼平は前述のように木曽義仲の乳母子で、木曽義仲が寵愛した巴御前の兄にあたります。義仲四天王の1人で、側近として最後まで木曽義仲の傍で仕え、粟津の戦いで木曽義仲が討ち死にした際には、主君の後を追って壮絶なやり方で自害をしたと伝えられています。
木曽義仲の呼び名の通り、木曽義仲にとってこの信濃国木曽谷一帯は本拠とも言える場所。逸話も多く残っているのでしょうね。
列車が近づく音が聞こえたと思ったら、JR東海の制御付き自然振り子方式の383系特急電車が通過していきました。中央本線(西線)の「特急しなの」です。中山道のすぐ傍を中央本線(西線)が走っています。
トイレ休憩のためにJR洗馬駅に立ち寄りました。洗馬駅は現在は無人駅。壁に掛かっている時刻表を見ると、洗馬駅は上り下りとも1時間か2時間に1本走る普通列車が停車するだけの小駅なのですが、特急列車は頻繁にこの駅を通過していくようで、先ほど見かけた下り塩尻方面に向かう「特急しなの」に続き、今度は上り名古屋方面に向かう「特急しなの」が猛スピードで通過していきました。
ちなみに洗馬駅の壁に掛かっている時刻表を見ると、「上り」「下り」ではなく、「中津川・名古屋方面」「塩尻・長野方面」という方向別表記になっていました。ここが“中央西線”ですね。
洗馬駅の駅前にも柿の木があって、やはり柿の実がたわわに実っていました。高いところに実っているので、誰も採らない(採れない)のでしょうね。
おっ!昔懐かしい水原弘さんの殺虫剤のホーロー看板です。『中山道六十九次・街道歩き』の参加者の皆さんは概ね私より年上の人ばかりなので、こうしたホーロー看板を見掛けると「おっ! 懐かしい!」と声が出るのですが、若い人にとってはそうではないようです。今回旅行会社からは街道歩きを担当するのは初めてという若い男性の添乗員が派遣されてきたのですが(添乗員とは別にウォーキングリーダーという街道歩きの先達がいます)、その若い男性添乗員がポツリと発した「僕、初めて見ました」の一言に参加者からはツッコミが殺到していました。「キミ、いくつだ?」とか「キミ、都会育ちか?」ってね(笑)。
……(その8)に続きます。
その肘懸松の傍に「中山道 洗馬宿」の標識が立っています。いよいよ洗馬宿です。
その先に右に分かれる道があり、そこを下っていきます。ちなみにこの坂のことを「肘松の坂」というそうです。
下る途中にも「肘懸松跡」という標識が立っています。現在の松は何代目か後の松ということで、細川幽斎や徳川秀忠が肘を懸けたという松は、実はこの坂の途中のこのあたりに生えていたのかもしれません。
下り坂を下りきったところに高さ4メートルほどの大きな常夜灯が立っていて、その横に「中山道と善光寺街道の分去れ」の表示も立っています。その表示によると、「中山道はここを右に折れて肘松の坂(相生坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。江戸へ30宿50里余り。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績(おみ)から善光寺に向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余り。ここにある常夜灯は安政4年(1857年)の建立で、洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った」のだそうです。この表記は西方(洗馬宿側)から見た書き方になっています。4枚目の写真がその西方(洗馬宿側)から見たところで、写真右下から左上方向に真っ直ぐに延びている道路が善光寺街道で、右上方向に登っていく坂道が中山道です。
ここは中山道にとっては枡形になっていて、ここを左に曲がり50メートルほど、今度は緩やかな登り道を進みます。
そこで先ほどの肱懸松の前を通っていた道に合流するのですが、その角に「追分の碑(分去れ道標)」が立っています。道標には、「右中山道 左北国脇往還 善光寺道」と刻まれています。西方(洗馬宿側)から見た書き方になっていて、実際には、ここから善光寺道に入って50メートルほど行った所の枡形に4メートル近い高さの大きい常夜燈が立っていて、ここが「洗馬追分(分去れ)」だったと案内に書かれています。道標は昭和7年の洗馬の大火以後に行われた道路工事に伴いここに移されたものです。
ここから洗馬宿が始まります
洗馬宿に入ってすぐの右手に「邂逅(あうた)の清水」への矢印が出ています。民家の庭先をかすめて、階段を下りていくと、新しい木製の流しに「邂逅の清水」が流れています。
木曽義仲が依田城攻めに遠征した際、ここが木曽義仲と木曾義仲の乳母子で義仲四天王の1人である今井兼平(妹が巴御前)が落ち合った(邂逅した)場所なのだそうです。その際、強行軍のため疲れ果てて一歩も前へ進むことができなくなってしまった木曽義仲の馬を今井四郎兼平が村はずれに鬱蒼と茂る欅の木の根元からこんこんと湧き出る清水のところまで引いていき、脚を洗ってやったそうなのです。すると馬はたちまち元気を取り戻した…という伝承があります。それ以来、この清水を「邂逅(あふた)の清水」と呼び、馬を洗ってやったことから、この地を「洗馬」と呼ぶようになったという伝説もあります。この清水、水量は結構豊富で飲むこともできます。ちなみに、平安時代に既に洗馬牧の地名があり、今では木曽義仲の馬を家臣が洗ったところという故事は単に伝説に過ぎないと言われています。
ちなみに木曽義仲は本名「源 義仲 (みなもと の よしなか)。平安時代末期の信濃源氏の武将で源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。以仁王の令旨によって挙兵。都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍の大軍を破って破竹の勢いで入京を果たしました。長引く飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたのですが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり、法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となったのですが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、宇治川や瀬田での戦いに惨敗を喫し、最期は粟津の戦いで討たれてしまいました。
木曽義仲の忠臣である今井四郎兼平は前述のように木曽義仲の乳母子で、木曽義仲が寵愛した巴御前の兄にあたります。義仲四天王の1人で、側近として最後まで木曽義仲の傍で仕え、粟津の戦いで木曽義仲が討ち死にした際には、主君の後を追って壮絶なやり方で自害をしたと伝えられています。
木曽義仲の呼び名の通り、木曽義仲にとってこの信濃国木曽谷一帯は本拠とも言える場所。逸話も多く残っているのでしょうね。
列車が近づく音が聞こえたと思ったら、JR東海の制御付き自然振り子方式の383系特急電車が通過していきました。中央本線(西線)の「特急しなの」です。中山道のすぐ傍を中央本線(西線)が走っています。
トイレ休憩のためにJR洗馬駅に立ち寄りました。洗馬駅は現在は無人駅。壁に掛かっている時刻表を見ると、洗馬駅は上り下りとも1時間か2時間に1本走る普通列車が停車するだけの小駅なのですが、特急列車は頻繁にこの駅を通過していくようで、先ほど見かけた下り塩尻方面に向かう「特急しなの」に続き、今度は上り名古屋方面に向かう「特急しなの」が猛スピードで通過していきました。
ちなみに洗馬駅の壁に掛かっている時刻表を見ると、「上り」「下り」ではなく、「中津川・名古屋方面」「塩尻・長野方面」という方向別表記になっていました。ここが“中央西線”ですね。
洗馬駅の駅前にも柿の木があって、やはり柿の実がたわわに実っていました。高いところに実っているので、誰も採らない(採れない)のでしょうね。
おっ!昔懐かしい水原弘さんの殺虫剤のホーロー看板です。『中山道六十九次・街道歩き』の参加者の皆さんは概ね私より年上の人ばかりなので、こうしたホーロー看板を見掛けると「おっ! 懐かしい!」と声が出るのですが、若い人にとってはそうではないようです。今回旅行会社からは街道歩きを担当するのは初めてという若い男性の添乗員が派遣されてきたのですが(添乗員とは別にウォーキングリーダーという街道歩きの先達がいます)、その若い男性添乗員がポツリと発した「僕、初めて見ました」の一言に参加者からはツッコミが殺到していました。「キミ、いくつだ?」とか「キミ、都会育ちか?」ってね(笑)。
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執筆者
株式会社ハレックス
前代表取締役社長
越智正昭
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